2020/5/9, Sat.

 グループ内ではすでにグループの立ち上げのころから「経済秩序」の部会が討議をすすめていた。その中心を担ってきたのは、恐慌とニューディール政策ハーヴァード大学で研究してきたホルスト・フォン・アインズィーデル、財務省参事官カール・フォン・トロータの二人である。
 二人は連名で大部の覚書「経済秩序の課題」(四二年九月)を作成し、経済の基本についてこう主張する。旧来の資本主義経済は失業問題や環境破壊に無力なまま、制御できない力と力のぶつかりあいとなって人間を振り回してきた。だが経済はそれ自体が目的なのではなく、本来人間の生存と生活向上に役立つ手段であるはずだ。要するに「経済の目的は人間である」。
 経済のこのような位置づけには、カトリックの「社会的正義」の教説にもとづいて[アルフレート・]デルプ神父も「経済秩序は人間を人間にするために奉仕すべきもの」と主張するなど、グループに共通理解があった。だがさらに覚書はこの主張をおしすすめて、国には経済活動を統制する役割とその必要もあるという。もちろん規制によって「(利潤の追求という)経済に固有な力」を失わせてはならないし、業績の向上もはかられねばならない。
 経済の基本にかんする二人の主張には、一方で世界恐慌をまねいた自由放任主義を否定し、他方でスターリン共産主義の計画経済と区別する意図があったのだろう。
 だがこの国家統制をめぐって様々な疑義が出された。その代表が、ヨルクとグループの協力者ケルン大学の経済学者G・シュメルダースの主張である。ヨルクはシュメルダースのほかフライブルク大学のW・オイケン(一八九一―一九五〇)やF・ベーム(《フライブルク・サークル》の経済学者)たちと交流を深めていた。とくにヨルクは、オイケンの主張つまり国家の基本的な役割が経済秩序の整備にあり、国家統制を「秩序のある競争」に転換すべきだという主張に、強く共感していた。
 ヨルクとシュメルダースはこう主張する。国家には社会秩序を維持し、全体の利益のために管理し統制を必要とする領域がある。だが経済においては何よりも、個々人の倫理的な責任を前提にして、業績や自由な市場、自由な企業活動が重視されるべきだ。つまり「秩序のある業績競争」が必要である。それこそが経済発展の力となるし、国家的経済政策でも出発点とすべきものである。
 グループ内の意見は大きく二つに分かれた。歩み寄って合意の道を探るほかなかった。議論の末に合意された内容は、四三年八月の「新秩序の諸原則」に大要こう記されている。

一 就業者の生活保障は経済運営に必須である。最低生活費の支給を速やかに回復すべきである。
二 ドイツ経済の再建の基礎は秩序ある業績競争にある。それは国の経済運営の枠内でおこなわれる。国は独占やカルテルを規制し、秩序のある業績競争を発揮させ、全体の利益を守らねばならない。
三 基幹産業は公有化される。国の経済運営は、市場や大工場に働きかけて各州の経済政策を助成し、経済全体の進展に配慮する。
四 政府は、企業がその所有者と全従業員の経済共同体に発展するように助成する。企業の経営と成果の増進に寄与すべく、企業側と従業員代表との協定が定められる。
五 「ドイツ労働組合」は右の経済綱領を実施するうえで不可欠の役割を負う。
六 自治組織として工業、商業、手工業の企業体は同業組合(商工会)をつくる。農業経営体は農業協同組合をつくる。これらの組合は経済の自治をおこなう。

 本書を読まれる読者のなかにはドイツ戦後史に造詣の深い方もおられよう。気づかれるだろうが、《クライザウ・サークル》の論議と合意の内容は、アメリカ型と異なる戦後西ドイツの経済を方向づけた「社会的市場経済」(〈国民すべてに福祉を〉のスローガンのもとに西ドイツの経済相エアハルトによって推進された経済政策)の考えとよく似た内容となっている。ヨルクたちが連携した《フライブルク・サークル》、とくにオイケンがその思想的先駆者とみなされることからすれば、当然といえるだろう。ただここで注意したいのは、彼らがナチスの戦争経済の実態を直視しながら、構想したことである。経済秩序が倫理的性格を備えることは、彼らからすれば絶対に必要であった。「秩序ある競争」にいう「秩序ある」とは、それを象徴する言葉である。むき出しの強欲な資本主義ではなく、「人間の顔をもった資本主義」とは、むしろ彼らの願ってやまない経済秩序であった。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、189~192)



