2020/5/23, Sat.

 フェリーツェ宛の手紙から浮び上がるカフカ像は、『判決』の主人公を強く連想させる。この作品では手紙が大きな位置を占めていた。ゲオルクは友人が帰郷しないで、ロシアに留まってくれることを願った。友人が身近にいる生活など、ゲオルクにはまったく考えられなかった。彼との友情は手紙のやりとりの段階で済ませたかったのである。しかも主人公は、友人にとって重要で知りたいと思われる事柄を、できるだけ文面に記さないように配慮した。このような手紙の役割は、フェリーツェ宛の書簡と奇妙に一致している。カフカはラブレターであるはずの手紙で、彼女が待ち望んでいることばを記さない。そのかわりに、何を言わんとしているのか理解しがたいような事柄が綿々と書き連ねてあった。カフカにあって手紙は、彼の作品同様に嘘のない真実を伝えつつも、同時に真意を微妙にはぐらかすことのできる表現手段だったのである。
 (高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』鳥影社、二〇〇三年、120)



  • 九時一一分の離床を達成。滞在は四時間五二分。
  • 「英語」及び「記憶」を音読。かたわら小沢健二『LIFE』を流して折に歌う。「記憶」は一四〇番から。Michael P. Lynch, "Do We Really Understand ‘Fake News’?"(2019/9/23)(https://www.nytimes.com/2019/09/23/opinion/fake-news.html)にあった次の情報はやはりクリティカルなのでは。

(……)Current research estimates that at least 60 percent of news stories shared online have not even been read by the person sharing them. As an author of one study summed up the matter, “People are more willing to share an article than read it.” On the other hand, what we do is share content that gets people riled up. Research has found that the best predictor of sharing is strong emotions — both emotions like affection (think posts about cute kittens) and emotions like moral outrage. Studies suggest that morally laden emotions are particularly effective: every moral sentiment in a tweet increases by 20 percent its chances of being shared. And social media may just pump up our feelings. Acts that don’t elicit as much outrage offline, for example, elicit more online, perhaps because the social benefits of outrage still exist without the normal risks.

  • 今日は労働。中村佳穂『AINOU』を流しつつ運動し、黒いベスト姿に着替える。それから上階に行って便所に入ったが、便秘ではないものの腸の中身がなかなか出てこず、排泄を待つ必要がありやや手間取った。それで出発がちょっと遅くなってしまい、一一時一五分頃、家を離れる。隣の空き地にオレンジ色のナガミヒナゲシが咲いており、そのもとには薄ピンクの小さな花弁も散っているけれど、何の花なのか、そしてどこからやって来たのかまるで知れない。あたりを見回してみても目に入るのは林の緑ばかりで、ピンク色など存在しない。桃の花を思わせるような色だった。空気は暑く、今日の時空にははやくも夏の匂いが漂っており、道端、林縁にある小さな空き地の下草の茂りを見ればそれはまざまざと現れているし、大気にも汗ばんだ肌の人間が漏らすにおいのような青草の香気が混じっているのが明らかに看取される。坂道の左側を埋める草木の連なりのなかにも、結局あれはヒメウツギなのか何なのかわからないのだが、例の白く小さな花群が勢力を増していた。
