2020/5/21, Thu.

 カフカは文学と結婚の両極間で揺れ動く。しかし彼はこの両者が並立する方策を見つけ出すことも、またどちらか一方を手放すこともできない。従ってカフカは結婚の決断を、いたずらに引き伸ばさざるをえなくなる。これがフェリーツェとの交際が五年間にも及んだ所以であった。この期間は彼女にとって地獄の苦しみであった。しかし彼の方は、確かに彼女に対して責任を感じ、また良心の呵責を覚えながらも、二人が付き合う以前よりもはるかに充実した生活を送ることができた。なぜなら彼女との交際は、創作活動に起因する孤独を癒してくれるだけでなく、カフカの結婚観に由来した独り者の後ろめたさを一時的に解消してくれたからである。しかも二人の交際が距離を保って続く限り、彼は同棲したいという欲望を絶えず創作エネルギーへ転化させることもできたのである。以上のことを考えれば、カフカにとってこの交際は、ある程度理想的な機能を果たしたといえる。
 フェリーツェとの交際は独身者の負い目を軽減させてくれたものの、いよいよその延長上にある結婚を迫られたとき、カフカにとって逆に大きな重荷となった。彼は交際の永続を願うのであって、結婚の成就を願ってはいなかった。(……)
 (高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』鳥影社、二〇〇三年、116~117)



  • 驚くべきことに、何と八時五七分に身を起こすことに成功した。滅多にない快挙。滞在は四時間三〇分に留まる。天気は曇りで、雨は降っていないようだが気温は低め。覚醒自体は八時半ごろ迎えていたが、起き上がるまでの時間でいくらか身体をほぐしつつ、「ソクラテスアリストテレスプラトンを生涯知らず死ぬひと多し」という一首を作った。
  • 夢。Uさんにまつわるものだった。何の主題だったか忘れてしまったが、彼が何か社会的・政治的に重要な種類の問題について論考を書き、ブログに載せられてあったそれが雑誌か何かに取り上げられたという話だった。それでUさんの家に行って話を交わす。帰りは彼が車で送ってくれたのだが、通常運転席があるはずの前部には男児が就いており、Uさん自身は後部座席にいる。男の子について、弟さん? と訊いてみたものの、二〇歳と一九歳の夫婦の息子、みたいな曖昧な返事があり、弟とも確定できず、何か複雑な事情があるような気配が香る。こちらは可愛いねえ可愛いねえと言って、その男児をいたく可愛がる。そうしているあいだにも車は走っているのだけれど、それはこの男児が動かしているのか、それとも後部座席からUさんが走らせているのかわからない。じきに空港らしき場所に到着したが、こちらは飛行機に乗って帰るつもりはなかった。そんな金がないからである。それで、電車は……と尋ねてみると、施設のなかの入れるところまで入っていきましょうか、みたいな返答があり、見ればそばの広い口の向こうがどうも駅構内になっているらしい。電光掲示板か何かが見えてそれと判別できたのだ。で、車のままそのなかに入っていき、その後降車して二人と歩いたと思うが、男の子いわくここは豊洲だと言うので、ここが豊洲市場豊洲か、と受ける。
  • 朝食に久しぶりに、「カンタン酢」を混ぜた納豆を食う。新聞は一面に、例の黒川検事長が緊急事態期間中に賭け麻雀をしていたというスキャンダル。週刊文春がすっぱ抜いたらしい。ほか、国際面に、韓国でいわゆる元従軍慰安婦の人々を支援していた団体の元理事長が支援金を流用していたとか、こちらもスキャンダルがある。これらはあとで写しておくこと。
  • 洗い物のために台所に入ると、小さなビーズのように見えるユスラウメの実が近くにある。母親が採ったようだ。それでユスラウメってのは今ごろの時季に実るものだったかと、はじめて明確に時節と結びつけて認識した。ユスラウメの「ユスラ」って何なの、と母親に訊いてみると、何だろうねと言って彼女はスマートフォンで調べるのだが、そのときにわざわざ音声入力を使って、ユスラウメのユスラって何て意味、と携帯に声を掛けていた。「揺する」という語と関係があるのかなと思っていたわけだけれど、初夏に実って樹を揺すると容易に実が落ちるから、という説が一つにはあるらしい。ほか、ユスラは漢字で「山桜桃」と書くのだが、「櫻」という文字は昔はこのユスラを意味していたらしく、ユスラウメの実りを首飾りをつけた女性の姿に見立てたのだとか。なるほどなあ、という感じ。
  • 風呂洗いののち洗面所に椅子を持ってきて上り、壁に取りつけられた扇風機を掃除する。掃除機で吸ったり雑巾で拭いたりして埃を駆除していくのだが、その量はものすごく、たぶん一〇年くらい掃除していなかったのではないか。ほか、電灯も同じく掃除。電灯を守っているガラス製のカバーを外そうとしたところが中途半端に緩んだだけで外れず、しかも接続がずれたのか明かりが点かなくなってしまったのでどうしたものかと思ったのだけれど、電球を外してみるとその裏に留め具があり、これを回せば器も外せることが判明した。それでカバーは外し、電球をつけ直して露出させたままにする。はじめはそれでもやはり明かりが灯らず困っていたが、スイッチを入れたまま電球に触れてちょっと動かしてみると無事光りだしたので解決。
  • 昨日読み返した苦行者の断片をLINEで「(……)」の人々に紹介しておいた。以下が文言。

