(……)人並みの結婚をして子をつくりたい、と前から女に言われていた気もした。これには負ける。そばにいる女の、さすがに馴染んだ温みの伝わってくるのを感じては、このからだでほかの男を受け容れて子を宿すことになるのかと思っていた。やがて立ちあがって買物の女たちの間へ紛れて行く女の腰を、これで気持の整理もついたので今夜にも男に抱かれるのか、とベンチから見送った。甘い匂いが跡に遺った。
一歩踏みこんだのと、踏みこまなかったのと、その差だったのだろうな、言葉ひとつ、声音ひとつで、違ったことになったのかもしれない、と私はようやく受けて、あったことと、なかったことと、どちらが後年になって重くなるのだろう、と自問するようにたずねると、実際にあったことだろうと、なかったことだろうと、夢は何かの取り返しをつけようとするものらしい、取り返しのつくことなど、何もありはしないのにと言う。
(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』新潮社、二〇一七年、146; 「ゆらぐ玉の緒」)
- 一時二〇分まで惰眠の罪に堕ちる。
- 快晴で、風の威力が凄まじい。洗濯物を取りこむためにベランダの戸を開けるとちょうど烈々と吹き荒れているところで、吊るされたものたちがひどく虐げられており、パジャマは足もとに落ちていたし、バスタオルなど一回転して物干し竿に巻きついていたくらいだ。
- dbClifford『Recyclable』とともに爪を切った。
- 柔軟運動を丁寧に行った。やはりストレッチの類はなるべく毎日、僅かばかりでも時間を取った方が良いだろう。完全性やあまりに高い負荷を求めず、毎日軽く、少しずつやっていくこと。何の営みにおいても、多分それが肝要なのだろう。全力を費やしては続かない。力まず、上手く力を抜いて、気楽に気長に、鷹揚に続けること。
- 今日は飯より先に風呂を浴びることにした。それで入ろうとすると両親が、何だか怪しい、不審な車がたびたび停まっているとか話していたので、どこにと訊いてみたところ、(……)さんの前だと言う。思い当たって、ああ、停まってる、よく見るよと応じた。夜、労働などからの帰り道にしばしば見かける軽自動車である。遠出をして随分遅く帰ってきた日にも見たような気がするが、これは記憶違いかもしれない。なかに乗っているのは一人だったと思うが、夜闇でよくも見えないし、いつもさほど観察せずに通るので、何をしているのかは知れない。
- 夕食時、何やら蘊蓄を紹介するテレビ番組。焼鳥の「ネギマ」という名称の由来だとか、冷蔵庫用のコンセントが壁の高所についている理由だとか、そういったとても些細な「雑学」を、「知って得する」というような売り文句で伝えるものだ。また、それらの知識を紹介する各分野の業界人が、これを知っていれば飲み会で人気者になれますよ、とか、子供に尊敬されますよ、とかいう推薦の言葉を、嬉々とした表情でにこやかに口にするわけである。なるほど? 見事な他愛なさだ。(……)
- そのニュースでは無論、コロナウイルス関連の情報が綿々と伝えられるわけだが、なかに一つ、愛知県が県として独自に緊急事態宣言を発出したという報せがあり、大村秀章知事による発表の様子が映像でちょっと流された。知事は話頭で、「一致団結して」という言葉を強調していた。この種の文言は、今までテレビで垣間見てきた限りでは、多分どの都道府県の首長も揃って口にしていると思う。協調感と一体性を強く標榜し、高く大々的に称揚するわけだ。当然のことで、何の不思議もない。とは言え、性向としてそうした修辞学――言語操作――に馴染めるかどうかということは、また別の話である。ついでに言えば、映像を見た限りどの担当者も口を揃えて必ず「自粛」という語を用い、例えば、外出を差し控えていただきたい、といった風に類同的な意味の別の表現を口にする人がまったくいなかったのだが、やはりあれは統一が図られているのだろうか? だとすればここでも、言語的な位相においてまさしく「一致団結」が表明され、演出され、顕揚されているわけだ。もしそうではなくて、誰かが殊更に意図したわけでもないのに誰もが自ずから決まって「自粛」という言葉を表白しているのだとしたら、それこそ真に見事な言語的「自粛」の「一致団結」ぶりである。「(……)ファシズムとは、何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるものだ(……)」(ロラン・バルト/花輪光訳『文学の記号学――コレージュ・ド・フランス開講講義』(みすず書房、1981年、新装版1998年)、15)。
- ともあれ、こちらとしてはこの「自粛」という、いかにも厳[いかめ]しいような字面の語にも、何となく違和感を、つまりは馴染めなさの感触を覚えるのだが、それはまあやはりこの言葉がこうした状況及び用法にあって孕むあからさまな高圧性、権力性の故なのだろう。実際、「外出自粛」とは、「自発性」の装飾を申し訳程度に施すことで個々の行動選択の「責任」を市民の側に転嫁させようと足搔いてはいるものの、言うまでもなく大きな権力からの「粛み」の命令であるわけだから、むしろそうした「厳しい」語の方が文脈に相応しいのかもしれないが。
