これは、プジャードにおいては、学問をすることは、奇妙にもやり過ぎがありえるという意味だ。どんな人間的な事柄も、精神的な事柄でさえも、数量としてしか存在しないので、それが過剰だと宣告するには、その厚みを普通人であるプジャード主義者の能力と比べてみればよいのだ。たぶん学問の行き過ぎ[﹅4]こそが学問の美徳であり、学問とはまさにプジャードがそれを役に立たないと考える地点から始まっているものだろう。だが、この数量化はプジャード主義者のレトリックには欠かせないものだ。なぜなら、それは怪物を産み出すからである。怪物というのは、懲罰のかたちでしか現実に適用されない、純粋で抽象的な学問に執着している、あの理工科大学出身者たちのことだ。
だからといって、理工科大学出身者(と知識人)に対するプジャードの判断は絶望的というわけではない。おそらく、「フランスの知識人」は「矯正すること」ができるからだ。知識人を苦しめているのは、肥大現象である(ということは、それを手術できるわけだ)。これは、小商人の普通の知識量のうえに、重すぎる付属物を貼りつけてしまったということである。この付属物を構成しているのは奇妙にも、客観的であると同時に概念的である学問そのものだ。ちょうどそれは、正確な重さを得るために食料品屋が加えたり引いたりする分銅やバターのかけらと同じように、人間と結びついていたり人間から取り去られたりする、非常に重たい素材の一種だ。理工科学校出身者が数学のやり過ぎでぼうっとしている[﹅16]ということは、ある一定の学問の比率を越すと毒物の質的な世界に近づくということを意味している。数量化という健全な境界線から外に出てしまうと、学問はもはや労働[﹅2]として定義できない以上、信用を失うしかない。知識人、理工科学校出身者、教授、ソルボンヌ出身者は、何ひとつ為しはしない。彼らは耽美主義者であり、出入りしている店は、地方のビストロではなくて、セーヌ左岸の小粋なバー[﹅11]なのである。ここで現れてくるのは、すべての強力な体制にとって大切なテーマ、知識人と無為の同一視というテーマだ。知識人は定義上なまけものなのだ。知識人を今度こそきっぱり仕事[﹅2]につけさせて、有害な行き過ぎとしてしか測れない彼の活動を具体的な[﹅4]、すなわちプジャード式の計測が接近しうるという意味だが、具体的な労働に変換する必要があるということだ。極端な場合には、穴を掘ったり石を積んだりすることほど計測しやすく、それゆえ有益な労働はありえないことになる。それは純粋状態の労働であり、しかもあらゆるポスト - プジャード主義的な体制が、しまいには無為の知識人[﹅6]のために論理的に取っておいてくれる労働である。
こうした労働の数量化は、当然のこととして、体力、筋肉、胸、腕の力の地位を引き上げる。反対に頭は、それが生産するものが質的であって量的ではないため、疑わしい場所になる。ここでわれわれは、頭脳に対して投げつけられる、ありふれた悪評を再び見出しているわけだ(プジャードにおいては、よく「魚は頭から腐る」という言葉が口にされる)。頭脳がさけがたく不興をこうむるのは、明らかにその位置が体のてっぺんにあって中心から外れており、「雲[﹅]」に近くて、「根[﹅]」から遠いせいである。上位[﹅2]ということの両義性が、徹底的に悪用されているのだ。宇宙発生説がまるまるひとつ構成される。それはたえず、物理学、道徳、社会のあいだの曖昧な類似性を利用する。身体と頭が闘っているということ、それは「庶民たち」の闘いそのものであり、上 - 方にいるものに対する生き生きした下層のものによる闘いである。
(下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、305~307; 「プジャードと知識人」; 初出: 『レットル・ヌーヴェル』誌、一九五六年四月号)
- 九時の起床に無事成功。コンピューターを点けてLINEでグループに連絡し、一〇時半の電車で発つことに決定。そうして上階へ。K夫妻と昼食を取ることになっていたので、小さな豆腐と少量の野菜だけを食う。新聞の一面は自衛隊の中東派遣について。テレビのニュースには詫摩佳代が出演していた。この人は新聞で「1000字でわかるグローバル・ヘルス」みたいな記事を連載している人である。口調は速い。何を言っていたかは忘れた。
