2020/4/30, Thu.

 しかしあなたは(というか人は誰も)、固有の自我というものを持たずして、固有の物語を作り出すことはできない。エンジンなしに車を作ることができないのと同じことだ。物理的実体のないところに影がないのと同じことだ。ところがあなたは今、誰か別の人間に自我を譲り渡してしまっている。あなたはそこで、いったいどうすればいいのだろう?
 あなたはその場合、他者から、自我を譲渡したその誰か[﹅2]から、新しい物語を受領することになる。実体を譲り渡したのだから、その代償として、影を与えられる――考えてみればまあ当然の成りゆきであるかもしれない。あなたの自我が他者の自我にいったん同化してしまえば、あなたの物語も、他者の自我の生み出す物語の文脈に同化せざるを得ないというわけだ。
 いったいどんな物語なのだろう?
 それはなにも洗練された複雑で上等な物語である必要はない。文学の香りも必要ない。いや、むしろ粗雑で単純である方が好ましい。更に言えば、できるだけジャンク(がらくた、まがいもの)である方がいいかもしれない。人々の多くは複雑な、「ああでありながら、同時にこうでもありうる」という総合的、重層的な――そして裏切りを含んだ――物語を受け入れることに、もはや疲れ果てているからだ。そういう表現の多重化の中に自分の身を置く場所を見出すことができなくなったからこそ、人々はすすんで自我を投げ出そうとしているのである。
 だから与えられる物語は、ひとつの「記号」としての単純な物語で十分なのだ。戦争で兵士たちの受け取る勲章が純金製でなくてもいいのと同じことだ。勲章はそれが〈勲章である〉という共同認識に支えられてさえいれば十分なのであり、安物のブリキでできていたってちっともかまわないのだ。
 (村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫、一九九九年、750~751; 「目じるしのない悪夢」)



  • 電話着信を知らせる携帯の振動のおかげで一一時半頃に目が覚めた。誰かと思えばNKである。出て、しばらく話を交わす。あちらも緊急事態宣言以降は仕事が五時までに減っていて、ゴールデンウィークもいくらか長くなったと言う。昨日は(……)の実家に帰って祖父母と並んで散歩をしたが、その辺りではやはり危機感はほとんどなくて、わりあい安全だと思っている雰囲気らしい。(……)市自体はしかし大きな病院が結構あるので感染者の情報は折に出ており、店に来る人から聞いても医療従事者は大変そうだと。とにかくお互い無事に乗り切って、まあまた元気に会いましょうと締めて通話を終えた。
  • 両親は蕎麦を食うとか言って筍をまた天麩羅に仕立てていた。二切れほどいただく。
  • UFOという文字を目にして、United Future Organizationのことを出し抜けに思い出す。このグループのCDは、本当にはるか昔のことだが一枚だけ持っていたことがあって、と言うのはまだハードロックに触れはじめてまもなかった中学の頃だが、ロックバンドのUFOと間違えてブックオフでこのグループの作品を買ってしまったのだった。当時はインターネット回線も今からすれば馬鹿げた遅さだったし、情報収集の能力もなくて何も知りゃあしなかったので、そうした錯誤が起こったわけだ。その時に買ったCDはすぐにおさらばしたと思うが、聞いたとしても中学生の自分では全然理解できなかったはずである。あれは何だったかなと思ってUnited Future Organizationの作品をAmazonで探ってみたところ、『No Sound Is Too Taboo』というアルバムのジャケットに見覚えがあったので、これだなと同定された。それでYouTubeを使って流す(https://www.youtube.com/watch?v=jqPZsX4atMU&list=PLoKPG_5WwqmArUBYN4hVrn1PAcIlzVCEE)。いわゆるクラブジャズとかアシッドジャズと言われる方面の音で、まあ悪くはない。
  • 昨日の散歩のあいだのことをメモする際に「弓月」という語を検索したのだが、そこで秦氏が「ユダヤ王族」を由来に持つ一族だと主張するページに遭遇した。さらにちょっと調べてみたところ、これはいわゆる「日ユ同祖論」と呼ばれる胡乱気な言説の一環らしく、この種の論説は以前にもどこかで目にしたことがあるような気もする。と言うか、ジョン・ダワーの『容赦なき戦争』のなかに何かその方面のことが一瞬だけ触れられていたような記憶の手触りがあったので、いま書抜きを検索してみたところ、以下のような情報が記録されていた。

 (……)『国体の本義』が述べたように「国民性」は「清明心」であったかも知れないが、実際には国民全体が逸脱していた理念であった。このため『国体の本義』は、日本人のすぐれた特質を部分的に確認する自己満足の論文にすぎず、また日本国民に「我が国独自の立場に還」ることを勧めた望ましい行動の問答集でもあった。戦争は、皇国の道を世界中に拡げる神聖な使命と評されてきたかも知れないが、同時に日本の指導者層は、消え失せたままの道徳的な卓越を日本人が取り戻すよう期待する、生死をかけた誓約であると認識していた。
 その最も過激な声明は、一九四二年二月に大政翼賛会が発行した小冊子であったかも知れない。同会は一九四〇年、日本の合法的な全政党を併合した寄り合い世帯の準政府機関であった。大政翼賛会の調査委員会幹事で京都帝国大学教授の藤沢親雄が著わした同書は、『偉大なる神道の清めの儀式および日本の神聖なる使命』という堂々たるタイトルを付して英訳された。藤沢はまず、日本の天皇(皇尊[すめらみこと]という尊称を繰り返し用いた)が、宇宙の生命力を体現していると説き、日本(皇御国[すめらみくに])が古代の真の文明の発祥地であった、と印象的な冷静さをもって述べた。最近の言語学および考古学の証拠物件によれば、有史前に「世界家族的体制」が存在したことが明らかになり、そこでは日本が「祖国」とあがめられ、他の諸国(バビロニア、エジプト、中国を含む)は、「子供の国々」または「分岐国」として知られていた。証拠に基づくこじつけの中で藤沢は、古代メソポタミアのシュメール文明が、その名称や文化を皇尊からとったと述べていた。
 (……)
 藤沢および大政翼賛会の後援者が構想した世界体系は、「完全一致、大調和」という家族の型に沿った「基本的垂直秩序」であったのであろう。日本ならびに天皇は当然、この世界的コミュニティの家長として崇拝される一方、他の諸国は「しかるべき地位」を引き受けることになる。さらに日本の古代の役割を祖国であり世界文明の源であると仮定すれば、日本が地球の隅々まで拡げていた「大義」を、他の民族や文化が高く評価することを期待するのは無理もなかった。新世界秩序の建設を目指す日本の聖戦は、他の文化における古くからの日本に対する恩義という眠れる記憶を呼びさますかも知れなかった。つまるところ藤沢は、注目すべき仮説を論理的な結論に導き、次の通り述べた。「中国人、インド人、ユダヤ人に見られる似たような儀式は、全人類の神聖な母国である皇御国の大祓に由来することは大いにありうる」。キリスト教徒も彼らの宗教上の教えの中に、特に新約聖書使徒ヨハネの書に、大祓を暗示するものを見出すであろう。
 (ジョン・W・ダワー/猿谷要監修/斎藤元一訳『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』平凡社ライブラリー、二〇〇一年(TBSブリタニカ、一九八七年)、381~384)