  • 坂を上っていると前から自転車に乗った人がやってきて、遠目から見てあれは(……)兄弟のどちらかではないかと曖昧な印象を得たところが、乗り手は「S!」と大きな声でこちらの名を呼びかけてきて、近づいて向かい合えばその笑顔も、がっしりと大きめの体格も(……)兄弟のような少年のものではない。彼らの印象を引きずっていたのでちょっと困惑したのだが、しかしまもなく、H.Tという名前が浮かび上がってきた。小中時代の同級生である。Hは背後に、おい! S! Sだぜ! と威勢よく声を放ち、続いて現れたのがH.SGだったので、SGじゃんとこちらは笑って、H.SGっていう名前めちゃくちゃ久々に思い出したわと言った。SGも中学時代の記憶よりもいくらか体格が大きくなっており、髭を多少生やしていたものの、顔立ち自体はあまり変わっていない。さらに続けて小さな男児ともう一人の男性がやはり自転車に乗って現れる。今日は何、どこに行くの? と尋ねると、四人連れ立ってサイクリングに興じ、(……)にあるらしいKの家に行くとかいうことだった。KというのはたしかK.Rという名前だった気がするけれど、やはり同級生である。いま、何やってんのと問い返されるので、あの……青梅駅前に、塾があって、そこでフリーターやってんだわまだ…‥と額に右手を当てつつ、一応世間的な価値基準に照らして多少屈託した風なポーズを取ってみせたところ、するとHは、いやお前、そんな、フリーターやってんだわ……とか言ったって、こいつなんてニートだからなと言いながらSGを指すので、え、お前ニートなの、とこちらは受け、最高じゃんと笑った。意外な話だが、本人が自認していたのでどうも本当のことらしい。そうやって話しているあいだにおそらく五歳ほどかと見えるHの子供は、ねえ、はやくいこうよお、と声を上げて大人たちを急かしてみせるので笑い、こちらは子供の後ろに控えていたもう一人に目を移して、T、と掛けると、そうそう、と嬉しそうな肯定があり、Nだっけ? と名字も訊くとやはり正解だったので、俺、よく覚えてんなあと自賛して笑った。Tは中学時代にはもう少し険のある顔つきをしていた覚えがあるのだが、このとき見たところでは、マスクをしてはいたものの笑みを含ませた目もとが記憶よりも随分と穏やかになっていたような気がする。で、子供がやはり、ねえはやくいこうよおと嘆くので、笑いながらわかったと受け、あの、本当は色々話をしたいんだけど、今日はちょっともう行かないと遅れちゃうんで、と別れを切り出した。それですれ違って別れる間際にSGが、フリーターだからって自分を蔑むことねえぞ、下がいるから、と自分を示しながら堂々とフォローしてきて、生きてることが素晴らしい、と立川の叔父(Yちゃん)に通ずる単純明快さを提示してみせたので、その通りだと肯定を返した。それでまた会いましょうと言って別れる。連絡先を交換していないのでまた会いましょうもクソもないわけだが、しかしこちらのつもりとしては、色々話をしたいとかまた会おうとか口にしたのは、別に社交辞令の意図はなく、いずれ会い、話す機会があればそれはそれでいくらか面白いだろうと思っている。
  • この三人にKも加えて四人、さらにそれ以外にも何人かいたが、彼らは中学時代にはいわゆるヤンキー組と言うか、いくらかやんちゃなほうのグループを形成しており、で、こちらはもちろんそんなグループに属するはずもなく、少なくとも中学二年生までは文句のつけようがない優等生だったので、彼らとさほど深く親しく交友していたわけではない。Hに関しては小学校も一緒だったし、小学生時代は彼の家に遊びに行くこともけっこうあった。Hは最初は(……)の(……)のもとにあるマンション、ゲートボールによく利用されていた小さなグラウンドの隣のそれに住んでいて、のちにもう少し町中のほうに引っ越したのだったと思う。何をして遊んでいたのかは特に覚えていない。たぶんテレビゲームとかだろう。ほかに彼に関する記憶として蘇ってくるのは、中学に入ってからのことだったはずだが、尾崎豊のデビューアルバム『十七歳の地図』(これはたしか中上健次の初期作品『十九歳の地図』から取った題名だったはずだ)を半ば押しつけられるようにして貸してもらったことが一つ。体育の授業のあいだに校庭の端に設置された水場のあたりで、鼻毛が伸びていないかと言って思い切り顔をのけ反らせた彼の鼻の穴を確認するよう求められ、大丈夫だと答えたということが一つ。成人式の際、式のあとで袴姿のHと顔を合わせて飲み会に行こうぜと誘われたものの、バイトがあるからと言って断ったことが一つ。当時もいまと同じ職場で働いていたわけだけれど(教室長がまだ(……)さんだった時代だ)、実際にその日勤務は入っており、と言うかむしろ飲み会に行きたくなかったのでそれを堂々と断る口実として自ら労働を入れたというのが正確だと思うが、Hはこちらの返答を受けて、はあ? お前シケてんなあ、みたいな感じのことを言っていたと思う。
