2020/5/11, Mon.

 英米軍政部も反ナチ運動を否定する方針をとった。英米両国の最上層部は、戦時下にゲルデラーやモルトケたちのグループが停戦を求めて接触してきたことや、ヒトラー排除をめざす彼らの反ナチ運動の幅広さもよく知ってはいた。だがそれは伏せられた。あくまでヒトラードイツが内部の敵対勢力の助力なしに無条件降伏したという事実だけが、必要とされたからである。絶対的な戦勝国としてドイツに臨むことが重視された。
 この方針は占領政策にも踏襲された。抵抗運動研究者シュタインバッハによると、ドイツ人抵抗運動を認めると、「非ナチのより良いドイツの存在」をも認めることになり、その代表として生存者たちから占領政策方針と異なる要求が出されるのを恐れたからだという。『声なき蜂起』(一九五三年)の著者ヴァイゼンボルンは《ローテ・カペレ》に与し、四五年四月ソ連赤軍によってルカウ刑務所から解放された人物である。その彼も、戦勝国側がドイツの抵抗運動を知る手がかりになるような一切の証拠を厳重に取りたて、自国の文書のなかに埋没させたこと、そのために抵抗運動の調査研究の大きな障害になり、抵抗の事情を知るドイツ人たちもその実態を明らかにする資料を失ってしまったことを指摘している。したがって数百におよぶという非合法抵抗グループの実際は不明である。
 英米占領政策にはドイツへの不信が根底にあった。解放した強制収容所絶滅収容所のすさまじい非人道的な実態に大きなショックをうけていたからである。それがドイツ人全体を悪者だとする「集団の罪」の施策に凝集した。その点からも「もう一つのドイツ」が存在しては齟齬をきたすことになる。とくにアメリカ占領地区のばあい、街々に強制収容所ホロコーストの写真ポスター(表題「この蛮行を見よ、君らの犯した罪だ!」)が貼られ、ドイツ人一括りで「罪」が非難された。
 ところが全体の責任や罪をいうことほど、個人の責任や罪を曖昧にするものはない。占領直後から公職追放が始まっていたが、さらに一八歳以上の全住民にナチ党籍の有無や役割までを問う「質問紙」が用意された。だがドイツ側機関に負わされたその審査には、腐敗や不公平など多くの問題があり、強い反発をうけて四八年末には打ち切られた。結果として、モルトケやペーター・ヨルクたちが求めた贖罪や自省の態度とは反対に、審査の対象者は責任をヒトラー個人に転嫁して自分の責任には口をつぐむだけとなった。
 その一方で、ナチ犯罪を阻止しようとした命がけの反ナチ活動は無視され、隠蔽された。抵抗者たちの反ナチ行動が何であったのかを、ドイツ国民に示し、それと向き合わせることは、自省を迫るきっかけになっただろう。だがその存在すら隠蔽されたために、大方の国民にはたんに戦勝国による一方的な「勝者の裁き」という不満だけが、渦巻くことになってしまった。ナチズムを拒否した抵抗運動を隠蔽して実施された「非ナチ化」には、何とも不可解な側面がある。
 こうしてナチズムを反省する好機は失われた。反ナチ抵抗運動が「背後からの卑劣な陰謀」であるとするナチ期のイメージが、そのまま国民大衆に残された。先述の一一人のインタビュー記録でも、こぞってこの事実が指摘されている。ローゼマリー・ライヒヴァインははっきりいう。「占領軍政府は抵抗運動があったことを漏れないようにしました」。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、217~219)



  • 眠って起きると首の後ろから付け根のあたりがひどく凝り固まっている感じがして、自分はストレートネックとかいうやつなのかもしれないと思った。
  • 母親からメールが入っており、(……)で新玉ねぎを持ってきて玄関外の階段下に置いたと言うので入れてくれとあった。それで見に行くと、玉ねぎのほかにきちんと包装された何かの箱も置かれていた。ビニール袋に入れられた新玉ねぎはどれも丸々と大きく、重量豊か。ちなみに玄関扉の脇には回覧板もあって、それら三つの袋を提げて居間に戻る。
  • とても暑く、大気に熱が籠っており夏の風情。薬が切れたので今日は医者に行かなければならないと思っていたのだが、あとで診察券を見ると火曜日の午後も受けつけていたので、今日はやめて翌日に行くことにした。五時まで勤務の母親としても、こちらが出かけずに食事の支度をしたほうが助かるだろう。