- 風呂を洗ったあと、乳液を手に塗った。どうも手の皮が荒れがちなのだ。マシにはなったが、左手中指の背などいつまで経ってもかさかさ乾いていて痒い。
- 帰室して歯を磨き、昨日買ったシャツを早速まとった。ズボンはオレンジ色のもの。上に行くとマスクを用意し、便所で腹を軽くしてから出発。雨降りである。普段の傘は修理中なので、久しぶりに紫色の縁取りがなされた黒傘を持つ。くしゃみがやたらと出るのは気温が下がった上に、昨夜裸で寝たせいか。葉っぱが路上に多数散らばり、水を吸って鈍く変色し、いくらか泥のような色になっている。濡れたために落ちても風が運んでくれないのだろう、路面に貼りついているなかに小さな梅の実もひとつ転がっていた。
- 坂道に入ると沢の音が厚く昇ってきて、その響きがけっこう籠っている。流れを囲む斜面の地形や樹々や葉叢に反響するのだろう。上がっていき、駅の通路で宙を見れば、雨はそこまで重く厚くはないものの、粒はわりあい大きく線はまっすぐで落ち方ははやい。
- 乗車。人は少なかった。北側の扉際で待ち、青梅で向かいの電車の先頭へ。乗り換えるとマスクをつけ、手帳にメモ書きをはじめた。途中、たしか河辺からだったと思うが優先席に母娘があらわれ、母親は子を座らせた前に立って携帯を見ている。三歳ほどと見える女児は座って静かに落ち着いており、きょとんとしたような小さな瞳をときおりこちらに向けてきた。拝島から右隣りが男性で埋まったが、その人はスマートフォンでなんらかのアニメを視聴していた。
- 武蔵境まで行って降り、階段を下るとトイレに寄ってから改札を抜けた。たしか抜ける前にSUICAにチャージしたと思う。駅を出て「すきっぷ通り」の位置を確認しながら行く。というのも、「(……)」という古書店が武蔵境にあることを知り、昼食後にK夫妻とともに出向く話になっていたのだが、その店が「すきっぷ通り」の先、「独歩通り」の途中にあるらしいからだ。
- そうしてK夫妻のマンションへ。マンションの前に、防火用のものだったか何だか忘れたけれど水を貯めたような小さな設備があって、見れば井戸だとか書いてあり、常時カメラで監視されているらしい。俺がいまこうして足を止めて注視しているところも見られているわけだと思いながら少々眺め、マンション内へ。ちょうど出てきた人がいたので挨拶し、インターフォンを鳴らすとお届け物ですとか言って適当に配達員の真似をする。それで開けてもらった扉を通り、階段で行こうと思ったところが通路の奥に進んでも見当たらず、どうもそもそも階段がないようだったので引き返してエレベーターで上がった。部屋のインターフォンを鳴らし、扉がひらいたところにまたお届け物ですと言って挨拶をする。
- 入室すると手を洗ってうがいもしておき、居間というかキッチンとつながった最大の一室に入って座ると、「Butter Butler」のフィナンシェをお届け物ですと差し出した。それからフルアコだったかセミアコだったか忘れたが、Kくんが買った新しいギターをさっそくいじらせてもらった。かなりパキパキと固く締まった音が鳴るという印象。その後、アコギも触って遊ぶ。室内の変化としては、テレビ台が新しく巨大なものになっていた。
- Tが皿うどんを作ってくれた。皿うどんって冷やしうどんみたいな、冷やし中華のうどん版みたいなことなのかと思っていたらそうではなくて、餡掛けをかけたかた焼きそば的な料理だった。シーフードが入っていて美味。食後、古書店に行く前に、Kくんには雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。』を、Tには泉光『圕の大魔術師』をそれぞれ三巻ずつ、お届け物ですと言いながら差し上げた。
- あと手近にアニメの表現技法について述べたみたいな本があり(高瀬康司編著『アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門』(フィルムアート社、二〇一九年)というものだ)、ぱらぱら見てみると古谷利裕が寄稿していて、論考のほかに『響け! ユーフォニアム』の紹介もしており、古谷氏はこの作品について放送当時にも「偽日記」上で大絶賛していた記憶がある。ほか、渡邉大輔という名前もどこかで見かけた覚えがあった。検索してみると「ゲンロンα」の投稿者として出てくるのでその周りか? と思いながら、『ユリイカ』の蓮實重彦特集にもいなかったかといま(というのはこの日のメモを取った時点だが)思い出したので見てみると、果たしてそこにも名前があった。「「歴史的/メディア論的転回」の帰趨をめぐって――「ポストメディウム的状況」と蓮實重彦」という論考を寄せている。