  • H.SGに関しては、彼は(……)小学校の出身だったはずなので知り合ったのは中学に入ってからだと思うが、卓球部で一緒だった時期がある。そう、こちらは中学二年の途中までは卓球部などといういかにも根暗なイメージの付与されている部活動に所属していたのだけれど、ヤンキー組だったSGもなぜかそこにいた。で、ラリーを一緒にやったりした記憶があるけれど、彼は持ち前のヤンキー的高圧性を折々に発揮してきて、当時はまだ気の弱い無力な少年だったこちらはそれに対してわりと辟易していたのではないか。そのほか彼は、たしかI.Mという名前ではなかったかと思うが、中学生にしては大人びた雰囲気を帯びた背の高い女子と付き合っていたような覚えがある。中学時代は誰が誰と付き合っているとかいう軽薄な恋愛話にこちらはまったく縁がなく疎かったので、会話のなかで情報が伝わってきたわけでなく、下校時に彼らが二人で、正門ではなく勝手口的な出入口、林のなかをくぐっていくような道の付近をうろついているのを目撃したことがあり、あの二人たぶん付き合っているんだなと思ったのだ。
  • N.Tについては特に想起される記憶はない。で、彼らは先ほども書いたようにいわゆるヤンキー方面のグループで、いまから考えればその不良ぶりなど全然たかが知れており、せいぜい煙草を吸って他校の生徒と喧嘩をする程度のことに過ぎなかったが、中学生当時のこちらはお定まりのことで自己の主体性をしっかりと形成できておらず、自分の存在に自信がなくて本当はおどおどしているくせにそれを表面的に糊塗する自意識だけは一丁前に膨らんでおり、加えて、生においてまだほとんど学校というきわめて限定的な共同体内のことしか経験しておらず、その外のいわゆる世間とか世界のことをまるで知らなかったものだからやはり視野が狭くて、ヤンキー組の連中のこともわりと怖がっていたはずだ。
  • ついでに卓球部界隈について記しておくと、中学一年生のときには数学の教師だったM先生(漢字が正しいか不明)という人が顧問を務めており、当時のクラスメイトだったMさんとOさんという女子二人はなぜか、こちらがこのM先生にどことなく似ていると言って、第二Mという意味合いで「(……)」などというあだ名でこちらを呼んでいたのだけれど、そのM先生はたしか中学二年の頃には転任し、新しくやって来た体育の教師が――名前を思い出せないのだが――新顧問になって、M先生の指導方法からの転換、その相違に戸惑うところもあったのだろう、この先生は見事に部員のほとんどから嫌われていた。こちらも当時はその反感に同調していたものの、いまから考えるとその嫌悪に確固たる根拠があったのかどうか定かでなく、ただ周囲を取り巻く空気に流されていただけではないかという気もするのだが、だが一方でたしかにこの教師にはもったいぶったような高圧性と言うか、ねちねちといやらしいような感じの性質があったような記憶もある。で、この教師は、無骨と言うかほとんど野暮ったいような感じのスバルの車に乗っていた。たぶん、フォレスターか何かだったろうか? スバルに関してついでに言っておけば、やはり名前が思い出せないけれど技術の教師だった男性、いくらか面長な顔の先に髭をちょっと生やしていた先生はインプレッサに乗っていて、中学生の安直な感性で見るとそれはけっこう格好良かった。で、中学校の駐車場は校庭の脇を通る道沿いにあり、そこに卓球部新顧問の車が停まっているのを見て、一緒に下校していたS.H先輩がいたずらをしたことがあったのだ。たしかもう一人同行者がいた気がするけれど、そうだとしたらそれはたぶんY.Rではないだろうか。彼はS先輩と同学年で、つまりこちらからすると一つ年上に当たるのだが、おそらく子供会で知り合ったのだろう、中学校入学前からよく遊んでいて、彼の住まいだった公営住宅の一室をしばしば訪れては、いまや懐かしき初代PlayStationの『デジモンワールド』などをプレイさせてもらい、かなり面白かった記憶が残っている。当時はこの三人でよく一緒に帰っていたわけだが、そのうちのある下校時に、S先輩が教師の車に蹴りを入れたりしはじめたので、こちらも乗せられて「死ね」とかいう落書きをしたのだけれど、落書きをしたと言っても傷を刻みつけたりペンで書いたりしたわけではなかったはずだから、一体どうやったのだろう? 車体についた埃汚れか何かの上を指でなぞって文字を書いたとか、たぶんその程度のささやかなことだったと思うのだが、S先輩が蹴ったことによってこの車には傷がついてしまい、それが後日問題になったときにこちらも連座してある日学校に呼び出され、生徒指導室みたいなところで当時の担任だったI先生にお叱りを受けたことがあった。