  • 新聞。山極寿一が、今次のコロナウイルス騒動は「共食」の習慣が古来人類に対して持っていた社会共同的意味を捉え直す機会になるだろう、みたいな内容の文を寄稿していた。ほか、佐藤卓己についての小文など。東浩紀が「ゲンロンα」というサイトを開設したという情報もあった。それで自室に帰ってから早速閲覧し、記事をいくつか「あとで読む」欄にメモしておく。月額六六〇円で全記事読めるらしいので、登録しても良いなとは思っている。
  • Sさんのブログ、二〇二〇年二月二日。ベルナルド・ベルトリッチ『ドリーマーズ』に関して。「マシューの誘いに応じてイザベルはマシューとデートに出かける。映画館に入り、シネフィルとしてかつてのように最前列の席に座ることはせず、最後尾に二人並んで座る。外でデートする恋愛中の若い男女であることを確かめ合うかのように。(映画はスクリーンから放出されてまず最前列の観客を襲い、それがじょじょに減衰しながら後方の客席にまで順次届いて、やがて映写室へ戻っていく…という冒頭のナレーション、社会性をもち恋人をもつということは、映画が放つ光の法則にしたがうことを最優先とせず、後方の座席で相手とくつろぎ抱き合うのを選ぶことである。)」
  • 洗濯物を取りこんでたたむ。風が爽やかなのでベランダのガラス戸を閉め切らず、網戸にしておいた。
  • 音楽を聞きたいのだけれど、すごく暑いのでヘッドフォンで頭の側面を覆ってじっと静止する気が起こらない。
  • 首の後ろのこわばりがひどくて痛むので、ベッドに転がって頭を左右にゆっくりごろごろ転がしたり脛をほぐしたりした。それでいくらかましにはなったものの、和らいだのは凝りの芯の周辺のみで、中核は手の届かないほどの深部にあるのではという感じを受ける。古井由吉も五十代で首を壊しているわけだし、この先こちらの肉体的健康においても首という部位は文字通りネックになるかもしれない。
  • 父親が五時前にはやばやと帰ってきた。こちらは夕食の支度として茄子と豚肉をソテー。ほか、大根・人参・水菜をおろしたり切ったりして生サラダに拵え、小松菜が半端に残っていたのも茹でる。汁物は前日の玉ねぎスープが余っていた。終わる頃に母親が帰ってきて、こちらが用意したものに加えて春菊やら、もらった新玉ねぎやらを追加していた。
  • 夕刊のなかの本の紹介みたいな欄に『ウンコロジー入門』の名があって文字通りクソ笑い、母親にも教える。著者は伊沢正名という人で、「糞土師(ふんどし)」を自称して四五年のあいだ野糞を実践していると言う。この人のインタビュー記事は以前インターネットで読んだことがあり、そこではたしか尻の穴を拭くのにも紙を使わず野草の葉でもって汚れを拭うと話していて、何かの葉っぱについて、これはまるで高級なシルクのような感触なんですよ、みたいな感じで評していて笑った記憶がある。Wikipediaによれば、「また、本来、土に還るべき大便が、自然のサイクルから排除されていることに義憤を感じ、1974年から意識的野糞をはじめ、1999年には野糞率100%を達成。その後、1000日連続野糞を企図するが急な腹痛で一旦断念。再起し、2003年に1000日連続野糞を達成。2005年には2000日連続野糞達成。2008年には3000日連続野糞達成。その後も記録は伸び続けたが、2013年の7月15日に都内でお腹を壊して駅のトイレを使用し、約13年間で連続野糞記録は途絶えた[1: 野糞を続けて43年 「奥さんよりもウンコを選んだ」伊沢正名の信念 - withnews(ウィズニュース)]」とのこと。
  • 難波和彦「神宮前日記」、2020年05月10日(日)。後藤武『鉄筋コンクリート建築の考古学』に関して、「19世紀は折衷主義建築の時代であり、近代建築はそれを脱して鉄とコンクリートとガラスによって生みだされた新しい建築であるという近代建築史の通説は事後的な説明に過ぎず、実際のところ19世紀末には建築と構法の複雑なやりとりがあったのである。鈴木博之の『建築の世紀末』がその辺りの事情に関する数少ない文献だが。本書はその経緯を詳細に明らかにしており学ぶところ甚大である」と言う。

 「ドローン攻撃は、裁判を経ずに大統領の独断的裁量で、また他国の主権を侵害して行われるもので、国際法でもまったく許容されない」。
 「ソレイマニ司令官は、1979年に革命防衛隊の創設時に入隊した(……)革命防衛隊に入るには、身辺や信条が徹底的に調査され、体制のイデオロギーに懐疑的な人物の入隊は認められない」
 「イランは1982年にイスラエルが侵攻したレバノンへの革命の輸出を考えるようになったが、そこで革命防衛隊は親イランのシーア派組織のヒズボラを積極的に支援し、武器を供与して訓練を施した」