  • 一面に白い曇り空の日だが、暗さの感覚はない。と言って明るさがとりたてて漏れてくるわけでもないので、まあ中間的・中立的・中性的な空模様といった感じだ。陽射しの感触がなかったので、ベランダでの書見はせず。
  • 一度目の食事を済ませて帰室するとすぐに四月一九日の日記に取り組んだ。邁進し、総計でちょうど四時間を掛けて完成。合間にベッドで身体を休めながら書見する。シェイクスピア/大場建治訳『じゃじゃ馬馴らし』(岩波文庫、二〇〇八年)のメモを終え、フランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』(白水社白水uブックス、二〇〇六年)を読み進めた。「田舎医者」は何だかんだ言ってもやはり不思議と言うか、読みながら色々と疑問が浮かんでくる篇ではある。と言って、ここで言う「疑問」というのは作品様式上の重要な問題というようなものではなく、単に物語内容の面から見たときに不整合とも、つまり辻褄が合わないようにも思える「謎」、いわゆるリアリズム的な「常識」からは外れており、ことによるとその信奉者にとっては欠陥とも見えるかもしれない事態に対するごく素朴な、何でやねんという突っこみのようなものだ。カフカの小説作法においてはそのような「常識」からずれた「謎」が無造作に投げ出されたまま放置されると言うか、そもそもそれが「謎」として扱われ「疑問」を向けられることすらあまりないようで(この点はあるいはムージル磯崎憲一郎の作品との全般的な相違かもしれない)、だから論理の連環が閉じていないと言うか、むしろ論理項の一方もしくは一部が最初から欠落しているようにも感じられる。それがまあ一応、カフカの小説がよく「幻想的」とか「不条理」とか言われる所以の少なくとも一要素ではあるはずで、「幻想的」はともかくとしても、「不条理」というのは「デジタル大辞泉」によれば、「筋道が通らないこと。道理に合わないこと」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/不条理/)を指すらしいので、まさしく「筋道」の先が消えていてどう頑張ってもそこを通れないと言うか、通る通らない以前に道がどこにも行き着くことなく、行き止まりに当たることすらなく、中途で不意に純然たる空白あるいは非空間が広がっている、と「不条理」の語をそんな風に取れるのだとしたら、それはカフカの小説の様相を表す形容としてそこまで的外れではないのかもしれない。で、このような「不条理」性を担う事象が偶然にも、都合よくこの世界には存在していたのだが、それがもちろん「夢」であるわけだ。我々が体験する「夢」の様相とカフカの小説の欠落的な「不条理」性がどういうわけかうまいこと一致してしまったために、その言語秩序にもまったくお手軽に「夢」のようだという形容が付されて、幸いなことに彼の作品もこの世の意味体系のなかに位置づけられて知的な安堵と納得をもたらすことになったのだけれど、ところで、生まれたばかりの赤ん坊って夢を見るのだろうか? いま何となく、漠然と、まったくの当てずっぽうで思いついたのだけれど、夢とは言語を獲得したそののちに初めて人間の脳内に発生するものだったりしないのだろうか? と言うかより正確に考えると、例えば未言語段階の赤子が仮に夢を見ていたとして、赤ん坊には当然ながらそれを不条理だの条理だのと判別する基準、あるいはそもそも感じる基準は存在しないはずだ。すなわち「夢」の「不条理」性というものは、我々が既に獲得した言語能力ならびにそれに依拠して構成された意味体系に基づき整序された世界のあり方を基準としてそう感じられ、判断されるもののはずで、だから何となく、言語がなければ「夢」もないのでは? とか思ったわけだが、あるいはむしろ赤子にとっては我々が存在し経験しているこの現実世界そのものが「夢」みたいな様相として感じられ、立ち現れ、経験されているのだろうか? 精神分析方面の理論がそのあたりについては当然何かしらのことを述べているだろうし、とりわけミシェル・フーコーが序文を寄せたルートヴィヒ・ビンスワンガーが、まさしく『夢と実存』なる本も書いているわけだし、きっと何らかの考察をしているのではないかと思うけれど、それらをもちろん読んだことがないので確たることは知らない。
  • カフカに話を戻すと、彼の作品はまるで「夢」のようだということがとても頻繁に、ほとんど常識的な知識として言われるわけだけれど、そのような感想が発されたときにそのうちの大半が意味しているのはおそらく、カフカの小説世界がいわゆるリアリズム的な、我々が日々そのなかにいる経験的な世界の「常識」とは外れた秩序、あるいはそれと反してさえいる秩序を構築しているということであるはずで、そのような状態を人は「不条理」とも呼ぶ。こちらとしてはカフカの作品形式は非常に〈言語的〉な事態であるように思われ、と言うのはつまりそれが言語というもののいかがわしさと言うか破廉恥さと言うか、信用できなさみたいなものをうまく活用しているように感じられるからで、平たく言えば、「常識」的に考えてありえなかろうが何だろうが、論理的に矛盾していようが何だろうが、言語によってそれはそうなんだと書きさえすれば、何だか知らないけれどその世界はそういうものとして成り立ってしまうぞ? 言語の上ではそういう事態が起こったことになってしまうぞ? ということで、そういう破廉恥極まりない性質は言語というものの一つの本質だと、かなり強い言葉を用いて言い切ってしまっても良いのではないかという気が個人的にはするのだが、一方でしかし言語が通常「合理的」などと呼ばれる状態を志向することもおそらくは確かだろう。と言うか人間の「合理的」認識の基盤、つまりは経験世界の分節的秩序の底に言語が介在しているということ、とても簡明に言って人間が言語というフィルターを経由して世界を認識しているというのはそれこそ常識的な話のはずで、これが本当に確かなことなのかどうか知らないけれど、ひとまずその線で考えるとすれば、したがって言語というものは一方では人間にとって運命のように不可避的な「合理的」分割の道具でもあるはずだ。ところが他面、言語は(こちらの考えではおそらく本質的に)いかがわしいものでもあり、実にありがちな捉え方ではあるけれどそれらはきっと、表裏両面なわけだろう。つまり意味があれば無意味(もしくは非 - 意味だろうか)もあり、意味がなければ無意味もないということで、これはもちろん、意識/無意識、現実/夢といった対立図式とアナロジカルなものであり、また別の比喩的イメージを使えば、まあ例えば一本の道がまっすぐ伸びているとして、その道の周囲には当然道ではない領域、言わば非 - 道がある。で、その本来は道でない領域を進むときに人はそれを「獣道」と呼んだりするわけなのだが、カフカはたびたびこの獣道に寄り道をすると言うか、獣道と人の道とのあいだに区分を設けていない感じがあると言うか、要するにカフカはよく「獣」になるわけだ。獣になったり人間に戻ったりするわけで、まあ半人半獣ということだけれど、しかしそう書きながら何だかこの比喩もあまりしっくり来ない気がしてきたな。先ほどの、道の途中の切断的な「空白」あるいは「非空間」のイメージとずれてしまうような気がする。「獣道」ということは通常の「道」から外れてその「外」に出るはずなのだが、カフカは何だか「外」に出ているという感じではないような気がするし、と言うかそもそも下に書く予定のことからすると、言語や意味の「外」などないのだ、ということになっているはずなのだが。
  • ところでまたもや当てずっぽうの適当な山勘になるけれど、多分一九世紀あたりから、先ほど触れた言語のいかがわしさに自覚的に気づく書き手が段々と現れはじめたのではないか。で、これはおそらくフロイトによるいわゆる「無意識」の発見と、少なくとも時代的に軌を一にしていると思うのだが、条理/不条理、意識/無意識、現実/夢といった二元論のなかで基盤とされるのは、すなわち第一項とされるのは、常に必ず条理・意識・現実のほうであるわけだ。つまりナンセンスも一つの意味形態であり、いわゆる無意味は不可避的に意味に回収されるということで、これ自体は特に目新しい知見ではなくロラン・バルトもよく言っていることだけれど、それを換言すれば前者の項が言わば「正常」として優位に置かれ、後者の項はそこからの例外的な逸脱として捉えられるということだ。例えば、我々がいま現に体験しているこの世界が隅から隅まで「夢」であると、心の底から本当にそう思いこんでいる人がいたとしたら、多分その人は狂っていると見なされるわけだろう。もちろん、例の莊子の「胡蝶の夢」の話みたいに、この「現実」世界のほうが実は「夢」なのではないか? という発想が時に生じることはありふれているし、そういう認識がまた時には切実に感じられて強いリアリティを得ることだって往々にしてあるわけだけれど、それはあくまで一時的な例外事態に過ぎないはずで、人はいずれ、いまここの世界が第一の正当なベースたる本来的な領域であるという考えに回帰し、睡眠中に見るあの「夢」は人間の脳が見せている虚構的な現象だということにされる。すなわち、「夢」は「現実」の体系的連環のなかにうまく位置づけられて、その場所を得ることになる。それがうまく行かずに自分の生そのものがどうしても「夢」のようにしか感じられない、という状態に留まってしまうと、これは例えば「離人症」というような精神症状として扱われる。
  • ただ、この翌日に読んだMさんのブログで、二〇二〇年三月一日の記事に引かれていた精神分析理論の記述(片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』(149~150))によれば、次のようにある。五〇年代のラカンにあっては、