お叱りを受けたと言ってもI先生はむしろ困惑気味であり、先にも書いたようにこちらは学業成績もきわめて優秀で素行としてもまるで文句のつけようがない優等生だったので、まさかSがこんなことをやるとは思わなくて……みたいなことをI先生が沈痛気な表情で漏らしていたのを覚えているが、一応事実関係をもう一度たしかに定めておくと、こちらがやったのは「死ね」とかいう文字を指で書いて幼稚かつ無邪気な反抗をちょっと示しただけのことで、車に蹴りを入れて傷をつけたのはあくまでS先輩の仕業である。ただ、教師から指導室のような場所に呼び出されて怒られたと言うか諭されたのはたぶんこのときが唯一だと思うし、これがこちらが小中時代を通して働いたただ一つの「不良行為」だったと言って良いだろう。そのちっぽけさに、当時の自分の臆病ぶりがとてもよく表れている。正確にはもう一つ、小学校の四年か五年のときに、上で遭遇したH.Tも交えた六人くらいで昼休みだったか裏山の一角に忍びこみ――小学校は校舎の脇からすぐ林に接しており、丘上のグラウンドに校外学習に行くような場合でなければ、そこの門から出て山のほうに入るのは禁じられていた――落葉をライターで炙るなどして遊んでいたのが発覚して、教室の後ろのほうに並んで怒られた覚えもあるものの、これはまだ一〇歳くらいのことだし「不良行為」とは言えないだろう。先の中学時代の件もまことに些末な行為であって、当時は既に、例えばDeep PurpleLed Zeppelinをはじめとして七〇年代八〇年代のハードロックを聞きはじめていたはずなのに、ロックという音楽が帯びている反体制精神を大々的に自らの身に取り入れることはなく、不良行為への欲望は特別感じなかったようだ。学生時代にグレたいと思ったことはたぶん一度もないのだが、それは単純に、そういう行為を働くだけの度胸がこちらになかったということが大きいのだろうと思う。で、卓球部に関してはたしか中学二年の途中に辞めたはずだが、この件がそのきっかけだったわけではなく、このあとももう少し部活動は続けていたように記憶している。部活動に対してそれほど欲望も感じていなかったし、その頃にはもうギターを弾きはじめていたからそちらのほうが圧倒的に面白くて、自分としてはさっさと辞めたいと思っていたはずだけれど、辞めるまでいましばらくぐずぐず惰性で続けていたのは、これも当時の自分の幼さと臆病さがなしたわざで、両親にそれを言い出すのに気が引けたという事情があったと思われる。その後のこちらの思春期及び青春はだいたいハードロックとギターに集約されるもので、それを例えばDeep Purpleの"Highway Star"一曲に象徴させても別に悪くはない。この曲は高校一年のときにこちらとTTとの出逢い、ひいてはバンドの結成を導いたものだからだ。中学時代に自分のベッドルームで一人しこしことこの曲のギターソロを練習していたこと、そしてある日の放課後にそれを弾いていたということが、こちらとTTを引き合わせたわけである。
  • ついでに中学時代について思い起こされることをもう少し綴っておくと、中三のときの担任はN先生と言って、目がぎょろりと大きく髪をつんつん立てて額を露出したまだ年若の国語教師で、この人はハードロックが好きだった。なかでも一番好きだったのはたぶんLed Zeppelinだったはずで、ある日のホームルームで彼が、先生はLed Zeppelinというバンドの"All My Love"という曲が好きで、と話し出し、その曲の歌詞に添えて何か訓示を垂れた覚えがあるものの、その内容のほうはまったく記憶していない。もう一つ二つこの人と音楽の関連で覚えているのは、二〇〇四年か二〇〇五年にAerosmithが『Honkin' On Bobo』という古典ブルースをカバーしたアルバムを発表し、これはいまも手もとに音源が残っていていま聞いてみてもそんなに悪くない音をしていると思うのだが、あるときN教師にこの話を振ってみたところ、まああれは本当のブルースじゃない、みたいな手厳しい評価を述べたことがあった。おそらくそれは、ブルースと言うにはあれはやはり激しすぎる、ロックのほうに寄りすぎているという趣旨だったと推測され、そういう言い分もいまとなってはわからないでもない。またもう一つ、あるときなぜか教室にアコースティックギター(おそらくクラシックギターだったと思うが)が一台あって、昼休みにこちらがそれを弄っていたことがあった。そこにはもちろん、俺はギターが弾けるんだぜということを見せびらかしたい思春期ならではの幼稚な自慢心が働いていたのは間違いないだろうが、そのときこちらが拙くも奏でていたのは、Ozzy Osbourneの『Blizzard of Ozz』の四曲目にてRandy Rhoadsがしめやかに独奏している"Dee"である。