2020/5/28, Thu.

 (……)作家の「ペンは心臓につけた地震計の針にすぎない」(註9: Vgl. Janouch, Gustav : Gespräche mit Kafka, Frankfurt a. M. 1981. S. 62.(グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』筑摩書房 一九六七年 六六頁))(……)
 (高橋行徳『開いた形式としてのカフカ文学』鳥影社、二〇〇三年、203)



  • 午後一時に離床。何故なのか? 寝る前に身体を念入りにほぐしたというのに、なぜ九時間近くも床に留まることになったのか? 理解できない。しかも就寝前に丹念に伸ばしたはずの身体が、眠りを通過すると覿面にこごっている。人間の肉体とは不自由なものだ。臥位で見上げた空に青さは見えるものの、飛沫じみた雲も広い領分を占め、ほつれながらも繋がっている。その動きが鈍重なので、風はあまりないようだ。
  • わずかな夢の記憶。中古CD店にいるらしく、棚を見分していた。もともとは何も買うつもりがなかったのだが、Jesse van Rullerの作品を見つける。二〇一八年作と二〇二〇年作の二つがあったが、現実の彼がこれらの年に実際に作品を発表しているかどうかは知らない。どちらかを手に取って見てみると三〇〇円とめちゃくちゃ安かったので買うことにした、というところまで覚えている。
  • 上がっていくと母親が、下の家に来てるらしいよと言う。下の家というのは隣家のTさんが大家であるところの小さな宅で、T家の南隣、我が家の畑から見ると西方向にごく小さな斜面を上った位置にある。近所に住むAさんの息子であるDちゃん(本名はDだと思うが、漢字は知らない)が入居するとかいう話を先日以来聞いていた。それで見に来ているらしい。
  • 二時過ぎから「英語」及び「記憶」の復読。後者の一七四番は、吉田徹×西山隆行×石神圭子×河村真実「「みんながマイノリティ」の時代に民主主義は可能か」(2019/10/23)(https://synodos.jp/international/22986)より。

吉田 裏から見ると、この本[ジャスティン・ゲスト著『新たなマイノリティの誕生:声を奪われた白人労働者たち』]はリベラル層と労働組合に包摂されていた労働者層との離別のプロセスを描くものです。ポスト冷戦時代になって、社民政党グローバル化多文化主義に舵を切って、経済的リベラリズムと社会的ダイバーシティの方向へと価値観をシフトさせます。本書の中でも描かれていましたが、そういった流れの中で、アメリカの民主党やイギリスの労働党が手を焼き、戦略に乗ってくれない労働者層が取り残されていった。
 それでも、労働者層は歴史的な社民の支持者層であった、方向転換しても彼らは付いてきてくれるだろうというふうにナメていた。しかし、白人労働者層の剥奪感が高まっていったために墓穴を掘ってしまったというストーリーでもあります。社民政党がリベラルになりすぎたために、伝統的な支持基盤だった白人労働者層に、そっぽを向かれるようになってしまった。
 競合政党(共和党や保守党)に政権を獲られるくらいだったら労働党ないし民主党に投票する、最悪でも棄権するという投票行動だったのが、そこに楔を打ち込むポピュリスト勢力――トランプやUKIP(英独立党)――が参入するようになると、この白人労働者層は大きな波乱要因になる。だから、いわゆる極右ポピュリスト政党の伸びしろがあるのは、どこの国でも労働者層なんですね。保守政党も左派政党も、誰もそれをグリップしていなかったためです。そして、そのニッチ市場を開拓していったのがトランプでありUKIPでした。

  • また、一八〇番。

 (……)大量殺戮そのものであれば先例を見つけることはおそらく可能であったろうが、収容所においては、大量殺戮はまったく意味を欠いた形であらわれる(……)。このことについても、生き残った者たちの意見は一致している。「そのとき、語られなければならないものがわたしたちには想像もできない[﹅7]ものに見えはじめた」(Antelme, R., La specie umana, Einaudi, Torino 1976(orig. L'Espèce humaine, Gallimard, Paris 1947; 宇京賴三訳『人類』未來社、1993年), p.ⅴ)。「あらゆる説明の試みは〔……〕徹底的に失敗した」(Améry, J., Un intellettuale a Auschwitz, Bollati Boringhieri, Torino 1987(orig. Jenseits von Schuld und Sühne. Bewältigungsversuche eines Überwältigten, F. Klett, Stuttgart 1977; 池内紀訳『罪と罰の彼岸』法政大学出版局1984年), p.16)。「極端な宗教家たちが大量殺戮を預言者風に解釈しようとすることにわたしは腹を立てている。わたしたちの罪にたいする罰だというのである。ちがう。わたしはこれを認めない。無意味であるということこそが、大量殺戮をいっそう恐ろしいものにしているのだ」(Levi, P., Conversazioni e interviste, Einaudi, Torino 1997(多木陽介訳『プリーモ・レーヴィは語る』青土社、2002年), p.219)
 「ホロコースト」という不適切な言葉は、理由のない(sine causa)死を正当化しようとし、意味をもちえないように見えるものに意味をほどこそうとする、この無意識の欲求から生まれている。「〔……〕一言弁解しておくと、わたしはこのホロコーストという言葉が好きではないので、できれば使いたくないのである。しかし、そのほうが通じやすいので、使うことにする。文献学的には誤りである。〔……〕」(p.243)。「その言葉が生まれたとき、わたしはとても不快だった。のちに、それを造り出したのがほかでもないエリ・ヴィーゼルだということを知った。もっとも、かれはあとになって後悔し、撤回しようとしたようである」(p.219)。
 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、32)

  • 復読後、NewsweekやSYNODOSの記事を「あとで読む」ノートにひたすら追加する作業に一時間を費やした。四時過ぎで上に行き、アイロン掛けを片づける。テレビは何とかいう全然知らない人が各地に出向いて飯を作るみたいな番組をやっており、今回は檜原村が舞台になっていた。若い人たちが檜原に移住して多少のコミュニティを形成しているらしい。都会での仕事とか人間関係とか環境とか、まあそういったものに疲れたということを大体みんな口にしていた。そういうものから逃げるための場所としてここがある、というようなことを一人が言ったときに別の人が、逃げると言うより、新たに戦うための場所みたいな、と補足していた。今までそのなかでしか生きられない、絶対にそこでやっていかなければならないと思っていた場所が実はそうではなくて、それ以外の世界もあるんだっていうことがわかると、別にそこで必死になって生きていかなくてもいいやってなりますよね、とのこと。
  • 夕食の支度をするのが面倒臭かったので面倒臭えと素直に口にして、俺はうどんを煮込んで食うからそっちはそっちでやってくれと母親に伝える。そう言いながらも一応サラダだけは用意しておくことにして、アイロン掛けののちに大根や人参をスライスし、レタスもちぎって洗い桶に漬けておいた。
  • 帰室後、五時からベッドで書見。そう言えば時間が戻るけど、おそらく三時頃から雨がにわかに始まり、だいぶ激しい勢いで通った時間があった。雷もよく落ちていたがアイロン掛けに上がった頃には弱まっており、降りながらも大気に明るみが差して混ざり、あたりが白っぽく淡光するという変な色合いが観察されたのだった。
  • で、奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社、一九七八年)をベッドで読んだものの、例によってまどろみにやられる。六時半頃だったか母親が外に出た際、下の家に来ている人に挨拶をしていたが、相手はDちゃん本人でなくその友人だと言う。手伝いに来ているらしく、だからもう荷物など運びこんで引っ越しをしていたようだ。相手はやや威勢の良さそうな声音の人で、Aくん(すなわちこちらの兄)の一個上のNですよと言うのに母親が、あ、N.Tくん? と受けていたが、誰やねん。(……)の人らしいがこちらは知らない。Dちゃんとは(……)の繋がりだとか。
  • 六時五〇分まで書見してから夕食へ。上がる前にgmailを見るとMさんから返信が届いていたので、通話について今日の深夜はどうですかと返しておいた。夕食には煮込みうどんをこしらえる。結局のところ、煮込んだうどんがこの世の料理のなかで一番美味い。これは明白な真理である。新玉ねぎ、大根、人参、南瓜、絹さや、葱を材料にし、麺つゆとうどんスープとかいう粉を合わせて味つけ。ほか、サラダを用意し、母親が焼いてくれた鯖も一切れだけもらって食事。朝刊から光州事件関連の記事を読みつつ栄養を摂取する。父親が八時には帰ってくる見込みだったので、食後はやばやと入浴してしまうことに。時間が少なかったので今日はストレッチをせず、国家におけるいわゆる負の歴史とか、その国に生まれついた国民としての集団的もしくは観念的責任、みたいなことについていくらか考えながら湯を浴び、髭を剃った。例えばいわゆる戦争責任とか、戦時中の国家的蛮行に関する責任などについて、歴史的事実としてそんな行為はなかったと否定する立場とはまた別に、当時は程度の差はあってもどの国も同じようなことをやっていたのだから他国は我が国の責任を問えないはずだ、みたいな相対化論法がありうると思うのだけれど、それを取ってしまうと結局は、みんな同類の悪党で同じ穴の貉なのだから誰もその悪さを裁けないということになり、すると国際的市民社会と言うかそういったものが成り立たなくなってしまう気がするので、やはりそれは愚策なんじゃない? みたいな、大体そういったことだ。あと、当然のことだけれど、国家的規模でのいわゆる「負の歴史」とは別個に、個人のうちにも「負の歴史」的なものがもちろんありうるわけで、前者と後者がどう接続するのか、あるいはしないのかという論点もあるし、またそもそも個人的「負の歴史」なるものを持ち合わせなかった、それに触れることがなかった人間も言うまでもなく存在する。どんな問題でもそうなのだが、それらの複層的状況を前提として受け取りながらもどのように集団的責任らしきものを共有し作り上げていくのか、どのように作り上げていくべきなのか、あるいは現実にそれがどのように作り上げられていくのか、というような問いを多少頭にめぐらせた。こういうテーマに関してはヤスパースが『戦争の責任について』みたいな文章を書いていたはずで、たしか戦後すぐ、たぶん四九年くらいに書かれたものではなかったかという気がするのだけれど、邦訳が平凡社ライブラリーに入っており、すさまじいほどの昔に地元の図書館にあったのを読んだ記憶がある。おそらくまだEvernoteを使って記録をつけはじめてすらいない頃、だからもちろん文学などにはまったく手を出していない時分のことで、おおかた大学三年に上がったときの春以降、パニック障害で一年間休学していたあいだのことではないか? そうだとすればおおよそ一〇年前になるわけだから、内容についてはもちろん一つも覚えていないし、あれをまた読み返してみる必要もあるのかもしれない。
  • ほか、"A Case of You"について。Diana Krallが『Live In Paris』の一一曲目でJoni Mitchellの"A Case of You"を歌っているのだが、そのなかの"I could drink a case of you"という一節が風呂場で脳内にリフレインされ、そこで初めてこの曲の歌詞を意識するに至り、なるほどこの歌は相手を酒か何かに喩えた曲だったんだなといまさら気づいたのだ。で、あなたならばケースいっぱいの量でも飲み干すことができるというわけだけれど、この表現ってなんか、意外と珍しくね? と思った。恋人を酒に喩える比喩はもちろんひどくありふれたもので、恋情の陶酔をアルコールによる酩酊と重ね合わせて捉える思考は一般的修辞法としてこの世に広く流通していると思うが、「あなたに酔ってしまう」ではなくて、「あなたを飲んでしまう」という具体的な行為のレベルにまで入っていく言い方はあまり見かけないような気がしたのだ。まあたぶんこちらが知らないだけでたくさんあるのだとは思うけれど、それでも何となく、「飲む」よりも「食べる」のほうがよく見られるようなイメージを持っている。去年だったか一昨年だったか『きみの膵臓を食べたい』とかいう小説がよく売れていたようで、読んでいないからもちろんわからないが、それもたぶんこの系列に属する物語なのではないか。いずれにしても、言うまでもなくこの修辞においては「愛」の究極形態を表現する一手法としての「取り込み - 合一」のテーマが志向されているわけだけれど、"I could drink a case of you"にあってはそれが双方向的な合一 - 融合と言うよりは、取りこみ/取りこまれる関係として描かれている点がちょっと気にならないでもない。もともとJoni Mitchellが作った曲なので、一応この曲の"I"を女性と仮定して捉え、なおかつ相手は男性として、ひとまず異性愛の関係を想定したいのだが、そうするとここには女性の主体性に基づいた能動的行為によって相手の男性を自らのうちに飲みこみ、消化し、同一化してしまうという、ある種の大きくて強い(と言って良いのかわからないものの)女性像、女性としての優位性が表明されているとも言えるような気がしており、例えばそこでは交尾の最中に雌が雄を食べてしまうというカマキリのイメージなども容易に召喚されて接続されうるだろう。そのように捉えられるとすれば、Joni Mitchellがこの曲を作りまた発表したのが何年なのか知らないけれど、たぶん七〇年代かなという気がするので、やっぱりこれは例えば公民権運動やいわゆるアイデンティティ・ポリティクスの類を、いまだ通過はしていないにしても、少なくともその勃興に接しまたその渦中にある時代の音楽ということなのかなあとか思ったわけだ。ただ以上思ったことはあくまで"I could drink a case of you"の一フレーズのみから考えたことなので、曲全体の歌詞を読むとこういう捉え方が成り立たなくなる可能性はもちろんある。
  • 入浴後にふたたび「記憶」記事。一八一番及び一八二番。

