今から三十何年も前、四十代のなかばにかかる頃になる。六月の下旬の梅雨の盛りに、比叡山までわざわざ時鳥の声をたずねた。山に着いた夕暮れに雨霧の中をたどりながら山側へ谷川へ耳を澄ましたが、全山鳴きしきる鶯の声しか聞こえない。その鶯の声がときおり一斉に止む。そしてしばし間を置いて、異な声があがり、それと耳を澄ませば、これも鶯の声で、やがてまた全山鳴きかわす。いつまで経っても同じことのくりかえしだったが、鶯が声をひそめるたびに、その間の沈黙がいよいよ深く感じられ、知らぬ声をすでにふくむようで、それにつれて聴覚が過度に張りつめる。あげくには何かを聞いたのやら何も聞こえなかったのやらもさだかでなくなり、耳を澄ますのを止めた。
その夜更けにも宿の窓を開けては表へ耳を澄ましたが、雨の降りしきる山の闇に鳥の声の、昔の人の言う、ほのめきそうなけはいもない。時季にはずれたかとあきらめた。ところが翌朝になり食堂に降りていると、雨霧に煙る山林の、里のほうにあたる方角から、いきなり頓狂な声があがり、紛れもなく時鳥の名のりのようで、たった一声かと思ったら、すこしの間をはさんではいつまでも鳴き続ける。血を吐くような声などと言われるが、鳴き出すそのつど、おのれの吃音に驚いて、口ごもりかけてはやぶれかぶれに叫び立てる。このような鳴き出しの結滞から、火急のことを告げるようにあがる声を、古人はどうしてああも、心をつくして待ち受けて、世々を継いで歌に詠み続けたのか。声の絶えた空に生涯の沈黙を感じているふうな歌もある。しかしそういう私自身も、時鳥の声をそれと聞いたのはこれが初めてのはずなのに、この声ならこれまで幾度も耳にしたような、その鳴き出しのけはいに夜々苦しめられた年もあったような、そんな気がしてきたものだ。
(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、37~38; 「道に鳴きつと」)
- (……)書店が閉店してしまうので、今日のうちに行っておくことにした。最後の機会なので、当然ながら買いたいものを買いたいだけ買いこむ決意である。服装は、濃青一色のシャツにそれぞれタイプの異なるチェック模様のスラックスとブルゾンを合わせて、堅すぎず程良い洒落っ気を気取ったつもり。
- 石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』は概して基礎的な事柄が中心となっていて、既に知っている、理解している(つもりの)知識が多い。もっと小難しいのかと思っていたところが意外と簡単だったのだけれど、元は放送大学のテキストだったらしいからそれも道理か。
- 二時半手前だったろうか、家を発った。我が家の向かいに広がる林の外辺部にはこじんまりとした畑が整備されてあるのだが、そこで女性が一人、しゃがみこんで土を弄っていたので、こんにちはと声を掛けつつ会釈を送った。その敷地には先日も記した通り、濃艶なピンク色で宙を赤らめる梅らしき低木があり、しばらく前から風景を鮮明に色づけているが、花の命は結構長いようで一向に散りだす気配がなく、堅固に保たれ佇んでいる。道を西へ歩くと(……)さんが今日も宅の外に出ていたけれど、こちらが至る前に家のうちに入って戸を閉ててしまったので、挨拶は交わせなかった。公営住宅横では小公園を彩る桜の花叢が柔らかに撓んでおり、距離を置いては白桃色の嵩と厚みがいくらか薄くなったように映り、近づけば若緑色の葉が萌えだして複色混淆期に入っているのが見て取れた。風に撫でられ花弁も剝がれ散って、微弱な光を帯びつつ宙を揺蕩い、それらが行き着く十字路の面[おもて]には無数の落花がまぶされて、陽にも融けない春の淡雪となっていた。