  • もっとも上に示された藤沢親雄の主張は「日ユ同祖論」どころか、輝かしき我らが日本国こそが「古代の真の文明の発祥地」であり、全世界の民の「祖国であり世界文明の源であると仮定」するものなので、さらに一段と「過激な」考えだと言うべきだろう。そこまで突き抜けず「日ユ同祖論」の段階であっても、インターネット上にはこの説を支持するらしいブログが結構見つかる。「日ユ同祖論」そのものの学術的正当性如何は知らないし、さしあたっては大した興味もない。ただそうしたページの大方は、例えば一つのサイトに「調和と繊細な美を大切にする日本文化のルーツが秦氏にあるということは、神の選民の血が日本人のうちに息吹いていることを意味し、それは日本人の誇りなのです」と堂々と記述されているように、①「ユダヤ人」は「神」に選ばれたのだから、彼らは「神の選民」として特権的に優れた民族である ②「日本人」のルーツを遡っていくと「ユダヤ人」に到達する、すなわち「日本人」と「ユダヤ人」は血族的に同祖である ③従って、「日本人」もまた「ユダヤ人」と同様に(特権的に?)優れた民族であり、「ユダヤ文化」を起源に持っている「日本文明」も、まさしく大きな「誇り」を抱くべき偉大な文明である――という見事に単純明快な論理形式を具えており、結論部分をどうしても言いたいがために、涙ぐましく躍起になって証明を頑張っているという姿勢が明白である。つまり、証明過程が結論に、すなわちイデオロギーにあらかじめ従属しているということだ。このような「日ユ同祖論」に関しては、学問的に確固としたやり方で精密な研究と検討に努めるならばいくらかは面白いことになるという可能性が、まったく、完全に、塵の一粒ほどもないとは断言できないかもしれないが、上のような論述形式に奉仕する限りでは、それはもちろん、自らの民族的・文化的アイデンティティに特権的な「誇り」を持ちたい人々の「選民」化欲求を表すだけの、抽象的かつ退屈なナショナリズムの一形態に過ぎないだろう。
  • 日記を綴ったのち、三時頃から書見に移った。シェイクスピア安西徹雄訳『ヴェニスの商人』(光文社古典新訳文庫、二〇〇七年)である。そうして三時半を過ぎたところでベランダに干してあった布団を、両親の部屋と自室と双方に取りこんで、それからいくらか風と光に当たるかというわけで、玄関からサンダルを突っかけて外に行った。すぐ近間にある駐車場の区画に温和な陽射しが残っていたので、そこの日向に入ろうと、ジャージのポケットに両手を突っこんでぶらぶら歩き、それで西陽のなかに入れば肌は途端に、意外なほどに温まる。上半身は褪せたような黒の肌着一枚のみの軽装である。空っぽにひらいた駐車場の一つの角に寄っていくと、すぐ手もと、柵の上に蝿が二匹連れ立ってきて、揃って止まったその一組を眺めれば、二匹ともまったく同じ種である。ことによると、つがいだろうか(と言って蝿という昆虫種の生態に、そもそもつがいという概念は適合するのか?)。その場でしばらく見下ろしていたけれど、二匹揃ってちっとも動かずじっと停まっているのでじきに離れ、駐車場内をうろつきながら腕を振ったり背を伸ばしたりする。蝿はその後も何匹か周囲を飛び回り、ほかにも微細な羽虫がたくさん、淡い明るみのなかで紙吹雪のごとく宙を行き交うそのあいだに、風は絶えず流れめぐって林のうちにはざわめきが籠る。
  • 駐車場の脇を一段下ったところに公有地だとか言う花壇があって、そこにピンク色の躑躅が満開を誇って敷地を埋めていたので、浅い下草を踏み越えつつ柑橘の樹の下をくぐって見に行った。その樹の黄色い果実も足もとにいくつも落ちて転がっている。躑躅に惹かれて行ったはずがその印象は正直さほど残っておらず、艶消しの苺みたいな赤さで鮮やかに明るくはあった、とそのくらいで、それよりむしろパンジーの方が記憶に強く留まっている。躑躅のほかにこの花も何色か植えられてあったその脇にしゃがみこんで、白の内部が濃い紫に染まった一種をしばらく眺めたのだった。蝶々が一匹、真っ白な花にとまったまま息を絶やして静かに溶けていき、その姿がまるごと染みつき宿ったかのような色彩の濃さ鮮明さ、そして模様の形だった。と、このような比喩をいま(と言うのはこの文章を拵えている五月二二日現在ではなく、この場面のメモを取ったその時点のことだが)書き記しつつ、聖骸布のことを想起するとともに、ガルシア=マルケスの『族長の秋』のなかで大統領の母親――「腋の下がタマネギ臭いといって大統領を叱ることのできる、この世でたった一人の人間」(158)にほかならないベンディシオン・アルバラド――の姿が、その臨終の際にベッドのシーツに転写されたというエピソードを思い出した。

