2020/5/12, Tue.

 (……)一九四九年五月にボン基本法が、一〇月には民主共和国憲法が制定され、西ドイツはボンを暫定的な首都とし、東ドイツはベルリンを首都にして建国され、ドイツは分裂国家となった。そのベルリンも西と東に分断され、西ベルリンは実質的に西ドイツに準じることとなった。国家とはいいながらも五五年までは、主権が制約されている。以後両国とも主権国家の地位を確立し、一九九〇年に西ドイツが東ドイツ編入して再統一されたドイツが成立するまで、この状態はつづく。国家運営の基本に、かたやソ連スターリン指導の社会主義の建設があり、かたやアメリカと西ヨーロッパの一員として反共主義がかかげられた。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、223~224)



  • 一一時頃、メールの着信で目覚めた。Tから。近況を問うてきており、またLINEでTTの誕生日について話し合いを始めていると言う。このメールによって起きられた、ありがとうとすぐに返信し、体調を崩したとあったので気を遣っておいた。
  • 天気は曇り。最高気温が二七度だとかいうわりに結構涼しく、過ごしやすい。相変わらず首の後ろが固いので、仰向けのまましばらく左右に頭を転がしてから起きる。
  • 新聞。韓国でいわゆる従軍慰安婦問題に関わっていた活動家が国会進出したことに対して、元慰安婦の人が批判しているという記事があった。のちほど記録しておくこと。
  • Dianne Reeves『I Remember』を流しつつ柔軟運動。#4 "Love For Sale"はやはり良い。そもそも自分はこの曲自体が好きで、Cole Porterはまったく素晴らしい仕事をしてくれたなあと思うのだけれど、ほかの曲など勘案しても、"All of You"だって彼の曲だし、"Ev'ry Time We Say Goodbye"とか"It's All Right With Me"とか、"From This Moment On"とか"So In Love"とか"You'd Be So Nice To Come Home To"なども書いているし、Cole Porterって普通にかなりすごくない? 偉大じゃない? と思う。これらの曲は大体どういうテイクでもわりと気に入るような気がするのだが。『I Remember』に戻れば、Kevin Eubanks(ag)とのデュオで演じられている#6 "Like A Lover"なんかの歌唱もすごい。
  • 医者に出かける前に歯を磨きつつ日記を読み返した。二〇一九年四月一三日土曜日から風景描写。いまのほうがよく書けると思うが、この頃もまあそこまで悪くはない。

 端から端まで雲の一滴もなく青さが渡っているなかに、月がうっすらと、上部のみ露出した半月の形で現れていた。鳥の声がぴちぴちと落ちる木の間の坂を上って行き、平らな道に出ると、鶯が林の方で、ふくよかに響く鳴き声を天に向けて放つ。街道に出る頃には肩口に温もりが溜まって暑いくらいで、腕に脚にと汗の感触も滲んでくる。そろそろ燕が通りの上を飛び出す頃だなと、宙に視線をやりながら歩いて行くと、小公園の桜の木が微風に触れられてひらひらと花びらを零していた。枝先からふっと力なく離れる花弁の、宙に浮かぶシャボン玉の泡のようでもあり、一つの花の終幕を迎えるさまというよりは、新たな一個の生命がそこから生まれ出ているようでもあった。

  • Sさんのブログも読む。二〇二〇年二月六日、「ガチャガチャ」。以前ちょっと見たときも面白かったけれど、改めて読んでみてもとても面白く、またおかしい。この記事はすごくて、ほとんどすべての文が笑えるのだけれど、「四百円あったら、安い立ち飲みならラクに一合呑めるのになあ…」という締め方でまたひと笑いする。

 (……)…これ集めて、、どうするんです?と、まるで妙なものに夢中になっている子供に対して頭ごなしに無理解を示す親御さんのような態度をとってしまった。…いやたしかに、だれが何をほしがって何に夢中になるかなんて、その人の勝手だしいくらでも好きなようにして良いはずだしその自由こそ尊重すべきだとは理解するのだが、…それにしてもこれは・・「こんなもの」に夢中になれるとは…。と、自分の無意識化の根底にある頑なな偏屈性・認識外への無理解性が、いままさに露呈しているのだった。それでも表面上は苦笑いの体で、いやいやいや、まあわかりますよ、きっと集め始めたら躍起になってコレクションをコンプリートしたくなるんでしょうからねとか、とってつけたような言葉でありあわせてその場をやり過ごそうとして、でもこれって、一回いくら掛かるんです?と軽い気持ちで聞いたら、一個四百円だと云うその返事を聞いて、おもわず本音の「えー!?」という悲鳴に近い嘆息が出てしまった。四百円だって??信じがたい。カジノで一晩に何百万円使いますとかの言葉と同等に近い重みを感じ取ってしまう。この世にこれほど深き退廃・ニヒリズムも、そう無いのではと思わせる、たかだかこんなものが、四百円だとは…。それを何度も何度も、気に入ったものが出続けるまでひたすら投下し続けながら無表情に待つとは…。聞けば上司の投資額など世間の相場に較べればまるでかわいいものであり、所謂「ベテラン」、もはや末期症状みたいな酷い状態の患者が月々に投下する額は桁がマル二つも違うとのこと…。すごい話だ。これだから世の中はわからない。四百円あったら、安い立ち飲みならラクに一合呑めるのになあ…。

