2020/6/26, Fri.

 (……)マルグリットは自分の疎外を認識している[﹅6]。すなわち、現実を疎外として見ている。けれども彼女はこの認識を、純然たる屈従の行動によって延長するのだ。例えば彼女は、主人たちが彼女に期待している人物を演じてみせたり、主人たちのあの同じ世界にもともと内在している価値[﹅2]に一致しようと試みたりもする。どちらの場合にもマルグリットは、疎外された明晰な意識以上のものではまったくない。彼女は自分が苦しんでいるのをわかっているが、自分の苦しみに寄生するよりほかに、どんな治療法も想像しない。彼女は自分が対象物であることを知っているが、主人たちの美術館に住まうことよりほかに、行き先を考えつかないのだ。グロテスクな筋立てにもかかわらず、このような登場人物は、或る種の劇的な豊かさも欠いてはいない。おそらくこの人物は悲劇的ではないし(マルグリットにのしかかる宿命は、社会的なものであって、形而上学的なものではない)、喜劇的でもないし(マルグリットの行動は、彼女の本質にではなく、彼女の身分に由来する)、ましてや、無論のこと、革命的でもない(マルグリットは自分の疎外に関していかなる批判も行わないのだ)。しかし、彼女がブレヒト的な登場人物、疎外されているが批判の源泉となる人物という資格規定に達するには、じつはほとんど何もいらないようにも思われる。その資格規定から彼女を――取り返しのつかないくらい――遠ざけてしまっているのは、彼女の肯定性である。その結核と美しいせりふのおかげで「ひとの心に触れる」マルグリット・ゴーティエは、観客をまるごとからめとり、彼女の蒙昧を感染させる。いっそ滑稽なほどに愚かであれば、彼女はプチ・ブルジョワジーたちの目を開かせたかもしれない。ところが美辞麗句をしゃべり、気高く振舞い、要するに「まじめ」なものだから、彼女はプチブルたちを眠りこませるばかりなのだ。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、301~302; 「『椿姫』」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五六年五月号)



  • 離床はだいぶ遅くなってしまい、一時四二分。八時間半ほどの滞在になる。今日もまた中性的に白い曇りだが、ここ数日よりも雲層は薄いようで、青味がほんのかすかに透けて映っており、空気は比較的明るいほうだ。
  • 母親は仕事。天麩羅の残りと春菊などの入った味噌汁で食事を済ませる。メロンパンもあって最初は食べようというつもりでいたはずが、食事を進めるあいだになぜかその気持ちがなくなったので、台所に戻しておく。
  • 洗面所で髪を整えて風呂洗い。帰室して、手もとにあった泉光『圕の大魔術師 1』を適当にめくりながらコンピューターの起動を待つ。それから今日のことをまず記述。現在は既に二時五〇分で、四時半には出なければならないので時が乏しい。
  • Mr. Children『Q』をバックに三時半まで「英語」ノートを読み、それから歌いつつ数分間だけ体操をする。屈伸や開脚で下半身をほぐした。それからベッドで脹脛を和らげながらチェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)。外出する前にはやはり最低でも三〇分くらいは脹脛を揉んで柔らかくしておきたい。チェーホフは「愚か者 独身者の話」という篇がなかにあり、特に面白くはないのだけれど、こういう一人称のひとり語りでなんか書けないかなあとは思った。
  • 書見を切り上げると身支度に入り、歯磨きをしながら日記の読み返し。2019/6/12, Wed.を見ると、(……)さんのブログから二〇一九年五月六日付の文章が引かれている。あらためて読んでみても良い文で、昨年のこちらは「まるで小説のようだと言うか、梶井基次郎とかヴァルザーとかがやるような小説ともエッセイともつかない小品の類の一部のように感じられた」と評しているが、いま現在触れてみてもたしかにそういう感覚はあると思うし、なんかまさにこれが文章だなというか、〈文章感〉とでもいうような雰囲気。

先週は金沢動物園に行って、昨日は井の頭動物園に行った。休日に動物園に行くこと、これは近代人、ことに二十世紀以降を生きる者たちの基本行動である。但し今では動物園もすっかり枯れた施設に成り果てたが、昔はそうじゃなかったらしい。動物を見に行って、動物に怪我をさせられたり、運が悪ければ落命することもめずらしくなかった。そんな始まり方で、あのときから動物と人間は距離を縮めたのだった。もちろん今では高い柵や分厚いアクリルガラスが人間の身を危険から守ってくれているし、動物たちも整然と管理保護されているから、昔のようなアクシデントは起こらない。だから最近の動物園に行くと、我々はむしろ鳥類ばかり見るのだ。鳥はいつも大体、それは鳥に限らないのだが、いつも大体眠っていて、我々の眼にはただの羽毛の塊にしか見えない。そんな種が多い。もちろん活発な鳥もいる。水鳥はおおむね元気だ。鴨や鷺は勢いよく水飛沫を上げて羽根を洗っている。何しろ動物園で檻に入った鳥は、ことに渡り鳥は哀れだ。もはや本来の自分の生を想像することすら忘れてしまったかのようだ。しかし彼らと同種の鳥は、我々がわざわざ檻を覗き込む必要もないほど、近所の空を今も平気で飛び回っているのだ。数ヶ月おきに檻の中の彼らと入れ替わっても何ら問題ないくらいだ。しかし今に至って、そんな境遇さえ彼らにとってはさほど不可解でもないらしいのだ。