 しかし、この語[「ホロコースト」]をユダヤ教徒にたいする論争の役割に使う用法の歴史もまだ続いていた。それは、もっとひそやかで、辞典に記載されていない歴史であるにしてもである。わたしは、主権について探索するうちに、中世の年代記作者の一節にたまたま出会った。その一節は、わたしの知るかぎりで、「ホロコースト」という語によってユダヤ教徒虐殺を指す最初の用例であるが、この場合は激しい反ユダヤ主義に着色されている。ダイゼス(Duizes)のリチャードの証言によれば、リチャード一世戴冠式の日に(一一八九年)、ロンドンの人々はことのほか血なまぐさいポグロムに身をまかせたという。

まさに王の戴冠式の日に、御子が御父に犠牲に供されたのとほとんど同じ時に、ロンドンの町で、ユダヤ教徒たちをかれらの父なる悪魔に犠牲に供しはじめた(incoeptum est in civitate Londoniae immolare judaeos parti suo diabolo)。この聖劇の挙行は長く続いたので、ホロコーストは翌日になるまで終えることができなかった。そして、同地方のほかの町や村も、ロンドン人の信仰を見習って、同じくらいの献身ぶりでもって、ヒルどもを血まみれにして地獄に送った(pari devotione suas sanguisugas cum sanguine transmiserunt ad inferos)。(Bertelli, S., Lex animata in terris, in F. Cardini (a cura di), La città e il sacro, Garzanti-Scheiwiller, Milano 1994., p.131)

 婉曲語法とはじっさいに口にされるのを聞きたくないものについて本来の表現を和らげた表現か別の表現によって代用することを暗に意味するのであるから、婉曲語法を作ると両義性が生まれるのがつねである。しかし、この場合は、両義性の度が過ぎている。ユダヤ教徒もまた、大量虐殺を指すのに、婉曲語法を用いる。「ショアー(šo'ah)」という語がそれである。これは「壊滅、破局」を意味しており、聖書では、たいていは神の罰の観念を含んでいる(たとえば、『イザヤ書』一〇・三「刑罰の日に、ショアーが遠方よりやって来るというのに、おまえたちはどうするつもりなのか」)。レーヴィが大量虐殺をわたしたちの罪にたいする罰と解釈する試みについて語るとき、おそらくかれはこの語のことを言っているのだろうが、この婉曲語法の場合は、あざけりはまったく含まれていない。反対に、「ホロコースト」という語の場合は、たとえ遠回しにではあっても、アウシュヴィッツと聖書の olah、ガス室での死と「神聖で至高の動機にたいする全面的な献身」を結びつけることは、愚弄としかおもえない。この語は、火葬場の炉と祭壇を同一視するという受け入れがたいことを前提としているだけでなく、反ユダヤ主義的な色合いをはじめから担っている意味の遺産を相続している。したがって、ここでは、この語をけっして使わないことにする。この語をあいかわらず使う者は無知か無神経さ(あるいはその両方)を露呈しているのである。
 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、36~38)

     *

 数年前、フランスの新聞にわたしが強制収容所についての評論を発表したとき、ある人が新聞の編集長に手紙をよこして、わたしの分析は「アウシュヴィッツの、類例のない、言語を絶する性格をだいなしにする(ruiner le caractére unique et indicible de Auschwitz)」ものだと非難した。その手紙の主がいったいなにを考えたのか、わたしは何度も自問したものである。アウシュヴィッツが類例のないできごとであったというのは、(将来についてはそうであることを希望できるにすぎないが、すくなくとも過去については)きわめてありそうなことである(「広島と長崎の恐怖、グラーグの恥さらし、ベトナムでの無益で血なまぐさい戦闘、カンボジアでの自国民大量虐殺、アルゼンチンでの行方不明者たちなど、その後わたしたちが目にすることになった残忍で愚かしいたくさんの戦争があったが、ナチスの強制収容の方式は、わたしが書いているこの時点まで、量についても質についても類例のないもの[﹅7](unicum)である」 Levi, P., I sommersi e i salvati, Einaudi, Torino 1991, p.11f)。しかし、なぜ言語を絶しているのだろう。なぜ大量虐殺に神秘主義の栄誉を与えなければならないのだろう。
 西暦三八六年にヨアンネス・クリュソストモスはアンティオケイアで『神の把握しがたさ〔理解不可能性〕について』という論文を書いた。「神が自分自身について知っていることのすべてをわたしたちはわたしたち自身のうちにも容易に見いだす」から神の本質は理解されうると主張する論敵たちをかれは相手にしていた。「言語を絶し(arrhetos)」、「名状しがたく(anekdiēgētos)」、「書きあらわしえない(anepigraptos)」神の絶対的な理解不可能性をかれらに抗して雄弁に主張するとき、ヨアンネスは、まさにこれが神を讃える(doxan didonai)ための、また神を崇める(proskyein)ための最良の言い方であることをよく理解している。しかも、神は、天使たちにとっても理解不可能である。しかし、このためにますます天使たちは神を讃え、崇め、休みなく自分たちの神秘的な歌を捧げることができる。天使の勢力にヨアンネスが対置するのは、いたずらに理解しようとする者たちである。「前者(天使たち)は讃え、後者はなんとしても知ろうとする。前者は沈黙のうちに崇め、後者は躍起になる。前者は目をそらし、後者は、恥じることもなく、名状しがたい栄光を凝視する」(Chrysostome, J., Sur l'Incompréhensibilité de Dieu, Cerf, Paris 1970.(神崎繁訳「神の把握しがたさについて」(『中世思想原典集成』第2巻「盛期ギリシア教父」所収)平凡社、1992年), p.129)。「沈黙のうちに崇める」と訳した動詞は、ギリシア語原文では euphēmein である。もともと「敬虔な沈黙を守る」を意味するこの語から「婉曲語法(eufemismo)」という近代語が派生する。この近代語は、羞恥もしくは礼儀のために口にすることのできない言葉を代用する言葉を指す。アウシュヴィッツは「言語を絶する」とか「理解不可能である」と言うことは、euphēmein、すなわち沈黙のうちにそれを崇めることに等しい。神にたいしてそうするがごとくにである。すなわち、そのように言うことは、その人の意図がどうであれ、アウシュヴィッツを讃えることを意味する。これにたいして、わたしたちは「恥じることもなく、名状しがたいものを凝視する」。たとえ、その結果、悪が自分自身について知っていることをわたしたちはわたしたち自身のうちにも容易に見いだすということに気づかせられることになろうともである。
 (38~39)

  • Twitterをちょっと覗いたときに、ハンス・ヨナスによるグノーシス思想についての本が六月三〇日に出るという新刊情報に接したのだが、ちょうど昨日だか一昨日だかY.Mさんが、グノーシス主義についての文献情報求むとツイートしているのを見かけていたので、お節介してその旨を知らせておいた。
  • Mさんとは一時半から駄弁ることになった。日記は、今日、昨日、それに五月二三日、二四日、二六日の記憶を言語に変換し終え、これで溜まっていた要メモ案件はなくなったので、五月三日以降の記事を綴ることができる。

 ホロコーストナチスユダヤ人大虐殺)の最中、ポーランドユダヤ人は強制収容されたのではなく、自ら進んでゲットーで暮らす道を選んだ。ポーランド人の隣人にうんざりしていたからだ──ポーランドの元政治家で現首相の父親がインタビューでそう語った。
 「ユダヤ人をワルシャワ・ゲットーに追い込んだのは誰か知っているか? ドイツ人だと思うだろう。違う。ユダヤ人が自主的に行ったんだ。そこは別天地で、厄介なポーランド人と付き合わなくて済むと聞かされたからだ」
 ポーランドのマテウシュ・モラウィエツキ首相の父親で、元上院議員のコルネル・モラウィエツキはポーランドのオンライン誌Kultura Liberalnaにそう語った。
 ポーランドでは今年[二〇一八年]2月、ホロコーストポーランド人が加担したという表現を禁止する法案が成立。モラウィエツキ政権は今、この新法をめぐり国際社会の激しい批判を浴びている。

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 第2次大戦中にポーランドではユダヤ人300万人が虐殺されたが、モラウィエツキ政権は自国には何の罪もないと主張。新法の下では、ポーランドにも責任があると言えば3年以下の懲役か罰金刑を科される。この法律の適用を除外されるのは科学的な調査と芸術作品だけだ。

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 モラウィエツキは法案成立後、「ホロコーストに協力したユダヤ人もいた」と述べ、イスラエルとの関係はさらに悪化した。

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 「ポーランドホロコーストに共謀したというげんせつ主張は、ナチス・ドイツの責任を曖昧にする」と、モラウィエツキ首相は[「フォーリン・ポリシー」に寄稿した論説に]書く。
 「第2次大戦中、ポーランドはドイツとソビエトが企んだ大虐殺を経験し、600万人のポーランド人が亡くなった。その半数がポーランド在住のユダヤ人だ。ポーランドナチス第三帝国に協力する政権が誕生したことは一度もなく、ナチスの親衛隊が結成されたこともない」

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 ポーランドでは右派政党「法と正義」が政権を握って以来、ナショナリズムが一気に高まり、極右勢力が台頭している。昨年11月の独立記念日には、首都ワルシャワ愛国主義団体がデモを実施し、60万人が参加。ネオナチも堂々と隊列に加わった。

  • まず最初の引用においては、「ユダヤ人をワルシャワ・ゲットーに追い込んだのは誰か知っているか? ドイツ人だと思うだろう。違う。ユダヤ人が自主的に行ったんだ。そこは別天地で、厄介なポーランド人と付き合わなくて済むと聞かされたからだ」というポーランド現首相の父親の発言が見られる。この人は、「そこは別天地で、厄介なポーランド人と付き合わなくて済むと聞かされた」ユダヤ人たちが、ワルシャワ・ゲットーへと「自主的に行った」という説を自信たっぷりにはっきりと主張しているわけだが、それではユダヤの人々が一体誰からそのような情報を「聞かされた」のかという点については、少なくとも上の記事に引かれた発言の範囲からは何一つ窺えない。Kultura Liberalnaなるメディアに載せられた元記事において彼がそれを明言したのかどうかもわからないものの、ワルシャワ・ゲットーを建設したのは言うまでもなくナチス・ドイツ当局であり、彼らはユダヤ人たちをゲットーに隔離して封じこめたかったわけだから、上のような情報を流す者がいたとしたらそれはやはり「ドイツ人」当局である可能性がもっとも高いのではないか。だから、ゲットーは「別天地」であるというような噂がもしユダヤの人々にもたらされていたのだとしたら、それは当局の「ドイツ人」たちが「ユダヤ人をワルシャワ・ゲットーに追い込」むという意図を持って働いた策略だったと捉えるのが順当ではないだろうか。仮に情報拡散の主体が「ドイツ人」ではなかったとしても、ワルシャワ・ゲットーはもちろん、「別天地」などという言葉がはらんでいる楽園的なイメージとは程遠い環境だったわけで、少なくともこの噂の内容自体は明らかな虚偽である。そのような虚偽情報をわざわざユダヤの人々に伝播させて彼らをゲットーに移動させようとした者がもしいたとすれば、そこには悪意と謀略の側面が明白に観察されると思われるから、そういう情報がもし本当に流通していたとして、またその結果として「ユダヤ人」たちが自らゲットーに向かったとして、それは「自主的に行った」などとはとても言えず、彼らはおそらくは悪意を含んだ不正確な噂にそそのかされたのだと見るのが妥当ではないのだろうか。こうした疑問がまず一つありうると思う。
  • 次に二つ目の引用によれば、「第2次大戦中にポーランドではユダヤ人300万人が虐殺されたが、モラウィエツキ政権は自国には何の罪もないと主張」しており、「新法の下では、ポーランドにも責任がある」という意見を表明することは犯罪とされ、「3年以下の懲役か罰金刑を科される」と説明されている。さらに四つ目の引用中でマテウシュ・モラウィエツキ首相は、「ポーランドナチス第三帝国に協力する政権が誕生したことは一度もな」かったという歴史認識を示しているのだが、これに対しては例えば、 芝健介『ホロコースト』から以下に引く記述が反証になりうるものとして即座に思い浮かぶ。

 また、他方ではポーランド政府の対応が新たな問題を沸騰させる。ポーランドは、ユダヤポーランド人がオーストリアから帰国することを嫌い、国外にいるポーランド国籍のユダヤ人にパスポート更新を認めない国籍剝奪法を定めたからだ。ドイツによるオーストリア併合後の[一九三八年]三月末にである。そして、一〇月二九日をもってドイツ・オーストリア在住ユダヤポーランド人の国籍は失効させると声明を発していた。
 この期限の三日前、つまり一〇月二六日、保安警察・親衛隊保安部長官ハイドリヒは、一万五〇〇〇~一万七〇〇〇名いるとされたドイツ在住ユダヤポーランド人の国外退去を図る「ポーランド作戦」を展開しはじめる。外国人取扱担当のゲスターポによる最大の強制移送作戦はナチ体制下最大規模のものになったが、ポーランドも受け入れを拒否したため、ユダヤポーランド人たちは、無人地帯で野ざらしの難民状態になった。
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、54~55)

