例えば髪の切り方は、ほとんど短髪で、なんの気取りもないし、とりわけ形が決まっているわけでもない。きっとそれは芸術の、さらにはテクニックの、完全に抽象的なヘアスタイルを実現しようとしているに違いない。一種のヘアカットのゼロ度の状態と言ってよかろう。髪は切らねばならないが、しかし髪を切るというこの不可欠の操作が、少なくともどんな特殊な存在様式も含んでいてはまずいのだ。この操作は存在しなければならないが、しかしなにものかであってはならない。ピエール神父の髪型は、短髪(注目を引かないためには欠かせない慣例)と、ざんばら髪(他の慣例に対する軽蔑をあらわすのに適した状態)とのあいだで、中性的なバランスに達するよう、はっきりと意図されたものであり、このようにして神聖な髪型の原型と合体している。聖人とは何よりも、明確な文脈を伴わない存在なのだ。流行という観念は、神聖さという観念と反りがあわないのである。
しかし、事態が込み入ってくると、――これは神父本人のあずかり知らぬことだと願いたいものだが――、あちらこちらで、中性がしまいに中性の記号[﹅2]として機能するようになる。そして、本当に気づかれずにいたいと思うなら、すべてをやり直さねばならなくなるだろう。ゼロ度のカットは、そっくりそのままフランシスコ会主義を誇示している。その髪型は、最初は聖人のような外観にそむかないようにと消極的に考え出されたものだが、すぐに意味作用に最上級の方法となり、神父を聖フランチェスコへと見せかけてしまう[﹅8]のである。それゆえ、挿絵や映画のなかには、この髪型の図像学的財産が満ちあふれているのだ(映画ではレバという男優は、この髪型にするだけで、神父とすっかり見間違うほどになるだろう)。
同じような神話学の手順が、髭に関しても存在する。おそらくたんにそれは、われわれの世界の日常的な慣例から遠ざかり、髭を剃る時間すら失うことを嫌うような、自由人の属性なのかもしれない。慈悲の持つ魅力が、この種の軽蔑心を生み出しうるというのも、もっともなことである。だが、聖職者の髭にもささやかな神話があるということは、認めざるをえない。司祭たちがたまたま髭を生やしているというわけではまったくない。その世界では髭はとりわけ宣教師やカプチン会の属性である。髭は伝道と清貧を意味すること[﹅6]以外のなにものでもない。髭はそれを生やしている者を、在俗の聖職者たちから切り離す役割もいくらか果たしている。髭のない司祭がより現世的な存在と見なされるのに対し、髭のある司祭はより福音にかなった存在と見なされる。恐ろしいフロロは髭を剃っていたが、フーコー神父は髭を生やしていた。髭の後ろでは、司祭は自らの司教区、階層、政治的な教会といったものへの所属関係から、いくらか解放されている。もっと自由で、いくぶん単独行動者のようでもあり、ひとことでいえば、より原始的で、初期の隠者たちの威厳の恩恵に浴していて、修道院の創始者たちの荒っぽい率直さを持ち、文字に反対する精神を託されているように見える。髭を生やすということは、同じ心を持って貧民街、ブリテン島、ニアサランドを探検することである。
(下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、84~85; 「ピエール神父の図像学」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年一月号)
- 一〇時のアラームで覚めた。何かしら夢を見ていたと思うのだが、覚醒した途端にそれは完璧に消え去ってしまった。唯一残ったのは夢を見ていたはずというあるかなしかの手触りのみで、それは夢の抜け殻ですらなく(その手触りには形や輪郭がないから)、かすかな匂いみたいなものだ。