  • その後着替えて上へ。階段を抜けて居間に出ると空気中に温もりが感じられる。仏壇前にはアジサイが生けられてあり、ほのかな紫、濃い青紫、水色と揃ってけっこう鮮やかに整えられているが、液体質のみずみずしさは感得されず、まるで紙で作ったような質感なのがかえって面白く興である。おそらく畑のほうから母親が採ってきたのだと思う。
  • 外に出ると雨後の草のにおいが大気にはらまれていて、鼻は否応なしにそれを吸いこむ。郵便を取っておいてから道に出れば鳥声がいたるところから立って響き、なかに一種、笛のような鳴きが混ざっていた。右方に林立する竹たちの隙間から太陽のきらめきが窺われ、空気はやや温みを帯びているもののしなやかである。
  • 公営住宅前には茶色っぽい落葉が散らかっていた。白い蝶が道々おりに現れて、たとえば緑の斜面上をふらふら遊んだり明るい黄色の花にとまったりしているが、花弁に宿ると翅を閉ざしたからだろうか、色は違っているのに完全に同化してしまって目に映らなくなる。坂道に入ればすぐ道端にガクアジサイが咲いていて、青々と色が満ちて花のひらき方も力いっぱい張っており、おそらくいまが一番鮮やかな充実の時ではないか。路上には落葉が多くて靴に避ける余地を与えないくらいに足もとを埋めているし、上っていくあいだ草も旺盛に勢力を増していて、やはり植物との距離が近くなったなと思われた。道脇の下草も厚くなっているし、樹々も盛って張り出しが大きくなっており、頭のすぐそばまで垂れ下がってくるものもある。坂を抜けて最寄り駅の階段を行けば、西の太陽が雲に包まれながらも鋭い艶を空に付与して明るんでいた。
  • 出勤前にコンビニに寄っておにぎりとガムを買った。普通に腹が減っていたし、前日は食を控えたためにかえって腹痛を招いたのでものを胃に入れておいてそれを避けようというわけだ。燕が駅前を盛んに飛び回っており人にぶつかりそうなくらいで、頭のすぐ近くの宙を切って過ぎるし、実際、勢いよく飛んできた一羽が人に衝突しそうになって、人間が怯んで足をとめながら身を退いたところ、燕はその手前で急遽方向転換して難を逃れるという場面も見られた。
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  • (……)退勤。小走りに駅に入り、電車に乗ったあとさっそく報告のメールを書いて送信。
  • 帰宅後は先に入浴。一一時から(……)さんと通話することになっていたので。入浴中および食事中のことは覚えていない。済ませて帰るともうほぼ一一時だったので隣室に移ってSkypeにログイン。前回話したのは年末なので、半年以上経っている。(……)さんの声も忘れていて、こんな感じだったなあといま思い出してましたと言われたので、本当はもっとはやく連絡しようと思っていたんですけど、とにかく日記が、と言い訳をする。なんか、内向的になってるのかなと思いましたと相手が言うのは、以前こちらが外向的になる時期と内向的になる時期が交互にやってくるみたいなことを言っていたのを覚えていたからだというが、それで言えばたしかにいまは、たとえばTwitterでどうでも良いことをつぶやくこともないし、ちょうど昨年の今頃やっていたような集団での通話(すなわち「社交」)にはもう興味がないし、どちらかといえば内向方面に傾いているのかもしれないが、そもそもそういう二極的揺れみたいなものがもうなくなったような気もする。Twitterで言えば(……)さんももうほぼつぶやくことはなくなったようだが、ただタイムラインを見てはいるらしい。こちらももちろんTwitterなどもはやどうでも良いのだが、一応日記のURLを貼れば読んでくれる人はわずかに存在しているみたいだし、そういう人に礼を言うこともできるし、(……)さんなどの知人に連絡を取ることもできるし、一応まだ残すだけは残しておいて日記を書いたらURLだけ貼ればいいかと思っている。長い文章を流すのではなくてブログのURLを貼るだけの方式に変えたことについては、いちいちかちかちクリックして連投を作るのが面倒臭くなったんですよと笑った。
