2020/6/16, Tue.

 まず何よりも、目的のないヒロイズムほど苛々させられるものはない。社会にとって、その美徳の諸形式[﹅2]を何の根拠もなしに展開し始めることは、ゆゆしき状況である。幼いビションの冒した危険(川の急流、猛獣、病気など)が現実のものだったとすれば、「太陽や光の饗宴」を画布にとどめるといううさんくさい派手な偉業を果たしに、アフリカに絵を描きに行くという理由だけから、子供にそうした危険を無理強いしたのは、まさに愚の骨頂だった。この愚行を、見栄えのよい、感動的な、勇気ある素晴らしい振る舞いに見せかけることは、さらにいっそう罪が重い。ここでの勇気というものが、どういう機能を果たしているかが分かる。それは形式的で、内容が空っぽの行為である。動機がなければないほど、勇気はますます尊敬の念を引き起こしている。われわれは、感情や価値のコードが連帯や進歩の具体的な諸問題から完全に遠ざけられているような、ボーイスカウト的な文明のまっただなかにいるのである。これは「性格」についての古い神話、言い換えれば、「調教」の神話である。ビションの成し遂げた快挙は、華々しい登頂と同じ類のものである。そのために作られた広告からしか最終的な価値を受けとらないような、倫理的な種類のデモンストレーションなのだ。わが国ではしばしば、団体競技のスポーツの社会化された形態に、花形選手という最上級の形態が対応している。そこでは、身体的努力は、集団における個人の見習い修業には根拠を与えない。むしろ身体的努力が根拠を与えるのは、無益についての道徳、耐え忍ぶことに含まれるエキゾチズムであり、社交性へのいっさいの関心から異様なまでに切り離された、冒険事というささやかな神秘である。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、101~102; 「黒ん坊たちのなかのビション」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年三月号)



  • この日は日記に邁進し、総計で五時間綴って五月一二日から一四日まで仕上げたらしい。なかなかよろしい。書抜きも久しぶりにできたようだ。
  • 近ごろ、Mr. Children『Q』をよく流していて、ミスチルなどあまりに通俗的でぬるいと言う向きもむろんわかるが、九五年くらいから二〇〇〇年あたりまでのアルバムはいま聞いてみてもけっこう悪くないと思う。普通に聞ける。なかでも『Q』はとりわけバラエティ豊かに感じられ、どの曲も特有の色と芯を持っているように思う。#3 "NOT FOUND"はなんだかんだ言ってもやはりよくできているし、#8 "友とコーヒーと嘘と胃袋"なんかもわりと面白い。個人的に好きなのは#9 "ロードムービー"。Aメロの最初の音がキーおよびコードに対して六度からはじまっている点など、小技が利いている。2Bで語られるイメージも無重力的な多幸感を帯びている。
  • 川本真琴』も流して、#7 "やきそばパン"がけっこう面白い気がしたが、こまかく分析するのは面倒臭いのでまたの機会に。
  • 郡司ペギオ幸夫「100%イヤホンではなく、「むしろイヤホン」という程度でよい」(2019/6/10)(http://igs-kankan.com/article/2019/06/001177/)。三つ目の引用で語られているエピソードはこちらの体験とちょっと似ているかもしれない。「たとえば「ハサミ」という言葉が浮かんでしまうと、ハサミについての言葉のなかに「手首を切れば切れる」とかってスクリーンに出てくるんですよ。するとそこが赤字になって、何回も何回もそこに止まっちゃって(笑)。「死なないと、死なないと」みたいになってしまい、それに抵抗するのがものすごく苦しかった」という箇所だが、これはいわゆる自生思考の一種と見て良いのではないか。こちらも二〇一八年の一月から二月あたりにかけて、鬱症状におちいる前の段階で、「殺人妄想」と自分では呼んでいる自動的な精神作用に襲われた。たとえば、朝起きると「殺す」だの「殺したい」だのという言葉が頭のなかを高速で巡って止まらなかったり、道を歩いているときに犬とか人とかを目にすると暴力を振るったり殺害したりしているイメージが勝手に発生したり、料理を作るために包丁を操っているあいだ、これを使えば人を殺せるんだよなという思考が理由もなく湧いてきて繰り返されたり、ということがあって恐れおののいていたのだが、あれが一体なんだったのかいまになってもよくわからない。