 (……)その日の夜明け、あたりがあんまり静かなので彼は目を覚ました。愛する母親のベンディシオン・アルバラドがついに息を引き取ったのだ。胸が悪くなるような異臭を放つ遺体のシーツを剝いだ彼は、一番鶏の鳴きはじめる淡い光のなかで、心臓に手をあてる格好で横向きになった、べつの体がシーツの上にあるのを見た。シーツに残った体には、病気でやつれた痕も年で崩れた痕もなかった。経帷子の裏表から油絵具で描いたように堅くて滑らかだった。病院めいた寝室の空気も清められる、若い花のような馥郁たる香りを放っていた。いくら硝石でこすったり灰汁で煮たりしても、その痕跡を消すことはできなかった。表も裏も素材の麻とひとつになっていたからだ。麻そのものになっていたからだ。(……)
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直木村榮一訳『族長の秋 他六篇』(新潮社、二〇〇七年)、277~278)

  • この箇所だけ取り上げて読んでみても、具体的でしっかりとした感触と落ち着いた歩みを具えて無駄のない、さすがの筆致だと思う。しかし上の記述を書き写してみて新鮮に感じられたのは、読点のつけ方が意外とこまかかったのだなということで、「心臓に手をあてる格好で横向きになった、べつの体」と、「病院めいた寝室の空気も清められる、若い花のような馥郁たる香り」と、これら二箇所をもしこちらが作るとしたら、少なくとも現在の作文上のリズム感では、読点をつけずに前後を繋げて書いてしまうなと思ったのだった。後者に関しては前半の修飾部が直接的には「馥郁たる香り」に係るものなので、第二修飾部としてあいだに入る「若い花のような」との分離を明確にすると考えればまだつける余地があるけれど、前者のような箇所ではこちらだったら点を挟むことはまずないだろう。しかしマルケス及び鼓直の本文を読めば、それで違和感なくうまく流れているわけなので、このくらい細かく区切ってしまっても良いのだな、とちょっと新鮮に思ったのだった。
  • 四月三〇日の昼間、花壇でパンジーの紫色を見ていたときのことに話を戻すと、実際にその時点で抱いたのは先ほど記したような蝶の転写のイメージではなく、ほかの草花でもって染色したかのごとくにとにかく濃い、ほとんど粘りを帯びた液体のように強い色だなという印象で、触れれば指先に色がうつって濡れそうだとすら思われたくらいだ。ところで、シェイクスピア/野島秀勝訳『ハムレット』(岩波文庫、二〇〇二年)の註(二四三頁)に書いてあったのだが、パンジーという花の名の由来はフランス語の"pensée"で、したがって花言葉として「物思い」を、特に「恋の思い」を象徴するのだと言う。
  • しばらく花壇に佇んでから戻った上の道では、柑橘類のそばに生えた楓の樹が明るい淡緑にまとまって爽やかに統一されていた。それから家の方に歩いていくと、林の近くで母親が何か採っていたのでそちらの敷地に向かい、馬酔木が咲いたとか先日聞いていたので、何本か伸びた山茶花の手前に一つだけで立っているその低木を見上げて眺めた。確かに、白く小さく細かくて先を絞った袋のような、鈴蘭をやや思わせもする姿の花が群れていて、それを見ていると母親が、蒟蒻の花が咲いてるよと呼ぶ。本当にあれが蒟蒻の花なのか知らないし、もしそうだとして何故あんなところに蒟蒻などが生えているのかまったく理解できないが、地面から顔を出した葉っぱたちに囲まれたそのなかに一つ、セロリのような極々淡い白緑色の、花と言うか何と言うか縦に伸び上がった草が確かにある。蓋のついた筒みたいな見た目で、蝿などを誘って捕らえる食虫植物を連想させた。そこからさらに林のほうに入ったところ、頭上を完全に樹々に覆われたあたりには、昨日も目にしたシャガの花が群生していた。
  • 付近には沢と言うか、沢とも言えないくらいの浅くて小さな水の流れが通っているのだが、その周辺で母親は蕗を採っていたのだった。こちらも水流の脇にしゃがみこんで眺めると、ゆるく撓んだ水面に無雲の空の淡青が、青さと明度をいくらか落としてまろやかに変じながら宿りこんでおり、それが微小な水の襞によって精緻を極めたうねりを作り、この複雑な現象世界そのもののほとんど縮図であるかのような、秩序とも無秩序ともつかない生成転変の形象じみたモザイクを、あるいはまだら模様を形成していて、それは人間の限られた認識能力にあってはまったく区別をつけられず毎秒同じ形態の反復としか見えないけれど、現実には一瞬ごとに微妙に異なっているはずの無限の夢幻の系列を、差異の演戯を明け暮れ飽かず永続させている。
  • それからさらに、水路に沿って表の道路の方に少しだけ移動した。この水流は道路の下をくぐって道の反対側に抜けており、多分最終的には川に至るのだと思うが、道路の付近に来ると溝がいくらか深くなり、流れの幅もわずかに広くひらいている。その縁にまたしゃがみこんで、眼下をしばらく眺めて過ごした。水の上には蜘蛛の巣がいくつも張りわたされて斜めにかたむきながら層状の大きな幕を成しており、それらの中心にはそれぞれの製作者である主が悠然とたたずんで、落ちつき払って動かずに殿様然と構えている。水路を囲む石壁の一か所からは、どこから来ているのか知らないけれど支流があるようで管が突き出しており、そこからまさしく永久に排泄されつづける自然世界の小便のように、ゆるやかかつ一定の調子をもって細い水が流れ出て、下の水路に合流しながらじょぼじょぼという水音を絶えることなく立てている。と、蜘蛛の巣の一つに動きが生まれ、一匹の主が糸を伝いはじめたのだが、それを見れば体は小さく色も薄くていかにも未熟気な、子供ということはさすがにないのだろうけれど、人間で言えばまだあどけなさも抜けきれていない頃と見えて、どうも年若らしい蜘蛛であり、やはり若輩者はほかの年食った城主たちのようには行かず、貫禄とともにどんと構えて待ってはおれずにちょろちょろうろついてしまうものなのか。
  • 室内へ帰ると四時過ぎだった。昼の残りの蕎麦を食うことにして、葱・大根・人参をおろして混ぜるとともに冷凍された生姜のかけらをばら撒き、天麩羅も少々加えて煮込んだ。そうして食べれば、あまりにも美味である。温かく煮込んだ麺類というジャンルの料理が、多分この世の食べ物のなかで一番美味い。
  • その後、衣服にアイロンを掛け、またベランダに出て屋根の縁の掃除をした。屋根を外から見たときに斜めの線に当たる側面の領域と言うか、何と言い表せば良いのかよくわからないけれどともかく縁の部分に、いつからか鳥の糞が付着して固まっていたらしく白い汚れがあったので、それを拭い取ったのだった。輪ゴムを用いて棒の先に雑巾をくくりつけただけの原始的な道具を伸ばして擦り落とし、ついでに周辺も多少擦って綺麗にしておいたあと、自室に帰って日記を書く。あるいはアイロン掛けや掃除の方が食事よりも先だったかもしれないが、よく覚えていないしどちらでも良い。
  • 日記作成中、外で父親が何か動物に声を掛けまた舌を鳴らしている気配が聞こえてくる。猫かなと思った。隣のT家の庭から我が家の南側にある畑のあたりにかけて、結構頻繁にうろついている猫がいるのだ。発情するのか深夜に切なげな声をあげているのも多分その猫ではないか。それで網戸にしていた窓に寄って顔を出し、何、猫、と父親に訊いたのだが、動物はもう去ってしまったあとで姿は見られなかった。
  • 今日は午後八時の時点で既に、合わせてぴったり五時間も文を書いているのでなかなか勤勉だと言って良いだろう。とは言え書いたのは今日と昨日のメモが一つ、それに加えて一〇日及び一一日の二日分をまだ仕上げたに過ぎないのだが。ただまあこれだけの時間、わりと熱心に文章を作っていれば、おおかた文を生産するだけの機械と言うか、そういう種類の存在あるいは主体となっているような感じがあって、結構悪い気分ではない。
  • Maroon 5の『Songs About Jane』を掛けて、"This Love"とか"She Will Be Loved"とか、"Sunday Morning"とかの定番所を歌う。悪くない。低劣ではなく、質は確保されており、あまりに品のないポップスではないし、毒にも薬にもならないような音でもない。
  • 八時四〇分前まで文を書いて部屋を抜け、夕食前に散歩に出向いた。今日も北側に月が出ているが、一瞥して前日よりも黄味が薄れて白っぽくなったような印象を受けた。もうそこそこ厚みをそなえて櫛型ほどには膨らんでおり、空は今夜も無雲なので星もちらほら明瞭に穿たれている。公営住宅前を縁取るガードレールの下にまったく味気のない草が植えこまれて道沿いにずっと続いているのだが、そのなかに花が咲きはじめているのを見た。よほど小さい種類だが、赤で、どうも躑躅らしい。とすると、この全然色気を感じさせずこじんまりと生えている背の低い草たち、スポーツ刈りにした中学生の頭のようにつんつん並ぶだけでちっとも目立たずにいた散文的な草たちは、まさか全部躑躅だったと言うのか? そういう疑問を抱いたので、一か所、ちょっとだけ密に咲き集まっているところに顔を寄せてみた。形はペットにでもできそうな小型のヒトデといった風情で、周辺の草と見比べてみても、一見の限りでは葉の様子や姿形などに違いはないように見える。じきに満開を迎えて、この道を全篇にわたって明るい赤で縁取ることになるとでも言うのか? しかしそんな風に明らかに目につくはずの風景など、少なくとも日記を書きはじめて以降のこの数年間、一度も目撃して記述した覚えがない。
  • 十字路の自販機で昨日のコーラの缶を捨て、「Welch's まる搾りGRAPE50」と「濃いめのカルピス 青森県産 ふじりんご」の二つを買った。どちらも二八〇ミリリットルのペットボトルである。自販機の表面にはいくらかグロテスクな見た目の蛾がとまっていたり、蜘蛛がのろのろ這っていたり、そのほかこまかな虫たちが光に呼び寄せられて夥しく集まっている。買ったものをジャージの上着のポケットに、左右に一つずつ分けて収めて道を進み、坂を上ると上りきったあたりで対向者が二人あって、男女である。手を繋いでいたのか腕を組んでいたのかよく見なかったが身を近く寄せ合っていて、また女性のほうが、あれは何だったのかタオルか何かで頭のまわりを覆っているような、よくわからないけれどそんな風な格好だった。単純に、洋服のフードを被っていただけだろうか? イスラームヒジャブの類ではなかったと思う。最初は若いカップルと見たのだけれど、じきに、特に女性のほうがどうもそこそこ歳を重ねているように見えはじめて、それでもしかして親子かと、母親と息子のような印象もかすかに抱いた記憶が残っている。肉体的距離からして多分違うと思うが。
  • 裏道を抜けていって街道。Maroon 5の"She Will Be Loved"には"I wanna make you feel beautiful"という一節があって、この"feel beautiful"という言い方は結構悪くないなと思って詩のネタにするかと考えていたのだが、帰ってきてから検索してみたところ、これはこちらが理解していたように「素晴らしい気分になる」という意味ではなくて、どうも「自分を美しく感じる」という意味で取られることの方が多いらしい。そうだったのか! それじゃあ駄目だ。詩にはできない。
