2020/6/12, Fri.

 ついこのあいだ七十人の女流小説家を集めて一枚の写真に収めた『エル』誌を信じるなら、女流作家というのは一つの注目すべき動物種をなしている。小説と子供をまぜこぜに出産するのである。例えば、同誌に載っている紹介はこんな調子だ。ジャクリーヌ・ルノワール(娘二人、小説一冊)。マリナ・グレイ(息子一人、小説一冊)。ニコル・デュトレイユ(息子二人、小説四冊)などなど。
 これは何を意味しているのか。すなわちこうだ。ものを書くことは輝かしいけれども大胆な行動である。作家は「芸術家」であり、自由奔放さへの権利が或る程度は認められている。一般的には、というか少なくとも『エル』のフランスでは、作家というものは社会にその良心の理由を与える任務を背負っているのだから、その務めに報いてやらなければならない。作家には少々自分勝手な生活を送る権利が、暗黙のうちに許されているわけだ。だがご注意あれ、女たちには、女らしさという不変の規定にまず従わずしてこの契約を利用することができるなどと思わせぬよう。女は男に子供を与えるためにこの地上にいるのだから。好きなだけ書いていい。その境遇を飾り立ててもよい。けれども、そこから抜け出してはならない。女たちの社会的地位の向上が許されても、聖書が定めた彼女たちの運命がそのせいで乱されてはならない。そして、彼女たちは、作家生活に当然のこととして結びついたあの自由奔放さを、自らの母性という貢物ですぐさま償わなければならない。
 勇気のある、自由な女になりなさい。男の真似をして、男のように書きなさい。でも絶対に男から離れてはだめ。彼の視線のもとで生きなさい、貴女の小説を貴女の子供で償いなさい。少しだけ自分の生活を追い求めなさい。でも、すぐに自分の立場に戻ることです。一冊の小説、一人の子供、少々の女らしさと、少々の結婚生活。芸術の冒険は、家庭の頑丈な杭に結び付けておきましょう。そこを行ったりきたりすることは、大いに双方の役に立つでしょう。諸々の神話に関しては、相互援助がつねに実り多く実践されているのである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、89~90; 「小説と子供」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年一月号)



  • 暑気のうちに覚めた。曇り空の日。
  • 正午過ぎから前日のこと、また五月九日のことを記す。雨が間歇的ながら急速に盛り、巨大な白い粒でもって激しく地を叩いてまさに滝のすぐそばにいるような音響を生むが、長くは続かず毎回すぐに衰える。

 つまり、アクション[活動]とワーク[仕事]の対立には、政治と芸術の対立が重なっている。古いギリシアの言葉をつかえば、プラクシス(行為)とポイエーシス(制作/詩作)の対立である。じっさいこの著作にはアーレント自身のドイツ語訳があるが、そちらではワークに相当する概念は、ドイツ語で制作を意味する言葉(ヘアシュテレン)があてられている。日本語、英語、ドイツ語、いずれを使っても特定のニュアンスが強調され、べつのニュアンスが消えることになるが、要は人間の行いには「他人に言葉で働きかけること」と「ものにかたちを与えること」のふたつがあり、それがアクションとワークとして区別されていると考えればよい。アーレントはそれに労働を加えて、人間の行いはこの三つのどれかに分類されると考えた。
 さて、アーレントはこの区別のうえで、もっとも尊重されるべき行いは活動だと、かなりはっきりとしたヒエラルキーを導入したことで知られている。彼女の考えでは、活動は制作=仕事や労働より上位であり、人間は活動を通してのみ、私的な関心を超え、公的な大きな世界に接続することができる。ひらたくいえば、ひとは小遣い稼ぎのためにコンビニでバイトしたり(労働)、自己満足のために孤独に作品をつくったり(制作)しているだけではだめで、公共の空間に出て、見知らぬ他者とともに、ともに直面する政治的な課題について語りあい意見を表明する(活動)ようになってはじめて充実した生を送れるのだと、そのようにアーレントは主張したのである。
 この主張は、詳細な哲学的議論を知らなくても、いかにももっともらしく聞こえる。バイトで消耗する人生に未来はなさそうだし、マンガや小説を書き溜めるばかりでも未来はなさそうだ。しかし、裏返せば、彼女の主張は、そんな一般常識をたいして超えたものでないようにも思われる。そもそもそんなヒエラルキーを認めてしまったら、身体的あるいは精神的な障害で公けの議論に参加するのがむずかしい人々(二〇一九年は重度障害者の国会議員が誕生した画期的な年でもあった)は、原理的に私的な領域に閉じ込められ、生も充実しないことになってしまう。それでよいのだろうか。『人間の条件』はなかなか問題含みの著作なのだ。