  • この文章に従えば、まず一九三八年時点のポーランド政府が、「国外にいるポーランド国籍のユダヤ人にパスポート更新を認めない国籍剝奪法を定めた」という厳然たる歴史的事実が認められる。また次にその同じ政府は、ナチス・ドイツによって強制的な国外退去を科されたユダヤポーランド人の「受け入れを拒否し」、彼らが「無人地帯で野ざらしの難民状態に」置かれることを許容したわけである。少なくともこの二点において当時のポーランド政権は、仮に消極的にであったとしても、国家行為としてナチス第三帝国に「協力」したと判断できるのではないかと思うのだが。もしそのような評価が確かに定められるのだとしたら、「ポーランドナチス第三帝国に協力する政権が誕生したことは一度もな」かったというモラウィエツキ首相の主張は、もちろん謬見だということになる。
  • 三つ目の引用においてモラウィエツキ首相は「ホロコーストに協力したユダヤ人もいた」とも述べており、これは「法案成立後」の発言ということなので、おそらく新法の正当性を主張する試みの一環ということだと思うのだけれど、その論理はこちらにはよく理解できない。「ホロコーストに協力したユダヤ人もいた」ということ自体は、一応、それはそうではないかと思う。例えば収容所のなかにだってカポのような立場を利用してほかの囚人を不当かつ不要に迫害したユダヤ人はおそらくいただろうし、収容所外を考えても、自らが助かるためにユダヤの同族を売ったような人間が、まったくいなかったということは多分ないだろう。もっとも、それらの行為をホロコーストに対する「協力」として解釈しうるか否か、という点はもちろんまた問題としてありうるはずだが、ただ今ここで重要なのはその論点ではなく、 「ホロコーストに協力したユダヤ人もいた」という地点から、例えば「ユダヤ人」たちも「ホロコーストに協力し」たのだから彼らにも責任があったのだという一般化を導くとしたらそれは言うまでもなく誤謬だし、加えてこの発言が、ポーランドには「何の罪もな」く「責任」もないという主張にどのように繋がるのか、その道筋がこちらにはよくも理解できないということだ。「ホロコーストに協力したユダヤ人もいた」けれど「ユダヤ人」たちの総体的な「責任」を問うことはできないのだから、それと同様に、 「ホロコーストに協力した」個々のポーランド人はいたとしても、ポーランドに国家総体としての「責任」はないということなのだろうか? 仮にその理解が正しいとして、そのような主張には上記したことが少なくとも一つの反証にはなるのではないかと思うし、もしそれが成り立たないとしても、「ポーランドにも責任がある」という意見の表明を法による刑罰の対象とすることの是非はもちろん問われるべきだろう。
  • ポーランドホロコーストに共謀したというげんせつ主張は、ナチス・ドイツの責任を曖昧にする」とも首相は述べているわけだが、この論法についてもこちらにはよくわからない。まず、「ナチス・ドイツ」に「ホロコースト」の主体としての「責任」があったということは、相当に過激なほうの歴史修正主義者でない限り誰もが同意できる命題だと思う。次に、ポーランドも、仮に部分的にであったとしても「ホロコーストに共謀した」と認定できるとして、そのように主張することによって「ナチス・ドイツの責任」が「曖昧」になってしまうと首相は言っている。つまり、ナチス・ドイツのみに唯一的に還元されるべき「責任」の帰属先が複数化することによって、その「責任」の中身が拡散してしまうというようなことだろうか。だとすればおそらくここでは、ある事件についての「責任」はあらかじめその総体量や全体像が定まったものとして想定されており、本来は一〇〇パーセントナチスに帰されるべきその「責任」をポーランドも「分け合う」ということになればナチス・ドイツが全面的に受け持つはずの「責任」の割合が減ってしまう、というような思考法が採用されているのではないかと推測するのだが、「責任」という概念をそのように数量的割合論で捉えることが適切なのか否かこちらにはよくわからない。とは言えこちら自身も上で「部分的に」という言葉を使っているわけだし、そうした思考法に知らずして従っているのかもしれないが、この点はまだ明確にわからないので今後の学びに委ねる。
  • 一時半ごろ隣の兄の部屋に移ってMさんと駄弁を繰り広げた。通話が繋がってまず最初に、今日はどうも、ありがとうございますと礼を口にするとMさんは笑い、何やそれ、そんなんええねんと言った。また何か精神状態が乱れたんじゃないかと思ったと漏らすので、そういうことはまったくなく、ただ何となく久しぶりに雑談しようかと思ったのだと答える。はじめのうちは時勢を反映して新型コロナウイルスの話題。周りに感染者は出ていないかと訊かれるので肯定すれば、Mさんのほうも中国の学生らも含めて知人の範囲で感染者はいないと言う。それは互いに良いことだ。青梅市は三人だと伝えると(ちなみに七月一日水曜日現在では、二、三日前に新聞で一〇人の数値を見た覚えがある)、伊勢より少ないやんという驚きの反応があった。伊勢はやはり観光地なのでほかから来る人が多いのではないか、青梅はよそから人、来ませんもん、と笑うとそれはそうやなと相手も笑う。青梅市の感染者のうちの一人は学校の臨時教員なのか何なのか、正確な情報が伝わってきていないのだがともかく中学校を回っていたような人らしく、それで生徒を通じて塾のほうにも飛び火してこないかと多少懸念を覚えていたのだが、幸いそれもなかった。
  • Mさんは比較的はやい時点でコロナウイルス発生の報を入手していたと言う。たしか正月明け、一月五日くらいと言っていたか? その時点で英語圏のメディアには既に武漢市で新種のウイルスが見つかったという情報が流れており、それが日本語メディアにも伝播してきていたということで、湖北省武漢というのはMさんの勤める大学がある湖南省からわりと近く(何しろ「湖」の「北」と「南」だから、当然隣接しているのだろうと思っていまWikipediaを覗いたところもちろんそうで、この「湖」とは洞庭湖という湖のことらしい)、学生らとの会話中でもけっこう名前を耳にする都市だったため、そうなんだ、そんなことになってるんだと幾許かの印象を受けたものの、その時点ではさすがにここまでの規模に拡大するとは思っていなかった。その後、一月一五日だかに、たしか空港に向かう途中でと言っていたか、武漢でこんなことになってるらしいんだけど知ってる? と同行のS.Kさんに訊いてみると、彼女は知らなかった。それでちょっと微博で調べてみてよと頼むと、台湾だか香港のメディアがヒットしたと言う。武漢の研究所からウイルスが漏れたという話を、ドナルド・トランプなんかは盛んに喧伝してますよねとこちらは受ける。だがそこの真実は実のところ、ほとんど誰にもわからないだろうし、もしかしたらこの地球上にその点を事実として確定できる人間は一人もいないかもしれない。いずれにしてもドナルド・トランプとしては、この機会に乗じて中国に対する強硬姿勢をアピールしたいわけでしょうと言わずもがなのことを述べると、それはまったくその通りやねと同意が返った。トランプも習近平もマジで碌でもない、どっちにも覇権握ってほしくないわとMさんは苦笑するが、それはこちらもまったく同感である。先日新聞で読んだんですけど、武漢の研究所の、所長ではなかったかな、なんか研究をしていたわりと偉いほうの人が……その人、バット、バット・ウーマンって呼ばれてるんですけど(と話しながらこちらは爆笑し、俗に言うところの「草が生えた」状態、ほとんど「大草原」的な状態に陥った)、なんかSARSのときに自ら洞窟に入って、コウモリを捕まえて研究したとかいう話で(と爆笑は続く)……まあその人が、このあいだメディアに発言したらしくて、たしか一二月三〇日と言っていたと思いますけど、その時点でウイルスを検査して発見するまで、私たちはその存在をまったく知らなかったって証言してましたよ、と情報を伝える。これは「先日」と言うか、ついこの前日の新聞で読んだ話で、昨日の日記にも当該記事は記録してあり、この「バット・ウーマン」なる女性は石正麗[シージョンリー]という人のことである。とは言えこの人の証言もどこまで本当かわからないし、何しろ中国という国家の話だから、当局から圧力を受けて歪曲された情報を流している可能性も普通にありうると思うし、そうでないとしても研究所だって一枚岩ではないだろうから、この人が正確な事実関係を把握していなかったとしてもほかの人間は知っていたということもありうるだろう。実際、上の情報を受けてMさんが語ったことによれば、先般中国のインターネットで情報収集してみたところ、微博だか何かのSNS的な空間で、研究所の所長を自称する人間と所員を自称する人間とが、我々は誓って知らなかったとか、いやそれは嘘だとか、論争を繰り広げるという出来事があったようだと言う。しかしこれももちろん、その人々が本当におのおの所長と所員なのかも不明だし、仮にそこが本当だったとしても発言内容がどこまで真実でどこまで虚偽なのかそれも確定できないし、そもそもこの論争自体が確定的事実をうやむやに曖昧化するために中国政府が仕掛けたプロパガンダの一環だという可能性だって当然ありうる。ドナルド・トランプとかマイク・ポンペオとかは、我々はウイルスが武漢の研究所から流出したという証拠を手にしているとか何とか言っていたと思うけれど、それがもし本当に信憑に足る確かな情報なのだとすれば、さっさとそれを公開すれば良いのではないかとこちらなどは思ってしまうのだが。そのほうが中国に大きな打撃を与えることができ、彼らの関心である対中攻勢上、有効な優位性を確保できるはずではないのか? そんな「証拠」などというものは本当は存在しないのか、もしくはもっと緻密な検討を要する微妙なパワーバランス上、慎重に機を窺っているのか。
  • コロナウイルス関連では、これは実際に話されたのはもっと後半のことだったと思うが、Mさんとしては台湾や韓国の処置を無批判に称賛する向きが思いのほかに多いのが気にかかったとのことだった。この二国は今次の騒動においてたしかにわりと迅速な対応に成功したようなのだけれど、Mさんによればそれは主には監視技術などを駆使した情報管理路線の方策だったらしく、しかし日本のインターネットなどを見ているといわゆるリベラルを標榜している人であっても、そのような権力に対する権利の明け渡しをやや無批判に肯定している声が多く観察されて、Mさんはその点に懸念と危機感を覚えたと言う。たしかに、私権が制限されるとしてもそれはあくまで緊急事態における一時的な措置だという点は留保されるべき要素だし、また当該国の政府が例えば中国共産党のようにあからさまに強権的ではなく、一定程度「信用できる」という捉え方も可能で、実際彼の国の人々からは、我々は我が国の政府を信用している、市民的権利を一時的に譲渡したとしても彼らがそれを悪用しないということを信じている、というような主張も聞かれたようだ。さらに同時に、もちろん人命が掛かっている問題でもあるので、権利と命とどちらを取るのかと迫られればなかなかクリティカルな反論はしづらく、ほとんど沈黙するほかはない。だがそれらの点をすべて考慮するとしても、緊急時であるとは言っても警戒と吟味とを不在のままにトップダウン的な自由や権利の制限を手放しで称賛するというのはやはりどうなのか、とMさんは違和感を述べた。例えば欧米諸国でもいわゆる「ロックダウン」の措置が取られているわけだけれど、ドイツではアンゲラ・メルケル首相がその決定を下す際に、自分はほかならぬ東ドイツ出身だから、自由や権利というものが制限されるということがどういうことを意味するのか、それをよく理解している、だがそれでもなお、現在はそうした措置を断行しなければならない事態なのだという明晰なスピーチを国民に対して行ったらしく、そのように言われればまだしも納得できると言うか、あ、これは仕方がないなという気持ちにもなる、とMさんが話すのに、それは何かすごくメルケルっぽいですね、「欧州の良心」っていう感じがすごくありますねとこちらは受けた。そのような、国民と他国家に対するまさしく「丁寧な説明」、正しくこまやかな配慮の手続きがあるならまだ理解し、容認することができるというのは正当な視点だと思われ、ヨーロッパの政治家のうちで良識を具えた方面の人々がやはり優れているように思うのは、このように基本的ではあっても大事な点で行動を怠らず、自分たちはこの欧州という世界がいままで守ってきた伝統的な価値や理念というものをこれからもできる限り守り続けていくつもりだ、ということを折に触れて明確に宣言するからではないだろうか。そうした振舞いを見る限り、彼らは「リベラル」と言うよりも、むしろ言葉の正しい意味での「保守」を実行しているのでは? とすらこちらは思うけれど、このような国民と他国家に対する「丁寧な説明」がきちんと実践されているかどうかで例えばヘイトクライムの発生を防げるかどうか、少なくともそれを減らせるかどうかという点に確実に影響があるということを考えると、政治家という役職を務めるにあたってはやはり、大きな問題に対して大きな決定を下す際の判断力というものももちろん大事だが、具体的な個々の場面でどのような言葉と振舞いを示すかという観点からして洗練された繊細さがそれに劣らず重要になってくるものだなあと思う。それはむろん、政治家に限ったことではない。政治家という職業においてはとりわけその重要性が高いとしても、これはそれ以外の人間すべてに通ずる話だとこちらは考えており、巨大なシステムや構造に対する透徹した視線とともに、そのような構造のなかで発生する各瞬間においてどのような言動を実行するか、そのきわめて微細な一つの言葉と一つの身振りに人間が現れ、そこにおいてこそ人間が問われると思うのだけれど、ドナルド・トランプを筆頭に挙げるとして、例えばロドリゴ・ドゥテルテジャイール・ボルソナーロ、オルバーン・ヴィクトル安倍晋三といった人々がその生においてこのような主題について反省的な思考を巡らせたことがほとんどないのは明白ではないだろうか。習近平はと言えば、こうしたことに当然気づいていながらも、それを狡猾に、あまり良くない方向に濫用しているような印象を受ける。
  • 話を戻すと、例えばメルケルのようなアピールがきちんと介在するのだったら私権制限的な強硬措置もまだしも受け入れることができるだろうが、原理論としてそれを留保なく受容し、甚大な規模ではあるとしてもたった一つの事件を機にいままで受け継がれてきた理念を嬉々としてなげうってしまう、そういう姿勢が一部界隈で思いのほかに多く見られたという印象を受けて、Mさんは危機感を抱いたということだ。台湾や韓国におけるコロナウイルス対策の実態についてはこちらは何の情報も得ていないのだけれど、それがMさんの述べる通り、テクノロジーを活用しながら国民を広く監視し、それでもって市民生活を制限するといういくらか圧迫的なやり方だったとすると、それはもちろん、大きな部分では中国に回収されてしまうわけですよねとこちらは応じた。つまりこの現代世界には、中華人民共和国にまざまざと具現化されているような技術独裁主義と言うか、テクノロジーと結合した強権体制と、それに対して欧米に代表される……まあ……古き良き(というこの言葉を口にしたとき、Mさんも同じ語を発しかけて、まったく同じこと言おうとしてたわ、と笑った)……民主主義の理念を守っていこうという国々がある、もちろん例えばドナルド・トランプのような人間はいるし、またこの「古き良き民主主義」自体、色々と問題があっていくつもの点で欺瞞的なものだったとしても、それでも一応その価値を守っていこうという国々、そういう対立がどうしてもあるわけですよね、そのなかで韓国や台湾の措置を無条件的に支持するというのは、結局、中国路線に正当性を与えてしまうことになるじゃないですか、そうすると何でしたっけ、あのニック・ランドとかが好きな、いわゆる中華未来主義、あれになってしまいますよねと述べるとMさんも、そうそう、そうやねん、そっちの方向に行っちゃうよねと同意を返した。
  • 「民主主義」とか「自由」とか「人権」とか、右派と呼ばれる人々の一部が聞いたら苦虫を噛み潰したがごとき表情をしそうないわゆるリベラル的な理念というものも、言うまでもなく綿々たる歴史と多大なる犠牲のもとに積み上げられてきて、具体的な個々人の生と闘争を通して少しずつ少しずつこの世界に受け入れられ定着してきたものであるわけで、先にも記したようにそれ自体にさまざまな問題が含まれているとしても、一定程度有効に機能しているそのような価値を、たしかにとてつもなく巨大な規模の感染症蔓延であるとは言え、この一つの状況のみを根拠にして一挙に投げ捨ててしまって良いのだろうかというのがMさんの不審である。この世界の歴史を考えるならば、そうした性急な振舞いに対しては、警戒と吟味をいくら働かせても過度になるということはないと、ひとまずそのくらいに捉えておくべきだとこちらとしては思う。なぜかと言えば西暦二〇二〇年を迎えているこの二一世紀はもちろん二〇世紀を目撃してきた世界だからで、それはどういうことなのかと言えば、例えば一九三三年三月二三日もしくは二四日にいわゆる全権委任法を成立させたあとのドイツ第三帝国を通過してきた世界だということだ。とは言えここでナチス・ドイツを例として挙げるのはことによると大げさな論法で、現在と一九三三年では時間的距離も離れすぎていると考えることも可能かもしれない。しかしもしそうだとしても、この二〇二〇年現在においても、例えばこの日本からそう遠くない地理的領域に中国という国家があり、そのなかで例えばウイグル人と呼ばれる人々が陥れられている状況があるわけだし、一般的に「民主主義」の理念を堅固に支持していると見なされている国を考えても、例えば二〇〇一年九月一一日のあとのアメリカ合衆国というとても大きな事例をこの現代は通過している。少なくともこちら自身はそういう時代のそういう世界に生きているつもりなので、そういう人間として今回の件の意味合いを考えていくことは、こちらにおいてこの先重要なことだろう。