 本当は、ほとんどのAはたしかにBになる。しかし、タンパク質など生命を構成している物質にはAだけでなくA’、A”、A’’’と少しずつ違う、ものすごくたくさんの立体構造がある。それらはαによってもBにならず、B’、B’’、B’’’というよけいなものもつくり出しちゃう。そしてAやBなどのメジャーなものがうまく作動しないときや、枯渇したときには、控えていたA’、A”、A’’やB’、B’’、B’’’がその反応を動かしている。そういうことなんじゃないかと思います。
 つまり、ある原因を実現するための可能性として、目に見えない、データで算出されないものがたくさん控えていて、それによって、実現されている当のものが非常に頑健に維持される。同じ反応が維持されるというのは、実は異なるものの接続とまとめ上げで実現されている。

——実現した世界のほうから見てしまうと、A’とかB’とかはノイズにしか見えなくなっちゃうけれども、実はそれが支えているという感じですかね。

郡司 そうです。異なるものが実現する同一性。それを再現するには、そのあいだにズレがあったり、時間が非同期だったり、ということを含めてデザインしないとできない。AからBへの反応の同一性は「ほかでもないAが、ほかでもないBに変わる」ことだと考えると、頑健につくれないんじゃないかと思います。

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 イヤホンにとっての重要な属性と、重要じゃない属性があって、重要な属性を満たしているからイヤホンだと思うのかというと、それは違う。属性って本当は無限にあるわけで、そのなかから適当に選んできて、適当な属性が見つかったところで、思考をやめるわけですよね。
 100%イヤホンの属性というわけではなく、イヤホンでないという可能性も常に潜在している。イヤホン以外のものではないというより、「むしろイヤホンだろう」という程度でイヤホンであると言うにすぎない話です。

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 大学院の研究会で、みんなで酒を飲んで楽しくやっているときに、「自分は何をやっているんだろう、自分の発表なんて何の意味があるんだろう」と思ってしまった。その瞬間に、頭のなかの留め金が外れた感じになっちゃって、人が話していることの意味がまるでわかんなくなっちゃったんです。
 皆が何やら口をパクパクしている様子だけが見えて「これは、エライことになったなぁ」と考えようとすると、突然目の前にモニターみたいなのが下りてきて、「突然とは」みたいな文字が出てきて、その文字に対する意味が、辞書みたいにバーッと出てくるんですね。
 最初はそれで済んでいましたが、それがものすごい速度で動いているにもかかわらず、自分では一瞬にして全部わかるみたいな感じになって、現実の世界とそういう世界がつながっているというのが、非常に危うい形で現れてしまった。
 たとえば「ハサミ」という言葉が浮かんでしまうと、ハサミについての言葉のなかに「手首を切れば切れる」とかってスクリーンに出てくるんですよ。するとそこが赤字になって、何回も何回もそこに止まっちゃって(笑)。「死なないと、死なないと」みたいになってしまい、それに抵抗するのがものすごく苦しかった。
 何日か続いたんですが、どう戻れたのか覚えていません。それは本当に、「ああ、こういうふうになってしまうんだな」という体験でした。

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郡司 (……)われわれの生はそれくらい微妙なところにある。イヤホンであることを論理的に根拠づけられない「イヤホンでないというよりは、むしろ……」というのと同様に、「生きていないというよりは、むしろ……」というところで成立している。決定的な外部に開ける可能性に絶えずさらされながら、「そこまで開かれるよりは、むしろ……」という程度で踏み留まっている。(……)

