2020/5/24, Sun.

 カフカは自己の「現存在」追求の姿勢と、「所有、及び所属存在」追求の姿勢との対立に悩む。彼はこの苦悩を、自分の持ち場である文学世界へ持ち込む。つまりカフカは、自己の文学に対する姿勢、即ち彼にとって文学が是であるか(現存在)、あるいは否であるか(所有、及び所属存在)という根本問題そのものを文学の素材にして、自分の在り方を創作過程のなかで考察したのである。彼は自分の内面で蠢く二つの性向を、書く行為の際に分身という技法で解きほぐす。この技法によりカフカは、書き手の単なる心情吐露を離れて、フィクションという場を獲得する。自己の相矛盾した性向を連綿とつづるのではなく、物語のなかでそれらを形象化、視覚化したのである。カフカ文学では、二つのまったく対立する領域が設定され、その一方の領域から他方へ向う否定の動きによって、物語が漸次進展する。この否定は、ある場合には主人公に敵対する人物として、またある場合には主人公が遭遇する事件として表現されることになる。
 (高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』鳥影社、二〇〇三年、150~151)



  • 一一時四三分離床なので、ちょうど七時間半の滞在。
  • 起きていって便所に入ると気流の音が外から盛んに聞こえてきて、だいぶ大気の動きの強い日らしく、風は林の樹々とむつまじく熱情的に交合しているようだ。実際あとで部屋にいるあいだにも、窓外で棕櫚がよく揺れていたと思う。
  • マルちゃん正麺」を食う。こちらが風呂を洗い、洗濯機に繋がった汲み取りポンプも小型のブラシで擦って、何だかよくわからない垢みたいなぬるぬるした汚れを蛇腹の隙間から念入りに取っているうちに、母親が作ってくれたのだった。美味。
  • (……)
  • (……)
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  • (……)その一方で後半こちらは、上記した拘束 - 遭遇 - 解放路線を続けて、例えば単純な話、最初の時点では「彼女」の視点を表す動画内の絵がすべて下を向いているようなもの、もしくは地上、地球内の事物に限定されていたところ、その視線が「光」の導きによって上に向かい、空すなわち宇宙空間の存在に気づく、で、夜空には星々が浜の真砂のごとく無数に輝いており、自分が生きているこの地球もそのうちの一つに過ぎないのだなあという形で主体は己の世界観を相対化するに至るみたいな、とてもありがちではあるけれどそういうストーリーならびに表現手法の案を話した。ちなみにこの相対化のテーマは青木淳悟の「クレーターのほとりで」のなかにそういう描写があったもので、それをこちらが覚えているのはおそらく、保坂和志が小説論三部作のどれかのなかにその部分を引きながらこういう描写俺めっちゃ好きやねんみたいな感じで言及していたからだが、青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』は二〇一三年九月に読んでいるにもかかわらずなぜか何の書抜きも残っていないし、保坂和志のエッセイの記録を読み返しても該当の箇所は抜かれていなかったので引用はできない。「クレーターのほとりで」は奇妙に偽史的な物語だったと言うか、なんかまず原始人みたいな時代のことが描かれたあとに一気に時間が飛んで現代に移りその原始人の痕跡が発掘されるみたいな、なんかそんな感じで変な小説だったような覚えがあるけれど、その原始人はたしか体色が薄ピンク色で、あるいはその上にさらに白い体毛なども生えていたかもしれない。こちらがいまイメージしているのは鶏の笹身みたいな色と質感なのだが、たしか暗闇のなかを移動するあいだ自分たちのからだのそのピンク色がほのめくのが互いに見え、さらに地面に寝転んで大空を見上げればそこには銀色の星々があまねくきらめいており、いま自分がこの身を横たえ預けているこの大地もそれら天に散りばめられた無数の砂子の一つでしかないのだと考えると、不思議な感覚に襲われてとても理解が及ばなかった、みたいな記述があったように記憶している。正確なトレースではないが、「砂子」という語を使っていたのはたぶん確かだと思う。
  • (……)
  • 夕食の支度へ。母親が既に大根の味噌汁を作ってくれていた。こちらは小松菜を絞って切り、メカジキのブロック三枚をそれぞれ三等分する。ソテーにするのだが、冷凍のインゲンを合わせることにして、それで鍋に湯を用意してさっと湯搔いて切ったあと、フライパンで魚のソテーを始めた。油とともにチューブの生姜をまず落とし(のちに冷凍保存されていたなまの生姜の細片も加えた)、蓋をしながら火を通すあいだ、首や頭蓋を揉んだり腰をひねったりして肉体をほぐす。途中で父親が勝手口に現れて、畑で採って洗った水菜及び大根の葉を持ってきたので、ビニール袋に整理して冷蔵庫に入れておいた。ソテーはほんの少し茶色の焼き目がつくほどに熱したあと、名古屋味噌で味つけ。
  • 入浴時にはやはりストレッチ。とにかく腰ひねりがめちゃくちゃ効く。湯のなかでは首やら目の周りやら腰やらを指圧し、これも大事なのだが、ただ文を書くときに片手間でそれをやってはいけない。作文時はとにかく肉体を停めること。
  • 二〇一九年五月五日日曜日の読み返し。冒頭の書抜きは山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』からのもの。改めて読み返してみるとわりと重要な情報だと思われる。