 「さらに、2014年にイラクでISが台頭すると、ソレイマニ司令官指揮下のクッズ部隊はイラク北部の都市アメルリでの戦いに従事するとともに、イラク軍、シーア派武装集団、クルド人勢力に武器や情報を提供し、ISの撤退を実現させた。その他、ティクリート、モスルなどイラク主要都市でのISからの解放に重要な役割を果たしたが、クッズ部隊のイラクでの活動がなければ、イラクはIS支配の下に置かれていただろうという声もあるほどだ」
 「イランは通常戦争で報復することなく、その報復の舞台となる可能性があるのはイラクで、イラクに駐留する兵力5000人の米軍に、革命防衛隊がイラクシーア派武装勢力とともに、テロやゲリラ攻撃という形態で報復していく可能性がある。イラクバグダッドではソレイマニ司令官と、また彼とともに殺されたイラク武装集団「人民防衛隊」のムハンデス副司令官の葬儀に10万人が参加し「米国に死を!」が叫ばれ、反米感情がいやがうえにも高まっている」

  • Wikipedia、「ディオダディ荘の怪奇談義」。パーシー・ビッシュ・シェリーとメアリ・シェリーの関係は「道ならぬ恋」で、そもそもシェリーには、「身重の妻ハリエット(Harriet Shelley, 1795年 - 1816年)と2人の間にできた娘アイアンス(Ianthe Shelley, 1813年 - 1876年)がいた」のだと言う。二人は「フランスへ駆け落ち」するのだが、このパーシー・ビッシュ・シェリーの元妻、ハリエットという女性は、のちに「ロンドンのハイド・パーク内サーペンタイン・レイクで」遺体となって発見されており、「入水自殺した模様」。
  • 「1815年にインドネシアのタンボラ火山が大噴火した影響で、北半球は寒冷化して」おり、「1816年は「夏のない年」と呼ばれ、長雨が続いた」と言う。はじめて聞いた。
  • ディオダディ荘というのはバイロンが近親相姦や同性愛の疑惑から逃れるために借りたスイスはレマン湖畔の別荘で、そこに駆け落ちした二人のシェリーらも集まり、「ある日、バイロンがコールリッジのバラード(詩)『クリスタルベル姫』を朗読していたが、神経過敏だったシェリーは全身に冷や汗をかいて大声を出し、昏倒してしまった。ひとしきりすると一同は気を取り直してドイツの怪奇譚をフランス語に訳したアンソロジーファンタスマゴリアナ』を朗読することにした。そして朗読後「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう(We will each write a ghost story.)」とバイロン卿が一同に提案した[1: 紀田順一郎荒俣宏編『怪奇幻想の文学Ⅰ 真紅の法悦』新人物往来社1977年]」と言う。これがメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』が生まれるきっかけだったという話だ。
  • 関連する映画作品として、一九八八年の『幻の城 バイロンシェリー』(Rowing with the Wind)というのが挙げられていて、ちょっと気にならないでもない。監督はゴンザロ・スアレスという人で、ヒュー・グラント出演。この俳優の名前は辛うじて聞いたことがある。
  • Bill Evans Trio, "All Of You (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#5)を聞く。開幕、Motianのブラシによってふっと落とされるシズルシンバルからしてなめらかで、響きの網目がとてもこまかくて気持ちが良い。演奏中は一体どこを聞いたら良いのか、どこに耳を向けても汲み尽くせない豊かさに満ち満ちていて立ち迷ってしまう。LaFaroはこの曲のバッキング中に少なくとも二度、短い休符を挟んでいると思う。よく集中して捉えることができなかったのだが、そのうちの後者はフォービートが正式に始まってから、すなわち四拍をそれぞれ一音ずつで埋めはじめて以降だったはずで、休符を通過したあとには高音部が鳴っていた記憶がある。とすると、単なるミスでないとすれば、わざわざフォービートの連なりを一瞬途切れさせて空白を挟んでまでも高音を鳴らそうとしたということで、尋常なベーシストだったらこういう動きはまず取らない。まずもって伝統的には一拍一音をきちんと保ってビートを担保し連続的に送り出し続けるのが基本中の基本なのだから、そういう移行の仕方はほぼしないはずだし、仮に高音に飛ぶとしても一拍で飛べる範囲に行くか、何拍か掛けて移動するはずで、休符を挟むということは保守的な語法ではほとんどありえない。