 (……)

  • 過去の日記は二〇一九年四月二九日月曜日。ムージルの書抜き。

 (……)むろん彼も、永遠の真理が不可欠なことには反対しないであろうが、これを文字どおりに受け取る人間は気がふれていると確信していた。(……)
 (加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』松籟社、一九九二年、280)

  • 今日もMさんのブログ。二〇二〇年三月一七日。

 禁止と侵犯をめぐるラカンの議論は、ジョルジュ・バタイユが『エロティシズム』(1957)のなかで展開していた議論を下敷きにしていると考えられる。バタイユは、人間のエロティシズムの究極の意味は「融合」であると考えた。ラカンの言葉で言えば、言語の世界に参入する際にもはや取り返しがつかないような形で失われてしまった〈物〉とのあいだに連続性を回復することが、エロティシズムでは目指されているのである。しかし、〈物〉との融合は禁止されているため、ひとはその禁止を不安のなかで侵犯するようにして背徳的な快を得るほかはない。ただし、侵犯を行っても禁止がなくなるというわけではなく、むしろ侵犯の存在こそが禁止を完全にしているとバタイユは指摘している。〈物〉への到達を禁止されている人間にとって、侵犯は〈物〉において想定される快を断片的な形で与えてくれるだけであり、侵犯によって〈物〉への到達が可能になるというわけではないのである。
 (松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』p.274-275)

