2020/5/18, Mon.

 なぜ、自然の掟に絶望したり、怒ったりしなければならなかっただろう? アンジョリーナは、母親の胎内でもう正道をはずれていたのだ。彼女が母親に似ていることこそ最も忌むべきことだった。したがって、彼女を非難すべきではなかったのだ。彼女自身が、遺伝の法則の犠牲者だったのだから。(……)
 (イタロ・ズヴェーヴォ/堤康徳訳『トリエステの謝肉祭』白水社、二〇〇二年、97)



  • レーヴィのIf This is a Manと同種の証言録でより最近のものとして、Thomas BuergenthalのA Lucky Child、Göran RosenbergのA Brief Stop on the Road from Auschwitz、そしてMarceline Loridan-IvensのBut You Did Not Come Backという三冊が挙げられている。
  • Levi’s voice was especially affecting, so clear, firm and gentle, yet humane and apparently untouched by anger, bitterness or self-pity. If This Is a Man is miraculous, finding the human in every individual who traverses its pages, whether a Häftling (prisoner) or Muselmann (“the weak, the inept, those doomed to selection”), a kapo or a guard〉という評言は、『これが人間か』に対するこちらの印象とおおむね一致している。とりわけ、〈finding the human in every individual who traverses its pages〉の部分。
  • この記事の書き手であるPhilippe Sandsという人は、ロンドンにあるSouthbank Centreの文学部門長から"to co-curate a public reading of Levi’s account of his life at Auschwitz"を依頼されたと言う。この"public reading"なる催しは、〈Kennedy crystallises what it means for 1,000 or more people to share a space for several hours to hear the words of a humanity-filled book spoken aloud, an experience that offers “a spell to drive back the dark”〉と書かれているので、どうも公開の場で実際に『これが人間か』を音読して皆で聞くという種類のものらしい。もちろん"several hours"のあいだぶっ続けで読むわけではなく、あるいは本全体を隈なく読むのでもないとは思うが、そうだとしてもこれはすごいなと思った。プリーモ・レーヴィの『これが人間か』という著作を読み、聞くために、一〇〇〇人以上の人々が一つの場所に集まって数時間も過ごすわけだから。そのようなイベントがひらかれるという一点だけ取っても、イギリスという国は文化的・芸術的基礎体力の面で我らが日本国よりもはるかに優れているではないか、とこちらなどは思ってしまう。
  • しかも、この催しには一五人の朗読者が招かれ、そのなかにはレーヴィと同じ時期にアウシュヴィッツに囚われていたという生存者や、一五歳のときにルワンダ虐殺を経験して家族を殺されながらも生き延びた人などが含まれている。さらには極めつきとして、Niklas FrankとPatrick Lawrenceという二人の名前が挙がっているのだが、このうち前者は第三帝国下でポーランド総督だったハンス・フランクの息子であり、後者の祖父は、ニュルンベルク裁判で裁判長を務め、まさしくハンス・フランクに絞首刑を言い渡したジェフリー・ローレンスその人だと言う。かなりすごいイベントではないか?
  • 「映画の「現在」という名の最先端 ――蓮實重彦ロングインタビュー」: 「第5回 蓮實重彦の批評は難解なのか――『FILO』誌編集部による後記」(2020/5/12)(https://kangaeruhito.jp/interview/14529)を読んだ。インタビューの聞き手であるホ・ムニョンという人によるこの文章自体は、正直、とりたてて大した総括ではないと思う。ただ一箇所、蓮實重彦の文章的性質として「蔓衍体」という表現が出てきており、読み方がわからなかったのだが、これは「まんえん」で、すなわち「蔓延」と同義である。それで気づいたのだけれど、蔓延の「蔓」とは蔓草のことなのだ。
  • 最低賃金が1ドル上昇すると自殺率が最大で6%減少するという研究結果」(2020/1/9)(https://gigazine.net/news/20200109-minimum-wage-linked-suicide-rate/)。「アメリカのエモリー大学の研究チームによる調査で、「最低賃金が1ドル(約110円)上昇すると人々の自殺率が3.5~6%減少する」ことがわかりました」。「2017年のアメリカにおける自殺者数は4万7000人ほどとみられており、中でも18歳~24歳の若者世代では、死因の20%近くが自殺だとのこと。アメリカ人の自殺率は年々上昇を続けており、1999年~2017年にかけて全体の約半分の州で自殺率が30%以上増加したそうです」とのこと。

