2020/6/22, Mon.

 優れたバリトン歌手、ジェラール・スゼーにレッスンを授けるなどというのは、失礼極まりないことのように見えるが、わたしにはこの歌手がフォーレのいくつかの曲を録音しているレコードは、そこにブルジョワ芸術の主要なしるしが再発見される音楽的な神話の例を、まざまざと示しているように思われる。この芸術は本質的に標識的[﹅3]である。それがたえずわれわれに押しつけるものは、感動というよりも、感動の記号なのだ。これこそジェラール・スゼーのしていることである。たとえば、痛ましい悲しみ[﹅7]を歌わねばならないとき、彼はそうした歌詞のたんなる意味論的内容にも、言葉を支えるメロディ・ラインにも満足しない。彼にとっては、痛ましきものの音声学をさらにドラマチックにすること、二つの摩擦音をいったん停止して、ついで破裂させること、文字の厚み自体のなかに不幸をあふれさせることが必要なのだ。かくして、格別に恐ろしい苦悶が問題になっていることは、誰も無視できなくなる。不幸なことに、こうした意図の贅語法は、言葉も音楽も窒息させ、そしてなによりも、両者の結合を窒息させてしまう。それこそが声楽芸術の目的そのものだというのにである。文学も含めて、他の芸術についても、音楽と話は同じだ。芸術的表現の最も気高い形式は、字義性の側にある。言い換えれば、結局のところ、ある種の代数の側にある。どんな形式でも抽象を目指す必要がある。それは、周知のように、すこしも官能性に反することではない。
 だが、それこそまさにブルジョワ芸術が拒否していることである。そうした芸術は、意図が十分に理解されないのを恐れているので、いつでも自分の消費者たちのことを、仕事を分かりやすく嚙み砕き、くどいほど丁寧に意図を教えてやる必要がある素朴者と見なしたがる(だが、芸術とは両義的なものでもある。それはいつでも、或る意味では、自分自身のメッセージと矛盾しているのだ。とりわけ音楽は、文字どおり悲しくも楽しくもあった試しがない)。音声学をむやみに浮き彫りにすることで、単語を強調すること、「掘る」(creuse)という単語の喉音が大地を打ち砕くつるはしとなり、胸[﹅](sein)の歯音が染みとおるような優しさとなるよう望むこと、それは描写の字義性ではなく意図の字義性を実践することである。(……)
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、279~280; 「ブルジョワの声楽芸術」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五六年二月号)