  • 街道を進んでいくわけだけれど、このようにして夜にひとりただ黙々と歩いていると、いずれ自分も年老いて歩けなくなる日がやって来て、それどころかやがては避けようもなくこの世界から消去されてしまうわけだ、という想念が自ずと頭のうちに現れてくる。それはただそれだけの思惟断片に過ぎず、だからどうだということは特にないのだが。つまり二念は継がれない。それから最寄り駅付近まで来たところであたりを見回しながら、それにしても植物という連中はまったくどこにでも存在してやがるなあと思った。まあ人間の種族などが地球上に出現するよりもはるかな以前、銀河的な時の彼方からずっと途切れることなく連綿とこの星に住みついているのだから別に不思議ではないけれど。ところでロラン・バルトは例えばインタビューなどにおいて、この世のすべては言語活動なのだということをはっきり述べていて(*1)、その言葉の正確な内実はこちらにはまだよくもわからないのだけれど、少なくとも一つにはおそらくそれは、この世には意味しないものなど何一つとして存在しない、すべては何かを意味してしまうということなのではないかと一応理解しており(*2)、それを言い換えればこの世界に純然たる無意味は存在せず、無意味でさえも即座に意味に回収されてしまう、意味の一種と化してしまうのだということで(*3)、これをさらにもう一つ換言すると、いわゆる「文化」による「汚染」を免れた(いわゆる)「自然」領域なるものはこの世には存在しない、という言明に多分なるのではないかと思う(*4)。こうした認識は、全然知らんけどおそらくマルクスとかニーチェあたりから段々一般的になってきたんじゃね? と漠然と想定しているのだけれど(*5)、ところで上の定式はむしろ逆転させて、「自然」による「汚染」を免れた「文化」領域こそこの世にまったく存在しないという風に考えるべきなのでは? などということを歩きながら思い巡らせていた。
  • *1: 「わたしの本質的な確信は(それは二〇年来のわたしのすべての仕事に結びついています)すべては言語活動であり、何物も言語活動を逃れることはできず、社会全体は言語活動により横断され、貫通されているということです」(ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』みすず書房、二〇一八年、213)
  • *2: 「すべては意味を持っています、ナンセンスさえも(少なくともナンセンスであるという二次的意味を)。意味は人間にとって自由のように宿命なのです(……)」(同上、26)
  • *3: 「少なくともこの〈充満した〉世界において、私たちからもっともうまく記号を削除してくれるのは、記号の〈反意語〉、非記号、ノンセンス(通常の意味での〈読解不可能〉)ではありません、なぜなら無意味はただちに意味に回収されるからです(ノンセンスにおける意味のように)」(同上、165)
  • *4: 「ある意味で、すべてが文化的であることから出発すれば、非文化を実践することは不可能です。文化は私たちに強いられた宿命なのです」(同上、213)
  • *5: 「だがいったい、神話というのはいつも非政治化された言葉なのだろうか。言い換えれば、現実的なものはいつも政治的なのだろうか。事物について自然な調子で語るだけで、その事物が神話的になるには充分なのだろうか。マルクスとともに、こう答えることができよう、最も自然な対象でさえ、政治的痕跡を、いかに微弱でいかに拡散しているにせよ含んでいるのだ、すなわち、その対象を生産し、整備し、使用し、従わせたり捨てたりした人間の行為の、多少なりとも記憶に残るものを含んでいるのだと」(下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、362)
  • 夕食は、「東京X」(というのは豚肉の銘柄である)と葉玉ねぎを炒めた料理などをおかずに米を貪った。かたわら夕刊を覗く。講談社が「Day to Day」なるウェブ連載企画を始めると言う。浅田次郎重松清恩田陸辻村深月などの「人気作家」たちが「今年4月1日以降の日本を描く」とのこと。
  • ほか、音楽欄。LOVE PSYCHEDELICOがデビュー二〇周年記念のシングル集を発表したことを知らせる記事のなかに、「近年、日本人の洋楽離れと言われるが」という文言があったのだけれど、それを読んで、そもそも「日本人」一般が「洋楽」にそんなに近づいたことなど、少なくともここ三〇年ほどのあいだにあったのだろうか、という疑問が生じた。
  • BREIMENなるバンドの『TITY』という新作(P-VINE)も紹介されている。高木祥太という名前の中心的なメンバーが、「ジャパニーズ・ファンクの更新を目指し」たなどと豪語しているから、かなり野心的なグループのようだ。彼は二五歳、「2、3年前はKing Gnuのメンバーらとセッションで切磋琢磨」していたと言う。ちょっと興味を惹かれはする。
  • ほか、エルフリーデというガールズバンドの新作(「rebirth」)やJeff Beck『Blow By Blow』の紹介。「ぴっくあっぷ」の欄には志磨遼平という人のベスト盤の情報。この人は「毛皮のマリーズ」というバンドを組んでいたらしいのだが、この名前は、凄まじいほどの昔にブックオフかどこかで買った『アコースティック・ギター・マガジン』のなかでスコアが取り上げられていたような記憶がほんのかすかに感じられる。「裸のラリーズ」を真似てそういう名前にしたのだろうとほとんど確信していたのだが、Wikipediaには寺山修司の「毛皮のマリー」なる戯曲がバンド名の由来だと書かれてあった。同じ「ぴっくあっぷ」には、The Rolling Stonesの新曲、"Living In A Ghost Town"も紹介されている。八年ぶり。よォやるわ、といくらかの呆れをこめた驚きとともに言わざるを得ない。
  • その他、キング・クルール『マン・アライヴ!』、パール・ジャム『ギガトン』、KERENMI『1』、伊舎堂百花[ゆか]『琉球ノスタルジア』といった新譜の短評が下端に。それぞれそれなりの興味は生まれる。キング・クルールというのは「英国の期待株」であり、新作は「魂の赴くままに作ったような、自由で混沌とした一枚」だが、「しゃれたジャズっぽい雰囲気もあって卓越したセンスを感じさせる」と言う。KERENMIとは、蔦谷好位置という人が様々なボーカリストを招いたプロジェクトのことらしい。大比良瑞希の「からまる」が「刺激的」だと好評を得ているが、この名前はYouTubeかどこかで見かけたことがある気がする。確か、FISHMANSか何かのカバーをしていたのではなかったか? 伊舎堂百花という人は「ニュー沖縄ポップ」を標榜しているらしく、「プロデュースはYMO周辺の才人、ゴンドウトモヒコ」で、「電子音と多彩な楽器が方々から芽吹くような響き」とのこと。
  • 風呂で湯に入る前に、背伸びとか腰ひねりとか左右開脚とか立位前屈とかを一〇分から一五分ほど行って身をほぐした。湯のなかでは"Moanin'"を口笛で吹く。また、今日は髭を剃った。T字剃刀を用いて顔全体をまとめてあたったのだが、結局このやり方が一番良い。ただ、もし毎日やるとなると少々面倒臭いけれど。
  • Benny Green Trio『Blue Notes』。Benny Green(p)、Christian McBride(b)、Carl Allen(ds)。一九九三年リリース。タイトルの通り、"The Sidewinder"から"Blues March"まで合わせて一〇曲、Blue Note Recordsに録音されたファンキー・ジャズの人気曲を取り上げてカバーしたもの。文句なしに楽しく、単純に気持ちが良い。
  • トロンボーン奏者Jimmy ClevelandのWikipedia記事を閲覧して参加作を探る。James Brownの『Soul On Top』(一九七〇年)という作がまず目についた。これはビッグバンド形式でジャズ・スタンダードなどを歌ったアルバムらしく、例えば"Every Day I Have The Blues"なんかやっている。アレンジはOliver Nelson。Ernie Watts(キャリアの最初期ではないか?)、Maceo Parker(ts)、Chuck Findley、Ray Brown(!)、Louis Bellsonなどのメンバー。
  • Kenny Burrellのアルバムでは『Blues - The Common Ground』という六八年のやつに参加している。こんなアルバムあったの知らんわ。ここでも"Every Day (I Have The Blues)"が取り上げられており、そのほかHorace Silverの"The Preacher"とか、"See See Rider"とかが扱われている。最後のこの曲は、個人的にはJimmy Witherspoonが『Olympia Concert』で歌っているのがわりと印象に残っている。Clevelandはブラスの一員として演奏しているようだ。ピアノは何とHerbie Hancockで、ベースもRon Carter。六八年とは言え、この二人がKenny Burrellのサポートでブルースをやっているという事実にはちょっと驚かされる。
  • Miles Davisの『Miles Ahead』及び『Porgy And Bess』にも参加。大体ブラス隊の一人として色々な作品に顔を出しているようだ。前者の作はまだ持っておらず聞いたこともなく、名作の誉れ高い後者はかつて父親が古いCDを持っていて、相当な昔、ジャズに初めて触れはじめた時期に多少は耳にしたと思うが、多分全然わからなかっただろうし何も覚えていない。『Miles Ahead』はGil EvansがアレンジしたオーケストラをバックにMilesがひとり(フリューゲルホーンで)ひたすらソロを取っているらしいのだが、曲目を見ると例えばDave Brubeckの"The Duke"などがあって、これはちょっと意外である。と言うのも、一体どこで読んだ情報かわからないけれど、確かMiles DavisはDave Brubeckについて、あの野郎は俺たち黒人がやりはじめたことをただあとから真似してるだけさ、そのくせ偉そうに自分で作ったような顔してやがる、白人って奴らはいつもそうだ、盗っ人なのさ、みたいな否定的なことを言っていた覚えがあるからだ。もしかすると『マイルス・デイビス自叙伝』に書いてあったのかなと思って二〇一三年の書抜きを読み返してみたのだけれど、少なくとも写しておいた範囲にはそのような発言は見つからなかった。記憶の出典が不明。いやわからん、Dave Brubeckについての言葉ではなかったかもしれないし、そもそもそんなこと自体言っていなかったかもしれない。それによく考えたら、Miles Davisが仮にそうした非難の言葉を吐いていたとしても、彼はこれ以前にも既に『Workin'』で"In Your Own Sweet Way"を取り上げているわけなので、『Miles Ahead』でBrubeckの楽曲を演じていても特に不思議なことではないのだ。ところで、『自叙伝』の書抜きをさっと読み返してみたら結構面白かったので、印象的だった箇所をついでにいくつか引いておく。