  • 身体は以前に比べれば感触が相当になめらかで軽いのだが、しかし首の後ろから肩あるいは背面上部に掛けてがやはり強敵で、かなり柔らかくなってはいるものの根幹部分にどうしても引っかかりが残る。それを措いても、毎日目覚めるたびにほぐれたはずの首が眠りを経てまた張っている感じがするのだが、これはやはり仕方のないことなのか、それとも枕が合っていないのか。
  • 音読後の一時半、昼食へ。「マルちゃん正麺」の旨塩味をこしらえる。玉ねぎと人参のスライスを具にして、それを先に鍋に入れて煮込み、そのあとから乾麺を投入すると箸でかき混ぜながら茹で、スープを入れておいた丼に茹で汁とともに注ぎこむ。つるりと丸く白いゆで卵を乗せて完成。新聞を読みつつ食す。一面は【黒川検事長進退論 浮上】で、「「週刊文春」電子版は「接待賭けマージャン」の見出しで、黒川[弘務]氏[(63)]が1日夜から2日未明と13日、産経新聞記者と朝日新聞社員の元記者と、産経記者の自宅マンションでマージャンに興じたなどと報じた。産経関係者の証言として、黒川氏が以前から賭けマージャンをしていたとも記している」とのこと。見事に無様な展開なのだが、何と言うか、こんなに典型的で、ある方面の人々にとっては都合が良いこと、実際にそうそうあるかなあという一抹の胡散臭さも感じないでもない。週刊文春はこういうネタを一体どこから掴んでくるのか、またいつから掴んでいたのだろうかとも思うけれど、やはり一番スキャンダラスに響く、もっとも効果的なタイミングを狙っているのだろうなあ。
  • 二面には【米、WHOに改善要求 脱退言及 トランプ氏「より公正に」】。「米国のトランプ大統領は19日、世界保健機関(WHO)が中国との関係見直しを進めなければ、WHOを脱退する意向を示した」。ドナルド・トランプはWHOが中国以外の国々に対して「より公正にならないといけない」と主張し、「さもなければ我々はもう加わらない。独自のやり方で行う」と断言したとのこと。「トランプ政権は、新型コロナウイルスを巡る中国の対応を称賛するWHOを「中国寄りだ」と批判している」のだ。同じく二面にはいつも長谷川櫂の句歌紹介があるが、今日は村松二本という人の『月山』から、「一片の肉塊として朝寝かな」という句が引かれていて、これはまさにこちらの生活をとても正確に言い当てている。
  • 三面には【台湾「現状維持」鮮明 2期目スタート】。「蔡[英文]氏は1月の総統選で史上最多の約817万票を獲得して再選された。さらに、政権の新型コロナウイルス対策は国際的に高い評価を受け、最近は一部の世論調査で支持率が70%を超えた」というのはすごい。米国は当然ながら中国を牽制する意図で台湾をサポートしており、「ポンペオ国務長官は19日の声明で「台湾は信頼できるパートナーだ」と、就任を祝福した」し、総統就任式には国務次官補と大統領副補佐官もビデオメッセージを寄せたと言う。「米歴代政権は1979年の米台断交後、国内法である「台湾関係法」に基づき、台湾に対して防衛に必要な武器供与などを行ってきた」らしく、国交断絶しているのに国務長官が祝福メッセージを送るというのも何だか変な話だなあと思ったところ、Wikipediaの「台湾関係法」によれば、この法律で「1979年以前の(かつて中華民国として認識していた)台湾とアメリカ合衆国との間のすべての条約、外交上の協定を維持する」こと、「台湾を諸外国の国家または政府と同様に扱う」ことが規定されていると言うので、実質上これで国交の代わりということなのだろう。
  • 七面、【慰安婦団体を捜索 韓国検察 前理事長 補助金流用疑い 「療養施設」高値で購入、売却】。「韓国検察は20日午後、韓国で慰安婦問題を巡って反日運動の拠点となっている市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)のソウル市内の事務所を捜索した。国庫補助金や寄付金を流用した疑いがあるとして、市民団体などが前理事長の尹美香[ユン・ミヒャン]氏(55)と現理事長を詐欺や横領、背任容疑などで告発していた」とまず冒頭にあるのだけれど、仮にも日本国で最大規模のメディアの一つが「反日運動」などと言って、現代においては明らかに「ネット右翼」的なニュアンスを帯びているはずの用語を堂々と用いてしまっても良いのだろうか。「尹氏は4月の国会の総選挙で左派系与党から比例選で当選しており、政界も大揺れとなっている」とのことだが、この件で韓国という国家及び人民総体をなぜか知らないが心の底から嫌悪している類の人々が、例えばTwitterのような電脳空間で、鬼の首でも取ったかのように唾を撒き散らして軽率な言葉を威勢よく吐きまくることになるのは、まあ間違いのない見通しだろう。
  • 疑惑の具体的な内容としては、「朝鮮日報など韓国メディアによると、正義連は挺対協時代の2013年、大企業の寄付金を原資にソウル近郊の京畿道[キョンギド]安城市内で、2階建ての家屋を元慰安婦の療養施設にするとして購入した。相場より高い7億5000万ウォン(約6500万円)で尹氏の親しい知人が仲介した。/しかし、施設は元慰安婦のためにはほとんど使われず、今年4月、4億2000万ウォンで売却した」という経緯が挙げられている。また、「正義連と挺対協は税制上の優遇措置がある公益法人に認定されて」おり、「聯合ニュースによると、両団体は16~19年に政府から計約13億4300万ウォンの補助金を受けた」ものの、「国税庁に提出した決算書には補助金の記載がなかったり、金額が過小だったりして」いて、「保守系紙・朝鮮日報は19日、5年間で計約2億6000万ウォンの使途不明金があると報じている」とのこと。
  • ほか、【コロナ対応「世界で孤立 中国改革派が批判論文】。「中国の改革派知識人として知られる清華大学の許章潤[シュー・ジャンルン]・元教授が22日の全国人民代表大会(国会)開幕に合わせ、習近平政権の新型コロナウイルスへの対応を批判する論文をインターネット上で公開することがわかった」。「論文は「世界文明の大洋の上にある中国という孤独な舟」との表題で、国内での新型コロナの防疫措置と国際社会への対応が中国の異質さを際立たせており、世界での孤立化が進むと警告するものだ」と言う。具体的には、「武漢市の封鎖措置などが効果を上げたことは認めつつも、「日常的な専制状態を拡大させたにすぎない」として、欧州主要国などが非常事態の措置として行った都市封鎖などとは別物だと指摘し」、「むしろ、当局による情報の遮断や、権力に対する社会の監視機能の欠如といった問題点を列挙し、感染拡大で共産党の一党支配体制の「弊害が露呈した」とも指摘し」ているらしい。この人は、「2018年、国家主席の任期制限を撤廃した習政権を批判したことで、昨年3月に停職処分を受けていた」人物で、さらに「昨年12月の最終処分により、許氏は学内に籍を置くものの、教授職などの主要な職務を解かれ」、「自らの見解を発表することも禁止されている」とのことだ。
  • ふたたびMさんのブログ、二〇二〇年三月一八日。例によって松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』。

