2020/5/13, Wed.

 一九五一年一〇月の全国世論調査に「今世紀でドイツがもっともうまくいった時期はいつか」という項目がある。結果は「第三帝国」(四四%)、「帝政期」(四三%)、「ワイマル期」(七%)の順である。分析グループはこの理由を、ヒトラー第三帝国時代と第一次世界大戦までのドイツ帝国時代の両時期が失業もなく給料ももらえ昇給もして秩序もあった、とみなされたことに求めている。つまり実利一辺倒の基準でその時代が最良と判断された。しかも他の調査結果を見てみると、政治的無関心という回答が顕著である。記憶に生々しいはずのホロコーストやナチ犯罪に自分がどう関わり行動したかは、意識の下に押し込められている。まだ生活費は潤沢ではなくともようやくつかんだ不安ない私生活に浸って、道義的に都合の悪いことを忘れようとしていたのだろう。その意味では大多数の人びとにとって、反ナチ抵抗者がたんなる「裏切り者」とされていたほうが、心は安らいだ。
 (對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』中公新書、二〇一五年、225~226



  • 久々に正午を通過して一時過ぎまで寝坊した。起き上がるとベッドの縁に座って首の背面を伸ばす。顔をうつむかせながら組んだ両手を後頭部に当て、下方に向けてちょっと力を掛けて押さえるようにするのだが、こうすると首の後ろから背の上部にかけての筋が伸びる。これを行うとこわばりがかなり楽になる感じがする。このストレッチは高校時代の音楽の授業で、歌い出す前の準備的な柔軟として取り入れられていたものだ。(……)教諭に感謝する。
  • 食事はカレー。一〇万円がそろそろ支給されはじめるようだ。(……)は五月中旬からの予定とか新聞の地域欄に書かれてあった。一〇万円もらったらどうすんのと向かいの母親に訊くと、貯金するよと返る。一〇万円もあったら、普段買えないような本がいくつも買えるよと言うと、うへえ、みたいな声が来た。
  • 晴れと曇りの中間みたいな天気で、最高気温は二九度だとかいう話だがそのわりに涼しく、空気は乾いており、自室にいても窓を網戸にしておけばむしろ過ごしやすい。シジュウカラか何かの鳴き声が賑やかによく響いて外から入ってくる。
  • (……)さんはコロナウイルスによる休みのあいだ、一時間半だか走っているという話だ。母親にも、あなたも夜歩いたら、と勧めてみると、ホントだね、と彼女は受けるが、そう口にするだけで実際に歩きはじめることは多分ない。
  • 今日は四月二四日から二六日まで日記を仕上げる。なかなか勤勉。また、数日ぶりに復読もでき、「記憶」記事からはロラン・バルト/沢崎浩平訳『テクストの快楽』(みすず書房、一九七七年)の一節を読む。

 (……)「文」は完結する。それは正に完結した言語活動でさえある。この点で、理論と実践は非常に食い違う。文は権利上無限である(無限に触媒化し得る)と、理論(チョムスキー)はいう。しかし、実践は常に文を終えることを強制する。(……)作家と呼ばれるのは、自分の思想、情熱、あるいは、想像力を文によって表現する者ではなく、文を考える者[﹅6]である。「想文家」だ(つまり、必ずしも思想家という訳でもなく、文章家という訳でもない)。
 (ロラン・バルト/沢崎浩平訳『テクストの快楽』みすず書房、一九七七年(Roland Barthes, Le Plaisir du Texte, Editions du Seuil, 1973)、94~96)