 (……)エモリー大学の研究チームは1990年~2015年の期間における、アメリカ全州の最低賃金や、18歳~64歳の失業率および自殺率などの月次データを分析しました。
 研究チームによると、1990年~2015年の研究期間中に、アメリカ全体で478件もの最低賃金政策の変更があったそうです。アメリカでは連邦最低賃金と州ごとの最低賃金がそれぞれ定められており、いずれか高い方を実際の最低賃金にすることとなっています。1990年の時点で連邦最低賃金は3.8ドル(当時のレートで約600円)でしたが、2015年には7.25ドル(約800円)に上昇。また、2015年の時点ではワシントンD.C.と29の州において、州が定める最低賃金が連邦最低賃金を上回っているとのこと。
 1990年~2015年の期間において、18歳~64歳の高卒あるいはそれ以下の学歴を持つ人の自殺者数は39万9206人であり、大学の学位あるいはそれ以上の学歴を持つ人の自殺者数は14万176人でした。連邦最低賃金と州ごとの最低賃金の差額と、自殺率・失業率の関連を分析した結果、最低賃金が1ドル上昇するごとに、高卒やそれ以下の学歴を持つ人の自殺率が3.5~6%減少するという関係が見いだされました。なお、最低賃金の変化は大学の学部卒やそれ以上の学歴を持つ人の自殺率には影響しなかったとのこと。
 また、最低賃金と自殺率の関係は、州レベルの失業率による影響を受けていました。失業率が6.5%以上あった場合、最低賃金が高くなるにつれて自殺率が減少しましたが、失業率が低かった場合は、最低賃金と自殺率の関係は弱くなったそうです。

  • 「毎月5万4000円を市民に配り続けた結果何が起こったのか?という記録」(2019/12/12)(https://gigazine.net/news/20191212-giving-families-money-seed-project/)。「「毎月500ドル(約5万4000円)が市から家族に対して支給され、自由に使うことができる」というプロジェクトが、アメリカ・カリフォルニア州のストックトンという都市で実施されています。Stockton Economic Empowerment Demonstration(SEED)と呼ばれるこのプロジェクトは、生活に困窮する人々が必要なお金を手に入れたら一体何が起こるのかということを調べるための社会実験の1つで、アメリカ最年少の市長である29歳のMichael Tubbs氏がEconomic Security Projectの協力のもと実施しています」。

 「政府が現金を支給すると人々は働かなくなる」という意見はこれまでも見られるところでしたが、SEEDプロジェクトによって示された結果はこれとは真逆のものでした。例えば、被験者の一人であるトーマスという人物は金銭的な余裕ができたことで次のキャリアについて考える余裕ができ、子どもと過ごす時間を増やしながら、より支払いのいい仕事について調査し、準備し、申し込むことができたとのこと。現金支給を受けたことで「時間」が生まれ、初めて次のステップに進む余裕が生まれたわけです。
 他の被験者についても同様のことが言え、この余分な5万4000円によって人々が得た最も価値のあるものは「時間」であることがわかりました。親となる時間、休む時間、コミュニティの一員になる時間などさまざまですが、ある人は副業として行っていたLyftのドライバー業をやめ、ある人は家族と過ごすために賃貸アパートの頭金を払うことができました。余分なお金があることで、引っ越しして通勤時間を削減したり、残業時間を減らしたりして、「時間」を買うことができます。(……)