  • 外出。久しぶりに青梅駅まで歩く。身支度をして上階に上がると近所に消防車が何台か来ており、近間の駐車場に停まってランプをぴかぴか赤くしている様子が居間の東窓から見える。何らかの緊急事態らしい。NKさん、すなわちI.Kのおじいさんとかかな、と母親は言ったが不明。ともかくこちらは玄関を出て歩いていき、するとすぐに消防車の停まっている場所に至るわけだが、大きな一台が道を半ば以上塞ぐように鎮座しており、後ろからやって来た車が通れずに停まって乗り手の高年女性が困惑気味に降りてきたので、前方にある赤い車を指しながら、乗ってないんですか? と声を掛けた。消防車のなかには一人も人間がいなかったのだ。それで笑いながら顔を見合わせたのだが、背後にパトカーが停まっていたのでひとまずそちらに寄っていき、助手席の前に立って窓が開いたところに、何か乗ってないみたいでと告げれば、そう、いま救助で下に行っちゃってるんですよという返答があったので、その旨を女性に伝えた。で、二言三言やりとりをして、すみませんねえとか言って笑いながらこちらは消防車の横を通って先を進んだところ、坂に入ってすぐのところに父親の姿があり、そこにもう一人男性が合流して何とか話している。知り合いらしく、こちらも見かけたことがあるような気もしたものの、誰なのかどこの人なのか不明。そこにこちらも加わったのだが、彼らが見ていたのは坂から眼下にある裏道の途中に生えた樹に登った人が途中で下りられなくなっている姿で、それがYNさんだと言う。こちらは目が悪いので仔細には見えなかったけれど、たしかにそうらしい。救助されているのは彼だったのだ。このあいだ行き逢ったときには、リウマチでつい先月くらいまで入院していたとか言っていたのに、随分と無茶をしたもんだなあと思った。誰かに頼まれたんですかねえとか何とか父親と男性は話し、こちらもしばらく見物していたが、そのうちに行ってくると告げて歩きだした。
  • TRさんの宅の前に旦那さんがいたので、奥さん元気ですかとか何とか声を掛けてちょっと立ち話でもしてみようかなと思ったのだが、こちらの姿を見て避けたのか否か不明だけれど通りかかる頃には旦那さんは家屋の横の細い隙間に入って、身を屈めながら草取りをしてこちらには背を見せていたので、声は掛けずに過ぎて終わった。
  • あとたしか裏通りから、藤の花ってのはもう終わりなのかなと思って丘の方に目を凝らしたのがこの日だったような気がする。丘の森の緑のなかに、五月くらいになると紫色の小片がほんの僅かに差しこまれるのを過去に目にしたことがあるのだ。で、藤はもう終わったようで紫色は見られなかったが、改めて森の樹々の色を眺めてみれば、緑と言っても結構さまざまな色味の違いがあるもので、なかにところどころ際立って明るく、爽やかに軽いような浅緑があり、あれは何の樹なのか、そもそも色合いの差は樹種の相違なのかあるいは樹齢の違いなのかそれすら知らないのだけれど、その浅緑と比べればほかの領域はいかにも老いづいたように深く、燻したような色に映る。
  • 初夏なので花はそこら中で咲いていて、家と家とのあいだに挟まった小さく半端で何の用途もなさそうな空き地でも、塀の足もとにナガミヒナゲシともう一種、あれはハルジオンなのかヒメジョオンなのかそれともほかのものなのかわからないのだけれど、何かそういう類の白く小さな花が並んでいてそれだけでも結構目に明るい。青梅坂を過ぎてすぐにあるやはり空き地と言うか、家の横の何か隙間的敷地みたいなところにも同じ白い花がたくさん群れており、なかなかに鮮やかと言うか清々しいような感じだったところが、たしか一六日の出勤時だったかに通りかかるとそれが残らずすべて駆逐されていて、その空間から目に立つ色はなくなっていた。
  • 青梅駅から電車。乗りこんで座り、発車までのあいだ外を眺める。小学校の校庭端の桜の樹はもちろんもう緑色で、その葉色が風に撫でられてゆるく上下に撓んでいた。ちょっと揺られて河辺で降車し、駅を出て医者へ。住宅地のなか、塀の外側で、あれは外から塀内の樹を刈っていたのだろうか、葉っぱなどを袋に詰めている老人がいた。電車に乗っているあいだに、そもそもいまはコロナウイルスの件でことによると診察時間が短縮しており普段午後までやっている曜日でも午前までになっているのではないか、今日はもしかして休みではないのだろうかと、遅まきながらその可能性に思い当たっていたのだけれど、医者に着くと普通にひらいていた。先客は二人くらいで少なかった。待合室に入ってマスクをつけると受付を済ませ、席に就いてフランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』(白水社白水uブックス、二〇〇六年)を読みつつ待つ。こちらのあとに巨体の女性――尋常に歩くのも大変そうなほどに巨大で幅広の身体――がやって来て、多分ほかの人間たちが皆マスクをつけているので自分もつけなくてはと思ったのだろうか、デイケアの患者たちが手作りしたというマスクを買っていた。三〇〇円と言っていたか? 一枚でそれだから結構高い。ほか、連れ合いが入院しているようで、声はやや低くしながらもまるで他人事のように、何かやばいらしいよと受付の人に話していた。旦那は全身に管をつけているとかいう話で、どこどこに管、どこどこに管、と列挙していったその最後に、ちんちんの先っちょに管、とちょっと笑いながら言って、受付の人も一瞬笑いながらもお小水ですねと冷静に受けていた。で、それからこの人よりもいくらか若そうな男女がやって来て、その二人はこの巨体の女性の身内のようだったのだが、しかし具体的な関係はよくわからない。息子なのかと思ったもののそこまで若くもなさそうだったし、雰囲気もそんな感じでもない。若い女性のほうはおそらく男性の恋人か、あるいは姉妹かといった気配。この男女は、なぜなのかわからないが結構長いあいだ座らずに入口付近に立ちながら巨体の女性とやりとりをしており、だいぶあとになってようやく、こちらから見て左方のソファに向かい合って腰を下ろしていた。