(1) 〈物〉ないし享楽の痕跡の第一のパラダイムは、到達不可能なはずの享楽を、別の仕方で到達可能なものにすることと関係している。先に述べたように、人間の欲望は、失われた原初状態である〈物〉を回復しようとする空想に支えられた、不可能な試みである。対象aは、このような欲望の支えとして導入される(S10, 52)。つまり、〈物〉の喪失の場に、〈物〉の痕跡をとどめる特権的な対象(a)を置くことによって、主体と〈物〉のあいだに一定の関係をつくることが可能になるのである。
 精神分析家ドナルド・ウィニコット(1953)が「移行対象 objet transitionnel」と呼んだものは、人生の最初期における対象aであると考えられる。周知の通り、移行対象とは、幼児が全能性を喪失する(=享楽を喪失する)際に現れる特権的な対象である。例えば、子供は特定の毛布を手放さず、つねに手元においておこうとすることがあるが、この毛布が移行対象にあたる。この移行対象は、母の乳房のような母子関係における重要な対象の代理であることをウィニコットは指摘している。(……)
 また、移行対象は子供のときにだけみられるのではなく、後の人生のなかでもフェティッシュとして現れる。実際ラカンは、対象aが欲望の支えであることを、フェティッシュの機能を参照しながら論じている(S10, 122)。周知の通り、フェティッシュは、母の身体におけるペニスの不在を発見した子供が、その欠如を覆い隠すことのできるもの(例えば、下着)として採用する任意の対象である。このフェティッシュは母の身体そのものではないが、母の身体の痕跡となり、人間の欲望の原因 cause として機能する。この意味で、対象aは〈物〉そのものではないが、〈物〉という高額紙幣を分割した末に残る「〈物〉の小銭」(Miller, 1999b)、すなわち〈物〉の断片であると言いうるのである。

  • そのあと片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語事典』を参照しつつ、「また、「子供の前に現れたりいなくなったりするような存在」である母は、想像的母ではなく象徴的母である。なぜなら「不在」(あれがない)という次元が成り立つのは象徴界だけであるからだ。想像界においては「不在」はありえない」とMさんによる整理があり、それについて松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』を引いて補足されているところでは、以下のようなことになる。

 (…)母子関係において母の現前と不在、「いない-いた Fort-Da」の気まぐれなリズムが繰り返されることによって、+と-が連続する象徴的なセリーが形成される。これが前駆的な象徴機能(原-象徴界)であり、ラカンはこれを「母の欲望 désir de la mère」(DM)と呼んでいる。ミレールも指摘するように、母の欲望は、子供の前を不規則に(気まぐれに)行ったり来たりする「いない-いた Fort-Da」の運動として象徴的に分節化されたシニフィアンなのである(Miller, 1994: Cours du 16 mars 1994)。すると子供は、母が自分の前を行ったり来たりすることが何を意味しているのかを想像するようになるが、それは母の欲望というシニフィアンに対応するシニフィエが何であるのかを問うことに等しい。このシニフィエ、母が欲望する何かのことを、ラカンは「想像的ファルス」と呼ぶ(ただし、この段階では母の欲望の対象である想像的ファルスは不明瞭な「x」のままにとどまっている)。
 (松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』p.201)

  • そのほか多田智満子『遊星の人』からの抜き出しに、「てのひらに裏表あり裏返し表返して病める日暮れぬ」という一首があって、それで古井由吉が書いていた「手鏡」のことが思い出された。たしか『野川』に記されていなかったかと思ったのだが、書抜き記録を調べてみると『白暗淵』のほうだった。

 (……)周囲はもう鳴り出しに感じて、順順に目を瞑るその中で、一人だけ聾啞の目を闇へ瞠る顔が浮かんで、何も聞き取れぬ耳から気がふれそうで、仰向けの窮屈な姿勢から腕を伸ばし、枕もとを探り、手当り次第の物を摑み、縋るように握りしめ、ぽとりと蒲団の上へ落した。その音で緊張を紛らわす。
 その手を下に降ろさず、顔の上へかざし、足もとの窓から細く差す夜の明かりに照らして、握ったり開いたり、指を伸したり鉤に曲げたり、さまざまな形に捩っては、惹きこまれて眺めていた。手鏡ではないか、と我に返った。驚きも怯えも起こらなかった。先の見えた病人が我と我手を顔の上へ浮かせてしきりに眺めるというあの手鏡とは、俗に言われるように視力の衰えを確めているのではなくて、これまで自然に自分のものと感じていた身体が見馴れぬものに、不思議なものに、奇妙な生き物のように映るのを怪しんでいるのではないか、と手の動くのにまかせて思った。(……)
 (古井由吉『白暗淵』講談社、二〇〇七年、40~41; 「地に伏す女」)