  • 五時半過ぎに上階へ。父親が出していたクリーニングを母親が取りに行って帰ってきた。ついでに買い物もしてきたらしい。階段の手すりに掛けられた大量のワイシャツやスーツなどを下階の衣装部屋に運んでおいたあと、夕食の準備。カレーと前夜のスープが残っていたので、あとちょっとだけ何か拵えれば良いだろうと言って、エリンギを切る。それを玉ねぎや人参やパプリカや鶏のささ身などと一緒にスチームケースに入れて電子レンジで蒸した。エリンギが余ったので、これもささ身と豆苗と合わせて炒め、醤油とバターで味つけ。
  • (……)
  • 再認識したのだけれど、本を読むにせよ文を書くにせよ、音楽を聞くにせよ柔軟運動をするにせよ、それらのコツはすべて同じで、つまり身体をなるべく動かさないということだ。全部それに尽きる。もちろんこちらは生きて心臓を動かし呼吸をしている存在なので、まったく静止することは不可能なのだが、可能な限り不動性を整えた方がやりやすい。文を書いていてもそのことはよくわかる。つい頬とか鼻とかが痒くなって搔いてしまったり、足や腰の座りが悪くてたびたび姿勢を変えてしまったりするわけだけれど、肉体の動きはそれがどんなにささやかなものであろうとも、志向的意識のなかに夾雑物として引っかかってくる。だからなるべく余計な動きをしない方が力を注げる感がある。
  • 夜歩きに出た。上は真っ黒の肌着一枚で、それだと大気がけっこう肌に冷たかったのだが、しかしどうせ歩いているうちに温かくなるのだ。殊更にゆっくりと歩を踏んで西に行き、十字路近くまで来ると森の方から、ホー・ホー、ホー・ホー、という二音で一単位の鳥の鳴き声が聞こえてきた。母親が先般、夜になると梟が鳴いてるよと報告したことがあったが、あれがそうなのだろうか。梟などこのあたりに棲んでいるのだろうか。背後から街灯に攫われて地に落ち伸びたこちらの影の肌着から露出した両腕が、尾田栄一郎の描く女性キャラクターの細腕みたいなシルエットでいかにも貧弱だった。
  • 自販機に売り切れランプがなくなっていたので、業者が入ったらしい。「Welch's まる搾りGRAPE50」を購入し、その右隣にはAsahi「濃いめのカルピス 宮古島雪塩使用」があるのでそれも買うのだが、このあいだまでこの位置は何か別の品物だったはずだ。マイナーチェンジしたようだけれど、以前の品が何だったのかどうしても思い出せなかった。製品の変更からしても業者が来て整備したことは確かなはずだが、そのわりに自販機の表面は蜘蛛の糸が引っかかったりして汚れており、こまかな虫たちも多数群れてもぞもぞうろついている。
  • ボトルを二つ、財布と一緒にジャージのポケットに入れて北方面の、最寄り駅前に続く坂道に入る。道は暗く、平衡感覚がちょっと揺れてきそうなほどに濃い闇がところどころにわだかまっている。街灯はもちろんあるけれど、樹々の梢が影を作る箇所も多いのだ。詩も作りたいなあと考えながら上っていくのだが、しかしなかなか作詩の時間を取る余裕もない。
  • 駅前を東に折れて街道沿いを行くと、煙草屋のシャッターの向こうから何か音楽やドラムの音が漏れ聞こえてくる。この家は夜に前を通るとだいたいいつも何かしらの音楽を掛けていて、それがどうも古き良き時代の洋ロックではないかという気がする。あたりの町並みと言うか空間の様子を見ながら、生まれた土地の見慣れた景色が見慣れないものとして新鮮味を帯びて映ってくるというのはどういう時なのだろうと思い、その後の帰路で考えを巡らせたものの、大して面白い思考は生まれなかった。記憶=情報組織体という定言化や、記憶を網状組織として捉える比喩、記憶ネットワークと眼前の時空との恒常的照合という精神の機能及び原理、そのほか持続的・継起的時空と言うか、要は隙間や空隙のまったくない充満した時空間など、そういった諸々の言い方やイメージくらい。
  • 街道から入った路地の下り坂を行く途中、どこかの家内から猫の鳴き声が聞こえてくる。赤ん坊の声かとも聞こえて判別に迷ったが、歩きながら耳を寄せた感じでは、発音ににゃお、とかみゃお、という感じの丸みがあったし、おおむね一定の反復だったのでたぶん猫だと思う。
  • 帰宅後に風呂に入りつつ、このままじゃあどうせ金だっていくらも稼げないわけだし、一発当てて多少稼ぐことを目指して、売れる物語を本気で狙って書いてみようかな、とかちょっと思った。現在の世界においてもっとも売れている類のいわゆる大衆小説とかライトノベルとかをたくさん読んで研究し、金になる言語構成を学んで自分でもやってみようかなということだ。そんなに簡単なことではないだろうが、三年か五年くらい掛ければたぶんやってやれないこともないだろう。別に金が欲しいわけではないけれど、やはりあった方が楽なものではあるし、こちらには大きな金を稼ぐ能力とか欲望とかがないので、そういう方法でもなければ大金には一生涯、手が届かないだろうと思う。まあそんなことを言いながらも本当にやるかどうか不明だし、やったとしてうまく行くほどの能力が自分にあるかも不明だが、そういう思惑が一時的に浮かんでくるということはあった。
  • 日記の読み返しにて、一年前のものだけでなくて二〇一四年の記事も久しぶりに読み返した。そしてブログに投稿。二〇一四年の文章などむろん見るべき箇所はほぼ皆無で面白いはずもないのだが、一応、削除せずに残している日記記事はすべてブログに上げておこうかなと思ってはいる。そんな過去まで遡って読む人がそうそういるとも思えないけれど、人間、数年間読み書きを続ければこの程度の文章は書けるようになりますよ、という一つの例にはなるだろう。
  • (……)さんブログ、二〇二〇年三月七日、例によって柄谷行人『探究Ⅰ』からの引用。