LaFaroの動きはそういう点でやはりちょっと野蛮と言うか蛮勇的と言うか、ミスの印象を与えるほど、通常のベーシストとは全然違う論理にしたがっているなという印象を受ける。それはその他の場面におけるリズムの推進方法やフック――と言って良いのだろうか――の作り方、フレーズ構築の仕方全般もそうで、まず各部でのアプローチが相当に多様である。そのなかでも定型的なビートからちょっとずらすと言うか、シンコペーション的な音価単位を繰り返しながら往復するような形でリズムを駆動させることが結構多いように思うのだが、こういう弾き方はやっぱりほかではどうも聞かないよなあという感じがする。同じようなフレーズ構成自体は現代のベーシストなら色々な人ができるはずだし実際にやってもいるかもしれないし、スタイルとしても例えば六八年の『Bill Evans at the Montreux Jazz Festival』などで弾いているEddie Gomezは大雑把に言えば明らかにLaFaroと同じ路線で、たぶん一般的な意味では後継者と言って良いのだろうし、ほかには例えばNiels-Henning Ørsted Pedersenなんかもおおまかな方向性としては近いかもしれない。しかし、LaFaroの動き方が醸し出す動感は端的に比類のないもので、こういう感覚をもたらすベーシストはほかにはまずいないよなあ、という印象を与えるもので、どこがどう違うのかわからないのだがとにかく全然違う。聞いているあいだ、こういうアプローチは一体どこから出てきたのか、どこから学んだのだろう? と思うし、発想がほとんど無尽蔵のように聞こえる。ソロもむろんよく流れ、この曲のものだって全然よどみがなく、自らの道行きをしっかりと捉えている感覚があってかなりの出来だけれど、バッキングがとにかくそれに輪をかけて凄く、ソロよりもバッキングのほうが遥かに、こう言って良ければ「自由」を感じさせる。常にソロをやっている、みたいな評され方をどこかで目にした覚えがあるけれど、それは一面では正しいとしても、やはり言い方として完全に正確なものではないだろう。五九年から六一年までの最初のBill Evans Trioの歴史的意義を語る際には、ほとんど必ず、三者が対等に絡み合うまさしく三位一体の「インタープレイ」、という内容の言葉が口にされるわけだが、それが含意しているのはつまり、それまではピアノを支えるサポート役でしかなかったリズム隊の地位がピアノと同水準にまで上昇したということで、だからBill Evans Trioは言わば垂直方向に従属的だった縦のヒエラルキーを、同一平面上の平等な横の秩序に置き換えたと図式的に整理できるはずだろう。それをさらに換言すれば、一方向の累積的階層性から双方向の水平嵌入的並立性へということだが、それはすなわちベースの「見せ場」が拡大されたということでもある。それ以前のベースにとってはソロが「見せ場」であり、バッキングのあいだは縁の下の力持ちをまさに堅実に演ずることを求められていたわけだけれど、Scott LaFaroとともにジャズベースはその役割から超脱することになり、彼はバッキングの地位をソロ的「見せ場」へと上昇させた、少なくともそちらの方向へと近づけたのだから、「常にソロをやっている」という言葉も比喩としては完全に的を外した表現ではない。ただ、Scott LaFaroというベーシストが途方もなく素晴らしいのは、ソロ的要素を取り入れたかもしれないそのバッキングが、あくまでバッキングとして余人を寄せつけぬ高度さにおいて成立しているという点にあるはずで、主観的な印象を述べるならば、彼はピアノトリオにおけるベースのバッキングという枠組みをこれ以上なく満たしきり、あと少しで内破させかねない地点にまで至っているという感じだ。そもそもソロというのは上にも書いた通り音楽におけるプレイヤーの「見せ場」であり、枠組みとしては比較的自由で制約は少なく、やろうと思えばフリーみたいなことをやることも全然不可能ではないだろうし、実際LaFaroのフレージングにも、少なくともそちら方面への志向は折に触れて垣間見られるとこちらは思う。対してバッキングの時間はどうあがいたって周囲の他者の存在がある種の拘束・制約として迫ってくるもので、その度合いはソロの場面よりも遥かに強いと思われ、プレイヤーはその侵食的な影響作用を、こう言って良ければ奏者を囲いこもうとする圧力のようなものを絶えず受け取り、また送り返しながら共演者と対峙せざるを得ないはずだ。