- 一〇時二三分まで寝そべったまま脛をほぐし、それから便所に行ってきたのち書見。今日は二時半からの労働で、いま食事を取ってしまうと勤務中にお腹が空いてしまうと思われたので正午頃に食べることにして、それまで読書を決めこんだのだ。ロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年)。読書ノートをふたたび使いはじめ、利用方法も改良した。ページの左方四分の一ほどの区画には書抜きをしたい部分のページ番号および行番号をメモしておき、右側のスペースには書抜きをするほどではないがちょっと気になった部分を示しておき、ときには本文の文言を一部引いたり思いついた事柄を簡略的に記したりもする。それでのちほど日記に正式な内容を書きつけておこうというわけなのだが、果たして本当にやるかどうか。
- 七月一八日現在、上の方式ははやくもお払い箱になっており、書抜きたい箇所は手帳のほうに、日記に記録しておきたいところは読書ノートのほうに、というメモの仕方になっている。読書ノートのメモも、あとで思い出して記録できれば良いのだというわけで、ページだけを記しておいたり語句まで引いたり、アイディアをわずかに付記しておいたりとそのときの気分によってさまざまである。
- 正午ちょうどまで書見してから上へ。今日も暑く、空は無雲で、あるいは色が淡くて白っぽいので、微光めいた雲がほぼ均一に全体に混じっているのかもしれない。気温は三〇度超えのようだ。紫タマネギや大根の上に焼豚を乗せたサラダと、タマネギとワカメの味噌汁が冷蔵庫にあった。それらにくわえて久しぶりにハムと卵を焼くことに。火を通したものを丼に盛った米の上に乗せて新聞を読みつつ食べていると、食事の終わりとともに両親が帰宅した。こちらは皿を洗い、母親がこれ入れてとクーラーボックスを持ってきたので品々を冷蔵庫に入れ、それから風呂洗い。
- 帰室するとまず今日のことをメモし、そのあと昨日のことも記録しておいたようだ。
- 一時半頃に出発した。完全に夏と言うべき馬鹿げた暑さ。Nさんの宅の庭にちいさな築山めいて盛り上がった草の屍[かばね]が陽に照らされてだんだんと枯れ、茶色くなってきているのだが、その茶色が思いのほかに明るい味で、周囲の緑とこれはこれでひとつの取り合わせをなしている。坂を上っていくと出口付近でふたたび陽射しに触れられた。心臓のあたりがちょっと苦しくなってくるような暑気だった。
- 最寄り駅から乗車して、扉際で眉間のあたりを揉みながら待つ。着くと駅を抜けて職場へ。(……)さんが今日も来ていた。早いと言われたので電車がないのだと説明し、今日はさすがに、この暑さのなかを歩くのも厳しいしと言う。奥で授業記録の確認をしたのち持ってきたバルトをわずかに読み、それから準備に入った。今日は二コマで、一コマ目は(……)くん(小五・国算)と(……)さん(小五・理科)。(……)くんは日記にも記したようにこのあいだ説教したわけだけれど、それが一応効いたようで今日はきちんと取り組んでくれた。何かしらの障害があるという話だったが、理解力はたしかにあまり良くはない。だがひとつずつ順を踏んで進んでいけば、理解できることは理解できそうだ。やや多動的な感じがあったり不注意によるミスが多かったりするので、たぶん発達障害の類と診断されているのではないか。(……)さんはテスト。理科は原則教えられないのだが、まあ小五の内容ならたぶんどうにかなるだろうと引き受けた。授業の開始時に母親が教室に来ており、室長の話によればノートのまとめ方を指導してほしいと要望があったと言う。テストを扱った授業ではそれをもう一度解き直すことを宿題にしていたのだが、家で見ていると答えをそのまま写すような感じになってしまっているので、きちんとポイントをまとめさせるようにしてほしいとの話だ。それで了承し、今日はそういう風に、つまりまちがえた問題を一問ずつ取り上げて解説を一緒に読んだり補足を加えたりしつつ、重要かなと思われる事柄はノートに写したり要約的に記したりしてもらうという感じで指導した。それだと当然時間が掛かるのですべては確認できないわけだが、理解と記憶をより促進することはできたかもしれない。授業後に母親が迎えに来たときに出入口のところで立ったまま話をさせてもらい(西陽が斜めに渡ってきて我々の身体を包みこむ)、今日はこういう風にやりましたと報告して、また要望があったら伝えていただきたいと言っておいた。
