2020/6/30, Tue.

 それゆえ、どんな記号学シニフィアンシニフィエという二つの辞項のあいだに関連を打ち立てていることを、忘れてはならないだろう。ここでいう関連は、次元の異なる諸対象に関わっているため、同等という関係ではなく、等価という関係のことである。ここでは以下の点に注意すべきだ。すなわち、ただたんにシニフィアンシニフィエを表現している[﹅6]と告げるような、日常的な言いかたとは違って、どんな記号体系においても、私は異なる辞項を二個ではなく三個、相手にしているのである。なぜなら、私が捉えるのは、一つ一つと続くような辞項では全然なくて、それらの辞項を結合している相関関係だからである。ということは、シニフィアンと、シニフィエと、記号[シーニュ]があるわけだ。記号は、さきの二個の辞項の結合した全体なのである。ここに薔薇の花束があるとしよう。わたしはその薔薇に、わたしの情熱を意味する[﹅4]ようにさせる。とすると、ここにはシニフィアンシニフィエ、薔薇の花とわたしの情熱しかないのだろうか。そんなことはない。実際には、ここには「情熱的なものにされた」薔薇があるだけだ。しかし、分析の次元では、確かに三つの辞項が存在している。なぜなら、情熱を担ったこれらの薔薇の花は、完璧かつ正当に、薔薇と情熱に分解されるからである。お互いに結合して第三の対象物、すなわち記号をつくるまえにも、それらの薔薇と情熱は存在していたのだ。実体験の次元では、なるほどわたしは、薔薇をそれが運ぶメッセージから切り離せないのだが、それと同じくらい、分析の次元でも、シニフィアンとしての薔薇と、記号としての薔薇を同一視はできない。シニフィアンは空虚である。記号は充実している。記号は一つの意味である。さらに、一個の黒い小石があるとしよう。わたしはそれに、何通りものやりかたで意味させることができる。小石はたんなるシニフィアンである。だが、それに一つの決定的な意味(例えば、無記名投票における、死刑の宣告という意味)を与えると、それは一つの記号になる。(……)
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、324; 「今日における神話」; 一九五六年九月)



  • 九時五二分に起床したらしく、滞在は五時間強だと言う。この日の記事を正式に記している現在はすでに九月二九日に至っているという意味のわからない事態が起こっているのだが、五時前に床に就いたくせにわずか五時間余りで離床できているのが三か月後のいまから見ると不思議である。白曇天の朝らしい。
  • 湯呑みと急須を持って上へ行くと母親は買い物に行くと言い、ついでに歯医者にも寄ってくるらしい。卵を焼こうと思ったところが在庫がもうなかったので、母親が「朝から泣きながら炒めた」というタマネギを食べることにした。新聞は国際面、フランス地方選で与党が惨敗という記事などもろもろ。医者に行こうと思っていると母親に伝えておいた。四時過ぎには職場に着いていたいので、受付開始の二時半に間に合うように出向き、一番最初かその次くらいのはやい順番で診察してもらうつもりだった。
  • 風呂洗いののち帰室して、立川図書館からもらってきたヒューム/小松茂夫訳『市民の国について(上)』をちょっと覗きながらコンピューターの準備を待った。安倍能成が序文を寄せている。訳者の小松という人は彼が旧制一高の校長だった時期の生徒であるらしい。コンピューターが整うと日記をはじめ、五月二七日分に新聞記事をいくらか写した。BGMはJesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』。このアルバムの#3 "Love For Sale"はこのスタンダードの演奏のなかでもかなり上位に位置するほうではないか。
  • 一二時四〇分まで日記を書き、それから歯磨きとゴルフボールを踏むことと書見の三つを同時に行う。石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)。そうして一時一〇分から五分間だけ屈伸などをして、"Love For Sale"を聞きつつ着替える。Bert van den Brinkのピアノはすばらしく、各種のアプローチのあいだの移行がなめらかである。ギターソロの裏でランニングをやっている部分では、後半で二人ともやや低めの音域に降りていって音像が暗めになるとともに拍子(七拍子)も取りづらくなるのだが、Bパートに移った拍頭でピアノがコードを大きく派手やかに叩き、リズムを明確に画しつつ曲調の発展を導いている。ピアノソロは冒頭のすばやくてかつ規則にはまりきらない往復からして耳を引くし、中途ではトリルによるブルース風味の演出もある。打音の強弱、音域の高低、フレーズの疎密の幅はひろくて、知性的な統御の点から見て高い技量を持っているのは明らかだと思うが、加えておのずから発露される引力にも身を委ねているような朗らかな感情性のにおいも仄かに香るもので、非常にバランス良く卓越した達人、という印象。明快な自足感を帯びているように聞こえる。