 私たちが日常を過ごしている〈こちら側〉が想像界で、精神分析において扱われる〈向こう側〉が象徴界であるとされています。なお、現実界は問題になっていません。
 しかし六〇年代に入ると、想像界象徴界の対立は背景に退きます。そもそも想像界象徴界に統御されている以上、その対立は上辺だけのものです。実のところ、両者は一つのシステムであると言ってもそう間違いではありません。したがって想像界象徴界は「見せかけ(サンブラン)」の名のもと一つにまとめられます(この名前の由来は後述します)。そしてそれと対立するものとして、現実界が位置づけられるようになります。
 したがって、ここでは日常的な経験が成り立つ〈こちら側〉は見せかけ(サンブラン)で、普段はアクセス不可能な〈向こう側〉が現実界だと言えます。六〇年代において中心となるのは、見せかけ(サンブラン)と現実界の対立なのです。

  • 少なくとも五〇年代の時点において、「象徴界」は「想像界」を「統御」するものなのだから、精神分析理論においてはむしろ、〈向こう側〉たる「象徴界」こそが、まあ何か実質的と言うか、本来的と言うか、要するに優位項としておそらく認められていたわけだろう。で、六〇年代以降に現れた「その対立は上辺だけのものです。実のところ、両者は一つのシステムであると言ってもそう間違いではありません」という立場は、多分こちらが上に書いた「表裏両面」の一体性と大体同じことを言っていると考えられ、対立が葛藤と言うよりも実際には癒着的相補関係であるという発想自体は、きっとわりとありふれたものだとは思う。そして、それらが一つにまとめられた上で「現実界」がもう一つの対立項として登場してくるわけだが、「ここでは日常的な経験が成り立つ〈こちら側〉は見せかけ(サンブラン)で、普段はアクセス不可能な〈向こう側〉が現実界だと言えます」という文を読む限り、人間の日常世界である〈こちら側〉は「見せかけ(サンブラン)」なのだから、やはり言ってみれば虚構的なものと言うか、二次的なものとして位置づけられているのではないだろうか。対して、「普段はアクセス不可能な〈向こう側〉」たる「現実界」は、言わば真理の領域みたいなものだろう。
  • ところでよくも知りゃあしないのだけれど、ラカン精神分析理論におけるこの「現実界」というものは、多分カントが言うところの「物自体」の領域に対応するものなんですよね? そういう理解が正しいのなら、ラカン理論の構図はカント図式の一変奏ということになるのだろうし、そもそもカントの「物自体」だって、おそらくはプラトン以来の「イデア」と類同的なもののはずだから、上では「前者の項が言わば「正常」として優位に置かれ、後者の項はそこからの例外的な逸脱として捉えられる」と書いたわけだけれど、哲学史的には、現象世界の裏面にぴったり貼りついている経験不能な世界、基本的に「アクセス不可能な〈向こう側〉」の超越領域こそが実は真実や真理の世界であり、「条理・意識・現実」といったような、人間が通常第一項として考えている領分はその真理世界の表象・模倣だという風な、「常識」的な世界秩序観を逆転させた、ということはまさしく倒錯的な発想が哲学者たちにおいては支配的で、それは古代ギリシャ以来二〇〇〇年のあいだ、手を変え品を変えずっと語られ続けてきたということになるはずだ。つまり哲学の世界にあっては、「不条理・無意識・夢」のような領域こそがむしろ本質じゃない? 的な考え方はそれこそ「常識」的にありふれたものとなっているようだということで、「合理」はあくまで仮象であり、「本質的」なのは「非 - 合理」あるいは「超 - 合理」であり、いやしくも「知」と呼ばれるような営みが到達を願うべき対象はそれらのほうであるという発想があるような気がするのだが、この図式をいわゆる「物語/小説」の二分法に敷衍してみたとしても、多分それほど的外れにはならないのではないかと思う。
  • 上のような図式は、これもよく知りゃあしないけれど多分フーコーの狂気についての仕事や、あるいはとりわけその文学論に関連があるのではないかと推測され、よく覚えちゃいないがフーコーはたしか、例えばサドとかヘルダーリンとかアルトーとかバタイユとか、要はいわゆるちょっと狂人的な文学者たちを「外」の文学として位置づけて、その破壊的・逸脱的・秩序壊乱的な力を初期には肯定的に評価していたところ、後期と呼ばれる時期の仕事に進むにつれてそういう「外」なんていうものは存在しないという考えに転換していった、と、聞きかじりの理解で一応そういう風に捉えているのだが、このようにつらつらと書いてきて結局何を言いたかったのかよくわからなくなってきたぞ? 始まりはカフカだったはずなので、そこに戻って考えたいのだが。これらの散漫な思念はすべて、カフカの小説の様相を捉えようと思った結果として湧いてきたものである。
  • 本当はこんなにうだうだと書くつもりはなくて、最初にあとで書く用にメモしておこうと思っていたのは翻訳者の池内紀についてのことだけだった。と言うのも、「田舎医者」を読んでいるあいだに、「『断食芸人』の読者のために」と題されたいわゆる「訳者あとがき」的な文章に飛んでそれを瞥見していたところ、「田舎医者」で患者とされている少年について、「みたところ健康そうだが、毛布をはぐと脇腹の傷口があらわれた」(226)という記述があったのだ。ところがこちらが読んでみた限り、と言ってむろんカフカの原文がどうなっているのかは知れないものの、少なくとも池内紀の訳文を読んでみた限り、「田舎医者」のなかに「毛布」という語は一度も登場しない。それに類すると判断されるもの(つまり肉体を覆う寝具)が書きこまれているのは、一四頁の「羽根ぶとん」(「少年は素裸のまま羽根ぶとんの下からからだを起こす(……)」)と、一九頁の「ふとん」(「ふとんの中はあたたかい」)の二回のみである。しかし、さすがに多分、「羽根ぶとん」は「毛布」とは違うものですよね? まあ仮にその二つが同じものとして捉えられているのだとしても、池内紀が書いたような行動、すなわち医師が少年の身体に掛かっていた「毛布をはぐ」などという描写は存在していない。一応、当該箇所の前後の流れをまとめて引いておく。