  • (……)さんの大学についても多少聞いたはずなのだが忘れてしまった。たしか授業はまだオンラインかもしくは半々くらいと言っていたような気がする。四月五月あたりは休みだったようで、その時期は毎日とりたてて何をするでもなく過ごして曜日感覚がなくなったと言っていた。(……)さんは今日何日で何曜日とかわからなくならないですかと訊かれるので、僕はないですねと断言する。なぜかと言えば、毎日Evernoteに日記を作成するときに日付と曜日を入力するからである。そう説明すると、それじゃあむしろ人より敏感ですねと返答があり、そこからつながったのだったか忘れたが、昨日六月二五日は一九五〇年に朝鮮戦争が勃発した日付で、一昨日の六月二四日は「全世界的にUFOの日」、さらに六月二三日は一九六〇年に改定安保条約が発効したし、二〇一六年にはイギリスでEU離脱を問う国民投票が行われた日なんですよとクソどうでも良い知識をひけらかした。まさか全部覚えてるんですかと(……)さんは驚くので、いやいやまさかと笑い、ただこの最近の三日間だけはたまたまそういう知識が頭のなかに入っていたのだと応じた。
  • 六月二四日が「全世界的にUFOの日」だというのは秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』のなかで水前寺邦博・園原電波新聞部部長がそう宣言していたのだが、先日読書歴を振り返ったということを話しながらこのライトノベルも紹介した。ライトノベルでも昔からやっている大御所はやはりちょっと個性があるというか、秋田禎信とか川上稔とかはわりと読みにくい文章だと言われると思う、と話し、いまのやつはたぶんもっと物語を抵抗なく伝えるようなものになっているのではないかと想像を述べる。
  • 七月二二日に成田に来ると(……)さんが明かすのでぜひお会いしたいですねと受けるが、しかし成田はクソ遠いし、行き方すらわからないし、そもそもいままで生きてきて千葉県に入ったことなど三回くらいしかない。調べてみると三時間近くかかるのでちょっとした小旅行だ。なんかよくわからん徒歩が挟まるルートが多いのだが、東京まで出たあとそこから総武線で一本という行き方もあって、これがたぶん一番楽だろう。成田だと遠いから千葉ではどうですかと(……)さんは言ってくれ、そうすると二時間ほどの路程になるのでこちらのほうがだいぶ短い。成田の周りに何があるかもわからないので……と(……)さんは言うが、まあべつに、特になんかしなくても喫茶店にでも入ってお話しできれば僕はそれで良いですよと応じる。彼女は恐縮した。
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  • つまらない時間とか退屈な瞬間はもうこちらの生には存在しなくなったということも話した。何かしらの考えに触れたり文章を読んだりしたときに、新鮮味(差異)がまったくなくて退屈な考えだつまらない言葉だと思うことはあるけれど、なんか暇で暇で仕方ないとか、待ち時間でやることが見つからなくて退屈とか、そういう意味での退屈な瞬間はもうまったく存在していない。読み書きをはじめて一年か二年ほど経ったころ、すなわち二〇一四年か二〇一五年の時点ですでに、この世界に書くに値しない事物も瞬間も原理的にはただのひとつも存在しないという認識(〈信仰〉)にこちらは至ったわけだけれど、最近はそれをそこそこ忠実に実践できていると思う。だからこちらは物事を待つのがわりと得意である。紙とペンがあれば言葉を書けるし、それがなくとも周囲の人やものを見ていれば良いし、周りに何もなくとも自分のからだか頭のなかを見ていれば良い。こちらが生きている限り感覚と思考は常にあるのだから、それを見ていればだいたい退屈はしない。そういうわけで千葉まで行くのも快諾したのだった。
  • 上記のような話については、(……)さんの言うことはいつもすごく一貫してますねと評されたので、どういうことかと訊いてみると、前にブログで読んだのかこちらが話したのだったか、ロラン・バルトでしたっけ、なんか、この世にまったく面白くない人はいないみたいなこと言ってて……と返ったので、ああ、ジョイスですねと応じた。(……)さんのブログ経由で佐々木中が対談か何かで語っているのを読んだことがあるのだが、リチャード・エルマンという人の伝記にジョイスのそういうエピソードおよび言葉が紹介されているらしく、ジョイスの発言自体は多少気取ったようなニュアンスをはらんでいるような気もしないではないけれど、言っていること自体はわりとよくわかる。向かい合って、あるいは隣り合って三〇分程度言葉を交わせば、書くべきことがひとつも見つからない相手というのはたぶんこの世にほぼいないのではないか。
  • 通話後、部屋にもどったあと、日記を書くつもりでいたのだけれど身体が疲れていたのでまず休むことに。それでベッドにてチェーホフを読んでいるうちに迂闊にも意識を手放していて、気づくと四時二〇分に飛んでいたのでそのまま消灯した。