2020/5/30, Sat.

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂[うれい]いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寐る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。脊中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……
 (夏目漱石草枕岩波文庫、一九九〇年改版、8)



  • 一〇時四九分離床だからやや遅くなってしまった。
  • 菜っ葉とウインナーのソテーをおかずに米を食う。食事を取ればもはや時は尽き、何をする間もなく風呂を洗い、歯磨きと着替えを済ませて出発するようだった。
  • 出勤。たしか強めの陽射しがあってかなり暑かったのではないか。風呂に漬けられているようだと思った覚えがある。街道を渡ってすぐそこの石段上の家に、紅葉した梢が覗いて見えた。春モミジというやつだろうか。緋色と言うかちょっと暗い翳も混ぜながらしかし沈まず、とても鮮やかな色合いだった。土曜日なので街道を行くあいだ、通り沿いの宅の人々が外に出て、車を洗ったりなんだりうろついている姿を多く見かける。裏に折れて正面に立つアパートの垣根の下、足もとの低みには躑躅の茂みが列をなしてピンクの花を並べていた。
  • 労働。(……)国語のプリントに山口素堂という俳人の句があり、全然知らない初見の名前だったがのちほどWikipediaを覗いたところ、芭蕉と交流したとあった。「目には青葉山ほととぎす初がつお」という一句が取り上げられており、この句自体はどこかで聞いたことがあるような気もする。初夏の風物詩を題材に季節感を嘆じた作というわけで、おそらくは教師が時節に合わせて選んだのだろう。(……)
  • (……)ついでに彼にも何となく説明をしておいた。一九四五年に戦争が終わる際、終戦に乗じたロシア(ソ連)によって実効支配されて以来もう七五年間ずっと問題が続いているのだと。すると、もうあげちゃえばいいじゃん、と(……)くんは言う。なかなかそうは行かないでしょうとひとまず鷹揚に受けると、何で、と疑問が来るのでうーんと考え、国家の体面として……みたいなことを言いかけると、プライド、という言葉が差しこまれるのに、それもあるでしょうと肯定する。あとは、愛国心の強い人たちとかはさ――「愛国心の強い人たち」という言い方に(……)くんはちょっと笑った――奪われたものをみすみすあげるようなことはとんでもないと思うでしょう、と言うと、あげちゃっても別に困らないでしょと返る。たしかに領域としては小さなものだし、経済的にそんなに重要というわけでもないだろうが、みたいなことを漏らしつつ、あとはでも、実際そこに住んでいたのに帰れないっていう人がいるからね、と受けた。
  • どのような政治的争点でもそうなのだろうけれど、これはいくつかのレベルに渡った重層的な主題であるわけで、まず観念的な層としては国家主権の問題がある。ソ連及びのちにそれを受け継いだロシアの行為は日本国の国家的主権を侵害したものであるということで、いわゆる右派の人々などは比較的こういう論拠に立ちやすいと思うけれど、それに加えてそういう「愛国心の強い人たち」は、自らのアイデンティティを、彼らが心中で作り上げた「日本国」という総体的イメージに一体化させているというポイントがあるだろう。より正確には、彼らはイメージとしての「日本国」に主体領域(の大きな部分)を委託し、その内に包含されるような形で――すなわち母親の腕や胸に抱かれる子供のように密着した形で――自己像を形成しているのだと推測され、そのような人々にとってはおそらく、国家主権の侵害という事態は自分自身の個人的権利の侵害とおおむね一致するように捉えられるのではないかと思うし、例えばいわゆる北方領土をロシアに譲り渡すという方策は、比喩的に言ってまさしく自らの肉体の一部を奪われるかのような屈辱を彼らのうちに引き起こすのではないだろうか。だからこれらの人々にしてみれば、(……)くんのような考え方はまさに国を売る行為、すなわち「売国奴」であり「非国民」の所業だということになる。このような国家主権と個人的主体性の同一化もしくは吸収の問題がまず一つ、ここにありうるだろう。そういうメンタリティを抱いている人間はこの世の中に少なからずいるようなのだが、とは言え彼らのうちの多くの人は北方領土と呼ばれている土地を実際に目にしたことはないはずだし、そこにもともと暮らしていた人たちやその子孫の話を聞いたこともたぶんないのではないか。つまり具体的な経験のレベルでは、彼らと北方領土とのあいだに肉体的関わりは何もない。しかし上に記したような観念(イメージ)領域での思考操作を自らのものとした人々にとっては、日本国が一応歴史的に己の国家領域として権限を及ぼしてきた土地が他国に従属することになるというのは、自分の個人的所有物が不当に奪われたかのような怒りをもたらすのだろうと想像できる。
  • 次に実益的と言うか、例えば北方領土の価値を経済的観点から勘案し、そこを保持することによって日本国にどのような利益があるか、ロシアとのあいだで共同経済開発領域として契約したほうが実際的利益が大きいのではないか、という具合に打算を巡らせるレベルが考えられる。ほかには安全保障上の位置づけという観点ももちろんあるはずだが、これらに関してはこちらには何一つとしてわからない。で、最後に、かどうかわからないけれど、もともとその土地に住んでいた人々やその肉親、もしくは彼らと親しい人々における感情的問題のレベルがあるはずだろう。もともと実際に北方領土領域に住んでいたけれどロシアの支配によってそこに帰れなくなってしまったという人々が、もう一度その土地を足で踏みたいとか、そこでまた一定期間暮らしたいとか思うことは当然考えられるし、そういう人たちの体験や思いを話に聞いた家族や知人がその感情を共有するということもごく普通のこととしてありうる。たぶん一応、一時的帰還と言うか何かの折に短期の入領が許されるということはいままでもあったのだと思うけれど、それについては何も知らない。で、彼ら、いわゆる「当事者」の思いがどの点にあるのかということももちろん個々人で違ってくるはずで、例えばなかには、北方領土というのはやはり日本固有の国家領域であってロシアの実効支配は不当だからすみやかに返還されるべきだと考えている人もいるだろうし、他方で日本国の主権というものにはこだわらず、つまりそれが法的地位上はロシア領であっても構わないのでそこに自由に行き来できるように、もしくはその土地に自分も暮らせるようになってほしいと願っているだけだという人もいるだろう。だから、この人たちに確かな体験的基盤があって、彼らが「当事者」として見なされうるからと言って、その地位が必ず第一の国家主権の問題と適合的に結びつくとは限らないはずだ。
  • (……)
  • (……)文章を読むというのは大事なことですよと、これはむろん学校の勉強に留まらずもっと広範な意味で言っているわけだが、ひとまずそう断言し、続けて逡巡しつつも、受験でも結局は長文を読めなきゃいけないし、と付け足しておいた。塾講師にあるまじき不遜な態度だけれど、受験なんてまるでどうだって良いとこちらは思っているし、本当はこんなことは言いたくないのだが、一応そういう言葉を発してはおいた。(……)
  • 退勤。徒歩で帰ったが帰路のことは特に覚えていない。帰宅後のことも全然覚えていない。素麺を食ったのだったかな? 忘れた。ほかに特段の印象も蘇ってこない。