- (……)まで座ったままで行くため、(……)から(……)行きを選んで乗った。石田英敬『現代思想の教科書 世界を考える知の地平15章』を読んでいたところが、そのうちに眠気が生じて体内を巡り、脳を蝕みはじめたので、(……)で中断して目を閉ざす。瞼を下ろす直前、線路のすぐ脇に連なる桜並木が風を通して花吹雪を舞い散らし、白糖風のかけらを宙に差し流す情景[え]を目撃した。人々は皆、おとなしく外出を「自粛」しているのか、電車内は相当に空いていた。
- (……)に着き南口を抜け、線路沿いの細道を行けば、正面には薄青い高層ビルが天を突き上げ鎮座しており、後方遥かの太陽がその前面に映りやどって溶けている。風が凄まじい強さで吹き荒れており、まるで髪の毛をちぎりたいのかというほどの勢いで、すれ違った女性も黒髪の流れを激しく搔き乱されながら、風、強すぎじゃない? と隣に向けて微笑とともに嘆いていた。
- 閉店直前でセールもしているというわけで(……)書店は大繁盛しており、この時勢にもかかわらず店内はかなり混み合っていた。四時一〇分くらいに着いたと思うが、そこから三時間ほど掛けてほとんど隅から隅まで棚を巡り、だいぶ時間を費やして吟味した結果、以下の二〇冊を購入することに心が固まった。
・アート・バーマン/立崎秀和訳『ニュー・クリティシズムから脱構築へ――アメリカにおける構造主義とポスト構造主義の受容』未來社(ポイエーシス叢書19)、一九九三年
・リチャード・ローティ/室井尚・吉岡洋・加藤哲弘・浜日出夫・庁茂訳『哲学の脱構築 プラグマティズムの帰結』(新装版)、御茶の水書房、一九九四年(第一版、一九八五年)
・渡辺二郎訳『ニーチェ全集3 哲学者の書』ちくま学芸文庫、一九九四年
・ディディエ・エリボン/田村俶訳『ミシェル・フーコー伝』新潮社、一九九一年
・サンダー・L・ギルマン/鈴木淑美訳『フロイト・人種・ジェンダー』青土社、一九九七年
・サンダー・L・ギルマン/管啓次郎訳『ユダヤ人の身体』青土社、一九九七年
・小林康夫『無の透視法』書肆風の薔薇、一九八九年
・水野忠夫編・小平武・北岡誠司訳『ロシア・フォルマリズム文学論集1』せりか書房、一九八二年
・鳴海英吉『定本 ナホトカ集結地にて』青磁社、一九八〇年
・ミシェル・ビュトール/中島昭和訳『段階』竹内書店、一九七一年
・エルフリーデ・イェリネク/中込啓子・リタ・ブリール訳『したい気分』鳥影社、二〇〇四年
・ジャン・アメリー/池内紀訳『罪と罰の彼岸』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス143)、一九八四年
・マルク・ブロック/新村猛・森岡敬一郎・大高順雄・神沢栄三訳『封建社会 2』みすず書房、一九七七年
・G. R. エルトン/越智武臣訳『宗教改革の時代』みすず書房、一九七三年
・アンソニー・ギデンズ/松尾精文・小幡正敏訳『国民国家と暴力』而立書房、一九九九年
・ジョン・ケージ/青山マミ訳『小鳥たちのために』青土社、一九八二年
・『現代思想 一九九四年七月号 特集 ユダヤ人』青土社、一九九四年
・『現代思想 二〇〇二年六月臨時増刊 総特集 思想としてのパレスチナ』青土社、二〇〇二年
・『現代思想 二〇一八年五月号 特集 パレスチナ―イスラエル問題――暴力と分断の70年』青土社、二〇一八年
・『ユリイカ 詩と批評 一九八五年八月号 特集 ユダヤのノマドたち』青土社、一九八五年
- 上にも書いたように、もう閉店してしまうのだから金に糸目をつけずに欲しいものを欲しいだけ買おうと考えていたわけだが、セールで割り引かれたこともあって思ったよりも出費は嵩まなかった。哲学思想の類を狙い目として念頭に置いていたけれど、意外にも、強く興味を惹かれ欲望を熱く煽られるものはそこまで多くは見つからなかった。よく利く目を備えたつわものどもが既に獲っていったあとだったのかもしれない。実際、現代哲学や海外文学の棚にはだいぶ隙間があったくらいだ。