  • 呼ばれたのは五時半。いつもの習慣で座席に荷物を置きっぱなしで立ったのだが、いままで一度も注意されたことがなかったのになぜか今日は受付の人に声を掛けられ、荷物持っていってくださいねと言われたので、仕方なくバッグを持って診察室に入る。医師と挨拶を交わし、調子はまったく問題なく良いと伝え、仕事は休みなので読み書きに邁進し、そのほか軽い運動をいくらかやったり、だいたい夜だけれど散歩にも出ていると報告した。それで、調子が良さそうなので薬を減らしましょうかという話になり、いままでセルトラリンを一日二錠飲んでいたのを一錠に削ることができた。この調子なら、遅くともあと半年もすればおそらく脱薬となるだろう。その場合にまた症状が戻ってくるということが絶対にないとは言い切れないわけだが、まあ仮にもう一度鬱症状に陥ったとしても、前回も何だかんだ自殺せずに済んだわけだし、とりあえず生きてさえいりゃあどうにでもなるだろう。どうにもならなくなったら死ねば良い。と言うか、「どうにもならない」というのは、「死ぬ以外に道がない」ということなので、どのような生であれ生きてさえいればそれはこちらにあっては「どうにかなっている」わけだ。
  • 減薬するということで合意したあと、つかぬことを伺いますがと口にして、待合室に表彰状がありましたねと尋ねた。こちらの座っていたソファの背後の壁にその種のものが二つ掲げられてあり、一つは厚生労働大臣の名義で日付は令和元年、もう一つは小池百合子都知事の名前入りで日付は平成の最後の年かその一年前だった。それを目に留めていたので、長年の功績が認められたわけですね? と訊いてみたのだけれど、何という団体なのか不明だが精神医学会的な組織に属していれば持ち回りで皆もらえるようなものなのだと医師は言い、むしろもらわないと追い出されてしまうとかいう話で、だから全然、大したものではないんですけど、仕舞いこんでいても何だかなあということで、それでは二つとも張ってしまおうかと、とそういうことらしい。それでも一応、おめでとうございますと重ねて言っておいたのだが、いや、本当に、ただの順番なんですよと医師は慎ましく苦笑した。で、それから、このあいだそう言えば、春の褒章ですか、ありましたけれど、ああいうのを重ねていけばいずれそういう方に繋がっていくわけですかと質問してみると、そういうわけではなく、叙勲は与えられる業界団体というものがあらかじめ決まっているらしく、先生が属しているのはそういった組織ではないとのことだった。
  • そういう雑談をしてから退室し、会計。金を払った際に、今日開いていて良かったですと受付の人に伝えると、うちは一応、いつもどおりやっていますとのことで、じゃあいまのところ営業短縮とかもないですかと訊くと、むろん肯定が返った。それで隣の薬局へ。カウンターにはビニールが張られてこちらとあちらの仕切りとなっている。座ってカフカを読んでいたけれど客はほぼいなかったしすぐに呼ばれ、それで金を払って礼を述べて退出。
  • 線路沿いの道を取って駅へと戻る。青と白が淡く混ざりあいながら線路や駅舎の上にひらいた大空を背景に鳥たちが群れ、飛び交っている。あの鳥は何なのか、毎年見かけるのだが結局いままでわかっていない。何となく、鳴き声からしてやはり燕なのかなと思い、本当に、随分たくさんいるなあと見上げつつ歩いていると、かなり高所にも黒い粒と化した姿があり、燕ってあんなに高いところまで飛ぶのかと思った。何しろ普段町で見かけるのは、だいたい屋根か電線くらいまでの高さでしかない。それから駅前に至り、Art Blakey & The Jazz Messengersを思わせるモダンジャズが流れ出てくる居酒屋の戸口の前を過ぎて駅舎に入り、駅の反対側に抜けて高架歩廊に出れば鳥たちが鳴きながら旋回したり宙を斜めに駆けたりしており、こちらの頭のすぐ横を通過していったりもするのだが、その姿形を見上げながら、どうも燕じゃあねえなと判断を改めた。近くで見れば、まずそもそも尾が二つに分かれていなかったのだ。では何の鳥なのかと言って、見えるのは飛行中を下から見上げたときののっぺりと黒い影ばかりなので、全然よくわからない。
  • 歩廊を渡って「イオンスタイル河辺」に入ったのは買い物をして帰るつもりだったからだ。籠を取って入口近くの野菜の区画から長茄子や大根などを入れていき、さらに出かけるまえ母親に「ポット洗浄中」とかいう品――電気ポットのなかに固化してこびりついた汚物を綺麗にするための薬剤――があったら買ってきてと言われていたので、洗剤の棚を練り歩いて探したものの、どうも見当たらなかった。それなのでその品に関しては諦めて、ほかにカップラーメンや飲み物などを入手して会計へ。レジ前の通路の床には場ミリが貼られて、間隔を空けて並ぶよう求められていた。で、会計の際に、細かい金がなかったので一万円札をトレイに置き、それから四円を出そうと財布に指を突っこんでいたところが、それを待たずに店員の女性が一万円をさっと取って処理してしまい、こちらは仕方なく手を引っこめるしかない。礼を言って整理台に移り、家から持ってきた布の袋に品物を詰めたあと手に提げて歩き出しながら、もちろんいまになって気づいたわけではないけれど、まず端的に歩く速度に明らかに表れているように、どうもこちらの心身のスピード感覚と世間の多くの人々における平均的なそれとではおそらく結構な差があるぞ、と改めて思った。先ほどのスーパーの店員の人の行動は、なるべく速やかに仕事を処理するという姿勢を現前しており、すなわち効率的な振舞いである。彼女の心身は「効率」の思想にしたがっていた。もちろん店員本人がどのように感じ思っていたかは不明で、ただ気分的にこちらののろのろとした動作を待っていられなかったのかもしれないし、あるいは次の客をなるべく待たせないようにという意思があったのかもしれないし、そんなことは考えておらずただマニュアル的にそういう行動が習慣になっているだけかもしれないが、いずれにしても、この現代においてスーパーマーケットの店員という職業はなるべく効率的に身体を動かすという努力を要求される立場であり、それは言うまでもなくスーパーの店員だけでなく多くの、あるいはほとんどすべての職種が同様だと思われる。可能な限り高い効率を追求するという考え方はこの時代における金科玉条となっているわけだが、それでこの日の帰路では、そもそも「効率」という思想や発想、その観念そのものは、一体いつどこから発生してきたのかなあということをぼんやり考えつつ電車に乗ったり歩いたりして、結構色々な方向に思考が巡ったのだけれど、それを詳細に記すのは面倒臭い。