 (……)わたしはなんとなく、ことと次第によれば少年が病気であると認めてやってもよいような気になってきた。そこで少年に近よった。少年はとびきりこってりしたスープを運んできてもらったように、にこにこと笑いかけた――またしても高々と馬がいななく。ことによると、どこやらの定めによってわたしの診察を助けるためにいなないているのかもしれない――このとき気がついた。なるほど、これは重病人だ。右の脇腹、腰のところに掌いっぱいほどの傷がパックリと口をあけている。薔薇[ローザ]色の大きな傷だ。(……)
 (フランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』(白水社白水uブックス、二〇〇六年)、17)

  • おそらく誰の目にも明らかではないかと思うのだけれど、医者はここで、まったく「毛布をは」いでなどいない。したがって、上に引いた池内紀の記述は「田舎医者」の言語的事実を正確に反映しておらず、作中の事態の言い換えとして端的に誤っているとこちらは考える。ついでに言っておけば、「羽根ぶとん」に関連して上に引いたように、一四頁には「少年は素裸のまま羽根ぶとんの下からからだを起こす(……)」と記されてあるわけだから、少年の皮膚は最初から露出しているわけである。さらには、医師は一五頁で、「わたしは少年の胸元に顔をつけた」とも語っており、そしてその診察の結果として、「思ったとおりだ、いたって健康である」(15)と一旦は判断している。それにもかかわらず、上に引用した一七頁においては、彼はその観察をまったく翻し、少年の「脇腹」に「パックリと」ひらいた「薔薇色の大きな傷」を初めて発見しているのだ。このように事態の推移を追ってきたときに、こちらはごく素朴に、え、何でこいつ、「素裸」の相手を目の前にしておきながら、「掌いっぱいほど」もある「大きな傷」に気づかなかったの? と疑問に思ったし、多分この作品を読んだ人のうちの一定数はその疑問を共有するのではないか。なるほどたしかに、カフカの記述からして、少年の身体が「脇腹」まで完全に露出していたことを確言することはできないのだが、「素裸のまま羽根ぶとんの下からからだを起こ」(14)せば上半身の下のほうまで露わになりそうなものだし、さらに、「わたしのひげが濡れていたので少年が身ぶるいした」(15)ということは、少なくとも一五頁で「胸元に顔をつけた」時点では「胸元」の肌が晒されていたことは確定だろう。そうでなければ、「身ぶるい」は起こらないはずだからだ。それならそのときに、「胸元に顔をつけ」ることができたわけだから、同時に「脇腹」のほうも露出していそうなものだし、そうだとしたらそこにひらいた「大きな傷」に気づいてもおかしくはなさそうなものだが。
  • とは言え先述したように、カフカ当人が――少なくとも池内紀の翻訳に従えば――傷が隠されていたともいなかったとも断言していないので、その点を完全に確定することはできない。ただ、そこに書いてあることを読んできたときに、いわゆるリアリズム的な「常識」からすればどうもありそうもないぞという事態が、特別その理由づけもされずに無造作に起こりながらそのまま放置されるというのがカフカ的世界の一つの特質ではあるはずで、それを例えば、 「毛布をはぐ」ことによって隠されていた「傷口があらわれ」て、そこでようやく医師は患者の「重病」に「気がついた」という風に、いわゆるリアリズムに基づく想像を補い――つまり、切断的な飛躍に補助的階段を設けて論理の隙間を埋める形で――いかにも「常識」的に解釈するのは、むしろ作品世界の広がりを貧しく縮減する行為であり、カフカの小説の魅力をいくらか損なっているように思うのだが。ともあれ、作品中に含まれていない「毛布」という語をあとがきで使ってしまっているということは致命的ではないか? それは池内紀が、自らの手で日本語に訳した文章すら満足するべき正確さで読めてはいないということを示唆するはずで、少なくとも職業的に言語を扱う者にとって、そのくらいの基本的な厳密さは必須の資質ではないだろうか? 
  • 五時過ぎ、夕食の支度。茄子を焼き、モヤシや小松菜を茹で、白菜や玉ねぎやエノキダケの味噌汁を拵える。
  • 夕食時、テレビは『出没!アド街ック天国』。椎名町という地域を取り上げている。「トキワ荘」があった土地らしい。赤塚不二夫が住んでいた紫雲荘という建物もそのそばにあり、ここはいま豊島区が自治体として協力して家賃補助をしながらプロの漫画家を目指す人に入居してもらい、その活動を支援するというプロジェクトに使われていると言う。立藤ともひろという人が実際にプロデビューした元入居者として登場していた。検索すると、「少年ジャンプ+」に載っている『探偵のバレンタイン』とか『くらげちゃんの初恋』といった作品が出てくる。
  • 入浴後、帰室。茶を飲みつつ一〇時過ぎからこの日のことをメモしはじめたのだが、上記したカフカ関連の事柄を記録しておくのにやたら無駄に時間を使ってしまった。そのくせ思考としてうまくまとまらなかったので、何やねんという感じだ。それにしても疲労した。首の後ろがこごって痛い。

・ゲルハルト・シェーンベルナー『黄色い星』
・ティモシー・スナイダー『ブラックアース』
プリーモ・レーヴィ『これが人間か』
・武井彩佳『<和解>のポリティクス』
・D・グロスマン『死を生きながら』
・奈良本英佑『パレスチナの歴史』
・ディーオン・ニッセンバウム『引き裂かれた道路』
・『歴史を学ぶ人々のために』
西谷修『世界史の臨界』
・北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』
・A・C・グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』
・A・J・P・テイラー『第二次世界大戦の起源』
・シュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』
井上寿一日中戦争
大杉一雄日中戦争への道』
・黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』
島田俊彦満州事変』
加藤周一『言葉と戦車を見すえて』
宮沢俊義『転回期の政治』
中島義道『差別感情の哲学』
丸山眞男『政治の世界』
・古関彰一『日本国憲法の誕生』

  • Mさんブログ、二〇二〇年三月一日。

 (……)Rちゃんの飼い主の男性といえば、もともと自衛隊に所属していたひとで、一年中日焼けしており、ムキムキで、このあたりではききなれない標準語で話してよく笑う(彼の出身は北海道なのだ)、快活な人物であるという印象だったのだが、いまや完全に老人であった。当然だ。記憶にあるのはこちらがまだ中高生だった時分の姿なのだ。芝犬はTちゃんだった。Rちゃんは去年死んだのだという。Tちゃんの飼い主は老夫婦であるのだが、旦那さんは数年前に死亡、それでいまは奥さんが毎日散歩させているのだが、その奥さんも足が悪くなってきたらしく、そこでRちゃんの飼い主――かつてこちらと弟は彼の笑い声を踏まえて「あっはっはっおじさん」と呼んでいた――が代理で散歩をしているところらしかった。あっはっはっおじさんは母よりひとまわり上、つまり、今年78歳らしかった。おもわず声をあげた。信じられなかった。Rちゃんが死んでからはどうもだめだとあっはっはっおじさんはいった。羊毛で愛犬のぬいぐるみを作ってくれる会社をネットで見つけた、それで藁にもすがる思いで生前のRちゃんの写真を送った、ぬいぐるみはよくできている、寝室において毎日おはようおやすみと声をかけている、それでもやっぱり――とあっはっはっおじさんはいった。

