2020/6/17, Wed.

 おそらくこれは一つの顔 - オブジェにちがいない。近年パリで再公開された『クリスチナ女王』では、化粧は仮面の雪のような厚みを持っている。それは描かれた顔ではなく、石膏でできた顔であり、線によってではなく、色の面によって守られている。崩れやすいと同時に密に詰まったその雪のなかで、瞳だけは、奇妙な果肉のように黒いが、まるで表情に乏しく、かすかに震えている二つの疵である。極限的な美のなかにおいてさえ、この顔は素描されたのではなく、むしろ滑らかでありながら砕けやすい状態、すなわち、完璧であると同時にはかない状態で彫刻されており、チャップリンの白粉っぽい顔、陰性植物の瞳、トーテムのような顔つきに似かよっている。
 ところで、顔全体を覆う仮面(例えば古代の仮面)への誘惑は、もしかしたら秘密という主題(それはイタリアの半分だけの仮面の場合だ)よりも、人間的な顔という主題を含んでいるのかもしれない。ガルボは被造物のプラトンイデアの一種を見せていたのである。そのことが、彼女の顔がほとんど無性別化されていながら、だからといって曖昧になっていない理由を説明している。なるほど、この映画(クリスチナ女王はかわるがわる女性になったり若い男の騎士になったりする)が、そうした識別不可能性を招きよせているのは確かだ。しかし、そこでのガルボは、変装の名演技を成し遂げているというわけではまったくない。彼女はつねに彼女自身であり、王冠の下でも、まぶかに被った大きなフェルト帽の下でも、偽ることなく、雪と孤独の同じ顔をしている。〈女神〉という彼女のニックネームは、おそらくは美の最上級の状態を表すことよりも、事物が最大の明晰さにおいてかたちづくられ完成されるような天界から降臨した、彼女の身体的な人格の本質を表そうとしていたのだ。彼女自身は、どれほど多くの女優たちが、自分らの美の、不安にさせる成熟ぶりを、大衆に見せることに同意したかを知っていた。彼女は違う。本質が堕落するなど、あってはならぬことだった。彼女の顔は、可塑的であるよりもはるかに知的であるような、その完成の現実以外のものであってはならなかった。〈本質〉は徐々に闇に包まれ、眼鏡や、ツバ広帽子[カプリーヌ]や、亡命生活によってだんだんとヴェールに隠されていった。しかし、それは決して変質することはなかったのだ。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、111~112; 「ガルボの顔」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五五年三月号)



