2020/6/18, Thu.

 ピエール・プジャード(一九二〇― )はフランスの政治家。中南部のロット県サン=セールに生まれ、書店・文具店を経営していたが、近代化に取り残された山岳地方の不満分子を広く糾合しつつ、一九五三年にUDCA(フランス商工業者擁護同盟)を結成し、大企業と商人・手工業者との税制上の平等を訴えた。その後、現政治体制そのものへの批判色を強め、反議会主義、反官僚主義反知性主義に傾斜、アルジェリア独立反対闘争との接合をはかり、マンデス=フランスに向けられた反ユダヤ主義に見られるような極右運動へと転回していった。
 UDCAは五六年の国民議会総選挙では、二五〇万票を獲得し、十一・五パーセントもの得票率を挙げている。同盟そのものは、ポピュリスムに過ぎない運動の組織と政策面での乏しさを克服できない上に、まもなく内部分裂も加わって、急速に解体に向かい、「プジャード」運動も終息を迎えるが、現在のフランス新極右の核となっているジャン=マリ・ル・ペンの弁舌の才を認め、かつてUDCAから中央の政界へデビューさせたのは、プジャードその人であった。ル・ペン自身は五七年にUCDAと決別しているが、フランス右翼の系譜を検証する上では、これは欠かせないつながりである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、141~142; 「プジャード氏名言集」; 註1)



  • 珍しく一〇時台に離床。
  • どこかのタイミングで、「煙草から君の唾液を抽出しクローンつくって娘にするよ」という一首をなんかひょいっと作った。
  • 夕食に麻婆豆腐とうどんをこしらえる。麻婆豆腐にはエノキダケと水菜を混ぜた。うどんは「ひもかわうどん」とかいう幅広麺のもの。それを茹でたあと煮込み、食事を取る。
  • 五キロのダンベルで腕の筋肉を刺激する。べつにムキムキになりたいとは思わないが、多少は身体を温めても悪くはないだろう。筋トレと言うよりは肉をほぐすような感じだ。
  • ギターを弾く。曲の兆し。EM7→D(4) or GM7/D→C#m→GM7→? という感じ。メロディも多少は浮かんでいるが、問題は詞だ。なんだかんだ言ってもやっぱり歌には言葉が必要なのだ。
  • Steve Kuhn Trio with Joe Lovano『Mostly Coltrane』から#5 "The Night Has A Thousand Eyes"をちょっと聞いた。Joe Lovanoは不思議な感じのサックスで、正直いままで明確に良いと感じたことはたぶんなく、掴みどころがなくてどうもピンとこない。Joe Hendersonのうねり方とCharles Lloydのスモーキーな浮遊感を足して割ったみたいな感触なのだが、なんか低いほうでうねうねしたりもしているし、煮え切らないような感じがあって妙な感覚だ。
  • 今日は大方日記に邁進し、総計で七時間強綴って五月一五日から一七日まで完成させた。まあ勤勉な働きぶりだと言って良いだろう。書き方もゆるんで、わりと楽になってきたようだ。
  • Mさんのブログから二〇二〇年三月三〇日の記事を読む。松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』(p.378-380)の記述。

 しかしラカンは、症状の治癒不可能性をネガティヴなものとして捉えるのではなく、むしろその治癒不可能性こそが分析の終結のポジティヴな条件であると考えるようになった。その議論は、『サントーム』の翌年、七六 - 七七年のセミネール第二四巻『L'insu que sait de l'une-bévue, s'aile à mourre』のなかで行われている。ラカンは、症状の治癒不可能性を肯定する方向に舵をとり、それぞれの分析主体が自らの症状の根にある固有の享楽のモード(特異性=単独性)とのあいだに適切な距離をとることが出来るようになったとき、精神分析終結すると考えるようになった。ラカンは、七六年一一月一六日の講義のなかでそのことを「自分の症状との同一化」(S24, 11A)と呼び、すぐにそれを「自分の症状とうまくやっていくこと savoir y faire avec son symptôme」(S24, 12A)と呼び直している。
 (……)
 ミレール(2002b)は、「折り合いをつけること(=ノウハウ) savoir-faire」がひとつのテクニック、すなわち何らかのマニュアルにしたがって行動することであるのに対して、「うまくやっていくこと savoir y faire」には予見不可能なものにどう対応していくかという論点が含意されていることを指摘している。言い換えよう。前者はララングに対して象徴的な無意識(これは、社会的に共有されたものであり、テクニックやマニュアルに通じる)によって「折り合いをつけること」であり、それは普遍的なものに依拠している。ひとが神経症になるのは、ララングに対してエディプスコンプレクスのような普遍的なものを連鎖させているからである。反対に、後者は象徴的な無意識のような普遍的なものに依拠せずに、それぞれの主体において異なる、特異的=単独的なやり方でララングと「うまくやっていくこと」である。このような試みは、逆方向の解釈によってむき出しにされたララングから、オルタナティヴな主体のあり方とオルタナティヴな社会的紐帯を生み出すことを可能にするだろう。
 このような新しい精神分析パラダイムは、どこか自閉症者の姿に似てはいないだろうか? より直接的に言うならば、ここで論じたような精神分析終結に到達した人物の姿は、他の誰とも似ていない奇抜な方法をもちいて、トラウマ的なララングとうまくやっていく自閉症者の姿を思わせはしないだろうか? 症状に含まれる固有の享楽のモードを「症状の自閉的側面」と呼んだミレールとローランなら、おそらくこの問いに肯定的に答えることであろう(Miller & Laurent, 1997: Cours du 21 mai 1997)。ただしその場合の自閉症とは、不安と困惑に支配された自閉症の原初状態のことではないし、規範的な大他者(規則や法)を無理やり押しつけられてパニックに陥っている自閉症者の姿のことでもなく、むしろ様々な対象や知識を自由に――しかし彼ら自身のロジックに従いながら――組み合わせ、自分なりの大他者を発明し、そのことによって他者と別の仕方でつながることを可能にする自閉症者の姿である。

  • 三時過ぎからロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年)を読んでいたはずがいつの間にか眠っていて、気づけば五時一八分だったのでそのまま就寝した。


・作文
 11:29 - 12:35 = 1時間6分(5月15日)
 12:45 - 13:09 = 24分(5月15日)
 13:42 - 16:41 = 2時間59分(5月16日)
 19:20 - 20:17 = 57分(5月16日)
 22:16 - 22:28 = 12分(5月17日)
 23:15 - 23:51 = 36分(5月17日)
 25:13 - 26:13 = 1時間(5月17日)
 計: 7時間14分

・読書
 26:29 - 27:10 = 31分(日記 / ブログ)
 27:13 - ? = ? (バルト: 98 - 110)
 計: 31分+α

・音楽