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 一方で、問題を出すのとは逆に、たとえば発達障害の人が何かやっていると、「やっていることを受け入れて理解しよう」という形になるじゃないですか。それはどちらかというと向こうが問題を出してるばっかりで、こっちが一生懸命答えることによってコミュニケーションする形になっていますね。ここでも、問題と回答に対する疑問とギャップがお互いに出てくるようにしないといけない。

——ああ、発達障害の子のふしぎな行動という「謎」を、ケアする側が解いていくだけでなく。

郡司 ええ。こちらがわからないので、それを理解しようとしちゃうじゃないですか。その理解しようとするというのは、「答えようとする立場に自分を留めてしまう」みたいなところがありますね。むしろ問う人と答える人がうまくすり替わっていけるような……。すり替わっていくことによって初めて、問いの外側に答えが潜在していることに気づくというように。

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郡司 少し前に、代官山蔦屋さんで大澤真幸さんと対談して、“南泉斬猫”という公案についての話をしました。
 美の象徴のような猫がいて、その猫を獲得するために僧侶たちが二派に分かれて言い合いをしている。見かねた和尚が、二つの派閥のうち、気の利いたことを言ったほうが、その猫を取ることにしようと提案します。そうすると、皆、下手なことが言えなくなって黙ってしまう。どうしようもないので、その和尚が猫を斬り殺してしまって、皆、引き上げる。
 そこへ、外出していた一番弟子が帰ってくる。和尚が「こんなことがあったが、お前だったらどうするんだ」と問いかけると、一番弟子は、頭の上に草履を載せて出ていった。その様子を見て、「お前がいれば、猫は斬らずにすんだのに」と話すものです。
 これは法話として、前半部分はわかりやすいですね。ある宗派と別の宗派があって、どっちかが正しければ、どっちかは正しくない。まさに排他的な関係になっていて、その排他的な関係で議論をやろうとすると、どちらが正しいか決定できない。二つの派閥のあいだを循環することになり、二項対立の図式に留まり続けるわけです。
 この閉塞的状況から抜け出すため、南泉和尚は原因となる猫を殺してしまった。暴力という破壊的行為によって、二項対立の外部に出るわけです。ところが本当は出ていません。「いずれかが正しい」という、二つの派閥という二項対立から、「二つの派閥の争いをいかに収めるとか」という、問いと答えの二項対立に変わっただけで、相変わらず二項対立の内部に留まっている。
 後半部分、頭の上に草履を載せて去って行く行為について、禅宗の寺のホームページなどでは、行ったり来たりするような論理的な思考の隙間を縫っていくような、まさにそういう形で猫が逃げて行けばよかったんだ、と説明されていますが、この説明に私は違和感がある。草履を頭に載せることの意味が不問に付されている。これが意味を持つ、具体的な方法論を後半部分は示しているように感じます。
 ふつう、どこかに出ていくためには草履は履いて出ていくわけですね。つまり、草履というのは履かれるから出ていく。出ていかないときには、その草履は履かれない。草履と外へ出る行為のあいだにはそういう対応関係がある。これによって、「出る(草履をはく)/出ない(草履をはかない)」という二項対立が明確に示されている。
 ここへきて一番弟子は、頭の上に草履を載せて出ていく。頭の上に草履を載せるというのは、出ていくにもかかわらず草履は履かれないわけです。つまり、出る/出ないという二項対立が、草履を頭に載せて移動することによって無効にされている。これは、「問題を与えて、解答して問いを解消し、また新たな問題を与えて、新たに解答し解消する」という、通常考える対話のキャッチボールの構造自体を無効にしています。問いは半分解答で、解答は半分問いであるように。
 こうして、キャッチボールでは計り知れない外部が降りてくる。外部を下ろすための対話の仕掛けこそを、後半部分は示しているのだと思います。