  • それなのでポイントだけ絞って記録しておくと、まず効率的であるとはできる限り「無駄」を省くという意味だから、その前提として当然、何が「無駄」なのかを判断できなければならない。ということは物事に対してそれを「無駄」と「有益」に分ける思考の働きが必要なわけで、だからまず脳のうちに「分割」の原理が導入されなければならない。で、分割線を引けたとしてその次に、「無駄」と「有益」の二項を対立させるという思考形式が必要で、加えてそのうちの一方を望ましいもの、他方をそうでないものとして意味づけし、措定できなければならない。と言うか「分割」が可能になれば、「意味づけ」もそれに応じて同時に生じるのかもしれないが、その点はよくわからないので措いておく。
  • で、現代世界においては「効率」という考え方は、単位時間あたりの仕事量という形式で表現されるので、ある行動が効率的であるかどうかを判断してより高い効率性を志向するためには、上に記したことの一方で、まず時間の観念が成立していなければならない。さらにこの時間観念は数量的な、完璧ではなくともある程度截然と区分されたものでなければならないし、仕事量や行動の度合い、生産量みたいなものも数量的に把握されるわけだから、ここでも数量という思考原理が必須である。そして数量とはまさしく「分割」の一形式だと思われるので、したがって「効率」という考え方は、意味論的分割及び数量的分割という二種類の分割操作によって支えられているということになるのではないか。
  • それでこういう発想っていつから生まれてきたのかなあと思い、人類史の初期からあったのかなあとかぼやぼや考えて、とりあえず狩猟採集時代に「効率」のような観念があったとしたらどんな感じかなあというのを思考実験的に想像してみたのだけれど、狩りはちょっとよくわからないので、ひとまず木の実の採集を例とする。ものすごく単純に考えて、例えば一時間のあいだに一〇〇個の木の実が集められる日があったとする。で、また別の日にはだいぶ頑張って、同じ一時間で二〇〇個の木の実が採集できたとする。こういう二種類の採集成果があったときに、同じくらいの時間でもやっぱり二〇〇個集められたほうが良くね? だってそれだけたくさん食えて腹いっぱいになるし、何なら明日の分も取っておけるじゃん、みたいなことを主張するやつがいたとしてもあまりおかしくはなさそうに思う。しかし一方、狩猟採集時代にはたぶん皆そこまで勤勉に暮らしてはいなかったのではないかという気がするので(その判断に特に根拠はなく、勝手にそう想像しているだけなのだが)、いやあ頑張って二〇〇個も集めるの疲れるし面倒臭えし、一〇〇個でも充分生きていけるんだから別にそんなに必死にならなくて良くね? みたいな緩いやつが同時にいたとしても、これもあまりおかしくはなさそうに思われる。
  • いずれにしてもこのような認識が成り立つためには、先ほども言ったように数量的時間単位の把握が一方に必要で、なおかつ集めた収穫物の数の把握がもう一方で必須なわけで、そもそも狩猟採集時代に数の観念があったのか否かまったくわからないのだけれど、たぶん原始的な形では存在していたのではないか? と勝手に想定している。狩猟採集時代の人間だっておそらくは朝に起きて夜に眠るという生活をしていたのではないかと推測されるから、そうだとすれば少なくとも大雑把に「一日」という捉え方はあったのではないか? そうすると先ほどは一時間を例として考えたけれど、むしろそれよりも、今日はこれだけ食料が集められたなあ、みたいな非常に大まかな形で、単位時間に対する必要物の量という比較相対の認識があったとしてもおかしくはないような気がする。そこでさらに、この「食料」を数量として区分的に捉える思考があっったのか否かということなのだが、それもおそらく相当に原始的な形ではあったのではないか。と言うのも、例えば一〇〇個の木の実と二〇〇個の木の実だったら、それらを一箇所に集めて置いたときに、視覚的に空間中に占めるその広さが明らかに異なるはずだからである。そこまでしっかり、はっきりと細かく物を数的に分割するという思考がなかったとしても、今日なんか昨日より飯多くね? ラッキー、みたいな感じ方はあったのではないか。
  • そういった路線で考えたときに、大雑把な一日という単位で把握された時間のうちに得られる食料が、少ないよりは多いほうがやっぱり良くね? という形で、「効率」的な発想の芽生えらしきものがあったということはありうるかもしれない。と言うのも、食料獲得というのは狩猟採集時代の人間にとってはたぶん生における最重要の、第一の事柄だったはずで、それが満足に実現できなければ文字通り飢えて死ぬことになるわけだから、とすればやはり食べ物は少ないよりは多いほうが好まれていたのではないかと思うからだ。話がややこしくなるので、動物の肉とか木の実とかがふんだんに集まってもそのうち腐って食べられなくなってしまう、というような要素はここでは捨象して想像しているのだけれど、この筋で話を進めると、したがって「効率」という発想はその源泉においては、食べ物をなるべくたくさん取っておけばとりあえず今日明日死ぬことはないぞ、まだ生きていられるぞという「喜び」、あるいはそこまで行かなくとも、少なくとも「安心」の情と結びついていたのでは? みたいなことをつらつら巡らせながら帰った。
  • ところで「効率」的発想の前提となる「無駄」と「有益」の分割に戻ると、これらは対立的な意味づけの一形式である。そして意味とはもともと自然に存在しているものではなく、何らかの体系的な参照先を経由して発生するものであり(その「体系的な参照先」がたぶん、ロラン・バルトとかがよく言っている「コード」というものだろう)、この場合の「参照先」というのはおそらく端的に「目的」だろう。「無駄」と「有益」の判断基準は「目的」に依存するということで、先ほどのスーパーの店員の人の行動が「効率的」と見なされるのは、その「目的」が勤務時間内になるべく多くの客を捌いて、なるべく多くの利益を企業にもたらすことだからだ。つまるところ、「効率」の内実は行動主体の「目的」によって変わってくるはずだということで、現代社会において「効率」がもっぱら数量的見地で無駄を省くこと、すなわち単位時間当たりの「生産性」なるものを高めることとして定義されているのは、なるべく多くのものを生み、なるべく速やかにそれを売って、なるべく多くの利益を発生させ、なるべく多くの金を得ることが有意味な「目的」として広く一般に共有されているからだということになるだろう。