  • 次にSさんのブログ、二〇二〇年二月二一日。保坂和志「季節の記憶」の引用から一部孫引き。

 「言葉にならない気持ち」と言ってしまうと、気持ちが先にあってそれを言葉にしていくみたいなことになってしまう。みんなたいていそう思っているけど本当は逆で、気持ちよりも先に言葉がある。恋愛なんていうのはその最たるもので、人は自分の気持ちと呼べる以前の、方向や形の定まってない内的なエネルギーを"恋愛"という既成の形に整えていく。そういう風に人間は言語が先立つ動物のはずなのにその言語から”気持ち以前の何か(傍点)“が洩れているようなことを感じることがあって、自分には十一月のこの季節がそうなんだと松井さんは言った。

     *

 「(……)犬や猫は言語がないから、人間よりずっと簡単に陽気の変化に対応してるだろ?あいつらは言語を持たなかったおかげで、状況をあるがままに受け入れられるんだよ」

  • 夕食には天麩羅を揚げる。母親が畑から春菊を大量に採ってきたので、それにコーンと舞茸を合わせて調理し、ほか、ウインナーとごく小さな大根を葉ごとまとめて炒め、また同じく畑で採った水菜を母親が豚肉で巻いたのでそれも焼く。揚げ物のうちに六時も過ぎて腹も減ったし、量も多くて面倒臭くなったので、母親に替わってもらって食事にした。食べながら夕刊を読む。
  • 三面に、【米、外国企業監視強化へ/中国念頭 上場制限/上院で法案可決】。「米議会上院は20日、米国で上場する外国企業の監視を強化する法案を全会一致で可決した」。「法案は、米市場に上場する外国企業を対象に、3年連続で米国の監査基準に違反したりすれば上場廃止にする」ものだが、「ニューヨーク証券取引所新興市場のナスダック証券取引所などには、電子商取引大手のアリババ集団、インターネット検索の百度バイドゥ)など156社(2019年2月時点)の中国企業が上場している」と言う。
  • 【米脱退示唆 WHO「精査」/コロナ感染 1日最多10万6000人】。世界保健機関のテドロス・アダノム事務局長による二〇日の記者会見によれば、「新型コロナウイルスの世界全体の感染者が、この日までの24時間で10万6000人増え、1日として過去最多だった」とのこと。米国の脱退可能性については、「記者会見に同席した緊急事態対応を統括するマイク・ライアン氏は、米国の拠出金の多くは緊急の人道支援に使われていると説明した。その上で、拠出の停止や減額について「世界でも、最も立場の弱い人たちに必要な医療支援を届けることに影響が出ることになる」と強調し、翻意を求めた」。新たな感染者が多いのはブラジル、ロシア、インドなどで、「米ジョンズ・ホプキンス大の集計では、20日夜(日本時間21日午前)時点で世界の感染者は499万人を超え、500万人に迫っている」。
  • 【中国失政 損害9兆ドル/ポンペオ氏 コロナ対応批判】曰く、「米国のポンペオ国務長官20日の記者会見で、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に関連し、「中国共産党の失政により、世界が被った損害は9兆ドル(約970兆円)近くに上る可能性がある」と述べた」。そして「米国内では中国に対し、感染拡大による損失分の賠償や経済制裁を科すべきだとの声」もあるらしいが、とは言えマイク・ポンペオは、「損害額の具体的な算出根拠は「我々の試算」とするだけで示さなかった」。
  • 【米、台湾に魚雷売却へ】によると、「米政府は20日、台湾にMK48魚雷18発など計1億8000万ドル(約190億円)相当の武器を売却することを決定し、議会に通告した」。「MK48魚雷は潜水艦搭載用」の兵器らしい。この決定は例の「台湾関係法」に基づくものだ。
  • Wikipediaから「JOJO広重」を読む。非常階段のオリジナルメンバー。「1997年、自らの歌とノイズというスタイルで、JOJO広重としての初のアルバム『君が死ねって言えば死ぬから』を発表」とあるが、このタイトルは何だかどこかで聞いたことがあるような気もする。ディスコグラフィーを見るとこれに始まって、『みんな死んでしまえばいいのに』とか、『このまま死んでしまいたい』とか、『生きている価値なし』とか厭世的な文言の題がいくつか並んでいて、その徹底した陰鬱ぶりにはちょっと笑う。二〇一三年には『Osaka Fortune』という作品を作っているが、その共作者としてPaal Nilssen-Loveの名があり、あ、そうなんだ、そこ繋がるんだと思った。
  • 「非常階段がステージ上での放尿や嘔吐などのパフォーマンスで知られる事に関して、広重自身は「ノイズをアートにしたくない。偉くなりたくなかった。僕らは、昔のプロレスでいう反則レスラー。この本は、30年間アホでしたという記録です。」と語っている[3: 近藤康太郎 (2010年9月5日). “非常階段―A STORY OF THE KING OF NOISE JOJO広重さん”. 朝日新聞 (朝日新聞社) 2013年1月26日閲覧。]」
  • あと、何だかよくわからないが初音ミクとノイズを合わせた「初音階段」なるプロジェクトもやっていたらしく、そのライブでは白波多カミンという人が初音ミク役を務めたと言い、JOJO広重はこの歌手の『くだもの』(二〇一四年)という作品をプロデュースしているのだが、同作では坂田明がゲストでサックスを吹いているという話なので、ちょっと気にならないでもない。