とは言え、上記でもかなり厳選したつもりだと言うか、荷物があまりにも重くなって負担がひどく増えるのを避けて――それでも充分大量で相当に重かったが――新刊書店やほかの本屋で入手する機会がありそうなものは落としたのだ。例えば、ジャック・ル・ゴフの『中世の人間』とか、武藤剛史『印象・私・世界――『失われた時を求めて』の原母体』などである。前者は有名な本だし、後者は刊行時からわりあい気になっているプルースト論なのだが、発売してまだ二、三年くらいなのでまあいずれどうにでもなるだろう。また、新刊書店では無論買えないだろうが、石澤誠一『翻訳としての人間』という著作も、先日(……)さんにプレゼントする精神分析関連の本を求めに来た際に出くわして以来興味を惹かれていたところ、三〇〇〇円するので諦めて見送った。ほか、エーバーハルト・ブッシュ/小川圭治訳『カール・バルトの生涯 1886-1968』という大部の伝記にも遭遇してかなり欲しくなり、思い切って買ってしまおうかとよほど迷ったけれど、これもやたらと巨大で重い書物だったし、四〇〇〇円もしたのでやはり仕方なく諦めた。ナチス全体主義に対して果敢に抵抗し強固な信念を持って闘争した神学者であるカール・バルトという人間について学ばなければならないのは当然のことだが、ひとまず新刊書店で手に入る文献から始めようと判断したのだ。
- 小林康夫の本としては『歴史のディコンストラクション』などもあったものの、これは新刊書店で買えるはずなので候補から落とした。『無の透視法』というのは一九八八年の、おそらくキャリアのかなり初期の方の著作で、若書きと言うべきだろう七〇年代の論考など収録されている。初出を見てみると、二四歳で既に『現代思想』に書いたりしているから凄いものだ。
- 鳴海英吉というのはシベリアに抑留されていた人で、細見和之の『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』にその詩行が引かれているのを見て以来、ちょっと気になっていたのだ。内村剛介という、これも抑留体験を耐え抜いて日本に帰ってきた文芸批評家が、石原の詩は「ウソ」で、鳴海の作品こそが「ホント」だと評しているらしい。ここに改めて、鳴海英吉の「列」を引いておく。二〇一九年九月一二日の日記冒頭にも引用した細見の著作の書抜きからである。
列
ふりむくな と言われ
おれは思わず ふりかえってみた砲撃でくずれ果てた町があった
まず くすみ切って煙が上っていた
くねった電柱があって黒い燃えカスだった
黄色のズボンを下げた兵士が
むき出した二本の足をかかえていた
桃色のきれと 血を啜う黒い蠅が見え
死んで捨てられた もの たちが見えた兵士の口のまわりには
米粒が蛆色をして乾き 干し上り
めくれあがった背中の大きな傷口に
もぞもぞと動いている蠅
おれは断定した
あいつも飢えていたのだ
おまえもおれも乾ききっていたのだくだかれたコンクリートのさけ目だけが
さらさらと白い粉末のようなものを流し
果てしなく 乾いて そのまま流れつづける
あれは女ではない
おまえのかかえ上げたものは
砲撃で焼かれつづけたさけ目[﹅3]
しわしわと 死んでも立っているものを
美しいと おれは凝視しつづけていたふりかえるな 列を乱すものは射殺する
おれは罵倒するソ聯兵の叫びが
こんなにも無意味だと知ったとき
おれの眉毛が 突然せせら笑う
いつもお前の言い分は 列を乱すなである
おれの眉毛の上に 八月のような
熱い銃口があった
整列せよ まっすぐ黙ってあるけ
- ジャン・アメリーはホロコースト関連の作家としてやはり基本文献だろう。マルク・ブロックは店外の棚にあって三三〇円で安かったので買っておくことにした。ジョン・ケージの『小鳥たちのために』は、以前(……)さんが称賛していたような覚えがある。ほか、『現代思想』及び『ユリイカ』はユダヤやパレスチナへの関心から集めたものだ。このテーマを特集した雑誌がちょうどいくつも揃っていたのは運が良かった(しかも、そのうちの三つは表の百円均一から拾ったものである)。