- 母親は眠る前に、湯たんぽを布団の下に仕込んで床を暖めている。ハローキティのイラストが描かれた多分子供向けの品なのだが、それがもう三〇年くらい前のものだと言う。外殻が一部ひび割れているのは、階段から落としたらしい。
- 後藤明生『挾み撃ち【デラックス解説板】』(つかだま書房、二〇一九年)、本篇は読み終えて、残っているのは諸氏の解説である。脱線に次ぐ脱線と言うか、そもそも本線と脱線の別が設けられていないような感じの小説で、七三年の作品なので当時は多分かなり「前衛的」と言うか、新奇なものとして受け取られた――あるいは受け取られ損ねた――のではないかという気もするが、今読んでみると、物語の攪乱の仕方はむしろわりとわかりやすいようにも思う。まあこの種の作品としては、おそらく古典と言ってしまっても良いのだろう。無論面白いは面白いけれど、物凄く惹きつけられるとか、滅茶苦茶に興奮するとか、多大な衝撃を受けて動揺するとか、そこまでのインパクトをこの身に引き寄せることはできなかった。これは言うまでもなく語りの小説である。あとは構造的攪乱と言うか、まさしく〈はぐらかし〉の小説だろう。こちらはもしかすると、性分としてそういうタイプの作品にはそこまで強烈に魅惑されない人間なのかもしれない。やはりどちらかと言えばどうしても描写ばかりに目を向ける近視眼的な好事家になってしまうと言うか、もう少し広く言えば、自分のなかにある類型とは何かしら違った言葉遣いや語彙の選択、文の形や流れ方などを求めているだけなのかもしれない(そういう意味では、先般読んだ三島由紀夫の「中世」なんか、自分の馴染んでいる言葉遣いとはまったく違う種類の言語で書かれていて、今まで触れる機会のなかった物珍しい語などにもたくさん遭遇したので、その点では面白かった。それまで知らなかった言葉を知るということには、もうそれだけで一つの確かな面白さがあるものだ)。要はやはり、書抜きをしたくなるような(〈官能的〉な)細部を豊富に具えている作品にばかり惹かれるのではないかということで、まあ一応ここで、体系性/断片性の二元論を仮に導入してみるとすれば、自分はどう足搔いても断片志向の人間なのかなとも思うものだが、だからまあ、物語の展開や総合的な構成などの面では古色蒼然としたような作品であっても、個々の箇所で言語表現がみずみずしく煌めいていれば、多分気に入ることができるのではないか。それは結局のところ、文体至上主義ということなのか? 必ずしもそうではないとも思うのだが、それに近いところはあるのかもしれない。文芸批評や文学理論の類にまあ一応は興味がある一方で、まったく単純素朴に、自らのうちに牙痕的な印象を鮮烈に刻みつけて、記憶に残り続ける――語義矛盾的な比喩表現を使ってみれば、言わば〈ポジティヴなトラウマ〉のように――部分があるかどうかという点が、つまりは文学に限らず書物というものの本義と言うか、賭金なのでは、という気もする。中上健次も、自分は読者のなかにたった一行残すことができたらそれで勝ちだと思っている、みたいなことを言っていたらしい。これは渡部直己が『日本批評大全』を出した時期に、インターネット上のどこかのインタビューで証言していたと思う。
- そういう観点で考えると、『挾み撃ち』で一番印象に残ったのは、映画館の地下通路に貼られたポスターに映った「女子高校生の脇毛」のくだりかもしれない。ほかに語りどころと言うか、注目すべき部分はいくらでもあると思うのだが、むしろこんなしょうもないような箇所こそが強く残るわけである。
わたしは一枚のポスターの前に立ち止った。女は形通りに顎をあげ、上体をのけぞらせて、肘を曲げていた。脇毛が見える。女は女子高校生らしく、隣には、すでにスカートを脱ぎ終ったもう一人の女が、セーラー服を頭から脱ぎかけている。女子高校生の脇毛は魅力的だ。しかし、女は年齢不詳の顔つきだった。確かに若いには違いない。このポスターの女もたぶん本物の女子高校生に毛の生えたくらいの年齢だろう。にもかかわらず、年齢不詳の顔だった。ただ要するに、若いという顔である。おじさん、どう? あたし若いでしょう! つまり、ポスターの顔はそういった顔だ。まだそれでも彼女の場合は、脇毛があるだけましかも知れない。何故みんな脇毛を剃り落としてしまうのだろうか? 誰も文句をいわないのだろうか?
(後藤明生『挾み撃ち【デラックス解説板】』(つかだま書房、二〇一九年)、101~102)
- 「脇毛」の主題で言うと、三島由紀夫の『仮面の告白』にも、主人公の意中の男子が鉄棒にぶら下がった際にもじゃもじゃと露わになったその脇毛を、力を込めて微視的に描写した一節があるらしく、それがちょっと異様な感じだった、と前に(……)さんが会話のなかで言及していたのを思い出す。
- Lou Donaldson『Alligator Bogaloo』。Lou Donaldson(as)、Melvin Lastie(cornet)、Lonnie Smith(org)、George Benson(g)、Leo Morris(ds)。一九六七年四月七日録音。Leo Morrisというのは、Idris Muhammadの改名前の名前らしい。