2020/6/19, Fri.

 この芸術家の宣言には、本連載でよく出くわしたことのある、なじみの敵、つまり反知性主義の言語活動が認められる。その決まり文句はよく知られている。すなわち、行き過ぎた知性は害になる。哲学は役に立たない分けのわからぬ言葉だ。感情の、直観の、無邪気さの、単純さの場所を取っておかねばならない。あまり知的すぎると芸術は死ぬ。知性は芸術家の美点にはならない。強靭な人間は経験主義者だ。芸術作品はシステムをまぬがれる。ひとことで言えば、頭脳性は不毛なのだ。広く知られているように、知性に対する戦争はいつでも良識[﹅2]の名のもとに行われる。いま問題になっているのも、じつはあのプジャード主義者的な「理解=包含」のタイプを、ラシーヌに適用することであり、このタイプに関しては、すでにこの連載で論じたことがある。プジャード氏の良識に対して明らかにされた唯一の現実である、フランスの税制を目のまえにすると、フランスの経済全般が夢でしかないように、文学や思想の歴史も、税制と同じくらい「具体的な」ラシーヌそのものをまえにすると、知性の幻想でしかなくなる。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、159; 「ラシーヌラシーヌだ」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌: 一九五五年六月号)



  • 今日も一〇時台の離床に成功。滞在は五時間で、良い調子だ。今日は立川に出向き、菓子を買ったのち職場に挨拶に行くつもり。街に出るのでついでに、久しぶりに本屋も訪れる予定。
  • 煮込みうどんで食事。新聞の一面には元法相夫妻が逮捕されたとかでかでかと取り上げられていたが、この問題には特段の興味はないのでいままでの報道も読んでいない。
  • 眠りが足りなかったようで、ベッドで書見するうちに誘われたので仮眠を取った。正午から一時間半。
  • 日記は五月一八日を仕上げる。書くことがあまりなく、一時間もかからなかったよう。
  • 四時四〇分の電車で行くことにして、うどんの余りなどを食ったあと読み物に触れ、それから着替え。真っ青な麻のシャツにガンクラブチェックのボトムスといういつもの格好。ロラン・バルト/沢崎浩平訳『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』(みすず書房、一九七三年)がもう終わり間近で、出先で読み終えそうだったので、次に読む本は何にしようかと本棚に目を向け、なんとなくチェーホフでも読むかと思って、チェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を選んだ。
  • そうして外出。雨降りの日。さほど強い降りではないものの、かと言って弱くもない。雨のおかげで空気の肌触りはだいぶ涼しく、林から湧く鳥声が湿った大気中に響く。水たまりを踏んでもいないのに、歩を進めるたびに靴底がぐじゅぐじゅという感じの液音を立て、靴が振れるのに合わせて水粒も前方に散る。履き物もそろそろ新調したいところだ。
  • 先日思いついた曲(EM7からはじまるやつだ)の詞を巡らせながら行くが、まだ全然固まってこない。坂を上って最寄り駅前の横断歩道を待つあいだ宙に視線を漂わせると、雨粒は車道の上を横向きに流れており、渡れば楓の枝先が頭のあたりまで垂れ下がっている。葉っぱが水を含んで重ったのだろう。ちょうどやって来た電車に乗り、発車を待ちつつ扉口に立つと、南の山が雲と同化している様子が建物に遮られつつもわずかに見えるが、それも向かいに入線してきた電車に隠された。
  • 青梅で乗り換えたのちは久しぶりで手帳にメモを取り、そのあとバルトとチェーホフを読んで過ごす。
  • 立川で降車。来たのはだいぶ久々である。ホームから上がり、誰もがマスクで顔を覆っている画一的な景色のなか改札を抜け、右方すなわち北口のほうへ。コンコースの人波は明らかに薄く、小規模で、隙間が多く認められた。仕事人の格好もあまり多いとは見えず、むしろベビーカーを押す夫婦などが目に立つ。コロナウイルスの影響でやはり街に出る人が少なくなっているのだろう。
  • 広場から伊勢丹の脇へ。百貨店の入口付近の歩廊上に、傘を収めるための細いビニール袋の使用済みらしいのがいくつか落ちて放置されている。雨はそこそこ降っていたので傘を差し、進めば宝くじ売場にも「三密」を避けるため距離を空けて並ぶようにとの掲示があった。歩道橋に出て右方の交差点を見はるかしてみても、うごめく人の流れがやはり薄いようで、嵩が軽い風に映る。
  • 高島屋へ入館。傘をビニール袋に入れて、消毒液を手に塗って入り、エスカレーターで六階の淳久堂へ。途中のニトリは二人以下での来店を求めていた。本屋に入ると最初に詩の棚を見に行ったのだが、すぐに尿意に気づいたので一旦トイレに向かう。その途中に漫画の区画を通ったところ手塚治虫のコーナーがあったのでちょっと見分した。『アドルフに告ぐ』とかがやはり気にはなる。
  • 用を足してトイレを出るとそのまま壁際を移行して海外文学の棚に至り、書架をひとつずつ、下のほうはしゃがみこみながらわりとじっくり見分した。小説類に関してはいますぐ手もとに置いておきたいというほどのものはない。詩のところまで至るとしかし、城戸朱理訳編『エズラ・パウンド長詩集成』があることにはじめて気づき、こんなものあるのかと新鮮に思って、エズラ・パウンドは前々から結構読んでみたいと思っていたからと買うことにした。ほか、中村朝子訳『トラークル全集』もはじめて見留める。復刊らしい。ビニールに包まれた大きな本で、だいぶ値も張ったと思う。中村朝子というのは『パウル・ツェラン全詩集』全三巻を訳している人なので、わりと興味を惹かれる。