  • まず「あっはっはっおじさん」というクソほど直截なあだ名のつけ方に思わず笑わざるを得なかったのだが、しかしその後の、「羊毛で愛犬のぬいぐるみを作ってくれる会社をネットで見つけた、それで藁にもすがる思いで生前のRちゃんの写真を送った、ぬいぐるみはよくできている、寝室において毎日おはようおやすみと声をかけている、それでもやっぱり――」というエピソードにはなかなかの印象を受ける。あだ名の持つちょっとおかしなニュアンスを認識して笑ったその直後には、ある種の痛切な挿話がほとんどだしぬけに連続するわけで、この意味論的転換の素早さ、と言うか両領域の隣接もしくは並立・共立の感覚、これがまさしく現実であり生だなという感じがする。「団地のひとたちはなぜか死んだ犬の名前を次の犬にそのままつける傾向がある。(……)団地の人間関係は犬にもとづいている。おたがいの名前は知らない。でもおたがいの飼い犬の名前は知っている。犬種も、年齢も、性格だって知っている」というのも、何と言うか、すごく具体的だと思う。
  • Sさんブログ、二〇二〇年二月一日に、保坂和志の「小説的思考塾vol.8〈描写を中心に〉」の報告がある。あくまで保坂和志の発言をSさん自身が要約したものではあるものの、「形容詞を中心に考えない。それをすると結果的に狭い場所へ追い込まれるだけ。韻文と散文の違いをきちんと捉えること。中途半端な詩の良さへ逃げない、詩のように美しいという言葉に誤魔化されないこと。自身の経験の記憶から生まれてくる、イメージから生み出される名詞と動詞の連鎖をおそれずに連ねること。散文の力を最大限に使うこと」とあり、一方でいくらか耳が痛いと言えば痛いのだけれど、もう一方では、なぜなのか知らないけれどみんなちょっと形容詞を蔑ろにしがちじゃない? という疑問もないではない。こちらがいままで気に入ってきた作家って大体は、例えばウルフとかプルーストとか、あとニコラ・ブーヴィエなんていう名前も久しぶりに思い出したけれど、形容修飾がふんだんでありながらも通り一遍でなくきちんと意を凝らして考えられている感触を帯びた人々なのだが。まあ彼らのあとにわざわざそういうことをやっても何かしょうがなくね? みたいな感じはわからないでもないし、形容詞って言わば「制度」とか「物語」へと容易に繋がる近い通路でもあり、それらの磁場から逃れることはわりと困難で、たぶん結構多くの人が安易に罠に嵌まってしまいがちなので、あまり修飾を濫用せずに名詞と動詞を主にして考えましょう、ということなのかもしれないけれど。「詩のように美しいという言葉」がおよそ何をも意味しない空疎で無価値な評言だということは当然だけれど、そうは言っても、「自身の経験の記憶から生まれてくる」感覚のようなものを十全に――という問題含みな語をここでは使っておくが――形態化しようとすれば、形容詞はむしろどうあがいても必要になってくるのではないかとも思うのだが。
  • それにしても、「小説において、風景の描写は小説の中心的役割を担うわけではなく、あくまでも副次的な要素なのだが、しかしそれ無くしては小説がなりたたない。描写こそ小説世界の厚みとなる。そのような厚みをまったく持たず必要としない小説もあり、むしろ最近はそのような小説の方が多いかもしれない(小説を単純で一義的な情報と見なすなら描写は余分な要素に過ぎない)。(……)読むことを急ぐ読者からは読み飛ばされてしまうかもしれないし、仮にそれでもかまわないが、描写こそが小説の内実」とか、「小説は書かれていることがぎっしりとあって、それを始めと終わりの二つの蓋が閉じ込めているようなもの。始まりと終わりなんてどうでもいい。付いていればいいだけ。物語もどうでもいい。ストーリーなんてほとんどパターンでしかないのだから別になんでもいい。書いたそれが、この後どこへ行くのか、それこそが小説を書くということ」というような言葉を読むと、保坂和志の小説観ってやはり明確でわかりやすい図式に整理しようと思えば整理されてしまうことが可能なものであって、その「明確でわかりやすい図式」が結構な数の人々に対して少なからぬ魅力を放ち、求心力を具えるということ、つまりはフォロワーを生む力を持っているということがよくわかるような気がする。ただ、保坂和志自身が(正確には先述したように彼の言葉を受けたSさんの要約だが)こう言っていながらも、保坂和志が現に生み出している小説作品自体は、このような原理に果たして還元されるものになっているのだろうか? という疑問はないでもない。小説とか言葉とかってそんなに簡単なものではない気がするのだが。
  • 既に明るくなってから寝床に伏し、眠りを待つあいだに形容詞が「物語」への簡易な通路になりやすいということについて考えた。それでは名詞や動詞はどうなのだろう? 形容詞はまあ確かに、それの使用法や選択によって物語的通有性に陥りやすい類の言葉だろう。動詞もわりとそうなりやすいような気がするのだが、しかし名詞は、なぜか知らないがあまりそういう感じはない。