  • で、こちらとしてはまあ一応、無駄だとか有益だとかいういくらか退屈な二元論は、完全には無理だとしてもある程度は廃棄したいと思っているし、生産性だの何だのいうのも面倒臭えなあという性分を個人的には持っているのだが、ところでなぜ現代社会の人々のうちのおそらく多数が心安らかに物事を「待つ」ことができないのか、「待たされる」ことにストレスや苛立ちを感じてそれを忌避するのかということを推測するに、それは「待つ」時間が何の「目的」にも寄与しないから、ということになるのではないか。例えばスーパーでレジに並びながら会計を待っているときのことを考えてみると、待っている人たちにはそれぞれその時点での当面の「目的」と言うか、平たく言って「やりたいこと」あるいは「やらなければならないこと」があるはずで、例えばある人はこれから仕事に行かなければならないかもしれないし、ある人は友人や恋人に会いに行く予定があるかもしれないし、ある人はさっさと家に帰って夕食を作らなければならないかもしれないし、あるいはYouTubeでも見てだらだらしたいのかもしれない。そういうおのおのの「目的」があるとしてしかし、スーパーマーケットでの買い物という時間は多くの場合、その人の「目的」に直接は繋がっていかない単なる習慣的かつ傍流的な面倒臭い義務に過ぎないと思われるし、会計で「待つ」ということも基本的には何の「目的」にも貢献しない。すなわち、「待つ」という行為は「目的」と照らし合わせた場合、ほとんど無意味なわけだ。そもそも「待つ」というのはその純粋形態においてはまさしく何もせずにただ時が流れるのを感得するということであり(ということは瞑想に近い行為だということになるが)、つまりは非行動なわけだから、それはやはり基本的には何の「目的」にも繋がりようがないだろう。したがって、「待つ」時間に対して人が苛立ちを感じるとすれば、それは「無意味」を強いられているからだ、とひとまず言えるのではないか。で、こういう整理図をお馴染みの文学的な方面の比喩を用いて言い換えれば、「待つ」という時間は、その人が想定している自らの物語に何ら奉仕することのない余剰の空白だということになる。そして、人間にとってほとんど意味をなさない余剰的空白に耐えることはそれなりに困難なので、人々は例えば音楽を聞いたり、友人と会話をしたり、スマートフォンで何らかのコンテンツを閲覧したりして、その空白を意味で満たそうとするわけだ。
  • いま、スーパーでの待機時間を例として考えたが、これと同じ構造は人生全体に敷衍して考えることももちろん可能であり、と言うかむしろそちらの方が根本的なものなのかもしれないが、このことはこちら自身の体験からも容易に理解される。つまり、数年前のこちらの生における「目的」は言うまでもなく読み書きの営みだったわけだが、そこではそれ以外の時間はおおむね端的に「無駄」なものと見なされていた。例えば職場の飲み会などは当然、読み書きの営みには何一つ寄与しない余計な時間だと判断されて、そんなことに貴重な時を費やすくらいだったらさっさと家に帰って本を読んだほうが良いに決まってんだろ、という姿勢によって拒否されていたわけである。したがって、少なくとも人生全体の「目的」、すなわちその人の生総体を統御する根本的な意味、第一原理、すべてのシニフィアンが最終的に至りつく究極のシニフィエがはっきりと見出せている人においては、その生におけるあらゆる時間が、その根本原理との関係で「無駄/有益」の系列のなかに位置づけられることになる。で、こちらはそのような認識様態からは既におおむね脱却しているつもりだ。こちらの生における主要な「目的」というのは今もやはり読み書きの営みではあるものの、読み書きに寄与しない時間などというものは原理的に存在しないということがわりと実感的に理解されているので、と言うかつまるところ、やや気取りをはらませながらなおかつ月並みな言い方をするならば、こちらにとってはもはや生きている時間のすべてが読み書きなので、人生全体の意味と照らし合わせて無駄だとか有益だとかいう判断基準はほぼ完全に消失したと思う。言い換えれば読み書きという「目的」が生の総体に全面化したと言うか、生の全域を浸食的に占領したと言うか、これはしかし根本目的を頂点としてそのもとに人生全体が統合的に系列化されたという事態にはおそらく留まらないものだと思われ、比喩で語るならば生におけるあらゆる瞬間が大いなる母体たる「読み書き」の胎内に吸収されて同化的に回帰したと言うか、そんなようなことになる気がするのだが、ともかくこちらにあっては「無駄/有益」の二元論はだいたい解体されたと思う。すなわちこちらの物語において本線と傍流の区別はほぼなくなり、すべてが本線であって傍流はない、すべてが有益であって無駄は存在しない、そういう地点にいまのところいるつもりなのだが、しかしこのように書いてきて思うけれど、本当にそんな精神性は可能なのだろうか? 本当にそんなことが実現されているのだろうか? まあ統合的な系列化には留まらないとは言っても、それはおそらく序列化を完全に逃れたわけではなくて、「無駄」はないとしても「有益」の程度や種類には幅がある、すなわち相対的に重要度の高いこと低いことはあるはずだ。そりゃそうだろう。すべてが完璧に平等に横並びになっているとしたら、それは要するに意味からの解放、物語の消滅、生の零度、白い人生、つまり悟りだ。しかし、残念なことなのか否かわからないが、たぶん人間にその恒常的な実現は不可能だろう。だから幅はある。模様はある。そしてそこに模様があるから、人間は人間的なのだ。
  • 帰宅後のことはもはや忘れた。書見はカフカを終えたあと、なぜかわからないけれど何となく『古今和歌集』でも読もうかなという気になったので、奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年)に手を出した。
  • Mさんのブログ、二〇二〇年三月六日。柄谷行人『探究Ⅰ』からの引用の一部。