  • 「豊住芳三郎」も続けて閲覧。富樫雅彦に師事していたらしい。宮間利之のニューハードというバンドに参加しており、Charles Mingusの来日時にはその一員として『Charles Mingus with Orchestra』を作ったようだ。
  • 寺山修司の戯曲である「毛皮のマリー」の記事も読んだが、「あらすじ」が驚くほどに下手くそな文章で書かれている。この劇の公演はもともと横尾忠則が美術担当だったが一悶着あって取り下げとなり、舞台衣装担当のコシノジュンコも主演の美輪明宏と揉めたらしい。「本作はアートシアターにおける大ヒット作となり、批評の点でも好評であった。劇団発表では、初演及び10月再演であわせて4600名の観客を動員している[27: 『天井棧敷新聞』昭和42年12月10日号、『天井棧敷新聞全縮刷版』アップリンク、1997]」とのこと。
  • 風呂で湯に入る前に例によって入念に柔軟運動をする。腰ひねりをかなりやった結果、出たあとは下半身のほうがむしろ疲れたと言うか、かえって重たるいような感じになってしまった。九時過ぎから四月三〇日の記事を書こうとしたものの、そのせいで強い眠気にまとわりつかれたので、やむなくベッドに移る。奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年)をちょっと読んでから仮眠。
  • 深夜、「少年ジャンプ+」で尾田栄一郎ONE PIECE』が最初から無料公開されていたので、まあ幼い頃の思い出をちょっとたどってみるかというわけで、一話から読みはじめた。『ONE PIECE』と言えば例の「どん!」という効果音の描き文字がとても有名で、ほとんどトレードマークみたいになっていると思うけれど、それははやくも五頁目、子供時代のルフィが一番最初に登場する場面から使われている。ここではエクスクラメーションマークは二つで、つまり「どん!!」だ。その次のシャンクスの登場場面では「っ」が入っており、強調符は一つのみ。すなわち、「どんっ!」である。この二人の主要人物のみならず、説話上さほどの重要性を担わないと思われる――彼女が出てくるのはたぶん、ほとんどこの一話だけだと思うのだが――酒場の店主マキノを示す立ち絵の後ろにも同様に、ここではしかし縦向きで「どん!!」がある。
  • 効果音上の特徴としてはあと、「…」を付すことが結構多いように思われて、一番最初の頁、海賊王ゴールド・ロジャーの処刑のシーンからして、ロジャーの笑みには「ニヤ…」という吹き出しが付加されているし、その次のコマで、広場にひしめき合う群衆たちの果てでロジャーが斬首されるところでも、画面奥に置かれたごく小さな処刑台から「ザン…!!」という首切りの効果音が浮かんでいる。四頁でシャンクスの船の海賊旗が風を受ける音には「バサッ‥!」と二点リーダーがついているし、少年ルフィが自分の顔をナイフで刺したときにも、「ブス…!!」とやはり三つの点が付属している。
  • ほか、一二頁に、シャンクス海賊団の愉快な仲間たちが肩を組んで横並びに繋がりながら、ルフィに対して海賊ってのは自由で楽しいぜェってな感じで呼びかけるコマがあるのだけれど、この一コマの動きのなさはちょっと気になった。この愉快な連中はおのおの大口を開けながら楽しげなポーズを取っていて、例えば左から四人目の、歯が一部抜けており刀のような武器を手にしている一人は右足を横に突き出して別の一人の顔を圧迫しているし、右から二人目の、泡立つビールのジョッキを持った禿頭の男などは両足の裏を合わせて、ヨガで言うところの合蹠のポーズみたいな形を取りつつ左右の二人を支えにして宙に浮かんでいるのだが、このコマには集中線も効果音もないし、こうした身振りに伴っても良いはずの装飾的な線もまったく描きこまれておらず、この男たちの一団は、ほとんど背景の上にただ貼りつけられただけの切り絵みたいな停止感に収まっている。
  • 二五頁では時間と場面の転換があってルフィが魚屋に行くのだが、その店の看板は魚の形をしていながら同時に「UO」という文字が書きこまれてもいて、この安直で率直な同語反復性には笑う。しかも看板が映し出されたコマでは囲みを用いて「魚屋」と親切に場所が示されているし、次のコマでもルフィが、「魚くれっ!!/魚屋のおっちゃん」と言ってもいるわけだから、この入念な説明いらなくない? と思ってちょっと笑った。この、明らかに余分と思われる懇切丁寧な「魚」の記号の過剰性は何やねん。
  • 三七頁には、ルフィをいたぶる山賊のもとに折りよく航海から戻ってきたシャンクスが現れ、「おれは酒や食い物を頭からぶっかけられようが/つばを吐きかけられようがたいていの事は笑って見過ごしてやる」、だが「どんな理由があろうと!!/おれは友達を傷つける奴は許さない!!!!」と真剣な表情で宣言するコマがあるが、ここではやくも、この作品のもっとも主要なテーマの一つであると思われる、「仲間とのあいだに固く結ばれた強靭な信頼関係」に連なる主題が登場している。ここではまだ「仲間」という言葉は導入されておらず――ルフィはシャンクス海賊団の「仲間」とは認められていないのでそれは当然だ――「友達」の語が使われているので、それはつまるところ「友情」のテーマとして現れている。だから、『週刊少年ジャンプ』という漫画雑誌自体の基本テーマとされているいわゆる「友情・努力・勝利」のうちの一要素が、ここではっきりと提示されているわけだ。