  • 文芸批評の棚は横目で流し見しつつ前を通り過ぎ、詩の区画にもどってきた。松本圭二セレクションを全部集めようかなと前から思っているのだが、すでに買って家に置いてあるのがどれだったかいつも忘れてしまい、重複を避けたいので手が出せない。そこでいまここにメモしておくが、こちらが持っているのは詩1『ロング・リリイフ』と小説2『さらばボヘミヤン』と詩3『詩篇アマータイム』である。見分しているうちに萩原恭次郎『断片 1926 - 1932』なる書物を発見し、完全な初見で情報がまったくないが、断片にはわりと惹かれる性分である。めくってみても、プロレタリア方面の人らしくいまの時代からすると革命臭がいかにも古めかしいものの、けっこう面白そうなので買うことにした。それから文庫へ。諸文庫の新着を確認していったあと、岡崎乾二郎ルネサンス 経験の条件』もどうせ読まなければならない本なので買っておくことにした。文春学藝ライブラリーという文庫から出ており、文庫本のくせに二〇〇〇円弱もしやがる。講談社文芸文庫に負けていない。
  • そうして思想を見に行ったが、思想の棚はじっくり見分していると時間がいくらあっても足りないので、新着本を中心に軽く流した。表紙を見せて置かれていた本のなかにひとつ、エリザベス・グロス檜垣立哉監訳/小倉拓也・佐古仁志・瀧本裕美子訳『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』というものを発見する。まったく知らない人だけれど、オーストラリアの先住民と絡めて芸術について考察したみたいな著作のようでとても面白そうだし、法政大学出版局の叢書・ウニベルシタスから出ているくせに値段も三〇〇〇円以下で安いので買うことにした。ほか、興味を惹かれるのは主にはやはりドゥルーズフーコーだろうか。デリダはなぜなのかわからないがいまのところ彼らほど惹きつけられない。蓮實重彦がわたくしは決してデリダ派ではありませんとか、デリダが文学を読めてなどいないことは明らかじゃないですかとか言っているからだろうか。あとはなんかやたらレトリカルで太刀打ちできないイメージがあるからかもしれない。とは言えそのうち読むつもりではいるけれど、それよりも先にまずはやはりバルト、そしてフーコードゥルーズというあたりがいわゆるフランス現代思想だと惹かれる名前だ。さしあたり、バルト関連の持っている本を全部読まなければならないだろう。
  • それから漫画コーナーへ。泉光『圕の大魔術師』と雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』という作品を買うつもりだった。前者は以前電子書籍で三巻まで読んだのだが、王道ど真ん中という感じの、しかしかなり良質なファンタジー漫画で、そういうものはこちらとしてもわりと好みだし、この作品はたぶんだいたい誰でも楽しめると思う。面白い物語としての質はおそらく相当高く、つまり押さえるところをきちんと押さえながらもクソみたいに安易な定型にもたれかかることがなく、ポピュラリティを目指して誠実かつ精密に作りこんでいることがまざまざと感じられる作品ということで、要するにCarpentersみたいな感じ。後者は以前無料公開されていたときにいくらか読んだもので、これもけっこう面白かったので前々から買おうとは思っていた。たしか一番最初の話でマックス・シェーラーの言葉を引いており、シェーラーなんていう哲学界隈でも全然名前を聞かないクソマイナーな人物を出してくるのがなかなか興味深かった。と言うかそもそもこちらは、この漫画ではじめてその名前を知ったのだったかもしれない。六月二八日にK家に行くので前者をTに、後者をKくんにあげるつもりなのだが、どうせあげるならやはり自分でも読もうというわけで買いに来たのだった。泉光のほうは棚の下部に平積みされているのをすぐに発見したのだが、『ここは今から倫理です。』はたしかウルトラジャンプか何かの連載だったよなとヤングジャンプあたりの区画を見ながらも一度見落としてしまい、ほかの棚も探し回ってちょっと手間取った。もどって見てみればこれも平積みされており、なんでもドラマ化されるらしい。
  • それで会計へ。研修中の女性店員に籠を差し出し、カバーは良いと断りつつ、漫画のほうをリュックサックに入れようと思いますのでと伝える。女性はいかにも新人という感じで緊張しているようだったし、うまく言葉が出てこないような瞬間もあった。金を払うと、漫画のビニールを外させていただくけれどそれに時間がかかるのでお待ちくださいと言われ、番号札を渡されたので、お願いしますと頼んでレジカウンター横のベンチに移った。何をするでもなく壁に貼られている掲示を読んだりしながら待って、呼ばれると漫画を受け取りリュックサックに収め、ビニール袋に入ったほかの書物も受け取り、礼を言って辞去した。エスカレーター前で荷物を整理し、すべてリュックサックに収納。
  • ビルを出ながら、緊張しているみたいだったし頑張ってくださいとかなんとかちょっと言ってあげればよかったかなと思った。余計なことかもしれないが、そういうちょっとした言葉がときに人の励みになるということがまったくないでもないだろう。むしろこちらとしては、この世の中をほんのわずかばかりでも生きるに値するものにするのはそのような極々ささやかな気遣いではないかと思うのだが。革命も結構、デモも結構、議論も結構、署名も結構、選挙も結構。それらはもちろん重要であり時に必要でもあるが、最大規模の抽象的構造を見極め考察すると同時に、人間の生における最小の細部を蔑ろにしない敏感さと繊細さの実践もまた必要なことだろう。そうした能力を善用するか悪用するかという選択は人におのおのあるだろうが、いずれにしてもまずはそのような資質を持ち合わせなければ、意味と力をすぐれて有効に行使することなどできるはずもない。なぜなら人が何らかの行動を実行するとき、そこには基本的には必ず身体の現前が介在するからである。ロラン・バルトの発言(*1)を少々歪曲して言えば、みずからの発する言葉を自分自身でよく見ない革命家は偽の革命家であり、みずからの言動と身振りに意を凝らさない政治家は浅はかな政治家である。その理屈に沿うならば、すくなくともこの日本国の政治家のうちの一定数(決して少数ではない一定数)は浅はかな政治家だということになると思うし、国会中継を見ればそのことは立ちどころに理解されるのではないか。