 (……)しばらくしてわかったもう一つのことは、ほとんどの黒人ミュージシャンが音楽理論を知らないことだった。バド・パウエルは、すばらしいピアノが弾けて、楽譜も読めて作曲もできる、オレの知っている限りでは数少ない一人だった。年取った多くのミュージシャンは、学校に行くと白人みたいな演奏になってしまうとか、理論を知ったりするとフィーリングがなくなってしまうと信じていた。バードやレスター・ヤングコールマン・ホーキンスといった連中も、博物館や図書館に行って楽譜を借りようとさえしないし、他のところで何が起こっているのか知ろうともしないんだ。オレには信じられなかった。オレは図書館に行って、ストラビンスキーやベルグプロコフィエフら、クラシックの偉大な作曲家の楽譜を借りていたが、それは、ジャズ以外の音楽で何が起こっているのか知りたかったからだ。知識は自由の産物で、無知は奴隷制度のものだが、自由と隣合わせの人間がそれに手を出さないというのが、不思議だった。手に入れられるのに、黒人ということだけで手を出さずにいることが、オレにはわからない。そんなことはすべきじゃないとか、白人だけのものだなんて考えるのは、ゲットーのクソ精神だ。(……)
 (マイルス・デイビス/クインシー・トループ/中山康樹訳『マイルス・デイビス自叙伝①』JICC出版局、1990年、78~79)