 ウィトゲンシュタインにとって、他者とは、「われわれの言語を理解しない者」、つまり言語ゲームを共有しない者にほかならない。そして、コミュニケーションは、「直接的伝達」(キルケゴール)ではなく、それを可能にするものそのものの伝達(規則を教えること)のレベルにおいて考えられなければならない。「直接的伝達」は、言語ゲームを共有する者同士では可能である。また、その場合、その伝達を可能にする社会的規則・コード(超越者)をとり出すことができるだろう。しかし、それらは言語ゲームが共有化されたあとでの事後的な説明にすぎない。それらは、コミュニケーションの基礎づけたりえない。むろん、私は、他者(言語ゲームを異にする者)とのコミュニケーションが不可能だといいたいのではない。その逆に、コミュニケーションが合理的には不可能であり基礎づけることができないにもかかわらず、現実にそれがなされている事実性に驚くべきだといいたいだけである。このパラドキシカルな事実性を抹殺したところに生じる、合理的な基礎づけや懐疑論は、キルケゴール的にいえば、「キリストの抹殺」にほかならない。

 では民主主義国家では、秩序を保つためにどんなやり方が取られるのか。フーコーは『監獄の誕生』を書いたあと、現在利用されているもう一つの危機管理方法を示している。これは「セキュリティの装置」あるいは「自由主義の統治」と呼ばれている。中身は簡単にいうと、処罰や強制を用いず人をある程度自由にしておいて、インセンティヴを与えて行為を誘発するという方法だ。たとえば現在、仕事に行くよりも自宅にとどまることにメリットがあれば、誰だってそちらを選択するだろう。在宅ワーク、休業補償などが整備されているなら、わざわざ感染の危険を冒して電車に乗りたい人は少ない。人間はみな損得勘定で動くし、動かざるをえないので、休業補償なしに家にとどまれと言われても従えない。収入がなければ生きてはいけないのだから。その動きを変えることで自由な選択に基づく行為を誘導するのが、新しい統治の技法だ。同調圧力と世間の目というタダで手に入るものだけで人の行動を変えようとするのは虫がよすぎる。生活がかかっている以上、早急に補償を行うことでしか感染拡大による社会的ダメージを減らせない。(……)
 広範囲の補償を明言した方が、結果的に政府支出も少なくて済むという合理的計算がなぜできないのか。当初の日本の手法は「緩やか」なのではなく、処罰も補償もなしに世間の空気だけで乗り切ろうという「非合理」なものだった。緩やかな統治の技法とは、インセンティヴを与えた上で個人に選択させ、それを通じて行動を変えることだ。そこでは正の動機づけと負の動機づけが組み合わせられる。それが効果的に設計されてはじめて、大規模な行為様式の変容、つまりは社会の動員が可能になる。