- 会計の際、閉店されるということで、と店員に声を掛け、とても残念ですと伝えておいた。リュックサックに一部を詰め、ビニール袋に入れてもらった残りを女性店員から受け取ったあとも、今までお疲れさまでした、有難うございましたと挨拶をしてから辞去した。
- ひどく重い袋を提げ、膨らんだリュックサックも担って上体の筋に負荷を掛けつつ、ふたたび線路沿いの細道を通って駅に戻った。帰りの電車内は書見である。マスクをつけている人が当然ながらやはり多数派だった。
- 九時前に帰着。一〇時から「(……)」の数人と通話をする予定だった。それなので、胃のなかは純然たる空虚だったものの、先に入浴を済ませてから食事を取った。(……)
- 一〇時を過ぎてからSkypeで通話を始めた。相手は(……)に(……)に(……)さんの三人。日記は相変わらず進んでいないけれど、その一方で最近は読書にやたらと精を出していると序盤で近況を報告した。電話は零時過ぎまで続いたが、話題の大半は覚えていないし、もはや二〇日もの距離がひらいてしまった会話のことを頑張って書くのも面倒臭いので、二、三点だけで良いだろう。一つには、風呂に入っているあいだにフェイスタオルを使うか否かという生活習慣の相違について雑談があった。これは(……)の我が家への宿泊に関して(……)が、(……)くんはお風呂に入ったあと髪を乾かさないって聞いたけど本当なの、と尋ねてきたので、確かに乾かしていなかったと肯定し、ついでに彼がフェイスタオルも使わなかったという事実を伝えたところから始まったのだった。(……)も入浴中に小さなタオルを使うことはせず、上がったあとのバスタオルですべての水気を処理すると言う。こちらと(……)さんは用いるタイプの人間で、風呂場を出る際にフェイスタオルで身体を拭いておけば、足拭きマットやバスタオルがそんなに濡れずに済むのだと利点を述べたところ、なるほどなあという納得の反応が返ってきた。
- さらには、女性の衣服にポケットが少ないのは、彼女たちの歴史的・社会的地位が低かったこと、ないしは現在においてもいまだ低いことを表しているのだという説を適当に語ったのだが、これはハンカチを持ち歩くか否かという話をしていた最中に連想的に繋がったものである。(……)は外出時にハンカチをあまり持たず、こちらはスーツや街着を着る際には基本的にいつも尻のポケットに携えている。そこから、職場で高三生相手に扱う英語のテキストのなかで読んだ文章のことを思い出したのだった。曰く、例えば優秀な男性の上司と食事に行く機会があったとして、彼はその席であなたに何か貴重な情報を明かしてくれるかもしれない、ところが、男性だったらポケットからさっと手帳を取り出して即座に書き記せば済むところ、女性はまずバッグのなかをごそごそ搔き回してペンと手帳に辿り着かなければならず、あなたがそのようにぐずぐずしているあいだに上司はさっさと次の話題に移ってしまうだろうし、ことによるとあなたが手帳を探してもたついている様子を目の当たりにして落胆し、あなたの業務遂行能力を疑ってしまうかもしれない、事程左様に、女性の衣服に手帳を忍ばせておけるほどのスペースも満足にないというのは、彼女らが企業戦士としての有能さを発揮するような状況が当然のものとして想定されていないからなのだ――というような話で、こちらが読んだ原文は語り口も何となくユーモアを狙っているような気味があったし、胡乱気な論なので正当性があるのかないのか知らないが、ともかく思い出したことは思い出したので、話の種として、職場でこんな文章を読んだよ、と語ったのだった。
- そのほか、これが通話の主な目的だったはずだが、"(……)"に合わせる動画についての説明を受けた。コンセプトは一応理解したと思うが、あまり鮮明なイメージは湧かず、実際のものが出来上がってこないことにはよくもわからない。