  • (*1): 「社会は私たちに分裂した言語活動を押し付けます(私たちの社会が疎外されていることの印である言語活動の分裂のうちに私たちは生きています)。しかしある種の言語活動の外に身を置く時、――そうしなければなりませんし、私たちはだれもが、そうしているのです――いつでももう一つの言語活動から出発してそうするのであり、非言語活動から出発してそうするのではないことを忘れてはいけません。したがって、誠心誠意、私たちは私たち自身を、私たち本来の言語活動を批評するという無限の過程に身を投ずるのです。それは自己反省性の姿勢であり(先ほど「理論」を話題としましたが、わたしにとっては同じものです)、それは文化を動かすことができるのです。それはその上そこから人が言葉を発する場の非常に注意深い認識に結びついています。非常に革命的だと装う個人が、言葉を発する場について問うことがないならば、彼は偽の革命家です」(ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』(みすず書房、二〇一八年)、214; 「文化の宿命、対抗文化の限界」; 『ポリティック - エブド』誌、一九七二年一月一三日号; 聞き手はジャン・デュフロ)
  • ビルを出るとまだ雨が降っていたので傘をひらいて駅に向かった。あとはLUMINEの地階で菓子を買わねばならない。駅舎内に踏みこんですぐの階段を下り、一階から入館して菓子類を売っているあたりに行くとButter Butlerの店舗に行き逢ったので、もうこれでよくね? と思ってショーケースに近づいた。フィナンシェが一番人気ですと女性店員が売りこんでくるので、食べたことあります、おいしいですと応える。以前、TMさんがまだ日本にいた頃に買ってきてくれて食べたのだ。ただフィナンシェはやはりけっこう高いし、ちょうど良い量の品もなかったので九個入りのガレットに決め、それを四つ頼んだ(一箱一〇〇〇円弱)。転勤する(……)さん及び新たにやって来た(……)さんと(……)さんにあげる用、それに自宅に持ち帰る用である。ビニールの小分け袋を三つ入れてもらい、雨除けのカバーは良いと断り、品を受け取り礼を言って退去。
  • 改札をくぐってホームに下りると、けっこう遅くなってしまったし(……)さんが帰ってしまうといけないから一応連絡をしておこうというわけで、電車に乗る前に職場に電話をかけた。出たのは(……)さん。(……)さんがまだいることを確認し、これから挨拶に伺いますが、七時半ごろになってしまいそうですと伝えておき、ついでに(……)さんがいることも確認した。これで今日、三人全員に渡せるわけだ。
  • そうして電車に乗り、チェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を読みつつ到着を待つ。この松下裕という人の翻訳は、とりたてて問題があるわけではないが日本語としてぴたりと嵌まりきっているという感触でもない。一九三〇年生まれなので仕方ないところもあるのだろうけれど、二〇〇八年出版の本としてはいくらか古いにおいの箇所もある。多少なりとも違和感を覚える部分を記しておくと、たとえば15ページ(「パパ」)に、「ううん、パパーシャ、おしおきの話なんかしないでよ……。あの子は悪くないんですもの……。あれには企みがあるのよ……。あの子は、なにも遠慮することなんかないわ、あんなに発達してるんですもの、なにやら馬鹿げた算数なんかがわからないなんて、信じられないのよ。あの子はなんでもようく知ってるのよ、そのことにはわたし自信があるわ!」という夫人の台詞があるけれど、このなかの「発達」という語は、この流れで(しかも台詞のなかで)出てくるにはちょっと固いと言うか嵌まっていないような感覚がこちらには生じる。次のページ(16)にもおなじく夫人の台詞で、「いいえ、あなたは坊やがかわいくないのね! あの子はあんなに立派であんなに賢くて、あんなにかわいいのに……。企みよ、企みにきまってます!(……)」という一節があるけれど、ここに書かれた「企み」という語も、断言調で台詞のなかに用いるにはうーんなんかなあという感じだ。たぶん意味合いとしては「陰謀」に近い意味で使われていると思うのだが。この「企み」は先の15ページの台詞中にもすでに登場しており、そこではあまり気にならなかったのだけれど、とは言えかわりに、「あれには企みがあるのよ……」では「あれ」というのがなんなのかよくわからない。16ページの記述と合わせて考えると息子に「二点をつけた」「やくざな数学教師」、もしくは教師がその点数をつけたという出来事そのものを指しているとはわかるし、チェーホフ自身がロシア語でそのように曖昧な書き方をしているのかもしれないが。チェーホフそのものが古い時代の人だからある程度は仕方ないと言うか、むしろ全体にそうしたニュアンスを反映させようとしたのかもしれないけれど、「お掛けよ、おっかさん」なんていう旦那の台詞(15)も古臭いとしか言いようがないだろう。16ページにもどると、「パーパ、あなた算数の先生のところへ行って、うちの坊やにいい点をつけるよう指図してこなくちゃならないわ……。(……)ねえ、ひと骨折ってみてよ、パパーシャ!(……)」という台詞中の「ひと骨折る」などという表現も、こんな言い方すんの? と思った。「一肌脱ぐ」ならよくあるけれど。しかし「骨を折る」を使うなら「ひとつ」を付け足すのではなくて「ちょっと」とかいう量的な表現にしたほうが良いのではないかと思ったのだが、ところがいま検索してみると、「一骨折る」は一応一般的な用法として存在はしているようだ。ところで19ページなどには例の「へ、へ、へ!」という、古いロシア文学お得意の必殺技とも言うべき卑俗げな笑いが見られて、これにはやはりちょっと笑ってしまう。嫌いではない。