 私はここでレヴィナスの思想に深入りするつもりはない。ただ彼がいうように、ふつうに、われわれが他者との一対一関係または対話という場合、それが「向かい合わせ」ではなく、つねに何か「共通項をめぐっての関係」だということを確認すればよい。さしあたって、用語法をはっきりさせるために、他者が〝他者性〟としてあるような「向かい合わせ」の関係を「対関係」とよび、相手が一人であろうと複数であろうと、「隣り合わせ」の関係を、「一般的関係」とよぶことにしよう。
 たとえば、誰かを説得するとき、私が「真理」、あるいは抗いようのない論理でそうすることができる場合と、そうできない場合がある。具体的にいえば、後者は恋愛においてである。だから、レヴィナスは、〝他者性〟を「女性的なもの」あるいは「エロス的関係」において見出している。むろん、それは「エロス的関係」にかぎりはしない。たとえば、精神病者を相手にしたとき、私は彼を説得すべき共通の規則を前提することができない。
 (……)
 (……)対関係は、共同の規則なるものの危うさが露出する場所である。むしろひとは、ここからのがれるために、一般的な真理にすがりつく。ちょうど、ひとが恐慌において商品ではなく貨幣にすがりつくように。

 (……)フロイトは、大雑把にいって、次のような主張を行ないました。「死の欲動」は、それ自体は生命体の中で沈黙していて、「生の欲動」と結びつかなければ、私たちには感知されません。けれども、「生の欲動」が生命体を守るために「死の欲動」を外部へ押し出してしまうと、「死の欲動」はたちまち誰の目にも明らかに見えるようになります。それは、他者への攻撃性(暴力)という形をとるのです。ところが、他者への攻撃には、当然危険も伴います。他者が仕返しをしてくるかもしれないし、別の仕方で罰が与えられるかもしれません。それゆえ、これはとりわけ人間の場合ですが、自我は他者への攻撃を断念して、「死の欲動」を自分のうちに引っ込めるということも覚えねばなりません。しかし、自我の内部には、この自分のうちに引っ込められた「死の欲動」のエネルギーを蓄積する部分ができ、それがやがて自我から独立して、このエネルギーを使って今度は自我を攻撃するようになります。この部分のことを、フロイトは「超自我」と名づけました。「超自我」は、フロイトによって、もともと両親(とりわけ父親)をモデルとして心の中に作られる道徳的な存在として概念化されていましたが、フロイトはここに至って、超自我のエネルギーが、実は「死の欲動」に由来するという考え方を示したのです。
 (立木康介『面白いほどよくわかるフロイト精神分析』p.241-242)

  • 次いで二〇二〇年三月八日。同様に柄谷行人『探求Ⅰ』からの引用。

 (……)哲学は、いつも「我」(内省)から出発し、且つその「我」を暗黙に「我々」(一般者)とみなす思考の装置なのである。デカルトがわれわれに記憶されるのは、自己意識の明証性から出発したことによってではなく、「私」が「一般者」であるという暗黙の前提を疑い、それを証明すべき事柄とみなしたことによってである。(……)

  • あと最新記事をちょっと覗いたところ、(……)さんはTwitterのアカウントを削除したようなのだが、彼にTwitterで宣伝したほうがいいっすよみたいなことを言って勧めたのはたしかこちらだったと思うので、いまとなっては、何か余計なこと勧めちまってすんません、という気持ちがちょっと起こる。こちらもTwitterなどもはやどうでも良いのだが、二〇二〇年六月一六日現在、まあ一応まだ残しておいて、ブログの最新記事のURLだけ通知するボットとして使おうかなという感じの気分でいる。本当はあのTwitterという、「言語」と呼ぶに値するものがほとんど存在しない空間において、多少なりとも「言語」らしきものの連なりを黙々と流し続ける機械みたいな立ち現れ方をして、SNS共同体の内部からそれに向けたとてもささやかな批評的行為を実践しようとか目論んでいたのだが、長い文章をいちいち連鎖させてツイートするのが面倒臭くなったので、もう前と同じく日記に導けば良いやとなったのだ。
  • (……)さんのブログも。二〇二〇年二月一一日。以下が良い。