     *

 アーレントは、人間は活動においては人間としてふるまっているのでよいが、労働においては動物として働かされているにすぎないのでよくないのだと主張した。しかし、人間が人間であるときと人間が動物であるときが、はたしてどこまで明確に区別できるものだろうか。それがぼくの疑問である。この問いは、ぼくたちの生一般の問題としても重要だし(たとえば愛を交わすとき、ぼくたちは人間としてそれをしているのだろうか、それとも動物としてだろうか)、また接客や介護のような「感情労働」と呼ばれる労働の本質を考えるときにも欠かせないもののはずだ。(……)

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 活動はひとを他者と公共性に導く。制作は導かない。いちどそう問題が設定されてしまえば、人々がどのような結論を出すかはたやすく想像がつく。
 近代においては、ひとを公共性に導くことは絶対善である(ぼくの理解では、それがヘーゲル主義のひとつの本質である)。したがって、いちど活動と制作のあいだに以上のようなヒエラルキーが設定されるのであれば、制作を行動に、つまりはポイエーシスをアクションに近づけるのが正義ということになるにちがいない。ひらたくいえば、なにをつくるかよりも、いかにして他者に働きかけるか、他者と交流するかが重要だという話になるはずである。(……)

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 (……)アーレントの時代、アクションこそが人間を人間たらしめ、他者と公共性に開くものだと信じられたのは、そこではアクションが、いわば「見えないもの」だと考えられていたからである。
 (……)
 しかし現在はどうだろうか。ぼくたちはSNSの時代に生きている。SNSとは、その本質においてアクションを計量するメディアである。だれかがだれかのツイートを「いいね」する、だれかがだれかの写真を「シェア」する、だれかがだれかに「返信」し、だれかがだれかと「友だち」になる、それらの行動すべてを記録し、集計し、可視化して交換財に変えるのがSNSのビジネスモデルである(関心経済と呼ばれる)。アクションの効果はいまや、見えないどころか、リツイートや「いいね」の数によって残酷に瞬時に計測されてしまうのだ。(……)
 (……)
 二〇世紀においては、制作のアクション化は、見えない他者に出会い、コミュニケーションの暗闇に足を踏み出すことを意味していた。ところが二一世紀においては、それはSNSでの関心獲得競争に足を踏み入れることしか意味しない。
 (……)
 (……)いまやアクションの画一性こそが、ポイエーシスの多様性を塗りつぶし始めているのだ。(……)

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 (……)いまは体制側も反体制側も資本家も労働者も、みなが政治は数だと考えている。そしてその数はSNSで調達できると考えている。その成功例がアメリカ大統領のトランプだ。だからこそ、右派に対抗し左派のほうもポピュリズムによって大衆を動員すべきだ、といった単純な戦略論も出てくる(ふたたび関心のある読者のため付記すると、シャンタル・ムフの左派ポピュリズム論はかつてぼくが『観光客の哲学』で批判した「否定神学マルチチュード」の論理そのものであり、なぜそれがいまさら一部論壇で新しい議論であるかのように持ちあげられているのか、その理由がぼくにはさっぱりわからない)。いま「アクションを起こす」とは、本人がそれを望むと望まないとにかかわらず、その不毛な数取りゲームに参加することしか意味しないのである。

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 (……)批評家は、さきほどまでの分類でいえば、ポイエーシスではなくアクションを担当する職業にあたる。
 小説家は小説を制作する。美術家は美術作品を制作し、映画監督は映画を制作する。それに対して、批評家はそれらの作品にコメントを加え、制作=作品と社会をつなぐ役割をする。それは、批評家とはなにかを制作するひとではなく、むしろ他者の制作=作品を題材として、べつの他者に働きかけたり、その働きで社会を変えたりするひとだということを意味する。だから、小説を書かない小説家、美術作品をつくらない美術家は存在しないが(存在するとすればそれは「批評家的」だとみなされる)、批評を書かない批評家は問題なく存在する。批評にはかならずしも批評文は必要ない。
 けれども、ぼくはむかしから、そのような批評家観に、なかば惹かれつつも、なかば大きな反発を抱いてきた。批評家はたしかに文章を書かなくていいのかもしれない。それどころか、批評家という職業の効率を考えたら、長い文章を書くことなどは単純に愚かな選択で、テレビの出演や新聞のコラムや座談会やSNSを組み合わせ、影響力を最大化するほうがよほど賢いのかもしれない。(……)しかしそれでも、ぼくにはどうしても書きたい文章があり、ぼくにとってはその理想こそが批評家としての影響力よりもゲンロンの経営よりもはるかに重要なのだと、そう感じることをやめられないでいたのである。(……)