  • 青梅着。雨が強まっていたので、車両をたどって屋根のある位置から降りた。すると前方、階段から上がってきてホームに現れた人が(……)先生である。向こうもこちらに気がついたので会釈を送り合い、電車に乗りこんで歩いてきたあちらとすれ違うときにまた会釈を交わして階段を下りた。職場に行くと(……)さんがデスクに就いて生徒と話をしているところで、その奥にいた(……)さんに挨拶し、買ってきた菓子を渡す。次いで(……)さんにも差し上げ、その後(……)さんの話が終わるまで待つことに。(……)くんが(……)先生の授業を受けていたのでそこに行き、目の前に立って顔を見合わせながら無言でうなずき交わしていると(……)先生が笑いを漏らし、なんで無言で意思疎通してるのと突っこんだ。それからちょっと雑談。学校は平常通りにもどり、部活も始まっていると言う。今日は転勤する(……)さんのために菓子を買って挨拶に来たのだとこちらは話した。彼はたぶんこちらと色々話したいような気持ちなのではないか。こちらが話を切り上げようとしたところに質問をかぶせて会話を延長するということが三回ほどあり、そのような気配を感じる。
  • (……)先生という新人の女性が授業をしていたのでそれから声をかけ、奥のスペースに連れ出して挨拶を交わした。短めの茶髪のわりと快活そうな雰囲気の人で、こちらの発言にも笑ってくれる。今日いきなりはじめての英語をやらされて早速あたふたしているが、一応いまのところは大丈夫そうだと言う。いつもいらっしゃるんですかと訊いてくるので、いや、いつもは……いないですけど……と笑い、なんと言うか、まあ……あの……まあだらだら生きている人間なので……つまり、あまり働きたくないと思っている人間なので……とざっくばらんに言っておいた。
  • それから自習席でチェーホフを読みながら(……)さんの話が終わるのを待っていたのだが、これがなかなか終わらず、ようやく終わったと思ったら即座に次の生徒と話しはじめてしまう。そろそろ電車も来るし、これは待っていたら遅れてしまうなというわけで、こんにちはと声をかけ、すみませんがちょっとだけお話よろしいですかと申し出て中断してもらった。生徒にもすみませんと言っておき、面談スペースに移って向かい合う。名を名乗り、以前、(……)さんのときに……と切り出すと、一二月から二月あたりまで、ちょうど受験シーズンのあいだだけいたと言うので、そんな時期だったかと思った。正直こちらも当時はいまより全然社交的でなかったし、(……)さんともさほど(と言うかたぶんほとんど)話していなかったと思われ、具体的なエピソードなどは何も蘇ってこず、その存在と漠とした印象しか覚えていなかったのだが、なんとなく覚えていますと口にしておいた。菓子を渡して(甘いものは好物だと言う)そのままいくらか立ち話をしたのだが、こんなに愛想の良い人だったかなという印象。過去の漠然とした記憶ではもっと気弱で引っ込み思案な雰囲気だった気がしたのだが、やはり社会に出てから数年揉まれて朗らかさを身につけたのかもしれない。実際、話していた生徒が帰る際にも何度もありがとうと礼を口にしていたのだが、ただそれがちょっと、言いすぎじゃね? と思ってしまうほどの頻度だったので、かえって自然さから少々ずれるというか、心身に習得されて自在に物慣れた身振りというよりは、そうするように意識的に心がけているのかなという印象もないではなく、さらに意地の悪い言い方をすれば、外面が崩れないように装っているだけで実はそんなに愛想が良いわけではないのかもしれないという感じもかすかに覚えたのだけれど、これは過ぎた邪推でもある。仮に実際そうだったとしてもそれならそれで構わないし、いわゆる裏表のある人だったとしてもその「裏」などたかが知れているだろう。
  • それで挨拶もして渡すものも渡せたので辞去。電車の出発があと二分か一分くらいだったので急ぎ、通路を小走りに行って上り階段で下ってくる降車客たちとすれ違ったところ、背後から誰か大きな声で話しているのが聞こえてきて、あれ(……)さんじゃね? と思った。(……)さんが、このあと(……)さんが教室に来ると言ってもいたし。それでちょっと振り向くと隣にもうひとり人がいて、姿をほとんど捉えられなかったのだけれどそれが(……)さんではないかと思われ、この翌日に職場で(……)さんに訊いてみたところやはりそうだったと確認されたのだった。(……)さんというのはこちらが大学一年のときこの塾で働きはじめた当時の室長で、大学卒業後にまた働きはじめてからもしばらく世話になり、いまは(……)教室の室長をやっているらしい。この二人が来るのだったらもう一本電車を遅らせて顔を合わせておいても良かったと思ったが、まあまたの機会があろう。
  • それで電車に乗って最寄りに移動し、自販機で二八〇ミリリットルのコーラを買ってButter Butlerの紙袋に入れ、それを濡らさないように胸のあたりに抱きながら帰路を行った。この日購入した書籍を以下にならべて記す。