というわけで早々に離脱して木場公園を散歩することに。園内の一角にこじんまりした植物園が設営されている。ほとんど何も咲いてない荒涼たる花壇の区画に沿って、寒々とした冬の景色のなかを歩く、この我々夫婦の習性というのか、宿命というのか、これも不思議に謎めいた反復に思うのだが、なぜ我々は毎年毎年、真冬の植物園に慣例の如く訪れるのか、少なくとも真冬の屋外であれば大抵の植物が生息活動を沈静化させていて、結果として園内ほとんど見どころも無い、商品がほとんどありません的な、あたかも災害翌日の食品売り場のどの棚もすっからかんみたいな様相を呈していて当然だ。枯淡とか虚無とか諸行無常とか、そんな心象を味わうにはふさわしいかもしれない、とまで言うと大げさでこの時季でもスイセンとか梅とか、春を待つ冬芽だとか、数少ない見どころはあることはあるが、しかし黒黒と広がる、所々朽ちた枝葉の散らばった冷たい土の上に、ひたすら植物名の立札だけが白く突き立っているばかりなのを見てると、これはほとんど墓参りに近いなと思う。(……)

  • 四月二六日の日記作成中に「書評子」という語を使ったのだが、この言葉、一般的に存在していたよなと思って確認のために検索すると、「書評子としての大西巨人」みたいな題の記事が出現した。『考える人』のサイトに載っていたものなのだけれど、それを覗いていると関連記事みたいな箇所に蓮實重彦のロングインタビューなるものが出てきて、マジで? こんなの載せてんの? と思って早速「あとで読む」記事にメモしておいた。ほんの少しだけ見たところでは、『ジョン・フォード論』が書かれている最中らしく、「今年の終わりには完成するものと思っています」とのこと。
  • (……)「(……)」の二〇二〇年五月一一日月曜日。土居義岳『建築の聖なるもの 宗教と近代建築の精神史』(東京大学出版会、二〇二〇年)という本を知る。わりと興味を惹かれるタイトルではある。一二日にはリチャード・ローズ/秋山勝訳『エネルギー400年史: 薪から石炭、石油、原子力再生可能エネルギーまで』(草思社、二〇一九年)という書籍も言及されていて、これも面白そうだ。
  • バートリ・エルジェーベトのWikipedia記事を読む。「血の伯爵夫人」の異名を持つハンガリー王国の貴族で、一五六〇年から一六一四年の生なのでシェイクスピアと同時代人だ。「当初は領内の農奴の娘を誘拐したりして惨殺していたが、やがて下級貴族の娘を「礼儀作法を習わせる」と誘い出し、残虐行為は貴族の娘にも及ぶようになった。残虐行為は惨く、歳若い娘を「鉄の処女」で殺しその血を浴びたり、拷問器具で指を切断し苦痛な表情を見て笑ったり、使用人に命じ娘の皮膚を切り裂いたり、性器や膣を取り出し、それを見て興奮しだすなど、変態性欲者だったという」。裁判証言によれば、「エルジェーベトの寝台の回りには、流れ落ちた血を吸い込ませるために灰が撒かれていたという。また、内側に鋭い棘を生やした球形の狭い檻の中に娘達を入れて天井から吊るし、娘達が身動きするたびに傷付くのを見て楽しむこともあった。さらに身体の具合が悪いときには、娘達の腕や乳房や顔に噛み付き、その肉を食べたともいう」。

 1611年1月、[ハンガリー副王]トゥルゾー[・ジェルジ伯爵]が裁判官を務める裁判所は、エルジェーベトの共犯者として従僕を斬首刑に処し、2人の女中を火刑に処したが、エルジェーベト本人は高貴な家系であるため死刑を免れ、扉と窓を漆喰で塗り塞いだチェイテ城の自身の寝室に生涯幽閉されることが決まった。その屋上には、彼女が本来であれば死刑に処せられるべき重罪人であることを示すために絞首台が設置されたという。
 わずかに1日1回食物を差し入れるための小窓だけを残し、扉も窓もすべて厳重に塗り塞がれた暗黒の寝室の中で、彼女はなお3年半にわたって生き長らえた。そして、1614年8月21日、食物の差し入れ用の小窓から寝室をのぞいた監視係の兵士により、彼女の死亡が確認された。(……)