で、この曲は始まってまもなく、たしかGのコードでなかったかという気がするけれど、指を大きくひらいて小指でルートを押さえつつ一弦から三弦でアルペジオをするみたいなフレーズがあり、そこが難しかったのでこちらはルートを省いたか、あるいは一オクターブ上の根音を押さえて簡単にするかして弾いていたところ、N教諭がそれについて、そうじゃなくて、ちゃんとこうやってルートを弾かなきゃ、みたいな助言をしてくれたのを覚えている。この件でFはギターが弾けるということがクラスに知られたのだろうか、卒業式のあとには教室で、こちらがアコギで伴奏するのに合わせて、イルカもしくはかぐや姫の"なごり雪"を皆で合唱し、N教師に贈った覚えがある。N教諭は涙を催していたはずだ。で、たしかネクタイだか何だかもプレゼントしたのではなかったかと思うが、この企画を誰が主導したのだったか、それは完全に記憶から消えている。ただある日の放課後に、M.Aという女子のクラスメイトと教室の端で二人になったとき、何でネクタイなんか贈らなきゃいけねえんだよ、みたいなささやかな反抗心を漏らし合って共有したことがあった。だから、当時からこちらはそのような定型的「良い話」に対して馴染みきれない性分を抱えていたらしい。つまり、いわゆるところの中二病である。
  • あと中学時代の教師と音楽との関わりとして覚えていることは二つあって、一つには先ほども話に出た中学二年時の担任、国語のI先生が、卒業式を間近に控えたある日の式練習のあと、体育館の壇上で自らピアノを弾きながら長渕剛の"乾杯"を歌って贈ってくれたという出来事があった。もう一つには音楽の教諭だったA先生がある日の授業で、Keith Jarrettの『The Koln Concert』の一部を流して生徒たちに聞かせたということがあった。大方が当時流行っていたJ-POP――たぶんポルノグラフィティの"アゲハ蝶"とか、そのあたりだったと思うが――しか聞いたことのなかっただろう中学生相手にKeith Jarrettを流してみせるとは、なかなか大胆に攻めた教師ではないか? あと一つ、これは教師関連ではないが音楽について思い出したので記しておくと、中学二年か三年のときのクラスメイトにK.Mという女子がいて、彼女はQueenが好きだった。たしかこの頃、何という題名だったか木村拓哉が主演を務めたアイスホッケーのテレビドラマが放映されており(『プライド』だったか?)――木村拓哉が気取った振舞いで"maybe"と口にする決め台詞とか、何かを誓うように片手を胸に当てるポーズとかが人気だったはずだ――そのドラマの主題歌としてQueenの"I Was Born To Love You"が使われて知られるようになっており、この曲に関しては英語のF先生(という名前だったと思うが)も、あれすごい歌詞だよねえ、あなたを愛するために生まれてきたって言うんだからねえ、とか授業中に漏らしていた覚えがあるけれど、それがある日の給食中、昼休みの放送で流れたのだったと思う。で、Kさんとこちらは同じ班で向かい合いながら飯を食っていたのだが、こちらの左隣にはたしか、当時唯一音楽的趣味を共有していた仲間であるところのS.Hがいたのではなかったか。それでQueenの話になり、こちらは当時はまだ己の偏った見方に対する批判的視点を持てない未熟児だったから、Queenって何か、なよなよしててあんまり好きじゃない、みたいなことを言ったはずで、それに対してQueenが好きだったKさんが、内容は覚えていないけれど何とか静かに呟いて反論したのを記憶している。ちなみにその後、高校時代にはこちらはQueenを相当気に入り、アルバムはだいたい入手してよく聞いたので(スタジオアルバムで持っていなかったのはファーストと『Flash Gordon』と『A Kind Of Magic』と『Innuendo』の四枚だけだ)、Kさんには悪いことを言ったと申し訳なく思っているし、中学時代の自分は底抜けの愚物だったと言わざるを得ない。あとさらに思い出したので書き足しておくと、これも中学二年のときか、あるいは一年時だったかもしれないが、Iという(下の名前は忘れた)聖教新聞売店の息子がクラスメイトにいて、小学校時代からそこそこ交友があった彼がなぜかThe Beatlesのベスト盤を持っており、それを貸してくれたことがあった。何か真っ赤なジャケットのやつだったと思う。で、それを聞いてこれええやんと気に入ったわけだが、それがおそらくこちらの人生ではじめてThe Beatlesという存在を定かに認知したときだ。