     *

 (……)『巨大農場が巨大インフルエンザを作る――インフルエンザ、アグリビジネス、そして科学の本質について』(2016)の著書がある、ロブ・ウォレスのインタヴューを引いておこう。

 目下のアウトブレイクで本当に怖いのは、新型コロナウィルスを単独の出来事として捉えてしまうという過ち、というよりむしろご都合主義の拒絶反応です。新しいウィルスの頻繁な出現は、食糧生産および多国籍企業の収益と関係しています。なぜウィルスが以前より危ないものになってきているかを理解したいなら、工業モデルの農業生産、とりわけ家畜生産の工業化を精査すべきです。今のところ、政府も科学者もそれに乗り気ではありません。むしろ真逆の態度を取っています。
 新しいアウトブレイクが勃発すると、政府やメディアだけでなく医学的権威すら、目の前の緊急事態に気を取られてしまいます。そのため、どこにでもあるちょっとした病原菌が、突如としてグローバルな感染を引き起こす構造的な要因を取り逃してしまうのです。
 いま工業化された農業と言いましたが、もっと大きな視点からも見られます。資本というのは、世界中の原生林や小土地所有者の農地を最後の一か所まで強奪してきた急先鋒です。投資による森林減少や開発によって病気が発生しているのです。広大な土地が有していた多様で複雑な機能は、土地の能率的利用によって失われてしまいました。それがきっかけで、かつては局所に閉じ込められていた病原菌が、まず地元の家畜や集落に広がります。そして遠からず、ロンドン、ニューヨーク、香港などの資本センターが主要な感染集中地になるでしょう[5: Rob Wallace (interview) ‘Corona virus: The agricultural industry would risk millions of deaths,’ in Marx 21, March 21, 2020. https://www.marx21.de/coronavirus-agribusiness-would-risk-millions-of-deaths/(脇浜義明訳「新型コロナウィルス感染症(covid-19)に関するインタビュー Marx 21, 2020年3月21日」 https://c66da71b-923b-4053-884a-e8022e5f0815.filesusr.com/ugd/ac6998_072cf3cca07844719eed145c4cd0cbfb.pdf)]。

 これと同じ指摘は、先日Webちくまに掲載したマイク・デイヴィスの記事でもなされている[6]。まず、巨大なアグリビジネスの参入によって森林が切り開かれる。森から病原菌が解き放たれたところに、野生動物が感染する。そこに進出してきた大規模畜産業によって工場方式で飼われる家畜が感染し、飼育環境が過密なために爆発的に広がってウィルスの変異が進む。そして感染した肉を食べた人、また畜産場で働く人に感染する。