  • 例えば道を歩いていて林のなかから鳥の声が聞こえてきたとして、その出来事を「鳥が鳴く」という簡素な文で言明してみたとき、この「鳥が鳴く」という言語表現はきわめて一般的な通有性を持ったもので、ということは既に優れて物語的であるわけだ。で、「鳴く」という動詞はちょっとありきたりすぎるかなあ、自分が感得した事象の具体性を捨象しすぎているかなあ、充分にうまく言語化できていないかなあ、とか思った場合には、「鳴く」の替わりに、例えば「鳴き声を降らせる」とか「声を散らす」とか、あるいは「叫ぶ」、「喚く」、「喋る」、「騒ぐ」、「語りかける」といった具合にさまざまなバリエーションが考えられ、それらの表現候補のなかから、「自分が感得した事象の具体性」により近いと思われるものを選ぶことができる。これらのどの表現を用いたとしても、それがもっとも一般的なレベルで言って「鳥が鳴く」という事態を表しているんだな、ということは多分問題なく伝わると思う。ということはつまり、「鳴く」という一語はここにあって、ほかの、より具体性が高いと思われる諸々の動詞群をその意味射程のうちに孕み持つ語、すなわちそれらに共通して含まれている様態を抽出して要約した言わば概念的な語として機能しているはずだろう。「鳴く」は諸々の単語の上に位置し、それらの表現を統括しているということだ。言い換えれば、「鳴く」は類であり、「叫ぶ」など上に挙げたその他の単語はその下位区分である種だということになる。
  • ところで「鳥が鳴く」は物語的だとしても、では「鳴く」という語自体がそれ単独でありきたりかと言うと、そうは言えないだろうと思う。「鳴く」という語だけが独立してあったときに、それがありきたりかどうかなんてことはそもそも判断として発生しないはずだ。あくまでも「鳥が鳴く」という形で例えば「鳥」という名詞と結合したときにこそ、「鳴く」は優れた一般性を獲得する。だからほかに、何でも良いけれど例えば「パソコンが鳴く」とか言ってみた場合、これは多分あまり一般的ではない、比較的物珍しい言い方だと判断されると思う。つまり物語というものはある要素とある要素の結合、結びつき、組み合わせの問題だということになる。一つの要素のみでは物語は発生しない。
  • 道を歩いていて鳥の声が聞こえてきたという事態を表現するに当たって「鳥が鳴く」という言語記述を考えたとき、「鳴く」はまあわりとありきたりである。では、「鳥」のほうはどうだろうか? こちらとしては、これは別にそんなにありきたりな感じはしないわけだ。ありきたりも何もそれはまさしく鳥だったんだから、鳥と言うほかなくね? みたいな感じがある。もちろん例えばその「鳥」を「雀」という固有種名に置き換えることも可能だろうし、「翼とくちばしを持っており空を飛ぶことができる二本足の動物」とか言い換えたとしても別に悪いことはない。あるいはまた、「小さく可愛らしい地上の天使」とか言うことだってできないわけではないだろう。最後の例はいわゆる「異化」とか、あるいは「意味の迂回」と呼んでも良いような技法に当たるだろうが、これらの言い方をしてみたときに、それは物語的ありきたりさから逃れたことになるのか? つまり、「自分が感得した事象の具体性」をより喚起させるものになっているのか? と考えると、どうもあまりそんな感じもしない。「翼とくちばしを持っており空を飛ぶことができる二本足の動物」は対象の観察的な記述としては「鳥」よりもよほど具体的なはずなのだが、それが「自分が感得した事象の具体性」に迫っているかと言うと何だかそうでもなく、むしろ無益に迂遠な表現だという感覚がある。「小さく可愛らしい地上の天使」に関しては、これは比喩的イメージという形である種、「自分が感得した事象の具体性」を反映しているかもしれないものの、しかし今度はスムーズな意味伝達の面で多少の障害があるだろう。「小さく可愛らしい地上の天使が鳴く」という言明をそれだけで受け取ったときに、それがより一般的なレベルで言って「鳥が鳴く」という事態を表しているのだと即座に問題なく理解できる人は、多分あまりいないのではないか。
  • 少なくともこちらの感じとしては名詞はあまり物語的な感覚を持たず、「鳥が鳴く」という文において「鳥」と言っても即座にありきたりだなあという感じは起こらないのだが、それがなぜなのかと考えるに、名詞というものは受け容れなければどうしようもない第一の基盤なのではないか。名詞とは何か? という問いに対しては一応、物事の名前であり、文中で主語になることができる言葉だと回答することができるだろう。だからそれはまさしく「主」であるわけで、文というものは基本的には名詞の提示から始まる。名詞を楔としてまず打ちこんでおいて、そのあとでそれに対する動詞や修飾を色々ととっかえひっかえ考える、という形で一般的には文表現のバリエーションが構成されるのではないか。すなわちある特定の文構造のなかで動詞や形容詞は範列的多様性が大きく、名詞はそれに比べればそうでもないのだと考えられる。範列的多様性とは言い換えれば選択肢の幅であり、言表者の持つ自由の余地である。ということは、範列的多様性すなわち自由の余地が大きくあるからこそ、そこにおいて物語的感覚も発生するという話になるだろう。ここで、ロラン・バルトの言葉を引用したい。