 
城戸朱理訳編『エズラ・パウンド長詩集成』(思潮社、二〇〇六年)
萩原恭次郎『断片 1926 - 1932』(株式会社 共和国、二〇二〇年)
岡崎乾二郎ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、二〇一四年)
・エリザベス・グロス檜垣立哉監訳/小倉拓也・佐古仁志・瀧本裕美子訳『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス、二〇二〇年)
・泉光『圕の大魔術師 1』(講談社、二〇一八年四月)
・泉光『圕の大魔術師 2』(講談社、二〇一八年一一月)
・泉光『圕の大魔術師 3』(講談社、二〇一九年)
・泉光『圕の大魔術師 4』(講談社、二〇二〇年)
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。 1』(集英社、二〇一七年)
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。 2』(集英社、二〇一八年)
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。 3』(集英社、二〇一九年)
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。 4』(集英社、二〇二〇年)

  • Mさんブログ。昨日誤って三月三〇日を先に読んでしまったので、一日もどって二〇二〇年三月二九日分を読んだ。通話でも話したような話題が記されている。

(……)すでに同様の懸念を抱いている人間は世界中にいるだろうが、今回の新型コロナウイルス騒動を経て、政府に強権を与えることに同意する勢力が一気に拡大するのではないかと、こちらとしてはやはりそこのところが心配になる。実際、今回の騒動にあたって安倍政権を批判する論調の中には、都市封鎖や入国・出国制限といった(「移動の自由」と衝突する)対策を政府がもっとはやくとるべきだとするものが少なからずまぎれこんでいる。リベラルとされるひとたちが、おそらくは政権批判が先走ってしまっている思慮のなさに由来するものだろうが、そのようなことを平気で口にしてしまっているこの現状がおそろしい。政権の腰巾着である百田尚樹が、中国韓国からの入国制限を打ち出さない政権に痺れを切らしてTwitterで安倍政権を批判するという出来事がちょっと前にあったが(そしてその批判の翌日であったか翌々日であったかに、安倍晋三はさっそくあのハゲと夕食をとり、後日くだんの入国制限を打ち出すというあまりにも露骨な動きに出たわけだが!)、自称リベラルの少なくない人間がおなじ方向を向いてしまっているというこの事態に危機感をおぼえる。「自由」を絶対視せよとする話ではない。ただ、「移動の自由」を制限するのであれば、やはりそれ相応の誠実な説明責任とその不利益を補う補償を政府が確約すべきだという話であるし、それは、補償が織り込まれてしまうがゆえに禁止措置をとらず、あくまでも自粛の要請というこだわりつづけることでみずからの責任をまぬがれようとする、現在政府が各イベント主催者にたいしてとっている態度とも通じる(そのような政府のしたたかさを叩かず、自粛を拒む――あるいは、拒まざるをえない――人間や団体ばかりを叩く、村社会的な日本人の習性を、当の政府は確実に理解している!)。

Much of the current debate revolves around the Russian strategy known as “escalate to de-escalate.” It refers to a scenario in which Russia would use conventional forces to quickly seize some piece of NATO-held territory, such as a slice of Estonia. Moscow would then introduce nuclear weapons into the intensifying conflict — perhaps by firing off a demonstration shot or even by targeting NATO forces in the field — in hopes of deterring the alliance from retaking the conquered territory.