 「神の救い」や「奇跡」ということは度外視するとして、出エジプトイスラエル民族全体の共通体験だったとする旧約聖書の観念も、歴史的事実に立脚するものではあり得ない。後に見るように、ヨシュア記が物語るような、イスラエル民族が外部から一団となってパレスチナに侵入したという事態を示す痕跡は、まったく存在しない。「イスラエル」という民族集団は、パレスチナ自体の中で、起源を異にするさまざまな集団が、何段階かにわたる複雑で漸進的な過程を通じて相互に結合し、民族的自己同一性(アイデンティティ)を獲得することによってはじめて完成された、というのが真相のようなのである。
 エジプトの史料を見ても、前一三世紀前後に大量の奴隷の脱出があったり、大規模な民族移動があったという事態を示唆する記録は、少なくとも今のところ何一つ発見されていない。もし何百万人もの人間が同時に移動したとすれば、通過した後に一連の破壊の跡や大規模集団の宿営の跡、大量の土器の散乱など、考古学的な痕跡も残るだろう。そのようなものもまったく発見されていない。したがって、歴史的に考え得るのは、出エジプトの伝承のもとになった出来事が、実は文書記録にも残らず、考古学的痕跡も残らないような小規模な出来事であった、ということである。ただし、それがどの程度の規模(何十人規模? 何百人規模? 何千人規模?)であったのか、彼らがどんなコースでエジプトからカナンに向かったのかについては、今ではまったく分からなくなっている。後のイスラエルは、出エジプトを自分たちの民族全体に関わるヤハウェの偉大な救いの業と信じたが、それは大エジプトにとっては、国家の記録に残す値打ちもない、奴隷の一部の逃亡(出一四5参照)といった些細な事件に過ぎなかったのであろう。それを、後のイスラエル民族は、自分たちの民族全体の共通体験として再解釈した。そしてそれを、自分たちの神ヤハウェの卓越した救いの力を示す象徴的な出来事として語り伝えていったのである。
 (山我哲雄『一神教の起源 旧約聖書の「神」はどこから来たのか』筑摩選書、二〇一三年、60~61)

  • 二〇一四年七月四日金曜日も読む。短い文。欄外で、「うまく書こうなどという望みは捨てて、ただ書くこと。ただ死ぬまで書きつづけること」というお馴染みの生存原理を自らに向けて言い聞かせるとともに、「しかし書くということは実際のところ、まったくもってうんざりすることだ。ところが恐ろしいことに、生きるということはそれ以上にうんざりすることなのだ」などと心情を吐露している。
  • 二〇一四年七月五日土曜日も。この日の自分の心境からすれば、「文章などというものはたちの悪い戯れ以上のものではない」らしい。同日、エンリーケ・ビラ=マタス木村榮一訳『バートルビーと仲間たち』(新潮社、二〇〇八年)の書抜きをしている。ヴァルザーについての証言など。ここに名前が出てくるカール・ゼーリッヒという人は『ヴァルザーとの散歩』みたいな証言録を残しているのだけれど、頼むから誰かはやくそれを翻訳してくれないだろうか。ちなみに、下の引用中にある「わたしにとって息のしやすい世界は下の方の猟奇なのだ」という一節の「猟奇」は、たぶん「領域」を写し間違えたのではないかと思う。