- それで「(……)」に行くことに。マンションを出るまでのあいだにまた人と遭遇したので挨拶を交わす。雨は止んでいたはずだ。独歩通りとかいうところの途中にあるらしいと古書店の場所を告げると、俺がよく行っているラーメン屋の隣の店じゃないかとKくんは言い、実際そうだったようだ。K家からはすぐ近くだった。こじんまりとした規模だけれど客の姿はけっこうたくさんあって、町の古本屋という感じ。店外の一〇〇円の棚からジョン・アップダイク/須山静夫訳『ミュージック・スクール』(新潮社、一九七〇年)をさっそく発見。アップダイクという作家については何ひとつ知らないものの、須山静夫はフラナリー・オコナーの『賢い血』や短篇集を訳しており、Mさんがこの人の訳が一番良いと言っていた翻訳者なので当然チェックした。冒頭をちょっと読んでみても悪くない言葉の連なりになっているようだったので、買うことにしてはやくも一冊保持。
- そうして入店して、だいたいすべて回った。レジカウンターのそばに行ったときに店主に挨拶し、ローベルト・ヴァルザーについて書いたスーザン・ソンタグの文章を紹介しておられるのをTwitterで見て、この書店は信用できるなと思いましたと偉そうなことを言うと、いや、そんな大した本屋じゃないんで……と店主。見分を続けるあいだ、K夫妻を待たせてしまうのにときおり謝る。二人は途中でスーパーに行って飲み物やケーキなどを買っていたようだ。
- どこの出版社だったか忘れたが、『源氏物語』が四巻くらいあって欲しかったものの、全巻揃っていなかったので断念。大西巨人『神聖喜劇』も同様。金井美恵子の著作がやたらたくさんあったので文庫をいくつも買うことにした。すばらしい。中上健次の『地の果て 至上の時』も買っておく。家にあるのがこれだったか『千年の愉楽』だったかよく思い出せず被ってしまう可能性を覚えなくもなかったが、持っているのはたしか河出文庫だったし『千年の愉楽』のほうだろうと判断した。フェリックス・ガタリとアントニオ・ネグリの共著である『自由の新たな空間 闘争機械』(丹生谷貴志訳)などというものもあり、最近ガタリに興味が出てきているところなのでちょうど良い。ほか、ジョン・バージャーやリチャード・パワーズやランボーなど計一三冊。一覧を以下に。
・金井美恵子『文章教室』(福武文庫、一九八七年)
・金井美恵子『タマや』(講談社文庫、一九九一年)
・金井美恵子『小春日和 インディアン・サマー』(河出文庫、一九九九年)
・金井美恵子『柔らかい土をふんで、』(河出文庫、二〇〇九年/インタビュー・蓮實重彦)
・中上健次『地の果て 至上の時』(新潮文庫、一九九三年/解説・柄谷行人)
・中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出文庫、二〇〇〇年)
・栗山理一・山下一海・丸山一彦・松尾靖秋(校注・訳)『日本古典文学全集 近世俳句俳文集』(小学館、一九七二年)
・ジョン・アップダイク/須山静夫訳『ミュージック・スクール』(新潮社、一九七〇年)
・フェリックス・ガタリ/トニ・ネグリ/丹生谷貴志訳『自由の新たな空間 闘争機械』(朝日出版社、一九八六年/新装版一九八八年)
・ジョン・バージャー/飯沢耕太郎監修/笠原美智子訳『見るということ』(ちくま学芸文庫、二〇〇五年)
・リチャード・パワーズ/柴田元幸訳『舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房、二〇〇〇年)
・橋本福夫訳『マンスフィールドの手紙』(八潮出版社、一九七七年)
・金子光晴・斉藤正二・中村徳泰訳『ランボー全集』(雪華社、一九八四年)
- そのほかにも面白いものは色々あったのでまた来たい。会計時に住まいを訊かれたので、青梅だが今日は武蔵境の友人宅に遊びに来ているのだと答えた。海外文学が充実している印象でしたがと向けると、自分が好きなだけですという返事があった。