  • コロナウイルスの話題から執筆の話にひらいたのではなかったか。と言うのは、Mさんは既に『双生』を仮に仕上げて今またはやくも新しい小説を書きはじめているわけだが、日本に戻ってきてから執筆の調子が良いということで、ところでMさんがだいぶ昔に読んだ太宰治の何か文庫本の解説に、太宰は戦争の時期に執筆のペースが速くなって次々と調子良く作品を生んでいるという観察が記されていたらしく、Mさんも同様に新型コロナウイルスという巨大な危機あるいは混乱の状況下で文筆の具合が良くなっているという共通点を取ると、俺そんなとこで太宰と同じなんか、なんかそれダサいな、恥ずかしいなという感じがしたのだと言う。それに対してこちらは、蓮實重彦が下品すぎてどうしても読めないって言っていた太宰とですね、なんてにやにや差しこんで、それを機に話題は先日読んだ古井由吉蓮實重彦の対談に移っていったので、執筆の話をしたのはどこかまた別の場面だったようだが、その件について先に記してしまうと、Mさんが新たに書いているのはラブホテルで働いていた時期の体験をもとにしたもので、賈樟柯[ジャ・ジャンクー]の『青の稲妻』を参照先に据えており、この映画作品をこまかく分析するところから執筆は始まったらしい。すなわちこの映画のカットをすべて洗い出し(全部で七七とか言っていただろうか?)、それぞれの機能や役割やテーマを考察したあとそれに当てはめて自分の小説を構成していくという手法を取っているわけだけれど、これは『亜人』の際に取った方法と同種のものだと言う。『亜人』はロベルト・ムージルの「ポルトガルの女」を下敷きにしており、そのときにも同篇の段落ごとに番号を振って、ここは描写、ここは会話、ここは時空の転換、という感じで機能を分類し構造分析を行ったわけだ。で、SさんがブログでMさんの新しい小説は傑作のにおいがするって書いてましたねと触れると、そうそうとMさんは受けて、Sさんがあの小説を気に入るっていうのはよくわかる気がするなと言った。いままでMさんが書いてきたのは、『囀りとつまずき』は別としても『亜人』にせよ『双生』にせよ意味の領域で色々と遊び、あるいは試みている小説である。比喩と比喩とを重ねて織り成していくと意味が点から面へ、面から範囲へと広がっていき、最終的には機械のようになっていく、と千葉雅也が以前Twitterでそんなようなことを言っていたらしく、Mさんとしてはその発言が自分のやっていることを説明もしくは描写する言葉としてよく理解できると言うが、だから表面的にはべつの場面べつの記述でもテーマとしてはこことここが対応していると、『亜人』及び『双生』はそういう仕掛けをふんだんに施しているタイプの小説で、しかしSさんはたぶん性分としてそういう試みにはあまり惹かれない人なのだと思うとMさんは分析を述べた。Sさんはつまるところ保坂和志的な、具体的な描写、風景、人物がまずあってそれをベースにしながらその時々の記述の鮮やかな力でもって作品を駆動させていくような小説が一番好きなのではないかという話で、その点、Sさんが新作を気に入るのはよくわかる。と言うのは、文体をがちがちに固めているというわけではないけれど具体的な描写を連ねることで作品を進めているし、形容詞もあまり使わず、使うとしても敢えて「安い」ものにしているし、比喩もいまのところは全然使っていない、そういう文章だから、とのことだ。『亜人』や『双生』とはまた違う種類の試みであるわけだが、それでもMさん当人としては、これが自分の新たな代表作の一つになるのではないかというほどの手応えを得ているらしかった。ただそれは逆に言えば、Fくんとしては満足できないかもしれないね、君は明らかに文体の人やからとMさんは笑ったものの、この点は自分でも最近よくわからない部分で、たしかにこちらの小説作品の受容形式が文体から始まったことは間違いないのだが、近頃はそうでもないような感じもしている。文体と言うよりは、最近は言葉そのものって感じですね、とここでは一応言っておいたのだが、結局のところ文体であれ言葉であれ、内容であれ形式であれ、主題であれ構造であれ、キャラクターであれ物語であれ、自分に感知できる何らかの新鮮味がそこにあるかという点にこちらの読みは集約されているような気がするのだ。つまり馴染みの術語で言えば何らかの差異が感じ取れるかということで、それを哲学方面の用語ではなく比喩的イメージで表せば突出と言っても良いのだけれど、要は何か布とか板とか金属とかの平らな、もしくは多少波打っている平面を手指でなぞるときに指先に触れて刺激を与えてくる突出部が感じられるか否かという話で、たぶんみんな最終的なところではそうではないかと思うのだけれど。
  • 話を少し戻して、Mさんが言っていた比喩を重ね合わせていくと最終的には機械になっていくというイメージに触れると、これについてこちらはまだあまり実感的に理解できていないのだが、次のようなことなのだろうかとひとまず考えた。ある記述とある記述が表面的な外観としては異なっていても、意味合いとしてはテーマ的に通じるということはもちろんいくらでもある。ただそれらの個々の記述は、具体的な記述として違いがある以上、比喩的意味としても完全に同一の状態には還元されないはずである。つまり、当然の話だが個々の比喩にはそれぞれ意味の射程があり、純化されない夾雑的な余白がそこにはつきまとっているはずで、その比喩もしくは意味の形は完璧に一致するということはない。とすれば、それらを織り重ねていくと、そこには明確な形態には分類されえない不定形の星雲図のようなものがだんだんと形成されていくはずではないか。アメーバのようなイメージで捉えてもいるのだけれど、この織り重ねは単に平面的な領域の広がりには終わらず立体方向に展開していくものでもあると思われ、すなわちそこには複数の層が生じることになる。そのような平面 - 水平方向と立体 - 垂直方向の二領域において、個々の要素であり部品である具体的な記述が対応させられ結びつけられていくことによって、いつしか得体の知れない特異な構造の機械にも似た建造物が姿を現すに至る、とたぶんそんな感じなのではないか。これを言い換えればMさんは意味の迷宮を建築しているということであり、すると続けて思い当たるのは当然、彼の文体自体が「迷宮的」と称されることで――そもそも『亜人』とか『囀りとつまずき』などの文体を「迷宮的」という形容で最初に言い表したのは、たしかほかでもないこちらではなかったかという気がするのだが――つまり彼は表層に現出しているそれ自体迷宮的な文体のなかにさらに複雑怪奇な経路を張りめぐらせることでより一層迷宮的な意味の建造物を構築しているということになるわけで、とすれば三宅誰男という作家の一特性として〈建築家〉であるということがもしかしたら言えるのかもしれないが、ただ重要なのはおそらくこの建築物が、例えば序列とかヒエラルキーとかいったわかりやすい系列構造を持っているのではなくて、(迷宮であるからには当然のことだけれど)まさしく奇怪な機械としての不定形の容貌に収まるという点、少なくともそれが目指されているという点だろうと思われ、それは現実の建造物としては例えばフランスの郵便配達夫シュヴァルが拵えた宮殿のような、シュールレアリスム的と言っても良いような形態を成しているのではないだろうか。とは言えそれはおそらく充分に正確なイメージではなく、と言うのはシュヴァルの宮殿は外観からしてたぶんわりと変な感じなのだろうと思うのだけれど、Mさんの小説はけっこう普通に物語としても読めるようになっているからである。まあ文体的に取っつきにくいということはあるかもしれないが、表面上、物語としての結構はきちんと確保されている。だからMさんの作品を建築物に喩えるとすれば、外から見ると比較的普通と言うか、単純に格好良く壮麗でそんなに突飛なものには見えないのだけれど、いざなかに入ってみると実は機械的な迷宮のようになっていると、そういうことになるのではないか。で、この迷宮にはおそらく入口と出口が、すなわち始まりと終わりがない。もしくは、それはどこにでもある。どこからでも入れるしどこからでも出られるということで、なおかつその迷宮内部は常に機械的に駆動し続けており、人がそのなかに入るたびに前回と比べて様相や経路が変異しているみたいな、実際にそれが実現されているのかどうかはわからないが企図としてはそういうものが目指されているのではないか。そして人が迷宮に入ったときに取るべきふさわしい振舞いというのは、言うまでもなくそのなかをたださまようということである。『亜人』冒頭の言葉を借りれば、この迷宮には「こぞってこちらのあとをつけるうすぎたない追いはぎども」(9)が至るところに潜んでいるわけだが、そこに足を踏み入れた者はこの盗賊たちに襲われてひとつところに囚われてしまうのを避けるため、彼らの追跡から逃げ惑いつづけなければならない。
  • まあ一応そういったことを考えはした。で、次に古井由吉蓮實重彦による対談の話題に移ろうと思うが、この二人はそれぞれの長いキャリアのうちでただ一度だけ公式の対談を持っており、『群像』だったか『新潮』だったかに掲載されたそれが最近インターネットにも公開されていたのをこちらは読んだのだった。その媒体は「webちくま」だと思っていてこの会話の際にもそう言ったと思うのだけれど、メモ記録時に確認してみたところ、「webちくま」ではなくて「考える人」だった。で、先ほど書いたように、太宰治という人はあまりに下品でどうしても読めませんねとか蓮實重彦が言っていたというこちらの発言からその対談に話題が移ったところ、Mさんもこれを読んだと言う。古井由吉はこの談話のなかで、自分は一応、わかりやすくすんなりと読める小説をいつか書きたいと思ってずっとやってきたんですけどねえとかぼやいていて、これにはどうしたって笑わざるを得ず、蓮實重彦も「笑」の文字をつけて「本当ですか(笑)」などと受けているのに、そりゃさすがの蓮實重彦でも「本当ですか」と言うほかないわとこちらなどは思っていたのだけれど、Mさんとしては、まああれは多少気取り入ってると思うけどね、とのことだった。ただ古井由吉という人のキャリアを考えてみるに、初期の作品などは――と言うのはつまり『聖』のことを言っているのだが――ほとんど柳田國男的とすら言えるような民俗学的意匠を用いた物語をたしかに書いてはいて、Mさんとしてはそのあたりの作品は、文章自体が整っているからもちろん読ませる力はあるけれど、でも実際のところそんなでもなくない? という感じだったらしい。その路線のまま進んでいったらさほど気になる作家にはなっていなかっただろう、と。で、たしか古井由吉自身が言うところの小説への尋常な「奉公」というのは『槿』で最後だとか作家自ら言っていた記憶があって、要は物語的に明確な結構を具えた長めの作品の試みというのはそこまでだということだと思うのだが、そのあとでおそらく『白髪の唄』あたりからまた別の試みが始まる。つまりいわゆる私小説の枠組みを換骨奪胎すると言うか、「日本文学」なるものの一伝統とか何とか折に言われてもいるらしいその形式を引き受け引き継ぎながらも、なんだかよくわからん変なことをやりだすということで、Mさんはあるとき『白髪の唄』を読んでみたらやたらと面白く感じられ、それで古井由吉に対する興味が持続したらしい。ただ最初に読んだのは『山躁賦』で、彼がそれを読んだのはまだ例の「ブックオフ縛り」に囚われていた頃であり、読み書きを始めてまもない時分Mさんはなぜかブックオフでしか本を買わず、そこにある作家の著作しか読まないという謎のルールにしたがっていた時期があったのだけれど、そのときに『山躁賦』を読んでみたものの何が何だか全然理解できなかった。ところがのちに実力をつけてから再読してみたらとても面白く、それで古井作品は手もとにあったものを色々と読んだらしい。
  • 古井由吉が書いた最初期の作としては「先導獣の話」というのが一つあり、これはたしか同人時代のものだということだったが、それはもうその時点でまんまムージルだとMさんは評した。この点は過去にも何度か聞いてきたことでこちらもさっさとこの篇を読みたいのだけれど、それを受けて至極適当に見取り図を考えてみたところでは、古井由吉の発展段階としてまず最初にムージルがある。次に一応は物語に従事してみるというフェイズがあり、そこでは民俗学的な知見なども取り入れているのでそれは言わば神話的な試みと言うか、神話のような方向にひらいていくという取り組みを一時試みていたのではないかと思ったのだが、そのあと八〇年代後半か九〇年代あたりから、自ら神話的物語をこしらえるのではなくて過去の説話・民話・神話といった文化の古層的なテクストを引用し、それを素材や媒介としながら言葉を招き寄せて書き継ぎ書き継ぎするやり方を始めたと、そんな風に変容していったのではないか。まああまり実に即した整理ではないけれど思いつきでそういうことを述べたのだが、古いテクストを引用するというのは二〇一〇年以降の近頃の作品でもよくやっていたと思う。ただ、そのままの引用と言うよりはパラフレーズして文脈を拡張するみたいなやり方だった気がするので、「引用」という語は事態をあまり正確に言い表してはいないかもしれないけれど、上の整理を述べたときにこちらの念頭にあったのは、現代日本語文学の最高峰として名高い例の『仮往生伝試文』のことだったのだ。この作品をこちらはまだ読んでいないのだけれど、聞きかじりによるとあれはまさしく往生伝を色々と引用して、それを足がかりに発展させて書いたものなんでしょう? と訊いたところが、Mさんもまだ読んだことがないらしい。この小説についてはもちろんさまざまなところでやたらやばいやばいと言われているのだが、こちらが覚えているのはまだ文学に触れはじめてまもない頃に読んだ高橋源一郎柴田元幸の対談本のなかで、たぶん高橋のほうだったはずだが古井さんは『仮往生伝試文』で一度天上に、雲の彼方に行ってしまったと思っていたら、そのあとそこから地上に戻ってきたんですよね、みたいな評し方をしていたことで、だからおそらくこれを一つの境にして、『白髪の唄』のような言わば私小説換骨奪胎路線に入っていったということなのではないか。それに当たっては、当時は首のほうだか目のほうの時期だか忘れたが(たぶん首か?)、身体を壊して病院に入ったのも結構大きかったみたいやねとMさんは言った。古井当人がそんなことを言っているのに触れた覚えがあるらしいのだが、そこに加えてやっぱり、空襲の記憶というものが絡んでくるんでしょうかね、とこちらは応じた。肉体の危機に触発されて幼時の切迫した危機の記憶が呼び寄せられて蘇ってくる、とそんなことがもしかするとあったのだろうか。
  • 先の対談では古井由吉の作術についても多少言及されており、例えばある人が他人を殺したのか殺していないのか、最終的に作品として形になった文章ではよくわからない風に書かれているのだけれど、そういうとき古井自身は殺したほうの路線と殺さなかったほうの路線と両方を想定して書いていくらしく、ところが進めていくうちに結局はそのどちらも取らない方向に行ってしまうのだみたいなことを語っており、そのあたりを読んで古井由吉の書き方ってこういう感じなんだな、というのがわりとよく理解できたとMさんは話した。つまり、作品を、言語を統御しようと、できるかぎりコントロールして構築しようと、一応はそれを目論みながら書き進めていくのだけれど、肝心なところでは作品そのものあるいは言語の発揮する論理に従い身をゆだねて導かれると、そういう感じなんだなという具合で理解したのだと思う。古井の文章というのは大概誰でも感じるはずだと思うけれどとても端正に切り詰まっていて、日本語の使い手としてはほぼ類例を見られないほどに整っているわけである。一日に書いてせいぜい三枚だったという話だし、推敲もめちゃくちゃに重ねてことさらに文章を削ぎ落とし切り詰めていくということもどこかで語っていた覚えがあるのだが、しかしもしかするとそういう言葉の道筋の精緻な整地というのは、むしろそれを突き詰めていった先で破綻を招き入れるために、ほとんど行き詰まりに至ったところではじめて出現する破れ目を呼び寄せるために導入された方法論なのではないか、とそんなことも想像される。それと同時に「招魂」などという言葉も想起されるもので、「招魂」というのは古井がときどき使っていた語で八〇年代あたりに二回ほどエッセイ集のタイトルにも用いていたと思うのだが、そこで差し招かれる「魂」というのはあるいは、ここで言うところの作品や言語固有の論理として人間主体の意識を超出していく破綻と結びつけて考えることもできるのではないか。そして、破れ目とは何かと何かのあいだに生じるもの、もしくはそれを生み出すものであるわけだから、したがってそれは換言すれば〈あわい〉である。
  • ところで、古井由吉松浦寿輝が交わした往復書簡をまとめた著作は『色と空のあわいで』と題されている。Mさんとの会話ではこの本のことも話題に出て、こちらがこれを読んだのももう相当に昔だが、このなかで古井が「空を切る」という言い方をしていた、と彼に報告したのだった。「空を切る」身振り、そしてそのあとに残る空隙のようなものこそが作家の腕の見せどころじゃないか、みたいなことをたしかこの本に付属していた対談のなかで古井は語っており、それに対して松浦寿輝が、愚かな質問ですがとか言って似非蓮實重彦風に断りながらも、それじゃあいままでの作品のなかでその「空を切る」身振りに一番成功したのはどれですかと訊いたのに、それは『山躁賦』ですねと古井は即座に断言していた。そういう記憶を思い出して話したのだけれど、だから『山躁賦』も彼にとってわりとターニング・ポイント的な作品だったのではないか。しかしこちらは魯鈍なことにこの小説もまだ読めていない。入手してはあるのだけれど。『色と空のあわいで』はMさんも長年探しているのだが古本屋で見かけたことも全然ないと言う。こちらがこの本を図書館で借りて読んだのは読み書きを始めてまだ一年半しか経っていない二〇一四年九月の時点である。したがって、記録を見返してみてもわずか三箇所しか書抜きをしていないのだが、いま読み返せばこの本もきっととても面白いだろうと思う。その三箇所をすべて下に引いておく。