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 ぼくが読みたい文章がこの世界にないから、ぼく自身で産み落とす。ぼくはそれだけの思いで五万字を書いた。そこには他者がいない。だからそれは、アーレントの前述の基準からすれば、政治的なアクションよりもよほど低く評価されるふるまいにちがいない。けれども、その名も『批評空間』という雑誌でデビューし、批評=アクションの呪いをかけられてから四半世紀、ぼくはようやく、制作の快楽に身を沈めることで、その呪いを切り捨て、物書きとしての原点に立ち戻り、批評家として再生することができたように感じていたのである。(……)

 (……)ドイツウォッチャーとして定評のある岩間陽子政策研究大学院大学教授(国際政治、欧州安全保障)に話を聞いた。

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木村:ドイツでメルケル人気が急浮上している理由は。「ポスト・メルケル」もやはりメルケルなのでしょうか。

岩間:コロナ危機が始まって以来の国民とのコミュニケーションが、非常にうまく行っています。テレビ演説も記者会見も、論理的で的確であり、かつ心に訴える内容になっています。危機対応も迅速であったことから、評価が急上昇しています。
 大げさな言葉を振り回すのではなく、分かっていることと分かっていないこと、今できることとできないことを、正直に話し対策を説明したことで、まず好感度が上がったのだと思います。(……)

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岩間:今まで緊縮財政派だったメルケルですが、コロナ危機に際しては、財政均衡原則を一時的に棚上げすることにすぐに踏み切りました。昨年後半以来、ドイツ経済の減速傾向は報じられていたのですが、その際には動かなかったメルケルですが、今回は非常に速い段階で財政措置に踏み切り、最近ではルフトハンザ救済案もまとめるなど、経済対策もしっかりやっているという印象を与えています。
 このコロナ危機で、先送りになっていることの一つに、CDU(キリスト教民主同盟)の党首選びがあります。2月に地方選の責任を取って辞意を表明したアンネグレート・クランプカレンバウアー氏に代わる党首を、4月25日にベルリンで特別党大会を開催して決めるはずでした。
 しかし、それどころではなくなってしまい、先送りになっているうちに、メルケル人気が急上昇してきましたので、このまま有力後継者が現れなければ、メルケル続投論が出てくる可能性は否定できないと思います。
 しかし、一旦はっきり辞めると明言していますし、来年秋まで首相を務めれば、戦後最長のヘルムート・コール首相(故人)にほぼ並びますので、もう十分なのではないでしょうか。多少惜しまれるうちに引退するのが花だと思います。

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岩間:最近の世論調査で、久しぶりにCDU/CSUの支持率が40%台に届きました。今のところ、コロナ危機へのメルケルの対応が高く評価されて、CDU/CSUの一人勝ち状態で、AfDの支持率は落ちています。しかし、経済への影響が明白になってくるのはこれからです。街に失業者があふれるような状況になれば、世論は豹変するかもしれません。
 (……)
 今回の危機で株を上げたのは、CSU[キリスト教社会同盟]のマルクス・ゼーダー党首(バイエルン州知事)です。バイエルンの土地柄もあり、CSUはドイツの保守の中でも最右派に属します。難民危機以来、AfDに流れてしまった保守の選挙民を取り戻そうと、外国人政策などで努力してきましたが、うまく行きませんでした。
 しかし、ここに来て、コロナ危機でのゼーダーの素早い対応が評価され、人気が上がっています。バイエルンはドイツ諸州の中で最南端であり、人の出入りも多いため、患者数が相対的に多くなっており、これに対して厳しい措置を取りました。保健衛生政策では、ドイツは州知事に大きな権限があるので、この危機からどの知事が最も高い評価を得て抜け出せるかは、来年の首相候補が誰になるかに大きな影響を与えると思います。