     *

郡司 自閉症の人は、壁を見ていても、その向こう側に何もないような感じがあって、非常に恐ろしいそうです。それはおそらく、自閉症の人には向こう側という概念がないというよりも、たぶん原初的な、徹底して「外部としての向こう側」を感じているんだと思う。
 ふつうの人は、向こう側もこちら側と同じで、全部フラットな、わかりやすい世界として生きていますよね。でも、本来向こう側に何があるなんて絶対にわからないのだから、ふつうに生きるということは、圧倒的な恐ろしい向こう側というものを単に隠蔽しているだけです。
 むしろ、自閉症の人たちが向こう側に対して圧倒的な恐怖を持っているほうが当然であり、非常に大事です。その「向こう側に対する圧倒的な恐怖」を持っていることをどうやって理解するか。

——「他者の理解」という話になると、多様性といわれたりするようですが。

郡司 僕はどうも多様性とかいう言葉もあまり好きじゃなくて……。多様性って一人ひとりを閉じた形にします。「彼はこういう者」「彼女はこういう者」「私はこういう者」というように、一人ひとり規定できるという話にしちゃうわけじゃないですか。で、それがたくさんある、と。
 だけど、そうじゃなくて、あなたとか私というもの自体が実は閉じていない。見えないものが潜在している。
 さっきの教育の話につながりますが、問いと答えのあいだも閉じていない。教えるほうにも、学ぶほうにも、お互い自分には理解不可能な、けれど橋渡しとなりうるズレや外部がある。そしてその外部への感性があることによって、何かが伝わりうる。だから教員が問題を出すだけではなくて、教員も答えるし、学生が「それ、問いなの?」と問う。その学生の問いに、自分にはわからない外部を感じる力が教員には大切だと思います。
 こうやって問う者と答える者が、すり替わっていくことによって初めて、人が何かを伝えうるような、そういったギリギリのはかない関係が成立する、と思います。

However, between a third and quarter of the employed population has been left idle as their employers, from airlines to retail businesses, downsize or shut temporarily. If you leave these people without income, then you are reproducing the conditions of the Great Depression of the 1930s, when unemployment peaked at 24 percent in the United States and the country’s GDP shrank by almost half.

Adolf Hitler came to power when German unemployment reached 30 percent: Misery and desperation can lead to violence. Nobody wanted to see that movie again, so after World War II every developed country created a welfare state to shelter its population from the worst effects of the “business cycle.”

The welfare state has served us well for most of a century (including in the United States, whose rudimentary welfare state was first in the field with President Franklin Roosevelt’s New Deal of the 1930s). But it is not enough to keep the wheels turning when a huge chunk of the workforce had dropped out for reasons that are not economic but health-related.

That’s why governments, including deeply orthodox right-wing ones like the Conservatives in Britain and the Republicans in the U.S, are turning to what economist Milton Friedman first named “helicopter money” half a century ago.

The idea is that a government can reboot an economy in which spending power has collapsed (because so many are out of work) by simply giving the penniless consumers free money — as if throwing it out of a helicopter. After all, it’s free money for the government too: they just ask the central banks to print it for them.


・作文
 13:41 - 14:34 = 53分(5月12日)
 15:57 - 16:31 = 34分(6月15日)
 16:31 - 17:16 = 45分(5月13日)
 17:33 - 18:40 = 1時間7分(5月13日)
 18:42 - 19:14 = 32分(5月13日)
 19:56 - 20:08 = 12分(5月13日)
 20:24 - 20:26 = 2分(5月14日)
 20:41 - 21:18 = 37分(5月14日)
 22:06 - 22:37 = 31分(5月14日)
 計: 5時間13分

・読書
 23:07 - 24:25 = 1時間18分(バルト: 226 - 247)
 24:55 - 25:39 = 44分(ジョンソン)
 26:21 - 26:58 = 37分(郡司 / Dyer)
 計: 2時間39分

・音楽