松浦 さっき言語が主で私が従というお話を伺ったんですが、ひょっとしたら「私」そのものも言語でできているものなのかもしれないという考え方はどうでしょうか。「私」がまずあってそれを言語で表現するっていうのが普通、人が言葉の表現というものを考えるうえでの自然な成り行きですが、ひょっとしたら、「私」というもの自体、芯の芯まで言語に侵されており、ひょっとしたら言語そのものが「私」なのではないのか、ということを実は古井さんの私小説的な作品を読ませていただいているときでも感じることがあるんです。つまり物質としての言葉を一つ一つ彫り込むようにして書いていらっしゃる現場では、言葉のこぶこぶそのものが一種、古井さんの存在そのものになってしまっているんじゃないのかなあという。
古井 言語を先行させたとさっき言いましたけど、もう少し厳密にいうと言語上の私的な体験を言語上でない私の体験よりも先行させたということなんです。そうしてきた人間はどうしても考えますね、このこぶの中に自分の存在があるんじゃないか、ひょっとすると自分ばかりじゃなくて親の存在まであるんじゃないかとまで。とにかく信念としてはそうしてやってきました。しかしあなたもよくお書きになってるように、言語というのは一つの表現の完成に差しかかると復讐のごとく欺瞞をやる。この体験の繰り返しです。言語に関しては表現そのものが表現ではないんじゃないか、表現したときにこぼれ落ちるものがしょせん表現じゃないか。絞りに絞って空を切るときの一つの勢いとか運動、それにかけるよりほかないんだね。ところが空を切るときの力動を出すにはかなりきっしり詰めていかなきゃならない。詰めるだけで力尽きた小説もありましてね。僕の場合、それが大半じゃないかと思うんだけど。空を切る動きまで見せてないんじゃないかと。
松浦 ミーハー的な興味でお伺いすると、空を切る運動がいちばん鮮やかに定着できたとご自分で思っていらっしゃるのは……。
古井 『山躁賦』ですね。あのときはむちゃくちゃに振り回したんだね。振り回しただけでもけっこう迫力は出たと思いますけど。それでも肝心なところで見事に空を切ったという自負はあります。その後あれほどうまく行かないんですよね。ずいぶん辛抱してきて、ようやくこの前の『仮往生伝試文』とか『楽天記』に至ってどうにかまた。私小説的なものに傾くというのは、私小説的なレアリティに仮に沿って自分を苦しめて、文章も苦しめる。だけどあの行き方はしょせん私小説としても節目ごとに空を切るわけです。きわめて穏やかにね。だけど随分しなやかに空を切るとこまで行ったかなという気はします。
松浦 『槿』はいかがですか。
古井 『槿』は、まあ一応小説らしい結構を備えた小説への、今後やるかどうかわからないけど、今のところでは最後のご奉公になってると思います。まずいなあ、こういうこと言っちゃ(笑)。
松浦 こういう機会ですから。
古井 それ以後は、私小説的な形へ行ってるでしょう。私にとっては、私小説的な形へ行くのはむしろ小説の解体なんです。
松浦 よくわかります。
古井 もう一度、小説という厚みも影も味もあるレアリティから離れて、あからさまな言語の矛盾につきたいという。その欲求から私小説的な形をあえてとっている。すると、すぐ追い詰められるんですよ。
 (古井由吉松浦寿輝『色と空のあわいで』講談社、2007年、82~84; 「「私」と「言語」の間で」; 「ルプレザンタシオン」1992年春をもとに改稿、『小説家の帰還 古井由吉対談集』に収録)