- それでマンションに戻ってZOOMでメンバーとグループ通話し、TTの誕生日を祝った。「水平思考ゲーム」なるものをやる。MUさんがゲームマスターとして用意をしてきてくれたのだが、彼女が問題を読み上げ、またチャットに読んだのとおなじ文言を貼り、それに対して質問をしていって、イエス/ノー/関係ない、で答えをもらいながら問いの答えを考えるという方式である。たとえば最初のものは、「ある部屋に五人の少女がおり、五個のリンゴが入った籠があった。少女たちは一人ひとつずつリンゴを取っていき、すると籠にはリンゴがひとつ残った。それはなぜか?」というような問いで、どのあたりが「水平」思考なのかはよくわからないものの、なかなか面白かった。この一番最初の問いにもっとも苦戦したのだが、最終的にこちらが、五人目の少女は籠から林檎を取ったのではなくて籠ごと林檎を取ったのだという解答にたどりついた。そのほか何問もやったけれど、この最初の問題が灯台下暗し的な感覚がもっとも強かったというか、シンプルによくできていてうまく騙されたという感じが強くて一番良かった気がする。要するにこれってテクスト分析のゲームで、目の前にある文言の意味の射程を手探りし、そこに顕在化していない可能性を考えて余白を埋めていくゲームというわけだろう。コツを掴めばわりとわかりやすい。ほかにはたとえば、ある男がアイルランドのある町から首都ダブリンまで街道をずっと歩いていったのだが、道中、一軒のパブの前も通り過ぎなかった、それはなぜか、という問いがあり、男はすべてのパブに立ち寄ったからというのがその答え。あとひとつだけ例を挙げておくと、ある男女が車に乗っており、鍵を掛けて人が出入りできない状態で男性が車を降りて買い物か何かに行ったところ、もどってくるとそのあいだに女性は死んでおり、車内には見知らぬ人間がいた、女性はなぜ死んだのか、そして見知らぬ人間とは誰か? という問題。この問いは、女性は妊娠していて買い物のあいだに出産して死亡した、見知らぬ人間というのは女性が生んだ赤ん坊である、というのが解答。そんな感じだ。
- その後、"C"のMVについて。Tが脚本の作り方について書いたような本を読んだらしくその内容をいくらかまとめていたのだが、その本に面白い物語の典型的なパターンが一〇個くらい載っていたところ、そのなかに先日の話し合いで大方定まった「制限 - 遭遇(出来事/きっかけ) - 解放」の図式とおなじものもあったので、やはりこの路線に沿って考えていけば良いのではないかと合意された。それからさらに具体的な案はあるかと話されたのだが、みんなあまり思いつくことがない様子だったので、MVに関係することに限らず近況とか最近考えていることとかを適当にくっちゃべって、そのなかから何かアイディアや繋がるものが出てくればそれで良し、出てこなくてもそれで良しという感じで良いのではないかとこちらが提案し、近況報告になった。TDは電子ピアノを使えるように環境を整えて最近ピアノの練習をしているとのこと。大学の仕事は授業が一部始まり、実験の手伝いなどをしていると言う。グループを二つ担当しており、そのうちのひとつがわりと親しげな学生たちだというか、自己紹介など積極的にしてくれるので、そういうアイスブレイク的なやりとりも関係を形成して何かをやっていくにあたってはやっぱり大事だなと実感した、というようなことを話していた。
- Kくんはセミアコを買ってウハウハ。仕事は七月から全面リモートになる予定。K夫妻は先日、K家両親との話し合いの機会を持ち、互いに思っていたことを伝えられたとのこと。ただT自身は釈然としない気持ちが多少残っているというか、まだもやもやしている部分もあるようだったので、これは言いたいということについては伝え方に配慮しながらも明確に伝えたほうが良いのではないか、もし声を使って直接話すと感情的になってしまったりうまく言えなかったりするというのだったら、たとえば手紙やメールを用いて文章にするという方法もある、と口を挟んでおいた。
- こちらは夏期講習のための生徒面談を頼まれてやっており、生徒の話を聞くのは面白いと語る。そのほか、体重が六キロほど減って六一キロまで痩せることができた。
- MUさんはコロナウイルスによる休みのあいだはYouTubeか何かで声優の動画を見漁っていたという。梅原裕一郎という人が最近の気に入りらしい。格好良い人だがラジオなど聞くとパートナーに対してはいわゆる「塩」対応で、わりとクールな当たり方だということだ。今期のアニメでは『啄木鳥探偵處』という作品を見ている。石川啄木を主人公に据えたものらしく、パートナーとして言語学者の金田一京助が出てくるというのだが、この二人に関係があったのははじめて知った。