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 ドイツ人の左派には、ある種の自然回帰主義があり、菜食主義の人も多いですし、近代医学への不信感を持っています。具体的には抗生物質やワクチンに強い猜疑心を抱いています。確かにどちらも間違った使い方をすれば、様々な副作用があるのですが、全く否定するのは近代医学以前の死亡率に戻ることになってしまいます。
 けれど、これらの人々には、独自の自然医学のようなものを信奉している人が多く、人間が生まれながら持っている免疫力・治癒力で病気を治すのが最も自然であり、人為的に抗生物質やワクチンを使うと、身体の回復力を弱めてしてしまう、と信じており、子供に全く予防接種を受けさせない親もいます。
 ある程度の科学的思考があるグループから、ある種の陰謀主義と結びついているものまで様々ですが、かなり以前からドイツにある考えです。
 (……)
 そのような信条の人々が、今回政府がかなりの強権的措置に出ているため、無理矢理コロナウイルスのワクチン接種をされるのではないかと恐れて、まだワクチンも開発されていないのに、反対運動を開始しています。

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木村:メルケル首相とエマニュエル・マクロン仏大統領は5月18日のテレビ会議で、新型コロナウイルスの感染拡大で打撃を受けた欧州経済の復興のため、5000億ユーロ(約60兆円)規模の復興基金を設立することで合意しました。(……)

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 [5000億ユーロ復興基金が]実現するかどうかは、まだ予断を許しません。すでに、スウェーデンデンマーク、オランダ、オーストリアの4カ国は反対を表明しています。東欧も様子見であり、状況によっては反対に転じようと機会を伺っています。以前なら独仏が合意すれば、大概のことは片付いたのですが、27カ国の合意は容易ではありません。
 また、ドイツ国内にも債務の共通化には根強い反対があります。「EUの歴史で最も深刻な危機には、それにふさわしい答えが必要だ」というメルケルの言葉が、赤字嫌いのドイツ国民の心に響くのか注視したいと思います。ドイツ国内の経済状況があまりに悪化するような事態になれば、「他国を助けている場合ではない」との極右の訴えがまた勢いを増すかもしれません。

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木村:コロナ対策に忙しいEUも英国との離脱交渉どころではないと思いますが、今年末までに離脱後の協定合意は可能なのでしょうか。

岩間:もともとジョンソン政権は、合意なしの離脱をそれほど恐れていません。しかも、コロナで一旦人の動きはほとんど止まり、物の動きも極度に減少しています。ボリス・ジョンソン首相ら強硬離脱派にとっては全てがうまく行っている状況です。
 合意なしの離脱で経済が減速した場合、政権のせいにされますが、現在のような状況では、なんでもコロナのせいにできるので、大胆な政策を取りやすくはなっていると思います。

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木村:ハンガリーポーランドなど中東欧の立ち位置が微妙です。EUに入りながら中国と天秤にかけていることがうかがえます。そうした国々はEUの価値観からどんどん離れていくのでしょうか。

岩間:これは非常に心配ですね。旧共産圏のEU諸国は、民主化してEUに加盟すれば、西欧諸国と同じような豊かな生活がおくれると思っていました。しかし、実際には格差はまだ存在します。しかも、優秀な人材が国を出て行ってしまい、人口も減少しています。
 取り残された人々は、抱え込んだ不満をEUにぶつけています。現在もEUは重要な市場であり、補助金の供給源でもありますが、ずっとある種「二級市民」扱いされ、説教され続けて来た不快感が募りに募っています。
 イギリスの脱退により、EU予算全体のパイは小さくなり、しかもコロナ被害を受けた南欧に行く配分が増えれば、東欧諸国に今まで通りの額が行かなくなる可能性が高いです。
 そこをうまく中国やロシアに突かれると、かなりガタガタするかもしれません。(……)