その後、お返しにというわけでもないけれど、ブックオフで入手したVan Halenのベスト盤、真っ黒なジャケットで一四曲か一六曲くらい入っていたやつを貸したと言うか聞かせたことがあり、ということはこれはやはり中学二年になって以降のことだと思われる。と言うのも、こちらがVan Halenに触れるその前にはまずB'zを聞いていたという段階があり、当時は馬鹿げた速度だった回線でインターネットをうろついている際にB'zはAerosmithの曲をパクっているという情報を得て、実際、何だったか"Love In An Elevator"だかをほとんどそのまま借用している曲があったと思うけれど(たしか"Native Dance"とかいう曲が入っているのと同じアルバムに収録されていなかったか?)、ともかくそれでまずAerosmithに興味を持ち、それとほぼ同時に同じアメリカンハードロックというくくりでVan Halenという名も知って、双方のベスト盤を小作のブックオフで手に入れたのだ。そのような経緯があったのはたぶんギターを始めた中学二年以降のことだと思われるのだが、しかし中一の時点で既にB'zを聞いていたような覚えもあり、あるいはことによるとギターを始める以前にハードロックに触れはじめていたのかもしれない。ともかくそのVan Halenのベストアルバムの四曲目に"Dance The Night Away"が収録されていて(ちなみに冒頭曲は名高い"Eruption"だった)、それをIに聞かせてみたところ、彼はDavid Lee Rothの声が気に入らなかったようで、何か声がごつい、野太い、と言って笑いながら退けていたのを覚えている。
  • これでようやく出勤路のことに戻れる。裏道を行きつつ先ほどの同級生たちと再会するまでにひらいた一五年という時間的数値を思ったのだが、つまりは中学校を卒業して一五年か、と思ったのだが、するとまだそんなものかという感触が明確に立った。せいぜい一五年か、意外とそれほどでもないなという感じだったのだけれど、ところが同じ一五年でも、高校に入学してTやTTやTDなどと出会ってから一五年と考えると、これは長いなという感覚がある。その違いがどういう意味づけの差によるものなのかは不明。
  • 往路中のほかのことは忘れた。職場では、先週はサランラップを座席入口に貼らなければならなかったわけだが、今日はマジックテープで接着する方式のビニールカバーが取りつけられてあった。労働は一コマ目が(……)くん(中一・英語)と(……)くん(中二・数学)。(……)くんは先週同様、社会の学校課題を進める。北アメリカについてのプリントを扱い、アメリカ合衆国という国の成り立ちなど説明する。つまり、ヨーロッパ地域の端にあるイギリスという国から海を渡ってはるばるやって来た連中が、アメリカ大陸にもともと住んでいた人々(いわゆるネイティブアメリカン)の土地を奪ってつくった国なのだということを語る。(……)くんは相も変わらず遅刻。問題なく元気そうだ。自粛期間中どう過ごしているのか訊いてみると、ゲーム三昧だと言う。ただ、毎日近所のセブンイレブンまで歩いて出向き、往復してはいるらしく、片道一五分ほど掛かると言うのでそれは良い運動だねと受けた。そのセブンイレブンというのが青梅駅前のそれなのかは知らず、彼がどのあたりに住んでいるのかもこちらは知らない。コンビニではおそらくお菓子やジュースを買っているのだと思うが、菓子で言えばあとで聞いた話では、彼はクッキーの系統が嫌いでまったく食べないのだと言う。パサパサしている感じが苦手だとのこと。ポテトチップスなどもあまり食べず、菓子はもっぱらグミ類を嗜むようだ。
  • 授業は二年生の一番最初の内容からはじめたので多項式の計算。とりたてて問題はないだろう。多項式の括弧を外す際、マイナスがあると各項の符号が変わるわけだが、それは何で? と聞いても思い出せなかったので、これは括弧の前に、書いていないけれどマイナス一があると考えられており、それをいわゆる分配法則で各項に掛け算して括弧をひらくと、そういう理屈になっているのだという点を確認。
  • いまはコロナウイルスの件で変則的な時間割になっており、一時半に授業が終わったあと次のコマは二時開始で休み時間が三〇分あったので、(……)くんと一〇分か一五分くらい雑談をした。ゲームでは彼は『フォートナイト』というものが好きで楽しんでいるらしい。PlayStation 4のソフトだが各種媒体で提供されており、(……)くんは本当はPCでやりたいのだと言う。やはりそちらのほうが動きの滑らかさが全然違うということだ。PCでゲームとなると、こちらなど何も知らないけれど、やはり結構なスペックが必要だろうからノートじゃなくてデスクトップじゃなくちゃ駄目なんでしょ? と話す。それを買えるほどの金はもちろん現在の彼にはないし、親に買ってもらうこともできないだろう。