- 二コマ目は(……)さん(小六・国算)と(……)くん(中二・国語)。(……)さんに当たるのは相当に久しぶりだった。愛想が悪いとか暗いというわけではないのだがどうも笑みが見られないし、無表情という印象でもないのにこれといった表情を捕まえられるわけでもない、と不思議な感じのする女子で、ちょっと内面が掴みづらい感触がある。あれも一種のポーカーフェイスと言って良いのだろうか。とは言え問題はだいたい解けてはいるし、説明も普通に聞いてくれるので、担当回数を重ねればだんだん馴染みが生まれて互いが見えてくるのではないか。(……)くんはいつも通りで、彼との信頼関係はもはや何一つ問題ない。あとはどのように学力や理解力、思考力を高めていくかが当然課題となる。国語だったらやはりワークをやってもらうだけでなく、こちらが実際に文章を読んでみせなければならないだろう。つまり〈実演〉をしなければならないということで、少なくともこまかな部分についてもっと突っこんだ質問を投げかけ、意味の連鎖形式、すなわち論理の繋がり方というものを理解させていきたいところだ。
- 授業後、(……)くんにあなたは本は読むんだっけと尋ねてみると、『Newton』の別冊を読んでいると言うので、すごくない? と受ける。『Newton』ってだって、物理学方面の論文とか載ってる雑誌でしょ? と訊けば、その別冊というシリーズがあるらしい。いま(というのはこの時点からはや一か月以上も経過した先の七月一九日の夜明け前なのだが)ホームページを見てみると、「時間とは何か」とか「無とは何か」とか「ゼロからわかる相対性理論」とか、あるいはまた物理学に限らずさまざまなテーマが多数揃っていて、中学生でこういうものを読んでいるというのはとてもすばらしいことだと思う。こちらだって読みたいくらいだ。家庭教師の人にすすめられて読んでいるのだと言っていたが、塾は週三で通っており家庭教師の日もある、くわえて部活動にも精を出しているわけで、彼もずいぶんと忙しいハードワーカーではないか? 周りの人はだいたい本を読むというと小説が多いけれど自分はあまり読まないと言うので、まあ大人でもたいてい、読書するって言っても小説が多いねと受け、僕もそういう方面をわりとよく読みますと言い、小説とかもそれはそれで面白いから、色々な面白さを理解できたほうが良いかもしれないね、まあでもそういうほうに興味が出てきたらそのときに読めばいいんじゃない? 自分の興味が向くものを読むのが一番だよ、と述べておいた。
- 退勤。最寄り駅でベンチに就いてジュースを飲む。白葡萄ジュースにナタデココが入ったもの。向かいの石段上の畑地を鳥たちが鳴きながら飛び立っては宙を流れて着地し、また飛び立っては流れてという感じでこまかく動き続けている。多少の距離が挟まってもいて、そのちいさな姿はほとんど蝶と区別がつかない。スズメだろうと思っていたのが、線路上まで来てひるがえっている姿が白かったり黒かったりしたので、たぶんツバメだったのだろう。
- 六月七日が兄の誕生日なのでメッセージをしたためた。「三十代も後半に入ってくるとあまりめでたいという気持ちも起こらず、むしろ四十路の坂が視界に入ってきて、俺もだいぶ歳を取ってしまったなあという感慨のほうが強いかもしれませんが、こんな時勢ですから、何歳だろうと生きて歳を重ねられただけで儲け物の幸運というものでもあるかもしれません」などと言っておく。
(……)
・作文
12:38 - 12:49 = 11分(6月9日)
12:49 - 13:14 = 25分(6月8日)
22:01 - 22:21 = 20分(メッセージ)
27:26 - 27:45 = 19分(6月9日)
計: 1時間15分
・読書
10:36 - 12:00 = 1時間24分(バルト: 18 - 29)
18:34 - 19:08 = 34分(バルト: 29 - 37)
20:22 - 20:56 = 44分(英語 / 記憶)
計: 2時間42分
・音楽
- The Beach Boys『Pet Sounds』
- Fabian Almazan『Rhizome』