  • 夕食には焼きそばを作った。コンビニで買ったエノキダケを入れ、おなじくコンビニで入手した即席の味噌汁と合わせて早々に食事。
  • 日記は五月九日を長々と書いて仕上げ、就床前に一〇日分もわずかに進めた。
  • 新聞、朝刊七面。【「差別を連想」撤去相次ぐ/英やベルギー 奴隷貿易銅像など】。「ロンドンのサディク・カーン市長は9日、通りや記念像などの名称を見直す理由を「公共的な場所で多様性を示すため」と説明した」。「英国では、他にも中部リバプールの大学が、19世紀に4度首相を務めたグラッドストンの名前を冠した建物の名称変更を決めた。グラッドストンは父親が植民地で多くの奴隷を持ち、自身も奴隷制度の廃止に反対した経緯があり、学生が名称変更を求めていた」と言う。「ベルギーでは、19世紀の国王レオポルド2世の像を撤去する動きが広が」っており、「北部アントワープでは今月上旬、像が放火された」と言うし、また、「ブリュッセルの王宮近くにある像の撤去を求めるオンライン上の署名は10日、7万人を突破した」とのこと。
  • 【アフリカ感染20万人/3週間で倍増/各国、経済再開を優先】。「アフリカでの新型コロナウイルスの累計感染者数が10日、20万人を突破した。5月22日に10万人に達したばかりで、この3週間で倍増した」。「それでも、各国は規制の再強化には後ろ向き」のようで、例えば「南アのシリル・ラマポーザ大統領は8日の声明で「感染者が増えても不安に思う必要はない」と宣言し、外出制限などの感染抑止策は取らず、重症者の治療に重点を置くことで対応する考えを示した」と言う。一方、「ナイジェリアが今年の経済成長率は最悪で8・9ポイント落ちると予測するなど、経済への打撃は深刻」だから、「経済が悪化すれば政情が不安定になりかねず、「失業率増大による社会不安のリスクの方が危険だと判断した」(アフリカ外交筋)との見方もある」とのこと。
  • ロラン・バルト「作者の死」をちょっとこまかく読み、考えてみようかと思う。まず最初のパラグラフ。

 中編小説『サラジーヌ』のなかで、バルザックは、ある女装した去勢者について語り、つぎのような文を書いている。《それは女特有のとつぜんの恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった》と。しかし、こう語っているのは誰か? 女の下に隠されている去勢者を無視していたいこの中編の主人公か? 個人的経験によって、ある「女性」哲学をもつようになったバルザック個人か? 女らしさについて《文学的》意見を述べる作者バルザックか? 万人共通の思慮分別か? ロマン主義的な心理学か? それを知ることは永久に不可能であろう。というのも、まさにエクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊するからである。エクリチュールとは、われわれの主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。
 (ロラン・バルト/花輪光訳『物語の構造分析』みすず書房、一九七九年、79~80; 「作者の死」)