 構造主義者、いったい誰がいまだにそうであろうか。ところが、彼はそうなのだ、少くとも次のような点では。均等にさわがしい場所は、彼には構造性をもたないものと見える。なぜなら、その場所ではもはや沈黙か発言かを選ぶ自由がないからだ(バーで、隣り合った人に彼は何回言ったことがあるだろう、《話ができませんね、あんまり音がうるさくて》)。構造とは、私に少くとも二項を提供するものであり、そこで私は自分の望むとおりにその一方にマークをつけ、他方を捨て去ることができる。それゆえ構造とは、つまるところ自由の(控えめな)担保である。あの日の私の沈黙にどうやってひとつの意味を与えてやれるだろうか、《どのみち》私は話ができない以上。
 (佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルトみすず書房、一九七九年、180; 構造と自由 Structure et liberté)

  • こちらの言う「範列的多様性」というのは、バルトの文脈では「構造」と言われているもののはずで、上記ではそれを通して「自由」が存在するとされている。そして、その「自由」のなかで何を「選ぶ」か、何を「捨て去る」かによって物語的感覚の度合いが決まってくるわけだ。物語とはまあルールあるいは規則と言い換えても良いだろうが、ルールや規則だけが単独であったとしても、そこに物語は発生しないだろう。規則が厳然と確立されていながらも、そこから逃れる余地、それに反抗する余地、あるいはそれを攪乱する余地、そういった余白領域も同時にない限りは、物語的感覚というものは生じないはずである。なぜなら、そのような余白があり、やろうと思えばルールから多少距離を取ることができる状況のなかで、しかしやすやすと規則に流れ、回収され、同一化する、そういう振舞いのことを物語的と言うわけだから。つまり、物語が存在するということは必ずそれに対する抵抗点と言うか、余白も存在するはずだということだ。そうでなければおそらくそれはそもそも「物語」として認識されない。あるいは逆に考えて、余白が存在しなければ物語も存在しないのだろうか。すなわち、物語がそれとして権威を確立するためには、抵抗者の存在が不可欠だということになる。考えうる限りもっとも絶対的な君主とは、そのほかのすべての人々が彼の意のままに、完璧に唯々諾々と従うような存在だろうが、それが完全な形で実現された場合、彼は「絶対的な君主」とすら認識されないのではないだろうか。で、名詞とはこの完全無欠な意味での「絶対的な君主」なのでは? 少なくとも動詞や形容詞よりもそれに近いのではないか。
  • 「鳥が鳴く」の例に戻ろう。「鳥が鳴く」において、「鳴く」はまあわりとありきたりな感がある。その「ありきたりな感」とは言い換えれば、いやいや「鳴く」以外にも結構色んな言い方あるのに、そのなかでわざわざ「鳴く」を選ぶことないでしょ、それちょっと一般的すぎない? もうちょっと頑張れるでしょ、みたいな感じということだ。対して「鳥」に関しては、まあ「鳥」は「鳥」って言うしかないもんね、せいぜい「雀」って言ったり、あとはまあ何か「茶色の鳥」みたいな風に、「鳥」に対して情報を付け足していくくらいしかできないよね、まあおおむね「鳥」は「鳥」って言い表すしかないよね、みたいな感じがあるわけだ。ということはつまり、「鳥」を「鳥」と呼ぶことは、「鳴く」を「鳴く」と呼ぶことよりも強制の度合いが強いと理解されるはずで、したがってそれは権威として、イデオロギーとしてより強固かつ絶対的なものだということになる。基本的にはその権威を受け容れなければ人間はなめらかな意味伝達や表現ができないし、「受け容れ」る以前に大抵の人は自分が「鳥」を「鳥」と言い表すときに、そのような「権威」に従っているということをおそらく自覚していない。こういう事態をさらに言い換えれば、例えば「鳥」を「鳥」と呼ぶことは物語としてより完璧に近いものなのだが、それが故にその物語はそもそも物語として認識されないということだ。言わば潜在化された物語とでも言えるかもしれないが、そこでは「物語感」はむしろ少ない。対して「鳴く」にあっては物語の機能ぶりが顕在化し、目に見えるものとなり、認識できるものとして現れるわけで、そこでは「鳴く」以外にも色々な言い方の可能性があるのだから物語としての拘束は比較的緩いはずなのだが、ところが「物語感」はむしろ「鳥」の場合よりも強い。ということはすなわち、「物語」がより完璧で絶対的なものであればあるほど見かけ上の「物語感」は弱くなり、「物語」がより不完全で抵抗可能なものであればあるほど表面的な「物語感」は強くなる、という逆説的な事態がここに観察されるはずである。で、形容修飾という種類の言葉はより範列的多様性が大きい、つまりは「物語」としてより不完全なものなのではないか? もしそうだとすれば、個々人の選択によって発生する「物語感」はその選択に応じて強くなる。だが一方で、そこでは抵抗の余地もより広く確保されているはずだ。
  • ところでソシュールによれば「鳥」を「鳥」という言葉で呼ぶことに確かな根拠はほとんどないらしいのだが――英語圏ではそれらを"bird"と呼んでいるわけだし――この制度は無根拠であるが故にその支配も強いということになるのか? しかし、「鳴く」を「鳴く」と呼ぶことにもたぶん根拠はないだろう。だがこれはおそらくこの場合においては偽の立論で、より本質的な問題はきっと、「鳥」を「鳥」と「呼ぶ」ことではなくて、「鳥」を表すのに「鳥」という言葉を「選ぶ」ということのうちにあるのではないか。「鳴く」という行動を「鳴く」と「呼ぶ」ことにおいて問題があるのではなく、「鳴く」という事態に対して「鳴く」という語を「選ぶ」ことこそが問題である。つまり、「鳥」に対して「鳥」の一語を選ぶことは、これはわりと無根拠なわけだ。「鳥が鳴く」という言明をしたときに、あなたはあの生物を表す言葉として何故「鳥」という語を選んだんですか? と訊かれても、まあ大方、何故っつってもなあ……ほかに言い方ある? と困惑することになるだろう。それに対して、あなたは何故「鳴く」という言葉で事態を表したんですか? 例えば「喋る」とか「話す」とか言っても良いじゃないですか、と問われた場合には、いやいや鳥はあくまで鳥であって人間ではないので、「喋る」なんていう言い方をするのは安易な擬人化であって、「鳴く」と言ったほうが表現として正確でしょう、と理由づけをすることもできるし、反対に、いやいや「鳴く」なんていうのはまったく一般的で内容の薄い言い方で、私にはまさしく鳥が人間と同じように彼らの言語を「喋る」ように聞こえたので、「喋る」と言うんです、という理由づけも同様に可能なはずだ。
  • ということは、「根拠」というものもそこに選択の自由がなければ生じ得ないということだ。ある一定の選択候補があるときに、何故その選択をしたんですか? という問いに対して自分の立場を正当化するために、「根拠」や「理由」というものが要請される。それに対して、選択の自由がない状況にあっては根拠も生じ得ない。「鳥」に対して「鳥」という呼び方を選ぶことは、合理的・論理的に基礎づけることのできない行為であり、だからおそらく「信」の領域に近いものなのだが、大体の人はたぶんこの無根拠な「信」的事態を気にすることがない。「鳥」に対して何故「鳥」という言葉を選ぶんですか? と問われたとして、大抵の人間は、いやだって、何か知らんけどこの世界ではそういうことになってるじゃん、という感じで納得しているのではないかと推測される。したがって、そこに問いはない。そして問いがないからには根拠も必要とされない。つまり、「鳥」を「鳥」という言葉で言い表しましょうということは、少なくとも日本語圏においてはほとんど絶対的なまでに逃れがたいルールとして、この世界そのものの物理法則のようなものとして、言わば共同幻想として受け容れられ、共有されている。短く言えば自明の事態として自然化されているということだ。
  • もちろん、この無根拠な「信」的事態は完全に絶対的なものではなく、例えば「鳥」を「禽[きん]」と呼ぶことだって原理的には可能である。ほかの例を挙げてみても、例えば「さかな」を言い表すのに「うお」という言葉を選ぶこともできるし、古文においては同じものが「いろくず」と呼ばれてもいたわけだ。ということは「鳥」を「鳥」と呼ぶという共同幻想が、この先の未来においてパラダイム・チェンジされるということも普通にあり得るはずだが、ただ現今の秩序においては「鳥」は圧倒的な支配力を誇っており、いや俺は「鳥」なんて言葉は気に入らないね、何しろ響きが良くない、「鳥」じゃなくて、むしろ音をひっくり返して「りと」と呼ぶべきだ、などと主張したところで、それはまったく個人的なレベルでの特殊極まりない言語使用にしかならないし、あくまでそれに固執して「鳥」を「りと」と呼び続けたところで、この主張者の考えを知らない人には「りと」はあの生物を指しているのだということは通じないだろうし、この人は何かよくわからん変な人だな、頭がちょっとおかしいんじゃないだろうか? と判断されるだろう。それに、皆が「鳥」と呼んでいるものを「りと」と呼ぶという選択にしたって、それにも同様に根拠はないわけで、それはあくまで個人的な「信」でしかなく、他者を説得するに足る根拠はそこには生まれようがない。したがって、「鳥」も無根拠である。「りと」も無根拠である。ところが、どちらもまるで無根拠なのに、「鳥」のほうはなぜか現実にそれが正当な言葉遣いとして(日本語圏においては)ほぼ普遍的に広く認められ、受け容れられ、共有され、定着してしまっている。つまりこの世には、無根拠なのでまったく共有されないという事態と、無根拠にもかかわらずほとんど完璧に共有されるという事態の二種類が存在している。これはどういうことなのか? 驚くべきことだ。
  • で、わからんけど、多分本質的には、つまり根本のところでは、言語というものはその隅から隅まですべての語が、「無根拠にもかかわらずほとんど完璧に共有される」という形で成り立っているのではないか?
  • この翌日の五月一〇日に、J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』の書抜きをしたのだが、ポール・ド・マンを基にしてそこに記されていた「社会契約」についての記述が、こちらが上で書いたことと大体同じ趣旨を述べているように思われたので、ついでに引いておく。