 回復不能の狂気に陥ったために、書くことを放棄した人たちもいる。ヘルダーリンと、無意識のうちにヘルダーリンに倣おうとしたローベルト・ヴァルザーがその典型的な例と言えるだろう。ヘルダーリンは後半生の三十八年間、テュービンゲンに住む指物師ツィンマーの所有する屋根裏部屋で過ごし、スカルダネッリ、キッラルシメーノ、あるいはブオナロッティといったペンネームで意味不明の奇妙な詩を書きつづけた。ヴァルザーは後半生の二十八年間を最初はヴァルダウの、ついでヘリザウの精神病院で過ごし、その間小さな紙片に解読できないおかしな虚構の文章を微細な文字で取り憑かれたように書き続けた。
 わたしはある意味でヘルダーリンとヴァルザーはものを書き続けたと言えるのではないかと思っている。「書くというのは――とマルグリット・デュラスは言っている――しゃべらないということである。それは沈黙すること。声を出さずに吠えることである」。ヘルダーリンが声を出さずに吠えた点に関しては、いろいろな人が証言しているが、その一つにJ・G・フィッシャーの証言がある。彼はテュービンゲンに住む詩人のもとを最後に訪れた時のことを次のように語っている。「わたしはどういうテーマでもいいから何か書いてほしいと彼に頼んだ。彼は〈ギリシア〉、あるいは〈春〉、〈時代精神〉について何か書いてみようかと尋ねてきた。それなら、最後のテーマでお願いできますかと言ったところ、彼は若い頃のように目を輝かせ、机の前に座り直すと、大きな紙と新しい鵞ペンをとり、机の上においた左手で一定のリズムをとりながら一行書くたびに、満足げにウムと声を出し、これでいいというようにうなずいていた……」
 ヴァルザーが声を出さずに吠えたことに関しては、彼の忠実な友人であるカール・ゼーリッヒが厖大な証言を残している。彼はヴァルザーがヴァルダウとヘリザウの精神病院に入ってからも訪問しつづけた。その中から、(ヴィトルド・ゴンブロヴィッチお気に入りの文学ジャンル)「瞬間の肖像」を抜き出してみよう。ゼーリッヒはそこで、――たとえば、ヘルダーリンが同意の意味でうなずくように――ヴァルザーがある動作、あるいはある言葉を通して彼本来の人間性が現れる瞬間をうまくとらえている。「以前ヴァルザーとわたしは深い霧に包まれたトイフェンからシュパイヒェンまでの道を散歩したことがあるが、秋のあの午後のことはいつまでも忘れることができないだろう。あの日わたしは彼に、あなたの作品はゴットフリート・ケラーのそれと同じようにいつまでも残るでしょうと言った。すると、彼は地面に根が生えたように急に立ち止まり、ひどく重々しい顔でわたしをじっと見つめてこういった。わたしたちの友情を大切にしたいのなら、二度とそういうお世辞を言わないでくれ。彼、ローベルト・ヴァルザーは無用の人間であり、人から忘れられたいと願っていたのだ」