     *

古井 ホーフマンスタールの詩でしたか、人生のことどもがいかにはかなく取りとめないかということをうたってきて、最後にそれでも「夜」という言葉を口にすれば、そのひとことから深い思いと哀しみが滴る、あたかも洞[うつ]ろな蜂房から蜜が滴るようにと……散文的に説明すれば、要するに現実の厚みがおのずと集まってくる。それと同じように、日本文学には「体験」というひとことがあったんですよね。これは時代によってさまざまだから、たとえば漱石の場合、葛西善蔵の場合それから太宰の場合、それぞれ違うと思うんだけど、それぞれなりに「体験」という一言[いちごん]の詩の下に何かが凝縮する。ところが言語が解体したばかりじゃない。体験というものを分析的に見る習性がいつからかついたんですよ。体験というのはひとまず擬似的なもんだというぐらいに思わないと人間横着になる、と。
 ところがまた体験というものを擬似的な、あるいは更に後の認識の試みを許すものだというふうにとると、小説はとても成り立ち難いんです。小説というのは現在今を書いてもそれがあたかも過去であるかのごとく書かなきゃいけない。現在形を使っても単純過去じゃなきゃいけないんですよ。例えば小説に厚みを加えるには、どこで誰が何をしたとか、何を考えたとか、そういうこともさることながら、その時に空はどうだったか、どんな風が吹いていたとか、どんな音が立ったとか……つまり小説に厚みを加えるのに一番いいのはお天気のことです。だけど、お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら表現は果てしなくなるわけですよね。雨と一言でも言えないし、晴れと一言でも言えない。まして小春日和とか、それから寒の入りの珍しくあったかい日なんて、これは全部、じつは単純過去なんですよ。大勢の人間たちの見てきた過去なんです。これを私、「生前の目」って言うんですけどね(笑)。生きながらの生前。この過去、死者たちの民主主義ですか……無数の死者たちの生前の目、あるいは無数の死者たちのことを思うときに生者も分かち持つ生前の目、これが小説の現在だと思うんです。それできちんと振る舞えるかどうかの問題です。振る舞えれば苦労はないんです。
 現在を過去の精神でとらえないときに現在とは何かという問いが露呈してしまうわけです。そのときに言語は解体せざるを得ないんです。しかし解体のぞろっぺえも嫌でしょう。どこで解体そのものをつかめるかと考える。そのときに、現在を過去の精神でとらえていく私小説が僕にはいちばん面白かった。なるほどすぐれた私小説というものは、現在を過去の目で見るという限定の中で、安定した深みのある表現をつくり出して、それが魅力ではあるんだけど、だんだん年をかけて読んでいくと、破綻の部分にいちばん魅力がある。
松浦 つまり作家がやろうとして失敗したことという……。
古井 これはもう文章に、もろに出てくるんです。現在を過去の目で見ると文章が安定する。過不足のないような文章が続くわけです。これはなかなか深みと現実感、いわゆるレアリティを与えるのだけど、すぐれた私小説は時として訳のわからない一行がはさまる。僕はむしろこれに惹かれました。訳のわからない一行を出すためにこういうことを書いてるんじゃないかと。
 (86~88)

     *

古井 今どき文学上のレアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上での説得のポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った「俗」がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学の文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするかの問題でね。
 (98)

  • 一つ目の引用で述べられている言葉、「言語に関しては表現そのものが表現ではないんじゃないか、表現したときにこぼれ落ちるものがしょせん表現じゃないか。絞りに絞って空を切るときの一つの勢いとか運動、それにかけるよりほかないんだね。ところが空を切るときの力動を出すにはかなりきっしり詰めていかなきゃならない。詰めるだけで力尽きた小説もありましてね。僕の場合、それが大半じゃないかと思うんだけど。空を切る動きまで見せてないんじゃないかと」という発言は、上記したこちらの想像――むしろ破綻を招きこむためにこそ、文章を整え整え削ぎ詰めていくのではないか――と響き合うだろう。
  • 二つ目の引用における「つまり小説に厚みを加えるのに一番いいのはお天気のことです。だけど、お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら表現は果てしなくなるわけですよね。雨と一言でも言えないし、晴れと一言でも言えない。まして小春日和とか、それから寒の入りの珍しくあったかい日なんて」という言葉もこちらとしては本当によくわかる。一応毎日毎日、そのときそのときの天気を飽きずに記述してきた人間なので。「お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら」というのはこちらの理解では、その日その日の、そのときそのときの天気、空模様や空気の質感を、生きてきてその瞬間にはじめて触れたかのような一回的かつ固有のものとして書こうとしたら、と読み替えたいのだが、すると「表現は果てしなくなる」というのはおそらく天気に限ったことではなくて、ものを書こうと志した人間ならばおりおり体感的に理解しているはずだ。で、天気を言い表す言葉は「これは全部、じつは単純過去なんですよ。大勢の人間たちの見てきた過去なんです。これを私、「生前の目」って言うんですけどね(笑)。生きながらの生前。この過去、死者たちの民主主義ですか……無数の死者たちの生前の目、あるいは無数の死者たちのことを思うときに生者も分かち持つ生前の目、これが小説の現在だと思うんです」と語られるわけだけれど、これはつまり、天気を見てああ晴れているな、降っているな曇っているな、風が乾いているな、初夏になって青葉の香りがしてきたな、梅雨に入ってどよどよ鬱陶しいな、とそう思ってそう感じそう言う人間の、その視線、その感受、その言語のなかに過去の死者たちの視線、感受、言語、そして息遣いが宿っているのだというわけだろう。言語を通じて生者は死者に取り巻かれており、おびただしい死者たちの影のなかに包まれながら、つかの間うっすらと浮上して覚束なげにひとまずの形を成した主体、そういうものとして生者はあるということではないか。
  • その次の段落では「現在を過去の精神でとらえないときに現在とは何かという問いが露呈してしまうわけです。そのときに言語は解体せざるを得ないんです。しかし解体のぞろっぺえも嫌でしょう。どこで解体そのものをつかめるかと考える」と語られており、だからやはり古井が志向するのは全面的な「解体」ではなくて局所的なほころび、すなわち「破綻」であるわけだ。そもそも言語を解体するなどということはおそらくは狂人ででもなければ不可能で、あるいは狂人にすら不可能なのかもしれず、ヌーヴォー・ロマンの人々は言わずもがな、ベケットだってツァラだってアルトーだってジョイスだってそんなことが完全にできたわけがないだろう。仮に解体が実現されたとしても、それはあくまで局部的かつ瞬間的な事態に過ぎず、解体したと思われた言語はふたたびすぐさま自動的につかねられ、修復され、それまでと別の形ではあるかもしれないがともかく回帰してくるはずだ。もしも仮に解体が持続するとすれば、それは人間主体にとってはたぶん発狂として現前するか、もしくは精神の死と等しいのではないか。とは言えそういう領域に行きかけた、あるいは一時的にであったとしても踏みこんでしまった人間もおそらくいるにはいて、それは例えばミシェル・フーコーが六〇年代あたりに「外」の作家たちとして系列化した人々、すなわちサド、ヘルダーリンアルトーバタイユなどだと思われる。あるいは「系列化」はしていなかったかもしれないけれど、その領域侵犯的な、秩序壊乱的な、アナーキーな破壊性のようなものを一時期のフーコーは称揚していたという風にこちらは理解しており、そのあたりの話は武田宙也『フーコーの美学――生と芸術のあいだで』(人文書院、二〇一四年)でいくらか読んだ覚えがあるのだがこの本はその後売ってしまった。ただフーコーも七〇年代以降、つまり後期と呼ばれるような時期に至ると、「外」や外部などというものはないという方向に思考を転換させていたはずで、これは文学論ではなくて権力論の文脈だったかもしれないが一応そのテーゼを文学論にも適用できるものとして考えれば、彼の思索の道筋においても言語の完全な解体もしくは破砕などということは所詮は見果てぬ夢としてしかありえないということになるだろう。とは言えそれはたしかに魅惑的な夢ではあって、一定数以上の人々がそうした野心的な誘惑に惹きつけられるということはよくわかるし、こちら自身も一応、そうした夢への志向や、そうした夢を見たいという欲望くらいは少なくとも共有しているつもりであり、最低限、戯れにですらそのような夢を見ることがなくなったら、作家とか文学者とか芸術家なんてお終いではないか? とすら思う。しかし上にも述べたようにこれは所詮は夢でしかなく、言語を超出するということは最終的には不可能で、仮に一時的にであってもそれは至難の業であり、たいていの人間は良いところまで行ったとしてもせいぜい境界線の付近でうろうろ頑張るしかないだろう。すなわち古井由吉的語彙に戻して言えば〈あわい〉に留まるほかはないということで、音楽的比喩に変換すれば作家という生き物はいくら頑張っても大方はEric Dolphy止まりであって、例えば晩年のJohn Coltraneみたいにはなれないということなのだが、しかしEric DolphyEric Dolphyで比較のしようもなく素晴らしい音楽家であるということは、彼を聞いた人間ならばほとんど誰もが知っているはずだ。
  • 「解体」の夢に多少なりとも近づくか、もしくは「破綻」ならば破綻でも良いのだけれど、それを招き寄せるためにはどうしたら良いのかな? と考えたときに、ひどくありふれた発想だけれどやはり外国語というものは一つのキーポイントになるのではないかという気はする。外国語というものはむろん完全にではないにしても大抵の人間にとって相当程度他なるものとしてあるはずで、その最初の接触においてそれは異質な闖入物もしくはノイズのようなものとして現前するのではないかと思うのだが、それを積極的に身に取り入れていくというのは、「解体」はともかくとしても言語の破綻、少なくともその攪乱、その更新や組み換えに繋がる契機を引き寄せる方策として一つありうるのではないか。特に根拠はないしこうした論旨に正しく適合的に接続できるとも思わないけれど、古井由吉においてもドイツ語の体験、とりわけムージルを読み翻訳したという体験は、どのような意味かは措いても相当に大きな意味を持っただろうということは容易に想像可能なはずだ。外国語を身に取り入れることで何が可能になるのかと言えば、もちろん自国語が、自らの母語が相対化されるということであり、つまり自国語が外国語として立ち現れてくるようになる。とても有名な話だがジル・ドゥルーズは優れた作家の特質みたいなものとして、自国語において「吃る」ことができるという〈吃音〉の特性を挙げた。有名な話と言っておきながらこちらはまだドゥルーズの著作をちっとも読んだことがないのできちんとした引用ができず、上の理解ももしかしたら誤っているのかもしれないけれど、彼が吃音性を肯定しながら一例として挙げていたのはたしかゲラシム・ルカだったはずで、ルーマニア生まれのこの詩人はこの夜のMさんとの会話のなかでものちほど名前が出てくることになる。いまはそれは措いておくが、ドゥルーズが言ったのとたぶん多少は似通った意味で、優れた作家は皆例外なく、自国語を一つの外国語として感覚する能力、〈自国語を外国語にしてしまう〉能力を具えているとこちらは思う。そのもっとも先鋭的な証拠の一つが例えば『フィネガンズ・ウェイク』だろうということはおそらく言を俟たないはずで、そう言いながらもやはりこの作品もこちらはまだ読めていないのだが、しかしあんな見るからに頭のおかしい言語の連なりが世界文学史上最高の達成の一つと言われたり、その最初の発表から一〇〇年ほど経ってもいまだにそれを研究しようとする人間があとを絶たないのは、やはりあれが単なる頭のおかしい人間の戯言だからではなくて、すさまじく雑多で該博な無数の要素が取り集められてあの作品の一語一語を成すことでとてもではないが汲み尽くすことのできない深淵をひらいているからではないのか? 実際、日本語版Wikipediaをちょっと覗いてみても、「各所に世界中のあらゆる言語(日本語を含む)が散りばめられ」という説明があるのだから、たぶんあの作品においてジョイスは偏執狂的なまでの言語採集家としての資質をこの上なく発揮しているのではないかと想像されるもので、したがってまことに月並みで退屈な結論ではあるけれど、もし言語を解体するというような無謀きわまりない夢に少しでも近づきたいのだったら、この世界の誰よりも言語に精通しなければならないという見解がこの例から順当に導き出せるはずだ。余人をとても寄せつけないほどにこの世の言語に馴染み精通し、その上で道を切り詰め切り詰め隘路に踏み入っていき、その先で偶然行き詰まった地点で無理やりに壁や囲いをぶち壊してしまう、とそういうような形でしか破綻とか解体とかは招き寄せられないのではないか。
  • 話がだいぶ脱線してしまったがMさんとの通話に戻ると、古井由吉佐伯一麦とも往復書簡を交わしているんですよねとこちらは情報を提供した。佐伯一麦という人についてはこの現代において(敢えて?)私小説の一形態をやっている作家だということくらいしかこちらにはデータがなく、その作品も一冊も読んだことがないのだが、それはMさんも同様だった。彼の言うとおり、たしかに良いにしても悪いにしても、あまり評判を聞かない印象がある。しかし古井由吉とはけっこう交流があったようで、往復書簡集は二冊出しているし、たしか『聖耳』の文庫版(講談社文芸文庫)の解説を書いていたのも彼ではなかったか。また、いつだったか忘れたものの比較的最近、古井由吉多和田葉子佐伯一麦松浦寿輝が一同に介して談話を持ったイベントがあって、その動画が部分的に公開されているのをどこかで見かけた覚えもある。もう一つ佐伯一麦についてこちらが聞いたことのある評判としては、自らの人生におおかた沿った形で私小説をやっているらしいのでたぶん本人がそうだったのだと思うけれど、電気工事か何かの仕事をやるなかで高所に登る機会が多くあり、そういうある種の「危機」的状況において主体に及ぼされる影響、例えば不安とか緊張とか主体を打ち乱すような感覚とか、そういった心的領域を作品化している人だという情報を一応記憶している。そういう説明を受けてMさんは、そう聞くと古井由吉にも何となく通じる感じあるな、と受けた。彼は佐伯一麦Wikipedia記事をおそらく見ていたようで、あまり評判聞かないから文壇的に認められていない人なのかなと思ったら、色々文学賞もらってるわと言う。『ゾルゲ』ってのがあるでしょうとこちらは差しこんだが、それは『ノルゲ』の間違いだった。ゾルゲはゾルゲ事件のスパイの名前だ。で、佐伯一麦古井由吉が往復書簡を交わしていたという事実をなぜこちらが知っているかと言えば、古谷利裕が「偽日記」の最初期の記事の一つ、もしかしたらブログに公開されているなかでまさに一番初めの記事だったかもしれないが、そこでこの往復書簡集を取り上げて、確かな実力のある作家同士が文学について本気の言葉をバチバチ交わし合っててすごい、みたいな感じで高評価を与えていたのを記憶していたからである。Mさんがこのとき調べたところでは古谷利裕が言及していたそれは九〇年代のもので、九九年だったか九七年だったかともかく阪神淡路大震災のあとのものであり、もう一つは二〇一一年三月一一日ののちに交わされて発表されたもののようだ。と言うか後者は『往復書簡 言葉の兆し』という本で、二〇一二年に出ているのだけれど、Evernoteの記録を見返すとこちらはこれを二〇一五年の六月に読んでいて、ところがなぜか全然覚えていなかった。それほど量もないので当時の書抜きをすべて引いておく。