  • 山賊の手下たちと戦うのはシャンクス海賊団の副船長である。この人は一四頁で既に一度登場しており、そこで彼はルフィに「お頭の気持ちも 少しはくんでやれよ」と言って、海賊生活にはさまざまな「苛酷さや危険さ」だって無数にあるのだから、そうおいそれとは連れていけないんだ、船長はお前の気持ちを「踏みにじりたい」わけではないよと諭している。この人はだから、表面的にはおちゃらけたようなシャンクスの振舞いの裏にある彼の配慮、すなわち内面を想像するんだよと、言い換えれば物事の多面的複雑性を見るようにとルフィに言い聞かせる「大人」としての役割を担っており、要するにもののわかった副官として、陽気なリーダーシップを具えているがいくらか大雑把そうな感じもある船長を堅実にフォローする立場、冷静で知性的なサポート役として現れているのだが、快活で人好きのするリーダーと落ち着いた佇まいのクールなサブリーダーというこのような図式はわりとよくある構図だと思う。で、この人は最初の登場時からして煙草に火をつけながら現れるし、戦闘の場面でも相変わらず煙草を吸っており、果てはそれを武器として相手の顔面に押しつけることなどもしつつ、手に持った銃をまったく撃つこともなく単なる打撃武器として用い、それでも一人で多数の山賊たちを倒してしまうほどに強いのだが、悠揚迫らぬ冷静な物腰と相まってこの煙草という小道具は、副船長の「クール」さを強調的に描写する記号として機能しているだろう。
  • 四二頁では回想の形で、ルフィが山賊と悶着を起こすことになった事情が語られており、そこで彼は山賊が海賊たちを「腰ヌケ」呼ばわりするのを見過ごせず、「シャンクス達をバカにするなよ!!!!」と顔面に青筋を立てながら憤りを叫んでいる。仲間になりたいと願っていた憧れの存在を愚弄されたことに怒りを抑えられなかったわけだが、これも上に書いた「友情」のテーマに連なる場面と見て良いだろう。だから先のシャンクスの宣言(「どんな理由があろうと!!/おれは友達を傷つける奴は許さない!!!!」)は、彼がその時点では知らなかったルフィの激昂に正しく応答するものとなっているわけで、その「友情」関係は四七頁において、海に投げ出されたルフィを怪物的な巨獣から守ったシャンクスが波間に揺られながら、「恩にきるよ」「おれ達のために戦ってくれてたんだな」と感謝を伝えるに当たって双方向的に成就し、そしてそれと同時にシャンクスの片腕は失われる(肉を噛みちぎられた断面から血を滴らせる腕を提示するこのコマにも「ドン!」が用いられている)。「安いもんだ/腕の一本くらい…/無事でよかった」とシャンクスは言うが、彼は片腕を引き換えにして、つまりはまさしくその身をもって「友情」を証明したことになるわけで、その行為によってルフィは「なによりシャンクスという男の偉大さ」を深く理解し、「こんな男にいつかなりたいと心から思った」。したがって、この出来事によってルフィはシャンクスの後継者たらんという気概を、さらには彼らを超えて「海賊王」になるという野心的な目標を得るのだが、それに対するシャンクスからの承認として、彼がかぶっていた麦わら帽子が(名目上は「預ける」という形で)ルフィに継受されることになる。
  • で、一〇年後、「海賊王」を目指して旅立ったルフィは手始めに、一〇年前に自分が食われかけた「近海の主」を、長年のあいだに鍛え上げた必殺技、あの有名な「ゴムゴムの銃[ピストル]」で難なく撃退するわけだけれど、尾田栄一郎という人はよくもまあこんな変てこな必殺技を考え出して、しかもそれを大人気にヒットさせてしまったなあと思った。ルフィが「近海の主」の横面にパンチを叩きこんでいる見開きのカットを見ると、ゴムとして伸びている彼の右腕の輪郭は手の方に向かうにつれて段々とその幅が狭まっていく単純な二つの線でしかないし、そのあいだの空間を占める腕の肉は端的に真っ白な空白で、何の線も模様も施されずにのっぺりとした完全な平面として描出されている。だからこれは何だか少年漫画の必殺技としてはとても奇妙なものだと言うか、正直なところ全然格好良くないので、よくこれを人気にできたなあと思うのだ。まあそうは言っても、例えば「かめはめ波」なんかもよほどのものと言えばそうなのかもしれないけれど。
  • 二話と三話も続けて読み、『ONE PIECE』のキャラクターってどいつもこいつも本当に口がでかいなあと思って笑ってしまう。
  • Wikipediaを読んだり『ONE PIECE』を読んだりしていたので、ほとんど日記を進めることができなかった。今日、二一日のことは記録したものの、これはあくまでメモだし、四月三〇日分はほんのわずかしか書けず。やはりきちんと文を作らないと、その一日で仕事をしたという感じにはならない。消灯は四時二一分。窓をちょっとだけ開けて、眠りが来るまで鳥の声を聞いていた。ずっと目を閉じていたので正確には不明だが、体感としては四時三〇分頃にはもう鶯が鳴きだしている。そしてそれ以前に鳴いていたホトトギスは、なぜなのかわからないがちょうど役目を交替するように、取って代わられるようにいなくなってしまう。この二種は不思議と一緒に鳴くことがないなあと思っていたのだが、そんなことはやはりなくて、四時四五分か五〇分頃と思われる時刻には両方の声が重なる瞬間が聞き取られた。ただやはりホトトギスはどちらかと言えば深夜によく聞こえるもので、日中にはさほど鳴いている印象はない。昼間は鶯が支配的だ。