     *

First, regardless of what they said in public, most policymakers were completely appalled by the thought of using nuclear weapons in a crisis. U.S. President Dwight D. Eisenhower, whose entire defense strategy hinged on waging pre-emptive nuclear war, constantly reminded his advisers that such a war might mean the death of civilization. U.S. Secretary of Defense Robert McNamara secretly recommended to the two presidents he served — John F. Kennedy and Lyndon Johnson — that they never wage nuclear war, under any circumstances. President Ronald Reagan was often vilified as a warmonger, but he ritualistically repeated the mantra, “A nuclear war cannot be won and must never be fought.” Even in war games, U.S. officials were incredibly reluctant to cross the nuclear threshold. In other words, two generations of leaders built strategies around a threat in which they fundamentally did not believe.

Second, a key reason U.S. officials were so repelled by nuclear war was their intense skepticism that it could be kept limited. The Kennedy administration might talk about developing discrete nuclear options for responding to conventional attacks, but its leaders worried that the consequences of using even a single nuclear weapon would be unpredictable and uncontrollable. “The line between non-nuclear war and nuclear war is distinct and observable,” McNamara said. “However, once the momentous decision has been made to cross that line, everything becomes much more confused.” McNamara’s successors, even those who labored to introduce limited nuclear options into U.S. strategy, mostly came to the same conclusion.

So was the entire Cold War arms race an exercise in futility? Not really, because a third point is that perceptions of the strategic balance still mattered enormously: They shaped risk-taking and decision-making. Eisenhower and Kennedy may have believed that a nuclear war would leave no winners, but the vast nuclear superiority America enjoyed in the late 1950s and early 1960s provided critical leverage in staring down Soviet challenges in Berlin and during the Cuban missile crisis.

As the nuclear balance shifted in the late 1960s and 1970s, it was Moscow that became more assertive, intervening in third-world hot spots and subtly intimidating Washington’s exposed European allies. When the balance shifted back in the 1980s, Soviet officials understood that America’s superiority gave it an edge in diplomatic crises, because Washington would enjoy a hard-to-quantify but undeniable military advantage if war came.

Finally, all this meant that U.S. leaders believed they had little alternative but to go down the rabbit hole — to craft strategies and doctrines that they desperately hoped never to carry out. Administration after administration developed plans for vaporizing the Soviet Union and its allies. In the late 1970s and 1980s, the Carter and Reagan administrations produced a cold-blooded strategy based on decapitating the Soviet leadership and waging a protracted nuclear war.

They didn’t do so because they thought it was feasible to fight such a conflict. Harold Brown, Jimmy Carter’s secretary of defense, admitted that he had “no illusion that a large-scale nuclear war” could be a “sensible, deliberate instrument” of policy. They did so because a demonstrated ability to target what the enemy most valued, to close off all of its paths to victory in a nuclear war, was the only way to make certain that the nuclear threshold was never crossed.

In the early hours of March 10, 1945, 279 U.S. B-29s dropped 1,665 tons of bombs, mostly 500-pound E-46 napalm-carrying M-69 incendiary bombs, killing approximately 100,000 civilians in a single night. Almost 270,000 buildings were destroyed, and more than 1 million residents were rendered homeless.

     *

The first city bombed from the air is usually considered to be Antwerp, Belgium, in an attack conducted by a German Zeppelin LZ 25 in late August 1914, but in fact, there were uses of such aerial bombings prior to that during the Italo-Turkish War in an attack near Tripoli in 1911, the First Balkan War in 1912, and the Mexican Revolution in 1914. This makes sense as aircraft and airships were being developed and employed operationally at this time. The Japanese military used air attacks in Japan’s second war with China in the 1930s, as did Germany against England and others.

However, attacks from the sky have an earlier history. During the Song Dynasty, Chinese used incendiary kites for the first time in warfare, a practice later repeated in Europe and Thailand (Siam) and the 14th and 17th centuries respectively.

The scale and targets of the aerial bombings dramatically changed with the Tokyo firebombings. Specifically, an unprecedented level of destruction befell Tokyo in mid-March 1945 and would continue through the bombings of Hiroshima on Aug. 6, Nagasaki on Aug. 9 and Osaka on Aug. 14, the day before Japan announced its surrender.

The March 10 attacks on Tokyo were not the first on the city. The April 1942 Doolittle Raid, in which 16 B-25 Mitchells were launched from the USS Hornet, is well known but the damage from the retaliatory raid was limited although the propaganda effects were large.