それか、自作するか、と言うので、自作とかできんの? と尋ねると、まあ色々調べて、できないこともないでしょうと言ってみせる。こちらなどにはPCの自作など一体どうやるのか、まるで検討もつかない。でも何かたぶん、秋葉原とか行って部品集めたりするようでしょ? 秋葉原、行ったことあんの? と続けて問えば、ないと言い、俺もたぶん二回くらいしかないよと返すと、だって遠いんだもん、あんなとこ、河辺で全部揃うし、と払うので、これにはさすがに笑う。河辺で満足とは欲がない。たぶん青梅などという鄙の町に住んでいても、例えばもっとファッションなどに興味があったり、あるいは都会に憧れがあったりするような子なら普通に原宿とかに出向いたりもするのだろうが、かく言うこちらも中学時代はほとんど立川すらも行かないようなありさまで、遊びの範囲は、当時よく遊んでいたのはS.HやH.Kだったはずだからまあ大方東青梅あたりまで、行ってせいぜいそれこそ河辺までだっただろう。だから物理的外縁としてのこちらの世界は狭かった。と言うかいまだって都心のほうにしばしば出向くわけでないし、旅行もしないので現在も普通に狭い。ただ一方では七〇年代八〇年代の外国のハードロックだのを聞いていて、そんなものを聞いている人間は周りにはまずいなかったから、ほかの連中が知らないものを知っているという自意識肥大的な優越感も当然抱いていたわけだけれど、この世界にはそういうものがあるのだということを知ることができたのは、これはやはりインターネットのおかげだと言わざるを得ないだろう。急速に発展した情報技術をうまく使い、思春期にその恩恵をポジティヴに受けることができた最初期の世代がおそらくこちらの年代だと思う。
  • 二コマ目は引き続き(……)くん(中二・英語)に(……)くん(中三・英語)、そして(……)くん(という名前だったはずだが)(中三・英語)。(……)くんは入ったばかりの生徒で、授業自体、まだ今日で二回目である。したがって初顔合わせ。最初は(……)さんという小学校三年だか四年の女児に当たっており、この子も初対面だったのだが、なぜか(……)先生が来なかったので急遽変更になった。(……)くんはL1 USE Readを扱う。物静かな子で表情が固く、緊張していたのかもしれない。すべてではないものの教科書本文を一緒に読んで訳出できたのは良かった。
  • (……)くんも教科書を読み、L1のGetもReadも復習できた。けっこう思い出せるのでよろしい。やはり単文でなく、ストーリーや具体的な状況などの流れがあるまとまった量の文章のほうが圧倒的に記憶に残りやすいはずだ。とにかくまずは読んでその意味がわかるということが先決だと考える。こちらだって高校三年生になるまでは例えば文型など大してこまかくは理解しておらず、だいたいのところ意味でもって捉えていた。
  • (……)くんもいつも通りという感じであまり進まなかったがまあ良い。授業後、何だか知らないが長テーブルの上にたくさんあった「カントリー・マアム」を取って生徒たちのもとに持っていった。まあ本当はあげてはいけないのだけれど、そんなこと知るかというわけで子供らを労おうと思ったところが、皆、いいと言って受け取らない。(……)くんは先にも記したようにクッキーは食わないと言うし、(……)くんは何か悪くないですかと遠慮するし、久しぶりに会った(……)さんもつれない様子。(……)くんだけが受け取ってくれたので、秘密ね、家に帰ってから食べてと伝え、そのついでに、どうですか、塾はと訊いてみたけれど、返答の言葉に詰まっていたので、慣れた? と付け加えたところ肯定が返る。いま、コロナウイルスのせいでちょっと変則的な形になってるんだけど、何かわからないことがあったら、まあ僕でもいいし、室長でもいいんで、遠慮せずに聞いてくださいと言っておいた。それで退勤。
  • 思い出したのだが、行きの道中、裏道から街道に出るところで狸を見た。猫ではない。間違いなく狸である。目の前をすばやく走って横切っていったのだが、狸という動物を見かけたのは数年ぶりのことだ。帰路はと言えば市民文化センター裏の駐車場に黒い猫を見かけた。その先、線路を越えてちょっと上がったところに梅岩寺の枝垂れ桜も青々と染まっている。帰りの道々はひと気が多いと言うか、例えば家の前に出てバドミントンか何かやっている男女やら線路沿いの斜面の草を取っている人々やらが見られ、歩行者や自転車の通行人も多かったし、姿が見えずとも多くの家の周りから人の動く気配が立ってくる。休日らしい雰囲気だが、やはりみんなコロナウイルスによる自粛続きで閉籠に疲れて、なるべく外に出たいみたいな心理があるのだろうか。
  • 帰宅後のことは忘れた。何か飯を作ったような気がするが。大根の葉を炒めたのだったか?