 あいまいな沈黙も含めて二十八年間にわたるすべての作品を通してヴァルザーは、すべての企て、いや人生そのものがむなしい虚栄でしかないと語りかけている。おそらくそれ故に彼は無用の人間でありたいと考えていたのだろう。ある人が、ヴァルザーというのは目指すゴールを目前にして突然びっくりしたように足をとめ、教師や同級生の方を見て、レースを放棄してしまう長距離ランナーに似ていると評したことがある。これはつまり、彼が不調和の美学にしたがって自らの中に閉じこもったということを物語っている。そんなヴァルザーを見ていると、奇矯なスプリンターのピクマルを思い出す。六〇年代に活躍したこの自転車競技のレーサー[シクリスタ]は躁と鬱が交互に現れる循環気質[シクロテイミコ]で、競技中だというのに、自分がレースに参加していることを忘れることがあった。
 ローベルト・ヴァルザーは虚栄を、夏の日を、女性用のスパッツ、日差しを浴びている家、風になびいている旗を愛していた。しかし、彼が愛した虚栄は自分だけが成功すればいいといった野心とはまったく無縁なものであり、微小なもの、はかないものをやさしく提示するといったたぐいの虚栄心だった。地位の高い人が住む世界を支配しているのは力と名声だが、ヴァルザーはそういう世界にはまったく縁がなかった。「何かのはずみで波がわたしを押し上げ、力と名声の支配する高みへと運ばれるようなことがあれば、わたしは自分に有利に働いた状況をすべてぶちこわして、下の方、最下層にある無意味な闇の中へ飛び降りて行くつもりだ。わたしにとって息のしやすい世界は下の方の猟奇なのだ」
 ヴァルザーは無用の人間になりたい、何よりも忘れ去られたいと願っていた。作家というのは執筆をやめたとたんに忘れられるべきだ、と彼は考えていた。というのも、執筆をやめるということは本の世界を失うということ、本の世界が彼のもとから飛び去ってしまい、それまでとはちがう状況と感情のコンテキストの中に入るということを意味している。したがって、創作を行う人間ならとても想像できないような質問を他の人たちから浴びせられて、それに答える羽目になるのだ。
 虚栄心や名声といったものは本来ばかげたものである。セネカは、名声というのは恐ろしい、なぜならそれは多くの人たちの判断に寄りかかっているからであると言っている。しかし、ヴァルザーに人から忘れ去られたいと思わせたものはまた別のものである。世俗的な名声と虚栄心は、彼にとって恐ろしいというよりもむしろ完全に不条理なものであった。というのも、たとえば名声というのはある名前の人があるテキストを所有しているという関係の上に成り立っていると考えられる。しかし、テキストそのものは厳として存在しているのに対して、色あせた名前の方はそのテキストに対して何の影響力ももっていないからである。
 ヴァルザーは無用の人間になりたいと願っていた。彼の愛した虚栄とはフェルナンド・ペソアのそれを思わせる。ペソアはあるとき、板チョコを包んでいた銀紙を床に投げ捨てると、自分はこんな風に、つまりこうして人生を捨てたのだといった。
 (21~24)