  • 正午に覚醒。寝床から見上げた空は一面白く占められて、灰色がほんのかすか混ざっているのがかろうじて感じ取られるくらいで艶の視覚素はない。雨は淡く、静かに降る。窓のガラス表面を塵のような無数の黒い汚れがびっしりと埋め尽くして透明度を損なっているけれど、汚いなかでも生きられる人間なので掃除をしようという気にはならない。窓掃除はもう相当のあいだやっていないはずで、記憶に引っかかってくるのはTが我が家に遊びに来たときのことだ。当時は彼女に恋慕していた身だから好きな相手を汚い部屋に呼んで失望されてはなるまいと(その程度の見栄と恥じらいと健気さがこちらにもまだ残っていた若き日だ)念入りに掃除したのだが、それがたぶん二〇一一年か二〇一二年のことだと思うので、もしそれが最後だとすればもう八年か九年は窓を拭いていないことになる。そういうわけで相当に汚いのだけれど、その黒い点状の汚れ(まさしく汚点)たちが晴れの陽を受けて真っ白に光り、夜空から白昼の地上に降りてきた天の川の縮図を生み出すさまを見るのはわりと好きである。一二時一五分に起き上がると、先ほどは淡いと思った雨がけっこう降っていることに気づいた。臥位だとすぐ横に壁があるので音が遮られるのだろう。
  • こちらが上がっていくのとほぼ同時に母親は出勤した。ハムエッグを焼いて食い、風呂を洗って茶を伴って帰室すると日記。この日はなかなか邁進しており、五月一九日から二一日まで仕上げている。一日で三日分書ければかなりのものだろう。
  • 一時四〇分から五時半まで書き物に耽ると身体が疲れたので、ベッドで休みつつ泉光『圕の大魔術師 1』(講談社、二〇一八年)をすこしだけ読んだ。この日の日記にはこの漫画についてのメモが色々取られているのだが、こまかく記すのが面倒臭いので中心的なポイントだけ手短に触れておくと、数ページ読んだだけでも明らかな印象として感じられるのはこの作品は描きこみが非常に細密だということである。絵やイラストや漫画の制作についてなど何も知らないのだけれど、たぶんこの著者は絵は相当にうまいと言うか、少なくともひとつの方向性において技術レベルは非常に高いほうだと評価されるのではないか。なかでもとりわけこの作品の特徴として目立つのは「装飾品」の描写で、衣服や装身具の「模様」には(その多様さなどにおいて)かなり意が凝らされているような気がする。
  • 六時で夕食の支度へ。まず新たに米を磨いで炊飯器にセット。そしてひとつにはジャガイモとチャーシューをソテーし、もうひとつには餃子を焼くことに。ジャガイモは輪切りにしていくらか茹でたあと、切り分けたチャーシューと一緒にフライパンへ。一方で味噌汁も作ることにして、紫タマネギとスライスした人参を鍋の湯へ。ソテーができると餃子も焼き、出来上がると米が炊けるまで一〇分ほど待ち(新聞を読みながら)、炊けると品をそれぞれ用意して食事を取った。じきに母親が帰宅する。今日も子どもに手を焼かせられたらしい。自宅まで送っていった女児がシートベルトをどうしてもつけたがらず泣いてしまい、しかもその際、てめえふざけんじゃねえよバッキャローみたいな感じの暴言を突然吐いたらしく、それまで良い子と見えていたので母親はその「豹変」ぶりにとても驚いたと言う。聞けばまだ小学校一年生で入ってまもないと言うので、要はこれまで猫を被っていたような感じなのだろう。一筋縄では行かない子どもばかりいてもちろん疲れるようだけれど、まあ良い経験なんじゃないのとこちらは適当に受けておく。母親は今までいわゆる(大きめの)「他者」と接する機会がそこまで多くなかったように思われるから、あらためて学べることも色々あるだろう。シートベルトをつけなかった件の女児について、どうすれば良かったかなと訊いてくるので、まだ五歳そこそこの子どもとはいえ相手もひとりの人間なのだから、仕事の目的(この場合は自宅への送り届け)を果たすことばかりを急がず、まずは目の前にいる相手をよく見てその言葉をよく聞いたほうがいいんじゃないの、みたいなことを言っておいた。
  • 食後はまた日記。九時過ぎまで。投稿のち、身体がこごっていたので柔軟。スピーカーから流れ出る音楽はYosuke Yamashita『Sparkling Memories』。ソロピアノによるライブである。#9 "Triple Cats"を聞くに、Thelonious MonkCecil Taylorを統合したみたいな印象。たぶん山下洋輔のオリジナル曲だと思うのだけれど、テーマのメロディとコードは明らかにMonkが使うそれと聞こえる。全体的な打楽器性もMonkを引き継いだ感じでもありCecil Taylor的でもあるが、特に根拠のない漠とした印象では、速弾きで音を詰めてややフリー気味になるときなど、Taylorだったらもうすこし散乱するかなという感触で、山下洋輔はそれよりも連結性があるというか曲線的な推移が感じられ、海面で波頭がぐあっと盛り上がるようなイメージを与えられた。いくらか暴れたあとに静かになりながらもまだ収めずにほそく続け、Monk風のテーマにもどって終了という構成で、充実した演奏だと思われた。
  • 一〇曲目が"Song of Birds"でPablo Casalsのことを思い出したので、次に『A Concert At The White House』を流す。こちらがいままで一番聞いたクラシックのアルバムはたぶんこの作品で、とてもすばらしい。チェロがCasals、ヴァイオリンがAlexander Schneider、ピアノがMieczyslaw Horszowskiというトリオである。柔軟の片手間に聞いた限りでの印象だけれど、Pablo Casalsという人はやはりかなり特異なほうの奏者なのではないか。クラシックはいくらも聞かないしチェロもいままで全然聞いたことはないけれど、この音程の微妙な揺らぎ、余白的なニュアンスの装飾(おそらく最初からぴたりと正確な位置を押さえるのではなくて、ほんのわずかずれた箇所から瞬間的なスライドによって正位置に至るということをときおりやっているように思う)、ほとんどノイズめいて顕著な擦過感を与えるアタック音、それにもかかわらずなめらかな音の質感、などから構成されるこのスタイルが、チェロという楽器の演奏技術としてスタンダードに据えられるとはどうも思われない。これは一九六一年一一月一三日の録音で、Casalsは一八七六年一二月二九日の生まれらしいので当時八四歳ということになり、それを考えるとやはり相当にすごいのではないか。
  • 入浴へ。洗面所で久しぶりに「板のポーズ」をやったところ、あそこはなんと言うのかサッシと言うのか、浴室の扉の下端を受ける台枠みたいな部分の上面が汚れているのが目に留まり、べつにこちら自身は汚れていたって一向に構わないのだけれど、でもまあ掃除しておくかというわけで、パンツ姿になったあと洗剤をつけてブラシで擦った。磨りガラスになっている扉の下部にも点状の汚れが付着しているのが、洗面所のほうから見るとわかる。浴室内から見るとガラスの向こうの洗面所の床はフローリングで暗めの色だし明かりも点いていないので目立たないが、入湯前にそこも掃除して汚れを除いておいた。
  • 戻ってまた日記。今日のことを記録したのだが、そういえば昼間に糞を垂れた際、尻の穴からいくらか出血があった。べつに便秘ではなく、便が硬かったり太かったりするわけでもないのだけれど、わりと定期的に出血を見る。切れ痔なのだろうか? それとも肛門の皮膚がやや弱いのか。
  • ブログの更新通知のためTwitterを覗いた際、HさんすなわちIさんのアカウントをちょっと見たのだが、そこで「おへそ書房」という古書店を知った。スーザン・ソンタグがローベルト・ヴァルザーについて書いた文章を掲載した『VOGUE』を紹介していたので、それだけでもうわりと信用できそうだなという印象を得ながら書店のアカウントを覗くと、武蔵境の店なので、これはちょうど良いと思った。六月二八日に武蔵境にあるK家に行くので、昨日国家から支給された一〇万円ももらったことだし、寄ってみても良いかもしれない。二〇一九年七月からやっているらしいが、全然知らなかった。
  • 二〇一九年六月五日水曜日を読み返し。前日に読んだ前編に続いて、「なぜ組織をゼロから再構築しなければならなかったのか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【後編】」(https://finders.me/articles.php?id=859)を読んでいる。