  • 新聞記事。朝刊一面、【検察庁法案 見送り検討 今国会 世論反発に配慮】。「検察官の定年を延長する検察庁法改正案の今国会成立を見送る案が、政府・与党内で浮上していることが17日、わかった。野党や世論の批判を押し切って採決に踏み切れば、内閣にとって大きな打撃になりかねないためだ」。「束ね法案」と呼ばれる一本化法案の一環である改正案は、「検察官の定年を63歳から、ほかの国家公務員と同じ65歳に引き上げることが柱」で、さらに「内閣や法相が必要と判断した場合、検察幹部の定年を最長で3年延長できる特例規定も盛り込まれている」と言う。そして、「特例は、担当者の交代で「公務の運営に著しい支障が生ずる」場合などに限って適用すると明記されている」らしいのだが、「「公務の運営に著しい支障が生ずる」場合」なる事態が具体的にどういったものなのかは、検察制度の内実を知らないこちらには推測のしようもない。
  • 政府・与党内には「世論の理解が不十分なままに採決に至れば、禍根を残す」という声が出ているらしく、自民党のある幹部も「無理をすれば、国民の不満が爆発する」と述べているが、その一方で、「今国会で一気に処理した方が傷が浅い」という「閣僚経験者」の意見もあるとのことだ。これら三つの関係者の発言を並べてみて観察されるのは、いずれにせよこの改正案を成立させるということ自体は、三者のうちの誰も既定方針としてまったく疑っておらず、彼らにとっての問題は、そうした行為が「国民の不満」感情や内閣への支持に与えるネガティヴな影響(「禍根」もしくは「傷」)だということである。少なくともこれらの発言の範囲では、この改正案自体がそもそも必要なものなのか否か、正当と言えるものなのかどうかという問いは提起されていない。したがって、この新聞記事に記されている情報の限りでは、彼らの主要な関心は内閣の保身である。新型コロナウイルス騒動で世情が混乱し、さまざまな批判も受けている現状、今国会でこの法案を無理に成立させると「国民の不満が爆発する」可能性があり、自己延命の観点からして戦術的に得策ではないので、いまはひとまずやめておいてほとぼりが冷めてから改めてやろう、ということで、だから「秋の臨時国会の成立でも間に合う」という風に大事を取った「政府関係者」の声が出てくることも当然だ。いずれにしても先にも述べたように、少なくともここにおいては、この改正案そのものが本当に必要なのだろうか、必要だとして、それは納得を得られる適切な形の制度として成立することになるのだろうかという、より問われるべきだと思われる問いはまったく問われていない。 
  • 上の記事に続いて、恒次徹という社会部長の人による【検察の独立性 守れるか】という論説が載せられている。それによれば、「検察トップの検事総長に関する人事上の慣行も独立性を担保する大事な要素となってきた」らしく、具体的には、「任命権は内閣にあるものの、検察は検事総長候補を早い段階から1人に絞りこみ、内閣が検察の意思を尊重することが通例だった」と言う。また、「総長は65歳の定年を待たずに退職し、次の候補者に道を譲ってきた」とも言い、「過去10代の検事総長は、大阪地検の証拠改ざん事件で引責し、早期に辞任したケースを除き、おおむね2年程度在任した後、定年まで半年程度を残して退職している」。今回の特例規定に関しては、「将来の政権が、検察を人事を通じて操ろうという誘惑に駆られないだろうか」という懸念が表明されており、検察制度の公正さを今後も確保するためには、「法案の修正、もしくは検察の自律的な人事を損なわない運用の明確化が不可欠だ」と主張されている。
  • 一六日以降の新聞記事を日記にメモするのを忘れていたので、それらもここに記録しておく。と思ったのだけれど、新聞を読み返していたら何だか面倒臭くなってしまったので、やはり割愛する。


・作文
 18:52 - 19:35 = 43分(4月28日)
 20:18 - 21:07 = 49分(4月28日)
 22:33 - 24:13 = 1時間40分(4月28日)
 26:01 - 28:26 = 2時間25分(5月17日)
 計: 5時間37分

・読書
 16:11 - 16:26 = 15分(英語)
 16:32 - 16:56 = 24分(記憶)
 17:28 - 17:50 = 22分(記憶)
 17:52 - 18:50 = 58分(Sands)
 24:48 - 25:25 = 37分(gigazine
 計: 2時間36分

・音楽