 震災で一切を失った人たちの、喪失感はいつか癒える時が来るものだろうか、と人にたずねられて、それは生涯、抱えこむよりほかにないのだろう、と答えていました。七十三歳の私の身心の内にも、戦災で家も土地も焼き払われた七歳の小児がいます。
 しかしまた大災害の後でも生活はすぐに、一日と置かずに始まる。手もとに何かしらがある。いまさらなんでこんなものが、とつい眺めてしまっても、手もとにあれば手にとって、何かを始める。仕事にも生活にもなりやしないと思いながら、没頭するうちに時間はそれなりに、日常のごとく、経っていく。濫用されがちな「前向き」とはそのこころがまるで違いますが、人は前を向いてしか暮らせない。
 そうして何年もして気がついてみれば、ずいぶん遠いところまで来てしまった。はじめのうちは取りあえずただ転ばぬよう、倒れぬよう、足をようやく送っていたのが、いつのまにか周囲のいきおいにも押されて、前のめりの駆け足になっていた。願望であった「復興」もはるかに超えて、何が願望なのやらはっきりしなくなり、前線の伸びきったところを、大災害に追いつかれて、叩かれた。
 戦地の凄惨な境から帰還した人たちはおしなべて、その後三十年ほども、その体験について口が重かった。現に暮らしている日常の中の言葉ではとうてい伝えられない、口にしたところから徒労に感じられる、ということだったのでしょう。話さずに亡くなった人も多かったはずです。戦後の六十六年には言葉の、大きな空白が開いていたように思われます。
 後世におくるには、いっそ碑文のようなもののほうが、強いのではないか、と考えることもあります。いかめしく黙りこんでいるような碑文こそ、後世の人の心に、物を言うのではないか、と。言葉の空白に耐えた生存者たちの心が寄り集まって、死者たちの沈黙も加わって、目には見えぬ碑文が立ちあがることも、あるのかもしれない。
 (古井由吉佐伯一麦『往復書簡 言葉の兆し』朝日新聞出版、二〇一二年、29~30; 二〇一一年六月二十日; 古井)

     *

 言葉は浮くものです。万をはるかに超える人命をたちまちに奪った大災害をとうてい担いきれるものでない。その重みをまともに抱えこんだら、言葉は深みに沈んだきり、おそらくながらく、浮かびあがっても来ない。その静まり返ったものを底に感じながら、人はもどかしく言葉をかわして生きるよりほかにない。
 それにしても「創造的復興」とか「絶望の後の希望」とか、「防災でなくて減災」だの、これはもう絶望の深みも知らぬ、軽石にひとしい。
 (35; 二〇一一年七月十八日; 古井)

     *

 安全と振興との、テーマパークのごときものに土地を「改造」してはならない。それでもこの土地に留まって生業を続けようとする住民の意志を、後押しすることが、まず始まりだと思われます。生きるために忘れるということはある。しかしこれは、忘れられずにいることに劣らず、抱えこみであり、苦しみです。風化とはまるで違います。
 (37; 二〇一一年七月十八日; 古井)

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 言葉は浮くもの、だとすれば人と人の交わりの手段としては、不完全なものでしょう。情理を兼ね備えた言葉など不可能かもしれない。だが、それを補うのは態度ではないでしょうか。震災とそれに続いた原発事故をめぐって、政治家をはじめ保安院、科学者、言論人らの様々な言説が飛び交うこととなりました。深刻なことが話されているのに、態度はどこか他所事のようであったり、根拠のない楽観を浮かべている。淀みのない話の意味内容よりも、矛盾を抱え込んだ人の訥弁の姿の方がより説得力を滲ませているということはある。「知恵は態度の結果である」という言葉や、本居宣長の「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」が拠る所以でしょう。
 (38~39; 二〇一一年七月二十五日; 佐伯)

     *

 平穏な世が続くと、人の話す言葉は短く、やがてはきれぎれになる、と言われます。てんで勝手に走っているようで、じつはいつかひとしく均らされて、言葉がたやすく通じあう、と思いこむせいでしょうか。しかしそんなわれわれの内にも、ほとんど意識をのがれて、ぽつりぽつりと滴りながら、息の長い「訴え」が、ひそんでいるようではありませんか。言葉よりもその口調、あるいはただ声音の、いましがたまで遠くに聞こえていたその余韻のようなものが。見も知らぬ遠い人のような声音で話している自分に気がついて、怪しむこともあるでしょう。
 (54~55; 二〇一一年十月十七日; 古井)

 

  • 次に古井と蓮實の対談で触れられていた「フェティシズム」の件に移るけれど、どういう話をしているときだったか、『双生』の仕掛けについてMさんが説明しているときだったか? 『双生』では戦前あるいは戦中パートと戦後のパートで漢字のひらき方を大幅に変えて、戦前戦中のいわゆる軍国主義的強権体制と戦後のいわゆる民主主義的解放と、文字の表記形式をそれぞれの時代背景になぞらえるようなことをやっているらしいのだが、Mさんは自らそういう試みをやっておきながら今現在は、これ、いかにも半端でショボくね? ダサくね? という疑念に捕らわれていると言う。やるならもっと大胆に、それこそ文体ごとがらりと変えるくらいの規模でやらなければ意味がなくて、中途半端に小手先の小技を弄するのは一番ダサいパターンではないかと。何より、Mさん自身が一応そういう疑念を持ちながらも敢えて試みているということを読んだ人間が推察できず、こいつこんなちっぽけなことやってマジで面白いと思ってんのかよと捉えられてしまったら目も当てられない、俺はそんな小さいとこで満足する人間ちゃうぞと、そういう思いがあるらしい。で、多分そのような漢字のひらきについて話している最中ではなかったかと思うのだが、対談でもこういう話、してなかった? とMさんが想起して、たしかに「フェティシズム」のテーマについて交わされていたと記憶を確認し合ったのだった。ただそこで意外だったのは蓮實重彦が、古井さんは一般的な印象と違って実は言語に対する「フェティシズム」を持っていないと思う、例えば箇所によってカラダという語を「身体」と書いたり「からだ」とひらいたりしているけれど、これにはどうも確たる使い分けの基準はないですよね、最終的にはそこは突き詰めなくても良い、ともかくそう書きさえすればそう書けてしまうと思っていらっしゃるんじゃないですかとか問いを差し向けて、実際に古井が肯定したあと蓮實がまた受け返した発言において、言語に対する「フェティシズム」など、作家が一番持ってはいけないものだと思います、みたいなことを述べていた点で、ここを読んだときにこちらは、え、そうなの? 蓮實重彦ってむしろそういう方向の人じゃなかったの? と意外に思ったのだけれど、Mさんもおおむね同様の印象を受けていたようだ。こちらの理解では「フェティシズム」というのは、それこそ細部偏愛的と言うか、ここの描写めっちゃよくね? この一語すばらしく決まってない? みたいな姿勢のことだと思っていたところ、これはこちらの得意とするところだから蓮實の上の発言を読んだときにはちょっと決まりが悪くなったのだが、漢字のひらきを例に挙げているわけだしどうも対談中で口にされている「フェティシズム」というのはこちらの理解とはいくらかずれているのではないか。よくわからんのだが、字面も含めて言語の扱いを完璧に法則的に固定化しようとする態度、みたいなことなのだろうか? 例えばある語を漢字にするかひらくかというのは、その都度周辺の語の配置との兼ね合いによって毎回決定していくことであり、この語はいつでもこの表記にするのが良いという風に普遍的な正解を原則として打ち立てようとするのは、儀式的と言うかある種の言語崇拝的な振る舞いなので作家たる人間にとっては忌むべきものである、というようなことだろうか? 不明。
  • 蓮實重彦と言えばあのいかにもな嫌らしさ、嫌味たらしい皮肉を交えた口の悪さが面白くて、対談での発言など読んでいるとかなり笑える、ともこちらは話した。例えば『ユリイカ』の蓮實重彦特集(二〇一七年一〇月臨時増刊号)におけるロング・インタビュー(聞き手は入江哲朗)では冒頭で、戦後まもなくアメリカ兵を初めて見かけたときのことを話している。たしか静岡の疎開先(沼津だったか?)から列車に揺られて東京に戻ってくるとき、立川あたりでと言っていたような気がするけれど、蓮實少年はそこで生まれて初めて米兵の姿を目にしたのに、子供ながらにこんな連中は馬鹿に違いないと思っておりました、とか語っているわけである。出征していた父親が、たぶん東南アジアで出会った英兵とかについて語った話からしても、連中はまったくの馬鹿であると判断できたと彼は述べており、と言うのは、蓮實重彦の父親たる日本美術研究者の蓮實重康は戦地で絵を、おそらくスケッチのようなものだと思うが描いていたところ、外国兵がそれを見て俺にくれと言う。それで重康氏は紙の裏に「芸術は長く、人生は短い」というような例の有名な格言をラテン語で記してやったところ、外国兵たちはこれは何と書いてあるんだ? とちっとも理解できない様子だった。つまり彼らはラテン語すら読めなかったわけです、あるいはことによると、そもそも文字が読めなかったのかもしれない、などと言って蓮實重彦は嫌味たっぷりに馬鹿にしているのだけれど、そこなど面白かったと笑いながら紹介するとMさんは、そういうこと言うよな、と受けた。蓮實重彦とか金井美恵子とか、浅田彰とかあの周辺の人たちは共通してそういう振る舞いを持っていると言うか、とにかく嫌味たらしい言い方で他人をボロクソにけなすという習癖を具えている気がするけどあれはなんかあの世代共通の特徴なのかね? という印象をMさんは抱いているらしい。
  • あと蓮實重彦の力量というのはストーリーテラーとしての手腕にこそ表れているのだろうという話もちょっとしたのだけれど、これに関しては面倒臭いので概略だけで済ませる。蓮實重彦と言えばすぐに細部の観察がどうのこうのと言われるもので、彼の観察力が優れていることはもちろん疑いないことではあるものの、それよりもむしろその具体的な個々の観察を結びつけて、一つの物語を誰も気づけなかったような別の新鮮な物語に組み替え翻訳してしまう技量のほうが真骨頂だろうとこちらは捉えており、だから彼は物語の語り手として類稀な資質を持っているんだと思いますみたいなことを述べたところ、Mさんはそれはその通りだと思うと同意を返しつつ、そもそも批評や思想っていう営み全般がそうよね、と付け加えた。たしかにその通りで、だから基本的には魅力的な物語を体系的・統合的にうまく語れなければ優れた批評はできないだろうということになり(もちろん断章などの形式によって試みることも可能ではあるけれど)、文芸批評だの何だのをもしやりたいのならば、ささやかな細部を拾い上げる感性もしくは視力などというものはむしろ基礎的条件であって、それらをベースにしてどのように魅惑的なナラティヴを構築していくかという点にこそ書き手の実力が表れるわけだろう。
  • Mさんは現在中国の大学で日本語を教えているし、こちらも一応塾講師をやっているということで、教師の役割なんていうテーマについても話が交わされた。Mさんが思うに、あの先生ともっと話したいと思わせたらそれで成功、言わば勝ちだということで、精神分析的に言えばそれは生徒とのあいだに「転移」関係を形成するということになるらしいのだが、要するに自身に憧れを抱かせて知への欲望を感染させるということが教師にできる有効な実践の一つだろうというような話だ。学生があの先生みたいになりたいと思えばそれはもちろん成功だし、そこまで行かなくとも、あの先生と話したいからもっと色々勉強しなきゃと思って努力を始めてくれればそれでも充分だ、と。そういう話を受けてこちらは、そう言えばこのあいだMさんのブログに引かれていた文のなかで斎藤環がそんなようなこと言ってましたよねと思い出した。該当部を以下に引いておく。『生き延びるためのラカン』からの一節らしい。