- TTは仕事がますます忙しい。営業部が勝手な見通しで過大な仕事を取ってきたのだが当然回らなくなり、そのヘルプに駆り出されているという。また国からも仕事が来ていて、各省庁のセキュリティ環境を精査することになったらしいのだが、その現場がたしか二十三箇所くらいあるとか言っていたか? 一箇所を四日で終わらせるように求められたと言っていたはずだが、セキュリティとかコンピューター関連のことなど何ひとつ知らない素人のこちらでも、普通に考えて終わらないだろうと思う。できるだけのことをやるしかないとのこと。ほか、会社が広告としてVtuberをはじめることを決めたとかいい、一方で会社内の軽音楽部(?)の後輩とデュオをやることになったところ、その人がいままで出会った人間のなかで一番歌がうまいと高評価を述べていた。プライベートは恋人ともよく話しており充実しているよう。
- 八時ごろだったか、夜に至って通話は終わり、こちらとK夫妻は夕食に行くことに。「餃子の王将」に行こうと決まる。街路を行って商店街を歩くあいだ、『ONE PIECE』の飾り文字やキャラクターの目の描き方などについて話した。これよりも前にKくんが、『ONE PIECE』読んでたじゃんと言及してきたときがあったのだが、彼はどうもこちらのブログをけっこう覗いてくれているようで、それで日記の内容に触れられるたびにこちらは、貴様、読んでいるな、とふざけて返した。
- 「王将」に入店。アルコール液を手に吹きかける。Kくんは炒飯と餃子。Tは餃子一皿だったか? あるいはKくんの餃子を分けてもらっていたのだったか。こちらは最初、麻婆豆腐を米に掛けて食おうと思って注文すると、麻婆豆腐はもう売り切れてしまったと言われたので唐揚げ定食みたいなやつに変えたのだが、ちょっとすると若い男性店員がもどってきてやっぱり麻婆豆腐はまだありましたと言うので、それじゃあそれで頼むと返す。麻婆豆腐はこちらのような舌の人間にも辛すぎるということがなく、量もけっこう多くてそんなに悪くなかった。
- TDとこのあいだ話した「セレンディピティ」についての話題とか、塾の仕事について最近考えていることとかをつらつら語った。以前記した(……)くんの話で、例の、アメリカではスペイン語を話す人が多いという英文からスペインの植民地としての南米の歴史を経由して日本に至った物語のことだが、Tはこちらの話を聞くと、きちんと相手の疑問に応じて話が発展しているのがとても良いねというような評価を下した。Fさんみたいな人が子どもたちと触れ合うのはとても良いことだと思う、とも言うので、まあ社会にとって間違いなく非常に有益だねと軽口を叩いておく。
- 店内はだいたい男性ばかりで、男女連れは一組くらいしか見なかったと思う。ひとりで来ている男性客はたいがい皆スマートフォンを見ながら飯を食っている。目が疲れた感じがあったのでぎゅっとつぶって和らげていると漫画みたいな顔だと笑われ、K夫妻が写真を撮ろうと目論んできたので回避したのだが、代わりに手で眼窩を揉んでいるところをいつの間にか撮影されていたらしく、あとでLINEに写真が上がっていたので、これはいないいないばあをしているわけではありませんと補足しておいた。
- それで一〇時前だか一〇時過ぎだかに退店。駅に向かうあいだにちょっとだけ東京都知事選の話になったので、正直全然興味が湧かずまったく調べてもいないし、桜井誠と立花孝志でなければ誰でも良いと思っている、と言うとKくんが、小池百合子に関しては満員電車ゼロとか何とかかんとかゼロという政策を色々掲げていたけれど、結局それが全然実現できていなくて、実現した公約ゼロとかネット上で揶揄されていると教えてくれたので笑う。改札前で挨拶して別れた。
- その後の帰路や帰宅後については覚えていない。夜半にチェーホフ/松下裕訳『チェーホフ・ユモレスカ ―傑作短編集 Ⅰ―』(新潮文庫、二〇〇八年)を読んだようだが、たぶんそれを読んでいるうちに意識をなくしたのではないか。
・作文
電車内。
・読書
24:37 - 25:40 = 1時間3分(チェーホフ: 296 - 318)
・音楽
なし。