  • 次に引くカドゥなる人のエピソードもなかなか面白いけれど、たしかこれは実在の人物ではなくてビラ=マタスの創作だったような気がする。参照源として「研究書」が挙げられているペレックWikipedia記事も見てみたけれど、少なくとも英語版にはそれらしいタイトルは見当たらなかった。

 カドゥが十五歳の時、両親はヴィトルド・ゴンブロヴィッチを夕食に招いた。ポーランド出身のこの作家は数ヶ月前、つまり一九六三年の四月末にブエノス・アイレスに永遠の別れを告げて船に乗り込み、下船したあとほんのしばらくの間バルセローナに滞在した。そのあと、パリに向かったが、そこで五〇年代にブエノス・アイレスで親しくしていた古くからの友人カドゥ夫妻に夕食に招かれた。ほかにもあちこちから声をかけられていたが、ゴンブロヴィッチは夫妻の招待を受けることにした。
 若いカドゥは作家になりたいと願っていた。事実何ヶ月も前からそのための準備をしていた。おおかたの親とちがって彼の両親はそのことを喜び、息子が作家になれるようあらゆる便宜をはかってやった。息子のカドゥがいつかフランス文学界の輝ける星になるかもしれないと考えて、両親は期待に胸を膨らませた。彼は恵まれた条件の下であらゆる本を読み、できるだけ早く賛辞を浴びるような作家になろうと努力した。
 若いにもかかわらず、カドゥはゴンブロヴィッチのある作品、深い感銘を受けたある作品をかなり深く読み込んでいたし、時にはこのポーランド出身の作家が書いた小説の何節かを両親の前で朗読したこともあった。
 そういう事情があったので、ゴンブロヴィッチが夕食の招待を受けてくれたとわかって、両親は大喜びした。若い息子が自宅で天才と評されるポーランド出身の偉大な作家と直に顔を合わせ、親しく口をきけるというのだから、両親が喜んだのも無理はなかった。
 しかし、思いもかけないことが起こった。両親の家でゴンブロヴィッチに会えたという感激があまりにも大きかったせいで、その夜彼は一言も口をきくことができず――両親の家でフロベールと会ったときの若いマルブーフと同じように――自分は文字通りみんなが夕食をとっている客間の家具でしかないのだと考えるようになった。
 家具になったとたんに、若いカドゥは作家になりたいという自分の夢が潰えてしまったことに気がついた。
 カドゥは書くことを放棄せざるをえなくなったが、そのせいで心の中にぽっかり空いた穴を埋めるために十七歳から、狂ったように芸術活動をつづけた。その点がマルブーフとちがっている。カドゥはマルブーフとちがって短い全生涯(彼は若くして亡くなった)を通して自分は家具になってしまったと考えただけでなく、少なくとも絵筆を手にした。筆を持って家具を描いたのだ。以前ものを書こうと考えたことがあるということを忘れるための唯一の方法がそれだった。
 彼の絵はすべて家具が主人公になっていて、どの絵にも『肖像画』という謎めいたタイトルがつけられている。
 「ぼくは自分が家具だと感じています。それに、ぼくの知っている限りでは、家具はものを書きませんから」。カドゥは人から、若い作家になるつもりではなかったのですかと尋ねられると、決まってそう答えていた。
 カドゥに関してはジョルジュ・ペレックの興味深い研究書(『自分をつねに家具とみなしていた作家の肖像』パリ、1973)がある。作者はその中で、カドゥが病気になり長い間苦しんだ末に一九七二年に亡くなったときのことを、辛辣な風刺を込めて次のように描いている。家族のものはそう望んではいなかったが、彼をまるで家具のように埋葬した。邪魔な家具を片づけるように彼を処分し、パリの蚤の市という古い家具が山のようにある市場のそばの骨壷を収める墓穴に埋葬した。
 まもなく自分は死ぬだろうと考えた若いカドゥは、自分の墓のために墓碑銘を書き、家族のものにそれが自分の「全集」と思ってもらいたいと言った。まことにアイロニカルな依頼である。その墓碑銘には次のような一文が書かれている。「もっと多くの家具になろうとしたのだが、それは許されずうまく行かなかった。結局一生を通じてひとつの家具でしかなかったのだが、それ以外が沈黙であることを考えると、そのこと自体は決して些細なことではない」
 (34~36)

  • Wikipediaで「花山天皇」の記事を読む。『大鏡』に書かれている出家時のエピソードほか、興味深かった箇所。

寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとした。このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前に、かつて妻から貰った手紙が自室に残ったままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を急いで極秘に行いたかった兼家が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。一行が陰陽師安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝わる。天皇一行が寺へ向かったのを見届けた兼家は、子の藤原道隆藤原道綱らに命じ三種の神器を皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖した。

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出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。同年1月半ば、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(さらに『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子2人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がるのを待ち構えていた藤原道長に利用される形で、翌月に伊周・隆家はそれぞれ大宰府出雲国に左遷の体裁を取って流罪となった(長徳の変)。これにより、あの出家事件の首謀者であった兼家の孫で、道隆の子であった中関白家の伊周はライバルの道長に政治的に敗北することとなり、出世の道は途絶えた。

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なお『栄花物語』によれば皇女四人のうち、平子腹の皇女一人のみ成長したという。しかし万寿元年(1024年)12月6日にこの皇女(上東門院彰子の女房)は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された(『小右記』)。この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白し人々を驚愕させた。藤原道雅の父は花山法皇に矢を射掛けたあの藤原伊周である(事件そのものは7月28日にこの殺害事件を起こした盗賊の首領という者が自首をしたため、藤原道雅からの指示という点は有耶無耶になってしまった)。

  • また、「出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国中山寺兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている」と言う。一方でこの花山帝は好色でも有名であり、「即位式の際、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話」が伝わっている旨だし、「出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人は中務の腹に儲けた清仁親王を「母腹宮[おやばらのみや]」、平子の腹に儲けた昭登親王を「女腹宮[むすめばらのみや]」と称した」などという話もあるらしい。