  • 相も変わらず正午を越えてから起きる体たらく。今日は六時から勤務だ。暑いけれど乾いた空気が爽やいでもいる日で、ベッドで書見をしているあいだは汗も湧かない。
  • 四時四五分ごろ上階へ行ったが五時一五分には出るようなので時間はすくない。食パンを一枚食っていくことにした。オーブントースターでパンが焼けるのを待つあいだ、居間のほうに来て外を眺める。五時前だが陽射しは残って近所の家屋とその周りの空気に赤味を与えて明るませ、窓枠に切り取られた空間のなかほどは川沿いの林が緑の巨壁として横切って、その向こうでは遠くの山が、それよりもやや暗んだ緑をしかし大気の積層によって希薄化されつつひかえており、さらにその上は雲を払われた空の水色、風はいまはないようで、S家の屋根上に取りつけられた魚の幟――七、八体並んでいた鯉のぼりはもう終わり、いまは一匹だけになっていて、それはなんでも鮎だとかいう話だが――も宙を泳げず、首を吊ってまもない死体のように垂れ下がりながら左右にわずか揺れている。まさしく風景、という感じだった。風景というものは実に罪がなくて良い。もちろん完全に無垢なはずもなく、それを見るこちらという主体がある以上なんらかの汚染は免れず、言わばこちらの罪が風景たちに移行してしまう、風景たちがこちらの罪を押しつけられて引き受けてしまうということはあると思うが、それでもほかのさまざまなテーマよりよほど罪の度合いが弱いのは確かで、その重みやにおいのなさと言うか自由な感覚はやはりすばらしい。そうして眺めているうちに風が発生したようで川沿いの樹々の一角がうごめき泡立ちはじめると、つくりものの鮎もだんだんと身を持ち上げて横向きに変わり、錐揉みするようにと言うか、身をちょっと左右に回してくねるような動きを帯びつつ風のなかを遊泳する。だがそれも大して続かずに、すぐにまた力ない死体と化してしまった。
  • 食パンを食うと帰室し、着替えと歯磨きを済ませて出発。このときには風がよく動いて林が盛んに鳴っていた。道を行けば中途でタマムシが落ちているのに出くわした。珍しい。むしろ実物を見るのははじめてかもしれない。エメラルドグリーンの外殻のうちに濃褐色が差しこまれており、高熱で炙った金属のようだ。全然動かなかったので死んでいたのかもしれないが、それをちょっと眺めてから先を進むと、SNさん宅の横の階段から知らない老婆が上がってきたのでこんにちはと挨拶すると、こんにちは、おかえりなさいと返った。これから出勤である。空には雲がけっこう広がっており、先ほど居間の窓から見えた細い空は淡青だったがそれは南の一角のみだったようだ。とは言え右手の斜面を見上げれば上辺の際に夕光の手触りもあり、白さがわりあい強くつやめく。Nさんが庭で樹をいじっていたので挨拶をかけた。
  • 坂。色褪せた竹の葉やその他の落葉が排水溝に沿って溜まり、堰をなしていた。坂道のなかには木洩れ陽がわずかに入りこみ、甘いような茜色が樹幕の上に散らばって、そこに風が強く通って色をふるわせながら響きを降らす。路上には葉や木の屑が多く散らかって乱れていた。出口付近のアジサイは色彩を濃く満たしはじめている。横断歩道が変わったところだったが急がず見送って次を待つうちに、見れば電柱の足もとにあるホタルブクロが――桃色と紫の中間みたいな色合い――しなしなと干からびかけたようになっていた。
  • 最寄り駅のホームでも風が横に(東西に)流れてわりと涼しい。目の前、線路脇の壁を覆う草むらが震え、その先の石段上には例の、左右に葉を生やした柱を彩る赤やピンクの花があり、逆転した重力のなかで天に向かってまっすぐ垂れ落ちていく三つ編みのところどころに大ぶりのリボンがついているような姿なのだが、一体なんの植物なのかちっともわからない。乗車すると扉際で外を眺める。森の縁に青いアジサイがぽつりと咲いていたりするものだ。鹿でも見えないかと思ったのだけれど、一度見かけて以来とんと目にしたことがない。青梅で降りればホーム上をずっと視界の先まで細い西陽の帯が走っているが、そのなかに入っても背がほんのり温もるだけでさほどの暑さは感じない。
  • 職場。授業は一コマ。(……)くん(中二・英語)と(……)(高三・英語)と(……)くん(高三・英語)。(……)くんはなかなかよろしい。なぜなのか不明だが今日は遅刻せずに授業前から来ていたし、教科書本文の復習も調子が良かった。途中でちょっと眠ってしまったものの、新しい箇所(L2 USE Read)も一ページ確認できたし、ワークの並べ替え問題にも取り組めた。