     *

 オレは、ディズとルイ・アームストロングは大好きだが、彼らが客に向ける微笑みだけは大嫌いだ。なぜそうしたかは、わかっている。金を稼ぐためだし、彼らはトランペッターであり、エンターテイナーでもあったからだ。食わさなきゃならない家族だっていたろうし、性分からして、道化が嫌いじゃなかったんだろう。二人が望んでやったんなら知ったことじゃないが、オレは嫌いだったし、好きになる必要もなかった。社会的にも階級的にも、オレは二人とは生まれが違う。しかもオレは中西部出身、二人は南部出身で、白人に対する見方がかなり違っていた。それにオレのほうが若かったから、彼らがみんなに受け入れられるために我慢しなければならなかった苦労のすべてを、繰り返さないでよかったこともある。彼らのおかげで、オレみたいな人間が受け入れられる状況が整っていたから、オレは本当にやりたい音楽だけをやればいいという態度が取れたんだろう。
 オレは、自分が彼らみたいなエンターテイナーだと考えたことはない。楽器もろくにできない、人種偏見だらけの馬鹿な批評家にゴマをすろうとも思わない。あいつらのために態度を変えるなんて、馬鹿げたことだ。立派なミュージシャンとしての評価には、愛想笑いなんかいらない、演奏がすべてだ、そうだろう? 昔も今も、それがオレのやり方だ。批評家にできるのは、受け入れるか、諦めるか、どっちかさ。今だってそうかもしれないが、ほとんどの批評家は、オレを傲慢なチビの黒んぼだと嫌っていた。一つ一つの演奏を解説する気なんて、オレにはまったくないし、連中にそれができないか、それともやらないんだったら、気にする必要なんかない。マックスもモンクも、J.J.もバドも、同じように思っていた。自分自身に対する態度が、オレ達の結束を固くしていたんだ。
 (112~113)