 社会契約は、倫理的判断の体系に従って行動することに、大多数の人々が同意している、といった形態をとるのだが、その社会契約の形態に関して最も当てにならないことは、その社会契約以外に確かめられる根拠がないということである。社会契約は、主観性の普遍的な法則にも、「実際の」社会や物質世界にも、そしてまた超越的な立法的権力にもその根拠はない。たとえ、ド・マンが述べているように、社会秩序の形成は暴力的で、正当化できないような行動なので、立法者はモーゼのように、創始的命令を下すのに常に神の認可を主張するとしても、そうなのである。倫理的判断は常に根拠なく仮定され、常に不正で正当化されないものであるため、一時的にそれより大きな力を持ち、一時的にそれより強い説得力をもった、だがそれと同じように根拠なく仮定された、別の倫理規約にとって代わられる可能性が常にある。しかし倫理体系を人々に課するのは、絶対的必然である。それは行わなければならない[﹅10]ことであり、それ無しでは市民社会は成り立たないという二重の意味で、それは必然なのだ。
 (J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、74)

  • メモとしてはあといくつかのテーマが書きつけられているのだが、これらは面倒臭いので詳述はしない。別の機会があったらこまかく書こうと思うが、まず人間の誕生時の原初的状況を考えるに、赤子にとってこの世界の事態は名詞として立ち現れるのではないかということを考えた。それは要するに「存在」、すなわち「ある」だ。動詞ではなくて名詞化された「ある」であり、「ある」がある、という事態。定式化すると「世界」=「ある」ということで、より正確な言語的記述としては、赤ん坊にとってはおそらく「世界」すらまだないのだから、「ある」、ただそれのみということになるだろう。「ある」の絶対的な支配、横溢、覆尽。世界は人間にとって根源的に名詞としての「ある」から始まるのではないかということなのだが、この考えが正しいとすると、赤ん坊はまさしくパルメニデス的な世界のなかに住まっているということになる。
  • あとは名詞は圧縮率が高いような気がするとか、それぞれの名詞が表す事物間の差異は何か動詞などと比べて大きいような気がするということもあるものの、これらについてはどういうことだったか忘れたし、そもそもこの日の時点でそれ以上に思考は繋がっていなかった気がする。
  • 新聞。朝刊、七面。【元補佐官の訴追取り下げ/露疑惑/米司法省「捜査不適切」】。「米司法省は7日、トランプ政権の最初の国家安全保障担当大統領補佐官だったマイケル・フリン被告(61)の訴追を取り下げた。捜査が不適切だったとしている。フリン氏は2016年の米大統領選を巡るロシア疑惑偽証罪に問われていた」が、「司法省がワシントンの連邦地裁に提出した訴追取り下げの文書によると、新たに見つかった資料などに基づく再調査の結果、訴追につながった17年1月の連邦捜査局(FBI)による聴取は「合法的な捜査の根拠を基に行われたとは納得できない」と判断したという」。
  • プーチン氏支持/初めて6割切る/露世論調査】。「ロシアの独立系世論調査機関「レバダ・センター」が4月下旬に実施した最新世論調査で、プーチン露大統領の支持率が3月から4ポイント下落し、59%だったことが明らかになった。2000年5月の大統領初就任からの20年で支持率が6割を切ったのは初めて。調査結果は6日に発表された。不支持率は33%だった」。「プーチン氏の支持率は、大統領通算4期目に入った18年5月には79%だった」。
  • 夕刊三面。【新型コロナ/EU、入域禁止延長へ/欧州委提案 6月15日まで】。「欧州連合EU)の執行機関・欧州委員会は8日、新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、3月半ばから行っているEU域内への外国人の入域禁止措置を6月15日まで延長することを加盟国などに提案した」。
  • 九面の【本でめぐる 世界の少数言語】の欄に、 吉岡乾[のぼる]『現地嫌いなフィールド言語学者、かく語りき。』及びドン・クリック『最期の言葉の村へ』の紹介があった。前者は書店でわりと目にしていた本。後者は、「スウェーデン言語学と人類学を学んだ研究者がパプアニューギニアの奥地の村に入り、消滅の可能性がある「タヤップ語」の調査を30年にわたって行った記録だ」と言う。面白そうだ。


・作文
 12:19 - 13:46 = 1時間27分(19日)
 14:19 - 15:17 = 58分(19日)
 15:51 - 16:40 = 49分(19日)
 18:07 - 18:53 = 46分(19日)
 19:07 - 20:06 = 59分(20日
 22:19 - 25:13 = 2時間54分(9日)
 計: 7時間53分

・読書
 16:40 - 17:21 = 41分(シェイクスピア: 207 - 254/ カフカ: 16 - 21)
 20:06 - 20:54 = 48分(カフカ: 21 - 32)
 25:14 - 26:58 = 1時間44分(カフカ: 32 - 78)
 27:30 - 28:35 = 1時間5分(日記 / ブログ)
 計: 4時間18分

  • シェイクスピア/大場建治訳『じゃじゃ馬馴らし』(岩波文庫、二〇〇八年): 207 - 254(メモ終了)
  • フランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』(白水社白水uブックス、二〇〇六年): 16 - 78
  • 2019/4/3, Wed. / 2019/4/4, Thu.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-02「紙を抄く手指の先がひとしれず白く輝く寝床の中で」; 2020-03-01「この町はだれかが死んだり生まれたりするのがニュースになるほど退屈」(中途まで)
  • 「at-oyr」: 2020-01-31「低速」; 2020-02-01「描写」

・音楽