で、LaFaroはそのような外圧と真っ向からぶつかって組み合うと言うよりは、それをかいくぐりながらするすると流体的に泳ぐのがとてつもなくうまく、と言うかむしろ、次々と迫りくるそうした制約性の波を乗りこなし、あるいはそれと同化して圧力を推進力に転化させながら踊っているようにも聞こえる奏者で、だから別の比喩を重ねるならば、彼は重力を浮力に逆転させて宙を飛ぶことのできる稀有の特質を具えたダンサーだということになるのだが、その演技はまるであっけらかんとしたような無造作性でおよそ自然に展開される。一九六一年六月という歴史的時点でこういう動き方をするのか、という点はやはりとんでもなくすごいと思われ、音楽を聞く者は何度でもそれに驚愕するべきではないのだろうか。六一年六月と言えばなるほどたしかに、例えばOrnette Colemanは既に半年前に『Free Jazz: A Collective Improvisation』を作ってLaFaroもそこに参加しているし、Eric Dolphyは翌七月にFive Spot Cafeでの演奏を残しているし、Cecil TaylorAlbert Aylerももはやシーンに現れているのだから、いわゆるアヴァンギャルド方面の潮流は間違いなく勃興を始めていた。ところが一方で、例えばMiles Davisならばいまだ『Someday My Prince Will Come』を録音したばかりだし、John Coltraneにしたってまだ『My Favorite Things』を発表してまもない頃だ。そういう時期にこの演奏してんの? というのは、相当やばくない? と思うし、率直に言ってほとんど馬鹿げていて笑うしかないという感じだし、要するに、正直、頭おかしいと思う。一九六一年六月の段階で、ピアノトリオのフォーマットにおいてこんな風にウッドベースを鳴らすことができた人間が地球上にほかに存在していたとはどうも思われないということだ。LaFaroが事故死したあと、Evansが深い悲しみに支配されて数か月のあいだ演奏することができなかったというエピソードは、もちろん彼らの個人的信頼関係も理由としてあっただろうけれど、音楽家としてのScott LaFaroの希少さから考えても当然のことのようにこちらには思える。


・作文
 13:36 - 14:20 = 44分(10日 / 11日)
 18:12 - 18:55 = 43分(20日
 21:20 - 22:07 = 47分(20日
 23:00 - 24:28 = 1時間28分(21日)
 27:11 - 27:47 = 36分(22日)
 計: 4時間18分

・読書
 13:19 - 13:36 = 17分(日記 / ブログ)
 14:49 - 16:15 = 1時間26分(カフカ: 122 - 152)
 17:59 - 18:12 = 13分(ブログ)
 19:31 - 20:03 = 32分(カフカ: 152 - 174)
 24:45 - 25:12 = 27分(ブログ / 宮田)
 25:14 - 26:05 = 51分(カフカ: 174 - 191)
 26:07 - 26:40 = 33分(ヒリス・ミラー、書抜き)
 26:43 - 27:09 = 26分(Wikipedia
 計: 4時間45分

  • 2019/4/8, Mon. / 2019/4/9, Tue. / 2019/4/10, Wed.
  • 「at-oyr」: 2020-02-02「ドリーマーズ」; 2020-02-03「金森氏」; 2020-02-04「障害」
  • フランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』(白水社白水uブックス、二〇〇六年): 122 - 191
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-04「矢面に立つのは飽きた腰かけるにも椅子がない目抜き通りで」
  • fuzkue「読書日記」: 2020年4月22日(水)
  • 難波和彦「神宮前日記」: 2020年05月10日(日); 2020年05月04日(月)
  • 宮田律「緊急寄稿 「米国に死を!」中東海域に向かう自衛隊の今後」(2020/1/6)(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/267126
  • J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、書抜き: 75 - 79
  • Wikipedia: 「ディオダディ荘の怪奇談義」

・音楽
 28:04 - 28:34 = 30分