学問ではエビデンスを追求しなければいけないし、社会に出てきたと思ったら、こんどは「これは絶対に正義です」「断固許すことはできません」みたいな話しかしない。何だかなって。やっぱり僕は、基本的には哲学や思想って人の頭を柔らかくするものだと思うんですよね。人々が日常生活で緊張している中で、哲学書思想書を読んで「こういう考え方もあるんだ」「少し気が楽になったぞ」と思うのが基本的な機能。なのに現実はすごく遠く離れているんですよ。僕はそれが本当におかしいと思っているんですよね。

だからそういう点でも僕は、さっき「哲学は役立たない」と言ったけど本当にそうだと思っていて、やっぱりビジネスのために通勤時間を使って哲学入門書を読むのは使い方として間違っているんですよ。哲学書は、読んだら「そもそも通勤なんてしないでいいのでは?」と思ってしまうようなものであって、読み終わったあと学びを使ってバリバリ働いたりするようなものではないんですよ。そういう点でも哲学とか思想の役割が誤解されている。

  • また、作歌。「夢の縁の砂地に足を埋[うず]めつつ根のない樹として星の雨を待つ」と、「陽炎を吸い込みうねるあなたの髪は炎天下にて蛍を宿す」の二つがぎりぎり許せないこともない。
  • 2019/6/6, Thu.も。冒頭の引用は岸政彦。

 さきにも書いたが、小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。
 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。
 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。
 私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。
 (岸政彦『断片的なものの社会学朝日出版社、二〇一五年、20~21)

  • 図書館の新着図書に、「Thelonious Monkなどのパトロンだったパノニカ夫人の伝記」や、新潮文庫ブルガーコフや、河出文庫のボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』などを見かけている。この日作った短歌からは、「コンビニに生まれ変わってしまっても君はわたしを見つけてくれる?」と、「鳥の唄歌う緑のあの人は俺を見つめる風景のよう」の二つが一応許せる。
  • 身体がこごったのでベッドに移り、休みながらまた泉光『圕の大魔術師 1』(講談社、二〇一八年)を読んだのだが、感想をこまかく書くのはやはり面倒臭いので控える。ポイントとしてはやはり装飾の描きこみと、この作品はさまざまな種類の絵柄による推移ののち、実質的にはおそらく13ページから「漫画」として始まっているという点など。
  • 深夜二時ごろだったか三時ごろだったか、空いた腹を埋めようと上階に向かう途中、階段になにか黒い物体が落ちているのを発見して、よく見てみればゴキブリである。そろそろ出てくる時季だが、ずいぶんと久しぶりに見かけたような気がした。昔は怯え嫌悪していたけれど、もはやことさらに恐れるほどの相手でもない。と言ってうじゃうじゃ出てくるようではさすがに困るが、ひとまず相手は一匹だし、殺虫剤も手もとになくて面倒臭かったので、たかだか虫けら一匹殺すこともあるまい、存在を許してやろうと強者の傲慢な余裕を見せて素通りした。


・作文
 13:42 - 14:37 = 55分(5月19日)
 14:45 - 16:03 = 1時間18分(5月20日
 16:41 - 17:38 = 57分(5月21日)
 19:44 - 21:11 = 1時間27分(5月21日)
 23:27 - 25:25 = 1時間58分(6月22日)
 26:53 - 27:42 = 49分(5月22日 / 6月21日)
 27:46 - 28:20 = 34分(6月22日)
 計: 7時間58分

・読書
 17:41 - 18:02 = 21分(泉: 1 - 12)
 25:27 - 25:42 = 15分(日記)
 25:43 - 26:39 = 56分(泉: 12 - 22)
 28:54 - 29:30 = 36分(バルト: 131 - 150)
 計: 1時間58分

・音楽