  • (……)と(……)くんもまあまあ悪くはない。どうも宿題の確認とかもろもろ時間がかかってしまってあまり進めないのだが。本当はもう高三なのだし、文法をやるのではなくて長文を読みたいところではある。まあそういうこちらも、現役時代に長文を読みはじめたのは夏以降だった覚えがあるけれど。しかし文法テキストなどちまちまやっていないで、長文読解のなかで内容と結びつけて学習したほうが記憶に残りやすいのでは? 文法の学習はやろうと思えば自分でもできるだろうし、せっかく金を払って塾に来てくれているのだから、講師を利用しながら実践的な長文を読んで鍛錬したほうが良いのでは? と思うのだが。
  • そう言えば(……)が授業開始時に、学校の現代文の授業が全然わからなくてめちゃくちゃ眠いみたいなことを言っていたので、現代文なにやってんのと訊けば、いのちのなんとかみたいなやつ、と言う。情報があまりに少なすぎると笑いつつも、その場でタブレットを使って「高校 現代文 いのち」みたいな感じで検索してみたところ、なんと西谷修「いのちのかたち」という文章だった。高校の国語で西谷修なんて読むの? という感じ。Uくんが彼からフランス語などを習っているはずなので、この人、友だちの先生だわと言っておいた。
  • 授業後、(……)さんや(……)くんと多少雑談をしてから退勤。駅でコーラを買ってベンチに座り、飲みながらロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年)を読む。目の前の一番線から電車が発って去っていくと、あれは車輪がレールを擦る響きだったのか、遠くから――何かの音がとどいて聞こえ、それをなんらかの比喩で言い表した覚えがあるのだけれど、それがどのような音でどんな比喩だったのかなぜかまったく思い出せない。電車が立てる音なのかなと耳を送って聞き分けようとしたところで駅内アナウンスが降ってきて妨害された。青梅駅のアナウンスは普通にうるさい。まずもって音量自体が大きいし、次にあれほど頻繁に流す必要があるのか疑問だし、一番線と二番線のアナウンスのタイミングが被って干渉し合い、よく聞こえなくなって機能を果たしていないときすらあるのだ。改良を希望する。とりあえず音量をもうすこし下げてほしい。
  • 帰宅して自室にもどるとバルトをちょっと読んでから夕食へ。ラーメンが食いたかったので袋麺を調理したのだが、野菜にしても麺にしてもちょっと煮すぎてしまったし、野菜の量が多すぎたのか味も薄くなってしまった。このあいだマルちゃん正麺のものを作ったときにはやたら美味かった覚えがあるのだが。新聞を読みつつそれを食う。父親はいつもどおり酒に酔って、ひとりでテレビのニュースになんだかんだと反応している。
  • 入浴。湯に浸かっていると換気扇から物音が立った。おそらくゴキブリかムカデか、あるいは浴室の窓によく現れるヤモリだろうか、ともかくなんらかの小生物が換気扇内に入りこんで高速で回っている羽にぶつかったのではないか。以前、いきなりムカデが落ちてきてかなりビビったことがあったので、また落ちてくるかと思って静止しながらときおり目を送っていたものの、結局現れなかった。
  • YouTubeで"That Old Feeling"をやった音源を色々聞きながら日記を書く。
  • 「岩見淳三 That Old Feeling」(https://www.youtube.com/watch?v=z-zpN4IRvvc)。中村新太郎というベースの人が良い。音が締まっていながらも太くて力感をそなえているし、リズムもソロも的確。実力者の印象。
  • 「That Old Feeling · Alma Mićić」(https://www.youtube.com/watch?v=dqyfARyZDkU)。初見の名前だったが、ボーカル入りではいまのところこれが一番良い。まず導入のベースからして普通に良い。二〇一七年の音源らしく、Jonathan Blakeがドラムで、ベースはCorcoran Holtという人のようだ。全然知らん。
  • 「Laura Fygi - That Old Feeling」(https://www.youtube.com/watch?v=V3B43uquYvs)。この人も初見。息が多くてやや感情過多なきらいはあるものの、声質は整っているしボイスコントロールも巧みで歌唱自体はうまい。ピアノの風貌を見て、あれ、こいつBenny Greenじゃね? と思ったのだけれど、全然目立ったことをやっていないのでわからなかった。検索してみると違う人のようだ。サックスにもなんか見覚えがあるような気がしたのだけれど、これはJan Menuだった。かなり昔に55 RecordsからJesse van Rullerとアルバムを出していた覚えがある。
  • 五月一五日の記事を作成。総計で三時間超。記事中に引いたロラン・バルトの記述をあらためて読む。無数の、ほとんど無限にいたるまでに野放図な、無数の差異化。