It was the introduction of the U.S. B-29 Superfortress strategic bombers that raised the parameters on the level of destruction. But it would take constant training and finetuning of tactics before they were fully of use in their deadly missions.

The first operational B-29s in the Asia-Pacific landed in India in April 1944, attacking targets in Southeast Asia with limited effect. In early July, B-29s began operating from western Chinese airfields, hitting targets in Kyushu and Manchuria. However, the effectiveness was low and the attrition rate high as they could not easily protect themselves against Japanese fighter planes. The greater the distance the more fuel was required, reducing machine guns and other forms of protection.

With the seizure of the Marianas in the summer of 1944, and the development of runways there, B-29s could reach most of the main islands of Japan but they were still vulnerable to ground fire and attacks from fighters. As a result, the attacks on airplane and related parts factories, munitions, etc., in mainland Japan, which began in late November that year, were not that effective.

Other reasons for their ineffectiveness included weather cover, the lack of adequate training of pilots and crews, and the inability to find the right combination of bombs to expand the level of destruction. Altitude was another problem — to avoid ground fire and aerial attacks, it was necessary to fly at 9,100 meters, but winds pushed the dropped bombs off target. Fires were quickly put out by fire departments and damage control parties.

     *

While in Chengdu, China, as the recently arrived commanding general of the XX Bomber Command, Maj. Gen. Curtis LeMay thought it necessary to include civilian targets in its attacks to bring Japan to its knees, and experimented with this approach in a raid against a dock area at Hankow on December 18. Moving again to Guam in the new year to head the XXI Bomber Command, LeMay continued to advocate for “strategic bombing,” a view that gained greater ascendency as the ineffective campaign and high losses against Japan continued.

Specifically, LeMay wanted to use low-level (1,500 to 2,400 meters) incendiary attacks on Japanese cities, knowing the houses tended to be made of wood, were along narrow, crowded streets, and were often involved in making components for military industries.

An attack on Dresden in Germany in mid-February had killed an estimated 60,000 people in one night when incendiary bombs created a firestorm that subsumed the residential area of the city. It was believed the effect would be greater in Japanese cities.

Of course, this went against civilized warfare, but the arguments were used that its success would shorten the war. Ironically, in most cases it had the opposite effect, causing many Japanese to recommit themselves to the war effort against all hope. Indeed, the more LeMay’s forces fine-tuned its bombing campaigns, the more the Japanese side adapted.

The Battle of Iwo Jima in February-March 1945 was another key factor in bringing LeMay’s doctrine to fruition because the capture of the island denied Japan a place from which to launch fighters to disrupt these bomber flights and report on them via radar and provided an airfield for the U.S. to recover damaged aircraft.

Sixty years ago this month, as the protest demonstrations raged over the ratification of the revised Japan-U.S. Security Treaty, then-Prime Minister Nobusuke Kishi argued for the dispatch of the still-relatively new Self-Defense Forces to maintain order as he was losing confidence in the National Police Agency to do so. However, Munenori Akagi, director-general of the Defense Agency, vigorously opposed it.

It would not be an exaggeration to say that Akagi, who was a member of Kishi’s own faction of the ruling Liberal Democratic Party, saved Japanese democracy that day. In other words, had the military intervened, Kishi’s handling that year of the ratification process in the Diet — seen as highly undemocratic — would have been legitimized by extra-parliamentary means, his image as a “reactionary” further solidified, and the appearance of, if not actual, political use of the SDF been undertaken, much like authoritarian nations in Asia at the time.

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Kishi was becoming increasingly desperate as the demonstrations grew in numbers and intensity in mid-June (organizers put the numbers at 330,000 protesters, while police estimates were 130,000). U.S. President Dwight Eisenhower was scheduled to arrive on June 19 — the same day the treaty would pass the Upper House automatically as the chamber had not acted on it — having visited the Philippines, Taiwan and Okinawa before. Protesters prevented Eisenhower’s press secretary, appointments secretary and U.S. ambassador to Japan from departing Haneda, roughing up their vehicles (but not their persons). A U.S. Marine Corps helicopter from Hardy Barracks had to go in and evacuate them.

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It was a few days after this on June 13 or 14 — Akagi did not remember exactly — when Kishi called him to come over to his private residence in Nanpeidai, Shibuya Ward, and asked him to consider deploying the SDF.

Akagi was expecting the request, but also fearing it. Ever since the “Hagerty Incident” at the airport, the “internal security ministers’ discussion group,” an informal gathering of Cabinet members with responsibility for crisis management, had raised the issue of using the SDF. Some of the leading figures in the party — Finance Minister Eisaku Sato (Kishi’s younger brother), and Minister of International Trade and Industry Hayato Ikeda (who later succeeded Kishi) — were actually the most vocal about it, repeatedly asking Akagi if it were possible to deploy the SDF.