・作文
 11:54 - 12:18 = 24分(5月21日)
 15:22 - 16:17 = 55分(5月21日)
 21:11 - 21:37 = 26分(4月30日)
 計: 1時間45分

・読書
 11:18 - 11:43 = 25分(日記 / ブログ)
 12:49 - 13:09 = 20分(英語)
 13:09 - 13:28 = 19分(記憶)
 14:21 - 15:08 = 47分(ブログ)
 18:57 - 19:52 = 55分(Wikipedia
 21:44 - 22:10 = 26分(古今和歌集: 49 - 54)
 27:24 - 27:42 = 18分(古今和歌集: 15 - 20, 54 - 55)
 計: 3時間30分

  • 2019/4/29, Mon.; 2019/4/30, Tue.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-17「子どもには知られたくないことばかり記した紙で折り鶴を折る」; 2020-03-18「名を知らぬひとならきっと愛することもできるはず風景を見る」
  • 「英語」: 62 - 83
  • 「記憶」: 133 - 134
  • 「at-oyr」: 2020-02-21「季節の記憶」; 2020-02-22「ゾンビ」; 2020-02-23「God Bless America」
  • Wikipedia: 「JOJO広重」; 「豊住芳三郎」; 「毛皮のマリー
  • 奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年): 49 - 55, 15 - 20(メモ)

・音楽