 まず、疎外から確認していこう。疎外とは、シニフィアンの世界(象徴界)への参入によって、享楽の喪失と引き換えに主体を現れさせる操作である。
 さらに詳しく述べよう。象徴界に参入していく際に、ひとは自らの原生的主体(S)を何かのシニフィアン(S1)によって代理表象してもらわなければならない。この代理表象の結果、主体はひとつのシニフィアン(S1)によって表されることになるが、このシニフィアン(S1)はひとつきりで存在するだけでは無意味であり、そこに意味を生じさせるためにはペアとなるシニフィアン(S2)を必要とする。すると、主体は(S)は、あるシニフィアン(S1)によって別のシニフィアン(S2)に向けて代理表象されることになる。

  • Sさんブログ、二〇二〇年二月二七日。以下の部分が面白く、とりわけ、「歴史に洗い出されたわけでもなく、歴史との緊張関係を意識に含んでいるわけでもない、まるで大したことないはずの絵に何事かを感じてしまうとしたら、それは美的判断ではなくて、おそろしさを回避したいという欲求からくる「症状」であり、分析対象であると考えた方が良い」という一文が興味深い。

(……)長い歴史の中でゆっくりと価値判断されてきた絵の歴史というのはあるのだから、それを最大限尊重することは大事だ。客観的な価値基準が存在するとすれば、それは過去の歴史にしかないだろう。逆に言うと、歴史に洗い出されたわけでもなく、歴史との緊張関係を意識に含んでいるわけでもない、まるで大したことないはずの絵に何事かを感じてしまうとしたら、それは美的判断ではなくて、おそろしさを回避したいという欲求からくる「症状」であり、分析対象であると考えた方が良い。

当時の僕が「上手い」と感じていた、あるいは今もそう感じているのかもしれない絵、あるいは文章。それはどういう傾向なものか?というと、つまり不純物が無いように見える、不純物を上手く制御しているように見える、要するに個性とか個別性とか癖とかの要素がなるべく少ない、おそろしさの含有量がきわめて小さいものを「上手い」と感じてしまうということになる。

いわば「うその上手さ」に反応する。文章を読んで、絵をみて「なんて上手なうそだろう!」と驚嘆している。絵だとアカデミックな基礎技術がしっかりしている類にかなり弱いし、文章だと三島由紀夫とかもモロにそういうタイプだと思うが…。ちなみに僕は三島の代表作はかなり昔にほぼ読んでいるのだが、正直、三島由紀夫って「まあ…なんて華麗な文章なの…」と僕はふつうにうっとりしてしまうところがあったのだが(しばらく読んでないから今どう思うかはわからないけど)。何かそういう…平凡な意味での高度な技術というか、カッコいい風に抑制の効いた、まるで盆栽の枝ぶりを師匠の教え通りにきちんと決めたかのような、もっともらしい感じを、なんとなく頼もしいというか不安を解消してくれる何かのように感じてしまうのだと思う。それは僕の臆病さがもたらす症状で、たぶん僕が本当の「美」を感じ取ろうとしたときの夾雑物になっているのだろうと思う。


・作文
 22:29 - 23:56 = 1時間27分(4月30日)
 27:21 - 27:51 = 30分(5月1日)
 計: 1時間57分

・読書
 10:00 - 10:32 = 32分(英語 / 記憶)
 10:35 - 10:48 = 13分(古今和歌集: 55 - 60)
 24:35 - 25:52 = 1時間17分(古今和歌集: 60 - 86)
 26:00 - 26:34 = 34分(日記 / ブログ)
 26:39 - 26:56 = 17分(ジョンソン)
 26:57 - 27:20 = 23分(尾田)
 27:52 - 28:12 = 20分(古今和歌集: 20 - 24)
 計: 3時間36分

  • 「英語」: 96 - 107
  • 「記憶」: 140 - 143
  • 奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年): 55 - 86, 20 - 24(メモ)
  • 2019/5/3, Fri.; 2019/5/4, Sat.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-03-20「煮沸した無意識をうつわに注ぐ飲めるものなら飲んでみろと言う」
  • 「at-oyr」: 2020-02-26「拠点」; 2020-02-27「嘘」
  • 難波和彦「神宮前日記」: 2020年05月13日(水); 2020年05月14日(木)
  • バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇一六年、書抜き
  • 少年ジャンプ+」: 尾田栄一郎ONE PIECE』第8話

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