  • Bill Evans Trio, "My Romance (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D1#7)を聞く。イントロでピアノが奏でている和音の途中に、ほんの一瞬瑕が引かれると言うか、かすかにざらついた感触が差し挟まる瞬間があるような気がしたのだが、これは多分マスターテープの問題だろうか? リズムが入ってくると、先日に"All of You (take 1)"を聞いたときの印象よりもベースとピアノの距離がわずかに離れているようにも思われたけれど、これは気のせいかもしれない。ともあれベースの存在感はやはりすごく、まずサウンドの質感からしてやたらと太く、中身が密に詰まっていて充満感がすごいし、登場してからまもない時点での動き、流れ方、その展開の素早さというのは、これはもう唯一無二のものだろう。まだテーマの序盤なのにここまで行っちゃって良いの? という感じで、脱帽させられる。録音バランスとしても少なくとも序盤のうちはベースの占領地が広く、ピアノがやや控えめなように聞こえたのだが、これは確かな印象かどうかわからない。ドラムがスティックに持ち替えたあとはベースもフォービートに移行する。途中、ピアノが毎拍の八分裏にバッキングを打ちこむシーンがあり、そこでのベースとピアノの動きになぜかすごく調和しているような感覚があったのだが、これはたぶんLaFaroが普通にフォービートをやっていたらたまたまうまく嵌まった、という感じではないか。もしかしたらちょっとは調整したのかもしれないけれど。LaFaroには珍しく、ドラムがスティックに替わって以降はほぼ全篇フォービートをやっており、つまり一拍一音の伝統的に普通の弾き方をしているのだが、それだけでも力量が鮮やかに発揮されているのがまざまざと感得される。LaFaroという人間はいつも無闇やたらと動き回るし、ソロも結構こまかいフレーズが多くて大胆な音使いもあるけれど、きわめて基本的な、尋常のフォービートをやっているだけでもめちゃくちゃに強靭で、その音列はすさまじい前進感に満ちている。
  • Diana Krall, "I Love Being Here With You"(『Live In Paris』: #1)も聞く。Peggy Lee詞、William Schluger作曲。Diana Krall(vo / p)、Anthony Wilson(g)、John Clayton(b)、Jeff Hamilton(ds)。ベースの音がぼんやり曖昧に溶けてしまっているのが残念だけれど、ドラムがそれを補っている。Jeff Hamiltonというドラマーのプレイはいつも軽快この上ないが、だからと言ってまったくスカスカではなく芯が充実しており、腰が軽いという感じは少しもない。この曲でKrallが最後に名を呼んでいるRay Brownの『Don't Get Sassy』などでもそうだけれど、風をはらんだようなフィルインの滑らかさ、無摩擦のすばやい回転感というのは屈指ではないか。ギターソロの裏を聞くと、Diana Krallは意外とピアノのバッキングがうまいと言うか、なかなか巧みかつ的確で、なおかつ粋な感じの添え方をしているなと思わされた。
  • 音楽を聞く時間そのものよりも、聞いたあいだに得た印象をそのあとでメモしておく時間のほうが何倍か余計に掛かるので、いつも、二、三曲聞けばもう一時間経っている、ということにどうしてもなってしまう。
  • 新聞記事のメモ。昨日の日記に記録するのを忘れたので、まずは五月一二日火曜日の分から。
  • 朝刊、七面。【元慰安婦、活動家議員を批判/「国政進出に利用」/日韓合意 現金支給巡り圧力か】。「4月の韓国総選挙で左派系与党の公認で当選した慰安婦問題の活動家・尹美香[ユンミヒャン]氏(55)に、元慰安婦から批判が出ている。2015年末の日韓合意で決まった現金支給に応じないよう元慰安婦に働きかけたとの証言や、ソウルの日本大使館前で続ける抗議集会が日韓友好を妨げているとの指摘だ」。「批判の声を上げたのは、尹氏と長年活動を共にした元慰安婦の李容洙[イヨンス]さん(91)だ」と言う。「総選挙では、尹氏は元慰安婦の支援団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連、旧・挺対協)の代表を長年務めた経歴を党に評価され、当選確実とされる比例選名簿7位で処遇された」らしい。「[韓国紙・中央日報の]報道によると、尹氏は「日本のお金を受け取らないで」と電話で迫ったが、女性は慰安婦時代に大きな苦労をしたとして、受け取りを決めたという。現金支給額は元慰安婦1人に1億ウォン(約870万円)で、日本政府の予算で支払われた」。
  • 二八面、【検察定年 議論が過熱/特例延長に法曹界反発】。「検察官の定年を65歳に引き上げる検察庁法改正案が議論を呼んでいる」。「改正案は、現在も定年が65歳の検事総長を除くすべての検察官について、定年を現行の63歳から、段階的に65歳に引き上げる内容」で、「他の国家公務員の定年を65歳に引き上げる国家公務員法改正案と一本化する形で3月に閣議決定され、今月8日に衆院内閣委員会で実質審議入りした」。「これに対し、法曹界からは反発の声が相次」いでいるらしいのだが、「その理由として挙げられるのが、改正案に設けられた「特例」だ。高検検事長や検事正などの幹部は63歳でポストを退く「役職定年」となるが、法相や内閣が「公務の運営に著しい支障が生じる」と判断すれば、最長3年延長でき」、「検事総長を含めた幹部が定年を超えて勤務することも可能となる」と言う。