 彼はしばしば一種の哲学に頼る。それは、漠然と《複数主義》と呼ばれているものだ。
 複数という点をこれほど主張するのが、実は性の二元性を否定するひとつの手だてではないと、いったい誰に言えるだろうか。両性の対立が"自然"の一法則であると決めつけるべきではない。それゆえ、対抗関係やパラディグマ〔範列〕を解消し、意味と同時に性をも複数化しなければならない。そこで意味は、その多重化を、その分散化("テクスト"理論におけるその分散性)をめざすべきだし、また、性は、どんな類型論の枠内に捉えられるべきものでもなくなるはずだ(たとえば、ひとくちに同性愛というのではなく、存在するのはみな《さまざまの異なる》同性愛だということになるだろうし、組織だった、中心点を設定した底の言述はすべてその複数性によって裏をかかれる羽目となるはずで、そのあげく、彼には、性について語ることはほとんど無用とさえ見えるのだ)。

 同じように、《差異》という主張的な、おおいに自負した語が、なぜ高く評価されているかというと、それは、この語によって抗争あるいは葛藤が避けられ、克服されるからである。抗争は性的であり、意味的である。が、差異は複数的、官能的、そしてテクスト的〔織りもののよう〕だ。意味や性は、構成や組成の原理である。差異は、飛び散り、分散し、きらめきながら八方へ反射する動きそのものだ。したがって、世界や主体を読み取るに際して、もはや問題はさまざまの対立を再発見することではない。見いだされるべきものは、さまざまのかたちの、横溢、侵蝕、漏洩、横流れ、転位、横滑りである。

 フロイトの言うところによるなら(『モーセ』)、少量の差異は人種的偏見へ導く。けれども多量の差異はその偏見から人を決定的に離れさせる。平等化、民主化、大衆化といったたぐいの努力はいずれも、「最小の差異」すなわち人種間の不寛容の芽を粉砕することに成功しない。肝心なのは、たづなをつけぬ複数化、微妙化ではないか。
 (佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルトみすず書房、一九七九年、95~96; 複数、差異、抗争 Pluriel, différence, conflit)

     *

 『零度のエクリチュール』の中では、ユートピー(政治的ユートピア)は一種の社会的普遍性という(素朴な?)形式をまとっている。あたかも、ユートピーとは現在の悪に対するまさに正反対のもの以外ではありえないのだ、とでもいうように。あたかも、分割に対して対処しうるものは、もっとあとに現れるべき非分割以外にはありえないのだ、とでもいうように。しかしその後、焦点がはっきりせず、さまざまの難点をかかえてはいるが、ともかく複数主義の一哲学が生まれ出る。それは、総体化〔マス化〕に敵意をもち、差異に惹きつけられる、要するにフーリエ主義の哲学である。そういう考えかたによれば、ユートピーとは(あいかわらずユートピーは大切にされているのだが)無限に細分化された社会を想像するところに成立することとなる。そのユートピーにおいては、分割制はもはや社会的なものではなく、したがって抗争的〔葛藤的〕でもないわけだ。
 (109; ユートピーは何の役に立つのか A quoi sert l'utopie)


・作文
 13:24 - 13:25 = 1分(6月16日)
 13:57 - 14:06 = 9分(6月16日)
 21:54 - 22:11 = 17分(6月17日)
 22:53 - 23:33 = 40分(6月17日)
 23:42 - 26:13 = 2時間31分(5月15日)
 26:21 - 27:08 = 47分(5月15日)
 計: 4時間25分

・読書
 14:17 - 15:54 = 1時間37分(バルト: 247 - 264)
 16:11 - 16:41 = 30分(英語)
 19:58 - 20:22 = 24分(バルト: 264 - 270)
 20:43 - 20:56 = 13分(バルト: 81 - 98)
 計: 2時間44分

・音楽