Bypassing government protocol, LDP Secretary General Shojiro Kawashima secretly went to the Defense Agency (then located in Hinoki-cho, where Tokyo Midtown is today) to meet with Akagi and appeal to him as well. It was probably difficult for Akagi to refuse his fellow faction member, 14 years his senior. But he did.

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In his 1971 memoirs ("Ano Toki, Sono Toki"), he explained that “if the SDF were used, it would have to destroy the protests in one fell swoop. To do so, the SDF would obviously have to be heavily armed, equipped with machine guns. This would mean that Japanese were killing their fellow countrymen. This would, if anything, inflame the already bad situation. On the other hand, if I sent them out without any protection, they would be more vulnerable than the riot police. And then the public debate would be that the SDF is useless.”

There were other reasons as well. Akagi was concerned about the “politicization of the SDF,” that they were being used for political reasons. At the time, the pending Eisenhower visit was being criticized domestically and within the ruling party as Kishi’s bid to extend the life of his administration. If the SDF were used to at this time to quell the demonstrations for a visit seen in this way, it would not reflect well on the SDF, he reasoned. It is unclear if Akagi explained all this directly to Kishi when the latter made his request.

  • 夜、TDにLINEでメッセージを送った。彼の代わりにその母君と行くことになっていたチャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラの公演が六月に延期されていたのだが、すっかり忘れていたそれをなぜかいきなり思い出し、あれ何日だったかなとTDからもらっていた通知葉書を見てみれば、六月一五日及び一六日である。それで、まさかすっぽかしてしまったのか? とビビりつつサントリーホールのホームページを覗くと、二〇二一年三月七日(日)に再延期されていたので安心し、その旨をTDに知らせておいたのだ。のちほどまた近況を問う言を送ると、通話しないかと言うので、一時からでも良いかと訊き返す。しかしあちらはこちらと違って健全な人類なのであまり深い夜更かしは避けたいようだったから、明日以降でも良いと提案するとそうすることになった。
  • 上記の英文記事を読むあいだはSteve Kuhn Trio『Temptation』を流していた。#2 "Dark Eyes"がかなり良い調子で、トリオ全員うまくノっている。このアルバムはSteve Kuhn(p)、Buster Williams(b)、Billy Drummond(ds)のピアノトリオで、二〇〇一年六月一三日及び一四日の録音。Venus Recordsって無意味に官能的ぶったジャケットも含めてクソなものはクソなのだけれど、ときどき良質な音源もある。この作品は録音もなかなか良く、シンバル数種が多方に散って広がりを持っているし、ベースがこまかく動くときの粒立ちも気持ち良い。
  • 英文記事を三つ読んだあと、最近New York TimesのThe Stoneを見ていなかったので興味を惹かれる記事をメモしておこうと閲覧した。五月には"Why Does Art Matter?"というテーマで色々な人が寄稿するという特集企画をやっていたようなのだが、そのなかに川上未映子の名があった。掌篇を寄せているようだ(Mieko Kawakami, "‘Why Get Upset When You Can Just Smile?’"(2020/5/19)(https://www.nytimes.com/2020/05/19/opinion/mieko-kawakami-coronavirus-story.html))。川上未映子ってけっこう英語に訳されていて海外でも人気だみたいな情報を読売新聞で見かけた覚えがあるけれど、どうも実際そうらしい。こちらはまだ一作も読んだことがない。さらにその川上の記事のひとつ下、すなわちこの"Why Does Art Matter?"シリーズの最初のエッセイはなんとSonny Rollinsが寄せている(Sonny Rollins, "Sonny Rollins: Art Never Dies"(2020/5/18)(https://www.nytimes.com/2020/05/18/opinion/sonny-rollins-art.html))。九〇歳である。さすがにみずから書いたのではなくてインタビューと言うか聞き書きらしいが、Sonny Rollinsからはじめるとは企画者なかなかやるやんと好感を持った。そのうちに読むつもりだ。


・作文
 11:13 - 11:20 = 7分(6月18日; 6月19日)
 13:51 - 14:33 = 42分(5月18日)
 15:39 - 15:43 = 4分(5月18日)
 25:52 - 26:02 = 10分(5月19日)
 計: 1時間3分

・読書
 11:23 - 11:58 = 35分(バルト: 270 - 281)
 14:34 - 15:02 = 28分(英語)
 15:25 - 15:38 = 13分(ブログ)
 15:54 - 16:01 = 7分(日記)
 16:10 - 16:24 = 14分(バルト: 281 - )
 17:00 - 17:14 = 14分(バルト: - 316 / チェーホフ: 13 - 16)
 18:55 - 19:35 = 40分(チェーホフ: 16 - 48)
 21:38 - 22:20 = 42分(Brands)
 22:40 - 22:49 = 9分(Eldridge)
 23:29 - 24:43 = 1時間14分(Eldridge)
 計: 4時間36分

・音楽

  • Mr. Children『Q』
  • Steve Kuhn Trio with Joe Lovano『Mostly Coltrane』
  • Steve Kuhn Trio『Pavane For A Dead Princess』
  • Steve Kuhn Trio『Temptation』
  • Sonny Rollins『A Night At The Village Vanguard