     *

 あの頃のオレは、ギル・エバンスのアパートにしょっちゅう行って、ギルの音楽の話を聞いていた。オレ達は、初めから気が合った。彼の音楽的アイデアは、すぐにピンときたし、彼にしてもそうだった。オレ達の間では、人種の違いは問題じゃなかった。いつも、音楽がすべてだった。ギルは、オレが初めて知り合った、肌の色を気にしない白人だった。ギルがカナダ人だったせいもあるかもしれない。ギルは、他の奴には絶対できない見方ができる、いつも一緒にいるだけで嬉しくなるような奴だった。絵画も好きで、オレが知らなかったヤツを、いろいろ見せてくれた。
 オーケストレーションを一緒に聴いていると、「マイルス、ここのチェロを聴いてごらん。他にどんな弾き方ができると思うかい?」などと言って、音楽について常に考えさせられた。音楽のなかに入り込んで、普通ならだれにも聴き取れないようなことを引き出してくるんだ。ずっと後のことだが、明け方の三時に電話してきて、「もし落ち込んだらね、マイルス、〈スプリングスビル〉を聴けばいいんだ」と、それだけ言って、電話を切ってしまったこともあった。ギルは思索家で、そこがオレがすぐに好きになったところだ。
 初めて会った頃には、オレがまだいたバードのバンドをよく聴きにきていた。いつもカバンいっぱいのホースラディッシュを持っていて、塩をふって食べていた。瘦せっぽちの背の高いカナダ出身の白人が、誰よりもヒップだったんだから、まいった。彼のような白人がいるなんて、考えもしなかったからな。カバンいっぱいの豚の鼻のバーベキューを持ち込んで、映画館だろうがクラブだろうが、所構わず食っていた東セントルイスの黒人連中には慣れていたが、ホースラディッシュをナイト・クラブに持ってきて、カバンからそいつを出して塩をつけながら食っている、しかも白人がだ。裾の細いズート・スーツに身を固めた、めちゃヒップな黒人ミュージシャンで賑わう五二丁目なのに、ギルときたら野球帽だ。まったく、たいした白人野郎だった。
 (174~175)

     *

 オレはミュージシャンとして、芸術家として、いつもできる限り多くの人々に、音楽を通して話しかけたいと考えてきたし、それを恥じたことだって一度もない。"ジャズ"と呼ばれる音楽が、少数の人々だけのものだと考えたことはない。かつて芸術的と考えられた多くの歴史的遺物と並んで、博物館のガラスの中に陳列されるものだと思ったことはない。ジャズだって、ポピュラー・ミュージックみたいに、常にたくさんの連中に聴かれるべきだと考えてきた。そうだろ? ジャズは多くの人には難しすぎる音楽だから、聴く人が少ないほどすばらしいなどと、ヘソ曲りな考えを持ったことも、一度もない。ほとんどのジャズ・ミュージシャンが、表面じゃそんなことを言って、多くの人に聴いてもらうためには自分の芸術性と妥協しなければならないと言う。だが本当は、彼らだって多くの人々に聴かれたがってるんだ。今ここで、そいつらの名前を挙げるつもりはないし、そんなことは重要じゃない。だがオレは、音楽には境界なんかない、どう発展するかの制限もない、創造性になんの規則もないと考えてきた。どんな種類であれ、良い音楽は良いんだ。ジャンルというヤツも嫌いだ、音楽には関係ないだろ。だから、オレのやっていることが多くの人々に気に入られるようになったからと言って、うしろめたい気持になったことなんか決してない。
 (314~315)

     *

 オレ達が時々"モー"(Moe)と呼んでいたビル・エバンスがバンドに入ってきた時は、あまりに静かなんで驚いた。ある日、どれだけできる奴か試してみようと、言ってみた。
 「ビル、このバンドにいるためには、どうしたらいいか、わかってるんだろうな?」
 奴は困ったような顔をして、頭を振りながら言った。
 「いいや、マイルス。どうしたらいいんだろう?」
 「ビル、オレ達は兄弟みたいなもんで、一緒にこうしているんだ。だから、オレが言いたいのは、つまり、みんなとうまくヤラなくちゃということさ。わかるか? バンドとうまくヤラなくちゃ」
 もちろん、オレは冗談のつもりで言ったんだが、ビルはコルトレーンのように真剣そのものだった。で、一五分ぐらい考えた後、戻ってきて言った。
 「マイルス、言われたことを考えてみたけど、ボクにはできないよ。どうしても、それだけはできないよ。みんなに喜ばれたいし、みんなをハッピーにしたいけど、それだけはダメだよ」
 「おい、お前なあ!」。オレは笑って言った。で、奴にも、やっとからかわれていることがわかったんだ。ビル・エバンス、良い奴じゃないか。
 (348~349)