  • 「《それは女特有のとつぜんの恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった》」というバルザックの文が引かれているが、ここに表明されている「女」観を要約すると、まずひとつ大きな特徴として、そこで女性は非論理性あるいは不合理性を担わされており(「とつぜんの」、「訳のわからない」、「本能的な」、「いわれのない」)、おそらく「論理(理性)/感情」というきわめて通有的な二分法にもとづく形で、その非論理性を託された形容語はそれぞれ「感情」と結びつけられている(「恐れ」、「気まぐれ」、「不安」、「大胆さ」)、ということが観察される。こうした女性の「感情性」は最後の修飾に収斂されているわけだが(「えもいわれぬ感情のこまやかさ」)、そこにも言明されている通り、この「感情性」は言語に還元できないという点がここに提示された「女」観の二つ目の特徴として挙げられるだろう(「えもいわれぬ」)。これはむろん、第一の特徴と密着しているはずである。なぜなら、「非論理性」とは言語的分節によって根拠づけることができないということだからであり(「訳のわからない」、「いわれのない」)、したがって、その「感情」の源泉を説明する言葉として、たとえばひとつには「本能」という語が召喚されることになる。まとめると、『サラジーヌ』に書きこまれた上の文は、女性とは言語的に表現 - 形式化できないほどに「こまやか」な「感情」を具えた生き物であり、その「感情」は論理的な理由にはもとづいておらず、その根源を発見することはできない、という風にパラフレーズできる。「感情」的にとても「こまやか」であるということを、心的構成要素が豊かで細密であるという意味に取り、その「感情」的構成要素の「起源」に遡行し到達することはできないというもうひとつの特徴を組み合わせると、これはバルトが「エクリチュール」と呼ぶテクストの様相を「女」になぞらえて説明した記述のようにも見えてくる。これから見ていくことになるはずだが、バルトが言う「エクリチュール」とは単一の意味に回収・統御されない非常に多様な――「豊かで細密」な――言葉の群れから成り立った複数的な存在であり、そのそれぞれの部分の(あるいは全体の)「起源」を確定させることはできないものだからだ。すなわち、ロラン・バルトの「エクリチュール」とは、バルザックの「女」だということになる。
  • そういうとても興味深い類同性を措いておくと、上で表明されている「女」観自体は、この西暦二〇二〇年の現代日本においてもひろく流布しているものではあるだろう。そしてそういう「女」観はときにはもちろん(あるいはむしろ、多くの場面で)、女性差別的な(「女性」を「男性」に対して劣位に置くような)発想や行いに結びつくことになる。
  • 「しかし、こう語っているのは誰か? 女の下に隠されている去勢者を無視していたいこの中編の主人公か? 個人的経験によって、ある「女性」哲学をもつようになったバルザック個人か? 女らしさについて《文学的》意見を述べる作者バルザックか? 万人共通の思慮分別か? ロマン主義的な心理学か? それを知ることは永久に不可能であろう」――上述した「女」観の拠って来たる根源、その帰属先を確定させることは不可能である。それは書き手が(と言うかむしろ作品自体の論理が)登場人物(「中編の主人公」)に課した認識条件なのかもしれないし、一九世紀フランスに生きた生身の人間、オノレ・ド・バルザックの実存が形成した個人的な信条(「哲学」)なのかもしれないし、あるいはそのバルザックが「作者」の地位において、自らの個人的思想とは切り離しつつも表明した「意見」なのかもしれないし、人間世界にあまねく行き渡っている常識的なイデオロギー(「万人共通の思慮分別」)なのかもしれないし、あるいは当時の時代的特殊性のなかで発展した人間の内面に対する一見解(「ロマン主義的な心理学」)なのかもしれない。可能性としてはそのどれでもありうるだろうが、そのなかでどれが正当な真実なのかを断言することはできないし、仮に真実が多少は見えたとしても、それが一つの源泉に還元されるとは限らず、いくつもの淵源を持っていることだって充分にありうる。と言うかむしろ、多分現実とは大半の場合においてそういうものだろう。
  • 「というのも、まさにエクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊するからである」――この一文で言っていることは、内容としては上に書いたような事柄だと思うのだが、しかしここで「破壊」の一語が使われている点がよくわからない。まさに重箱の隅をつつくようなこまかい疑問だが、起源を確定させることができない、ということと、「起源を破壊する」ということはおなじなのだろうか? と思ってしまうからだ。「起源との繋がりを破壊する」だったらよくわかるのだが。あるいはむしろ、こちらは上述部で「起源を確定させることができない」と言ったけれど、バルトの語っている事柄の意味をより強く、「起源はない」という風に捉えるべきなのかもしれない。ある言葉の連なりの拠って来たる最終的な起源は確定不可能で、可能性としては複数的だが、しかし遡行の糸はそのどれにも至ることができずに時空の狭間に漂流するのみだとすれば、それはもはや「起源がない」ということとおなじ事態であるような気がする。そう考えるなら、上の「破壊する」は単純に、「失わせる」とか、「無化する」とか、そういうような意味だと捉えればよいのではないか。
  • 二時を越えて疲れたので、続きは後日。
  • 深夜になんとなくnoteをぶらぶらしていたところ、Cさんという方の日記中にこちらの日記が引用されて感想を記されているのに行き逢って驚いた。言及や感想だけならともかく、本文を引用されるというのはなかなか大したことだ。それで礼を述べておくことにして、一文綴って相手の記事のコメント欄に投稿した。

(……)


・作文
 12:11 - 12:33 = 22分(6月11日)
 12:34 - 13:50 = 1時間16分(5月9日)
 17:19 - 18:06 = 47分(5月9日)
 19:05 - 19:53 = 48分(5月9日)
 20:24 - 21:06 = 42分(5月9日)
 24:23 - 25:00 = 37分(6月12日; 5月10日)
 25:04 - 26:08 = 1時間4分(6月12日)
 27:37 - 28:11 = 34分(5月10日)
 計: 6時間10分

・読書
 14:04 - 15:57 = 1時間53分(バルト: 90 - 108)
 16:12 - 16:33 = 21分(MacArthur Bosack)
 16:40 - 16:57 = 17分(東)
 17:02 - 17:17 = 15分(木村)
 21:39 - 22:04 = 25分(英語)
 22:05 - 22:32 = 27分(記憶)
 27:21 - 27:26 = 5分(日記)
 28:11 - 28:36 = 25分(バルト: 108 - 112)
 計: 4時間8分

・音楽