 河合 しかもシェイクスピアは生涯に3回、感染症の流行を経験しています。最初が生まれた年で、英国南部にある故郷の田舎町では、半年の間に200人以上、村の人口の1割近くが亡くなっている。
 2回目が1593年から翌年にかけてで、当時人口20万人だったロンドンで2万人が死んだ。その直後に誕生したのが「ロミオとジュリエット」です。

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 河合 なぜ、[ロミオとジュリエットの]行き違いが起きたかというと、「薬を飲んだだけだから心配しないで」と記された手紙が、ロミオに届かなかったからです。託された修道士が、途中で疫病の家に立ち寄り、隔離されたためです。

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 河合 3回目が「ハムレット」初演の数年後の1603年です。この年は猖獗をきわめ、ロンドンだけで3万人が亡くなり、当時の市民は、ロンドン全滅と思ったことでしょう。その後も、流行は繰り返し、「リア王」が上演された1606年には7月から4か月間も劇場は閉鎖されました。

  • 一三日朝刊、二五面、磯田道史の「古今をちこち」。【感染楽観 繰り返す悲劇】。

 1920年1月、日本ではスペイン風邪の第三波(後流行)の兆候がみられた。南半球のオーストラリア政府は「新聞電報」等でこれを察知。日本政府に「事実の有無」を問い合わせた。その時の外務大臣内田康哉[こうさい]の返答が「肺炎性寒冒流行ノ状況シドニー領事ヨリ問合ノ件」として外務省に今も残る(以下、引用では適宜、旧字を新字とし、句読点を補う)。
 これを読むと、日本政府筋はすでに感染の波を二度も経験していたにもかかわらず、当初、第三波の襲来を甘くみていたことがわかる。1月9日の段階では、内田外相はこう返電した。「昨年十月十一月ノ頃ヨリ各地ニ分散的ニ患者発生。寒気ノ加ハレルト共ニ其数激増セルノ事実アルモ前年度流行当時に比スレハ、患者数モ死亡者数モ、尚少数ニシテ十分ノ一ニモ達セサル見込ナリ」。原文書の写真をみると、末尾部分は当初「死亡者数モ極メテ少数ニシテ殆ンド云フニ足ラス」とまで書いている。さすがにそれはまずいと思ったのかのちに推敲して棒線で消している。
 (……)スペイン風邪の第三波襲来時(……)内田外相は自信満々にオーストラリア政府に表明した。
 「前年度ノ流行ニ懲リ何[いず]レモ充分ニ警戒【予防ニ注意】シ居レリ、尚外洋航海日本商船内ニ患者発生シタル報告ニ接セス」(【】括弧内は推敲前)。
 ところが、わずか17日間で日本の感染状況は一変する。1月26日、内田外相はオーストラリアに訂正の公電を打たねばならなくなった。
 「其ノ後、病勢激甚ト為リ、昨年流行当時ニ比スレハ発病者ニ対スル死亡率約三倍ニ上リ、一月廿[にじゅう]三日迄[まで]ノ全国患者数ハ既ニ七十八万余名死亡者二万余名ヲ算セリ。昨今、横浜入港ノ東洋汽船会社【外洋航海日本商】船内ニ多数ノ患者ヲ出シ、【猶[なお]】数名ノ死亡者ヲ出シタル例アリ【見ルニ至レリ】」