  • で、ほかにはAhmad Jamalの"New Rhumba"なる曲なども『Miles Ahead』には含まれているのだけれど、ところでJon Hendricksがこのアルバムの演奏をすべてボーカライズしようなどといくらか頭のおかしいことを考えて、五〇年以上もこつこつ取り組んでいたのだと言う。やばくない? それが二〇一七年についに完成して、こともあろうにLondon Vocal Projectというグループによって現実に演じられてしまったというのだから、この世界というのは端的に糞で色々と腐ったことも多いけれど、それでもまだまだとても計り知れず、少量の救いは残されている。その同じ年の一一月に、Jon Hendricksは九六歳で亡くなった。
  • Benny Green Trio『Testifyin'!: Live At The Village Vanguard』。Benny Green(p)、Christian McBride(b)、Carl Allen(ds)。九二年作。上と同じメンバーでのライブ。言うまでもなく快適でとても気持ちが良い。いわゆるスウィンギーという語で形容される種類のピアノトリオのなかでは、多分屈指のもの。
  • 日記の読み返し、二〇一九年三月一五日金曜日から。一六日分にニュージーランドで起こったヘイトクライムの報が記録されている。「新聞を見ると一面に、ニュージーランドクライストチャーチでモスクが二箇所襲撃されて四九人が死亡とセンセーショナルな事件が伝えられている。犯人はFacebookで一七分のあいだ、襲撃の様子を実況中継したというのも強い印象を与える情報だ」。同日の夕刊にも「ニュージーランドのテロ事件の続報があって、主犯者が法廷に出頭したが(随分と早くないか?)その様子は不遜で、にやにやと笑っており、白人至上主義をアピールするような素振りも見られた、というようなことが書いてあった」。
  • 同じ一六日には美容院で岩下尚史について雑談している。この作家は物好きなことに、都下の鄙たる我が青梅市のなかでもさらに僻地方面にある軍畑地域に引っ越してきて――いつかの『ぴったんこカン・カン』でそれが取り上げられて、安住紳一郎がその古めかしい邸宅を訪問するのを目にした記憶がある――それで西多摩新聞か何かに話題が載っていたのだと思うが、この日記を読み返した今までずっと、青梅に越してきたのは鴻上尚史だと完璧に勘違いしていた。もちろん、名前が同じ二文字であるためだ(ところが、岩下のほうは「ひさふみ」であり、対して鴻上のほうは「しょうじ」なのだと言う)。その間違った記憶に基づき、鴻上尚史の『不死身の特攻兵』を書店で見かけた際にも、このひと青梅に越してきたんだぜとAくんに話してしまった覚えがある。
  • Mさんのブログ、二〇二〇年二月二〇日。おかしくて笑いを漏らすことになった部分がいくつか。まず、「Kは例によってそんな父のあとをテンション高くついてまわっていた。父のことを羊か何かだと思っているのだろうか?」 また、「弟のスタンスはだいたいいつもこんな感じ。中国が覇権国家を目指している現在の世界情勢についても、もともと中国がアジアの盟主として君臨していた時代のほうがはるかに長く、日本がアジアでトップに君臨していたここ百年ほどがむしろイレギュラーであったのだから、かつてのようにまた中国のコバンザメとして甘い汁だけ吸ってうまくたちまわればいいと、いつか食卓で語ってみせたこともあって、そのときは「コバンザメ」というふるくさい表現でクソ笑ったし、いかにも穀潰しらしい発想であるなと、彼の私生活と首尾一貫したその国際政治論を可笑しく思ったものだった」。そして、「ところでスマホのメモ帳に「屁こき虫が! 腸詰まりで死にさらせ!」という罵倒が残されていたのだが、使い道をどうしても思い出すことができないので、ここに記録しておくことにする」にはさすがに耐えられず爆笑してしまい、腹筋を激しく震わせてちょっと汗をかくことになった。最近読んでいるシェイクスピアもやはりさすがの技量で素晴らしい罵詈雑言を色々と書きつけているが、上のMさんの言葉はシェイクスピアも顔負けの最低最悪レベルの罵倒だ。そのほか、新型コロナウイルス騒動についての洞察を以下に引いて記録する。

新型コロナウイルス騒動ではもうひとつ気になることがある。福島の原発問題のときもそうであったが――と過去形で語るのは誤りだろう――、いつからひとは為政者ないしは経営者の視点をこれほどまでに内面化してしまったのだろうか? つまり、どうしてすぐに「経済が停滞する」「経済を回せ」というような言葉を、怒りや抗議よりも先に口にするのだろうか? プロレタリアートでありながらそのような目線を内面化してしまっているものとみれば、実際、これほど畜群的なふるまいもほかにないだろう。パニックや恐慌がそれ自体一種の力であることをおそれた権力による調教が、権力の目線を宿すことでみずからが弱者であり持たざるものであることを意識せずにすむものらの欺瞞と組み合わさった結果、このようにグロテスクな主体が生まれたのだろうか? 国民の総畜群化は社会におけるS親和者の消滅をも意味する。行き着けば、この社会全体は正常性バイアスと傍観者効果によって覆い尽くされてしまい、いかなる有事の前触れにも気づくことができず、先取りして対応することもできなくなるだろう。

 

  • 次に、Sさんのブログ。新たに投稿されていた記事のなかに、ヴァージニア・ウルフ/片山亜紀訳「病気になるということ」を公開したページが紹介されていたので、Evernoteの「あとで読む」欄に即座にメモしておいた。この片山亜紀という訳者は、『幕間』を新訳した人だ。素晴らしい仕事である。「病気になるということ」は「新訳」と書かれていたから多分過去にも訳されていたのだと思うけれど、その全容がまだまだ日本語には移されていないウルフのエッセイ群を、この人がきっと続々と翻訳してくれるに違いないと勝手な期待を寄せている。それで改めてWoolfのWikipediaを瞥見してみたところ、"Virginia Woolf wrote a body of autobiographical work and more than five hundred essays and reviews"とあって、そんなに書いてたの? やばくない? 『灯台へ』だの『波』だの、あのような作品を書いてしまった作家の文章が、エッセイはその一部しか紹介されておらず、日記も抄訳で、書簡に至ってはまったく訳されていないなどと、この国はいつまでもこのような由々しき文化的後進性に甘んじていて良いはずがないだろう。


・作文
 12:37 - 13:58 = 1時間21分(30日; 29日)
 13:59 - 15:05 = 1時間6分(10日)
 16:54 - 18:34 = 1時間40分(10日)
 18:48 - 19:41 = 53分(11日)
 19:52 - 20:36 = 44分(30日)
 27:10 - 28:01 = 51分(30日)
 計: 6時間35分

・読書
 15:07 - 15:37 = 30分(シェイクスピアヴェニスの商人』: 106 - 123)
 22:56 - 24:11 = 1時間15分(Wikipedia
 24:32 - 25:42 = 1時間10分(日記 / ブログ)
 計: 2時間55分

・音楽