 ちょっと脱線するけどいいかな? 僕は基本的に、人間が人間を教育することなんてできないと考えている。人が人を変えるようにみえるのは、変わりたい人間と変えたい人間がたまたま運良く出会った時くらいのものだ。
 あの地動説のガリレオがこんなことを言っている。「他人になにかを教えることなどできない。できるのは、自力で発見することを助けることのみだ」とね。これなんか、すごくよくわかるな。このガリレオの言葉は、教育はおろか、転移というものの本質にすら射程が届いている。「発見を助ける」ってことは、発見したいという欲望、つまり「知への欲望」を、転移を通じて伝えることにほかならないからだ。
 思うに、これってあらゆる「教育」の基本なんじゃないだろうか。のぞましい教育っていうのは、ただ知識や情報を子どもに詰め込むことじゃない。すぐれた教育者は、ほどよい転移関係の中で、相手に「学ぶ姿勢」(これもまた「知への欲望」のひとつだ)を伝染させることができる人のことだ。

  • Mさんはもちろん全員ではないにしても一部の学生に対してはたぶんこうしたことを有効に実践できているのではないかと思うのだが、当人は自分の出で立ちや語りというのは、ともすれば『GTO』みたいでダサいと思われているのではないかという懸念がちょっとあるらしい。Mさんの講師仲間などは、Mさんは一般的な日本人のイメージを見事に破壊してくれるから、日本人を実際に見たことのない学生たちにとっては、もう存在だけで一つの教育ですよ、みたいなことを言ったらしく、それはこちらとしてもわりと同意できる評言なのだけれど、まあ言ってみればそのへんのチンピラみたいなファンキーな格好をしながら文学だの哲学だの生硬で小難しいことについてぺらぺら語るという、そういうキャラクター的逸脱性のようなものがそれ自体「逸脱」として非常にありふれた形でダサいのではないかという思いが多少あるようだ。めちゃくちゃ自意識過剰でしょ? と彼は笑う。そういうことはもちろんありうるわけだけれど、とすればあとは見掛け倒しに終わらず内実を具えているかどうかの問題になるわけで、Mさんは間違いなく実を具えた人間ですから全然大丈夫でしょうとこちらは気楽に返しておいたところ、MさんはS.Eさんのエピソードを紹介した。このSさんという学生は文学好きで、また耽美系とかエログロとかそういう方面のコンテンツも大好きで(いわゆるアングラ・カルチャーと言うのだろうか?)、たしか澁澤龍彦を大層好んでいるという話だったし、いわゆる「蓮コラ」みたいなものも大好物だとか聞いたような覚えもあるが、彼女はいま日本の大学院で犯罪心理学だか何だか学んでいるらしく、そういう趣味とテーマの選び方を合わせるとなんか漫画に出てきそうだねとかMさんが言ったところ、自分は本当に漫画のキャラになりたい、漫画に出てくるマッドな学者みたいになりたいのだという風な返答があったようで、Mさんはそれを受けて、俺ここまで自意識捨てられないわと脱帽したという話だった。
  • そのSさんが通っていた高校には、過去、天安門事件の抗議運動に参加していた教師がいて、その人もSさんは見どころのある生徒だと評価したのだろう、あるとき放課後だったかにこっそりと、こういうことがあったんだよという話を教えてくれたのだと言う。言うまでもないことだが、一九八九年のいわゆる六・四天安門事件は彼の国では国家的機密として扱われており、端的な社会的タブーで、情報はもちろん完全に統制されていてそれについて定かに知っている人はおそらく相当に少ない。その教師は天安門事件中国共産党が人々を弾圧する様子を撮影した写真をヘリコプターからばら撒こうと計画したか、もしくは実際にばら撒いたかしたという話なのだが、そういう正しく決死の活動に従事したのち、首都から遠く離れた田舎の高校に下りながらも、そこでひそやかに自分が体験した事件の歴史を語り伝えているわけである。その静かでささやかな闘争の痕跡がSさんを通じてMさんのもとにまで届いたという事実に、Mさんはすごいとしか言いようがない強い印象を受けているようだったし、それについてはこちらも同感である。
  • 天安門事件から「事件」という語を通じた連想で、近頃新聞で読んだ韓国の光州事件について話した。事件についての概要はたぶん新聞記事を記録すると思うのでそちらに譲る。Mさんはこの出来事についてはたぶんほぼ初耳だったようだ。こちらもつい先日初めてその名を知ったに過ぎないのだが、なんか文在寅大統領はこの事件を韓国の民主運動の原点として位置づけているようで、憲法にもその価値と理念を書きこもうとしているみたいですよと新聞から得た情報を伝えると、それで文在寅ってやたら左翼左翼言われてんのねとMさんは得心が行ったようだった。韓国でもむろんネット右翼的な人々が一部界隈では跋扈していて、文在寅は当然ながら彼らからの評判がすこぶる悪いらしい。光州事件ではまた、七〇人だったかそのくらいの数の行方不明者が出ており、しかもいまに至るまで発見されていないと言うのだが、都市内で起きた事件にもかかわらずそれだけの人が姿を消してそのまま戻ってこないって一体どういうことだ、と強い印象を受けたともこちらは語った。おそらくは拉致されて殺害されたということなのだろうが。
  • ほかにも蕁麻疹についてとか「プリズン」についてとかMさんの話を聞いてかなり面白かったし、あとは柄谷行人浅田彰、フェリックス・ガタリなどをはじめ諸々の事柄についても語ったのだが、さすがにそろそろ面倒臭くなってきたので、あと記述しておくのはガタリについてと『亜人』の「混血児」についての二つのみにしたい。まずフェリックス・ガタリという人についてこちらはほとんど何も知らず、ただ書店で著作をひらいて拾い読みしたときの雰囲気などで、なんかかなりやばいほうの思想家じゃないか? という漠然とした印象を持っていたのだが、Mさんによれば彼は主に精神分析関連の理論家でありながら同時にガチガチの活動家でもあったということで、彼が来日したときにあの浅田彰がちょっと説教されたとも言う。たぶんシンポジウム的なイベントか何かで浅田がいわゆる直接行動的な活動についていくらか冷笑的なことを言ったようで、それに対してガタリが怒ったと言うか苦言を呈したらしく、その件を機にちょっと考えを見直しましたみたいなことを浅田はどこかで語っていたらしい。何しろ、浅田はガタリという人がおそらくかなり好きだったはずで、たしか東浩紀がゲンロンカフェでのイベントで証言していたように記憶しているのだが、浅田彰は、東浩紀が彼と交流しはじめてまもなかった頃には、自分はガタリになりたいみたいなことを言っていたという話だ。それは人々を繋げる編集者みたいなことをやりたいというような意味合いだったはずで、だとすればまあ一応、『批評空間』としてそれは一つ結実したのではないかと思うが、またガタリには例の何とかかんとか分裂地図作成法みたいなタイトルの、古書店で見かけてもいつもやたらと高い値段がついている本があるけれど、たしか東は若い頃に浅田から、まあこのくらいのものは読んでおいたほうがいいんじゃない? という感じでそれを渡されたということも語っていたと思う(いや、もしかしたらそれはデリダの『マルクスの亡霊たち』にまつわるエピソードだったかもしれないが)。そういう諸々の情報やイメージからしガタリという人はやはりすごく面白そうで読まねばならないなと思うし、とりわけ相当に実践的な活動家だったという点にはかなりの興味を覚える。多様な領域をめちゃくちゃに横断したり多彩な物事を節操なしに取りこんだりする猥雑さに対して、こちらには一種の憧れみたいな志向及び嗜好があるのだけれど、そういう方面からガタリという人について学ぶことができるのではないだろうか。都合の良いことに『カオスモーズ』と『分子革命』を所持しているので、まずはそれらから読んでいくべきだろう。
  • あとは『亜人』について。最近こちらがシェイクスピアをたくさん読んだという話から、Mさんもシェイクスピアは過去に色々と読んで、そのなかでも『ジョン王』だったかのマイナーな歴史劇のなかに「私生児」というキャラクターがいたのを覚えており、作品自体は大したことはなかったけれどその人物がやたら生き生きとした躍動的なイメージをもたらしたのが印象に残っているということが語られたのだが、それでこちらが『亜人』の「私生児」の元ネタってそれだったんですねと訊いたところ、え、『亜人』に「私生児」なんてやつ出てきたっけ? という反応が返った。いませんでしたっけ? 迷宮探索の一行のなかに、なんかナイフ使うやつがいましたよねとか何とかこちらが説明して、それでMさんも一転、あ、そう、そうやねん、そうだった、あいつシェイクスピアから取ったんだったと言い、こちらはその逆転ぶりに、いやなんで自分で書いた作品の元ネタ忘れてるんですか、いまのいままで完全に忘れてましたよねとかなり笑ったのだが、しかし後日Mさんのブログを覗いたところ、『亜人』に登場したのは「私生児」ではなくて「混血児」だったという驚愕の事実が記されており、いや、じゃああのときのMさんのまさしく手のひらを返したかのような確信的な断言は一体何だったんだ! とこちらはそこでもまたクソ笑ったのだった。
  • 新聞記事を写しておくのもなかなか面倒臭いのだが、香港の件と光州事件については記録しておかないわけにはいかないだろう。この日の朝刊の二面には、【「国歌条例」香港で審議/民主派、抗議デモ 警察厳戒/中国 国家安全法制採択へ】の記事がある。「香港の立法会(議会)で27日、中国国歌への侮辱行為を禁じる国歌条例案が実質審議入りした」と言い、この記事を書いている七月五日現在では既に施行されておりそれに基づく逮捕者も起訴者早くも出てしまったいわゆる「国家安全維持法」についても、「28日には、中国・北京で開催中の全国人民代表大会全人代=国会)で、香港に国家安全法制度を導入する方針が採択される予定だ」と伝えられている。「国歌条例案では、違反者には最高で禁錮3年の刑罰が科される」らしい。インターネット上では二〇一九年六月の抗議活動のように立法会を包囲することも呼びかけられたようなのだが、「警察当局は立法会周辺を通行止めとし、警察官約3500人を香港各地に配置して厳戒態勢を敷いた」ということで抜かりなく行動を抑えこんでいる。「繁華街などでデモが起きると即座に排除し、警察当局は27日午後5時半までに参加者ら300人以上を拘束した」とのこと。
  • 六面では【光州事件40年 癒えぬ傷】と題して特集が組まれている。全羅道は光州市の裏路地「旧市街」が「1980年5月の民主化抗争「光州事件」の舞台となった」場所で、「事件では161人の市民が死亡し」、「78人の行方が今もわかっていない」。五月二〇日時点でデモ鎮圧のために「特殊部隊「空挺部隊」」が投入され、「市民を次々とこん棒で殴りつけ」たと言う。発端となったのは一九八〇年五月一七日に当時「民主化運動の闘士」だった金大中が拘束されたことで、「光州では反発した大学生らが翌日からデモに繰り出し、10日間の抗争が始まった」。タクシーやバスの運転手が車を「盾」に使って学生たちを支援し、「数で圧倒された空挺部隊は翌21日昼過ぎ、M16自動小銃による無差別射撃を始め」、それに「反発した市民が警察の武器庫から銃を奪取し、事態は一気に激化していく」ことになった。事件は五月二七日に鎮圧され、収束する。「事件を巡っては、2018年に成立した特別法に基づく独立機関「真相究明調査委員会」が、過去の裁判で明白にならなかった軍による無差別射撃の責任者を改めて調べている」と言い、文在寅などは「軍の事実上トップだった全斗煥[チョンドゥファン]元大統領(89)が射撃命令を下したはずだ」と考えているようなのだが、「真実」はいまだ明らかでない。


・作文
 21:15 - 21:55 = 40分(5月27日; 5月28日)
 21:55 - 22:14 = 19分(5月23日)
 22:14 - 22:50 = 36分(5月24日)
 22:50 - 22:59 = 9分(5月26日)
 計: 1時間44分

・読書
 14:10 - 14:41 = 31分(英語)
 14:42 - 15:05 = 23分(記憶: 172 - 180)
 17:03 - 18:50 = 1時間47分(古今和歌集: 130 - 150)
 20:22 - 21:03 = 41分(記憶: 181 - 187)
 23:02 - 24:50 = 1時間48分(古今和歌集: 150 - 184, 27 - 33)
 25:03 - 25:20 = 17分(マザ)
 計: 5時間27分

・音楽