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 こうしたことをふまえるなら、コロナウィルスの由来についての米中の非難合戦がいかに無意味で、肝心な点から人々の注意を逸らしてしまうかが分かる。政治家たちはわざと、表層の対立を煽って深層にある問題から目を逸させているのだろう。敵の悪口はナショナリストの常套手段だ。だが重要なのは、中国人の食習慣でもなければ、アメリカ軍が陰謀を企てたという噂でもない。このようなウィルスが、世界の巨大工場かつ最大人口を擁する中国で感染爆発を起こしたのはなぜなのか、その理由を現代の経済社会のあり方から探ることだ。

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 こうした状況下で、どのように分けることとつなぐことが有効なのだろう。まず提案したいのは、国家の強権性、非常事態を宣言し私権に制約をかける機能を、自由な経済活動と対立させて二者択一にする図式を捨てることだ。マルクスやポランニーが生涯にわたって語ってきたとおり、国家は18世紀の市場社会黎明期から、「自由な経済活動」を強制するために権力をふるってきた。そもそも「自由な経済活動」という言い方自体、経済的自由主義者が考えついた欺瞞的名称だ。グローバル化した経済が明らかにしたのは、自由な経済活動とは、もっと速く、もっと多く、もっとヘトヘトになるまで活動し、資源を無尽蔵に消費し、資本をとめどなく循環させて蓄積し、自己増殖する資本に人も資源も従属するような活動だということだ。それとは異なる道を歩むチリのような国を無理やりに「自由市場」に参加させるために歴史的に何がなされたかは、たとえば中山智香子『経済ジェノサイド』[11: 中山智香子『経済ジェノサイド―—フリードマンと世界経済の半世紀』平凡社新書、2013年]に記されている。
 国家の強権性対経済活動の自由というこの図式は、経済的自由主義者が「言説のヘゲモニー」を握るために生み出した一つの幻想である。これとは異なる線引きを行い、分けるところとつなぐところを変えなければならない。「一帯一路」を見れば明らかなのは、市場の自由と強権国家は対立どころか手を携えて、世界を資本の餌食にしようと日々活躍していることだ。世界で最も強権的な国家が、グローバル資本主義の新たな騎手として、社会主義体制のまま資本主義を牽引しようとしている。
 むしろ分けなければならないのは、自粛要請で仕事がなくなって休業補償を求めることと、強い国家、ペストの都市の代官を容認することだ。国家に保障を求めることは、自由を譲り渡すことではない。経済の自由か強い国家かの二択で語るのをやめ、生存と生活の権利である「社会権」の系譜を思い出さなければならない。社会権の保障者として国家を規定し、それによって国家のあり方を変えようとする運動は、資本主義という妖怪が徘徊しはじめた19世紀以降、さまざまな場所で試みられてきた。歴史が確証するのは、市場の自由は国家の強権性と対立するどころではなく、国家の後ろ盾を得ることで社会の自立性や生存権の保障を脅かしてきたということだ。
 19世紀以来、社会運動に携わる人々は自律的ローカル経済を重視する一方で、生存保障の担い手としての国家に一定の期待を寄せてきた。ここでは、国家対社会という対立軸には乗らず、国家の機能そのものを変革することで、社会の守り手としての新たな国家像を生み出すことが目指された。国家がいいのか悪いのかではなく、どのような役割を国家に求めるのかを考えるということだ。それによって、強権国家か自由な市場かという誤った二者択一を放棄するだけでなく、市場の貪欲に対する防波堤となりうる国家と社会のあり方を模索しなければならない。


・作文
 12:27 - 13:28 = 1時間1分(11日)
 13:32 - 14:50 = 1時間18分(12日 / 4月23日)
 20:26 - 20:49 = 23分(4月24日)
 21:35 - 24:07 = 2時間32分(4月24日)
 28:18 - 28:54 = 36分(4月24日)
 計: 5時間50分

・読書
 15:24 - 15:53 = 29分(日記 / ブログ)
 17:11 - 17:31 = 20分(カフカ: 191 - 202)
 20:00 - 20:25 = 25分(ブログ)
 24:22 - 25:48 = 1時間26分(カフカ: 202 - 232 / 『古今和歌集』: 5 - 18)
 26:32 - 27:16 = 44分(重田)
 計: 3時間24分

  • 2019/4/11, Thu. / 2019/4/12, Fri. / 2019/4/13, Sat.
  • 「at-oyr」: 2020-02-05「個体差」; 2020-02-06「ガチャガチャ」; 2020-02-07「trattoria」; 2020-02-08「像」
  • フランツ・カフカ池内紀訳『断食芸人』(白水社白水uブックス、二〇〇六年): 191 - 232(読了)
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-05「目隠しをしたまま本の背をなぞるひとさしゆびのほとりが満ちる」; 2020-03-06「点描を重ねて埋めた空白をきみに渡して何もいえない」
  • 奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年): 5 - 18
  • 重田園江「パンデミックの夜に」(2020/5/8)(http://www.webchikuma.jp/articles/-/2026

・音楽