  • そして出発。雨はいくらか散っているものの、面倒なので傘を持たなかった。家の南側で父親が畑を囲む斜面の草を機械で刈っているところに下り、行ってくると伝えておいた。道にもどると自転車にまたがった若い茶髪の女性がおり、レインコートを身につけるところだったようだ。スカートタイプのスーツを見るに、保険の外交員か何かだろうかと思われた。
  • 濡れたアスファルトのにおいが湿気とともに立ち昇ってくる。坂を上って最寄り駅に着くと、駅前に設置されていた箱から選挙公報を取った。都知事選に対する興味は全然ないのだが、まあ一応見ておくかということで。ホームに移るとベンチでメモを取り、電車内でも続け、青梅で真向かいに乗り換えたあと河辺までペンを動かし続ける。降りると二時前、医者の受付は二時半からなのでひとまず食事を取ることに。ロッテリアで良かろうと駅舎を出れば雨がけっこう降り増していて、濡れながら歩廊上を行った。図書館のあるビルでは期日前投票が行われている。
  • 降るものに濡らされながら入店し、アルコールスプレーを手につける。レジ前に男女が一組いて注文していたのだが、この人たちがわりとぐずぐずしておりだいぶ時間がかかった。男性は五〇代ほどと見え、濃紺めいた色のシャツの背面上端には"To All Lovers of Motor Sports"とか文字があり、リュックだったかポーチだったか忘れたけれどともかくバッグは黒いもので、メーカー名も忘れたがスウェーデン製との表示が見られた。そのバッグの横から、「I♡横浜」のキーホルダーが吊られている。女性は最初、娘かとも思ったところがそんなに若くもなさそうで、とすれば連れ合いと思うがそこまで年寄ってもないようでよくわからない。いくらかぱさぱさしたような茶髪で外面に飾り気はなく、リュックもよくありそうな、「量産型」と揶揄されるような大学生が使っていそうな、白っぽい灰色の地味な品だった。彼らの後ろ姿を眺めたり、リザーブサービスの掲示をぼんやり見たりしながら番を待つ。
  • そうしてダブルチーズバーガーセットを注文。サイドメニューはチキンスティックとバニラシェーキ。八二五円になるが、そう認識するとけっこう高いものだ。八〇〇円あればもっと美味い飯も普通に食えるだろう。番号札を持って席に行き、腰を下ろした途端にはやくも商品が届いた。持ってきてくれた女性は昔、南口のほうの店舗にもいた人で、当時はとにかくすばやく忍者のように動くことこそが自分の喜びなのだと言わんばかりに、身を低くしながら伸ばすような姿勢のスポーツじみた動き方で働いていたのだが、その敏速さはどうやらいまも保たれているらしかった。南口のロッテリアにはあと二人、記憶に残っている店員がいたもので、ひとりは淡いような顔の(という言葉で当時の日記にもたびたび書きつけていたはずだ)やや薄幸そうな雰囲気の女性で、たしかいつも月曜日に勤務していたような気がする。この人があの店のスタッフのなかで一番はじめにマニュアル以外の言葉でこちらに話しかけてきたのではなかったか。もうひとりは愛想がものすごく良かったやや童顔の女性で、この人ともけっこう会話を交わした。塾で働いているとか、いつもパソコンで熱心にお仕事されててすごいですねとか、いやあれは仕事じゃなくてただの趣味なんですよとか、たこ焼きって英語でなんて言うかわかりますか? とかそういったことだ。この人は接客能力の観点からするとおそらく相当に優秀な人材だったと思われ、誰にでも丁寧に明るく、それでいてわざとらしい雰囲気のまるでないにこやかさで接していたし、店自体もわりあい地域密着型というか老人などたくさん来ていたのに、なぜ潰れたのかよくわからない。こちらとしても結構良いヤサにしていたもので、韓国人だかフィリピン人だかわからないが外国の人もよくいたし、なんか素性の不明な怪しい男女とかもいたし、こちらがカタカタやっているのに興味を持って話しかけてくる老女などもいたし、高校生や大学生くらいの騒がしい若者もあまり来なかったので滞在しやすくなおかつ面白かったのだ。二〇一五年くらいのことだと思う。
  • メモを取りながら食事を取る。こまかく刻まれたタマネギのシャキシャキした粒立ちがわりあい良かった。BGMはメロディラインにせよコーラスの質感にせよ明らかにThe Beatlesの系統にあるポップスなど。二時二〇分頃に退店すると、雨は止んでおらず、それどころか強まっていた。人々がみんな傘を差しているなかでひとりだけ濡れながら駅へ行き、反対側に抜けて医者へ向かう。これくらい降っていればもはやゆっくり行こうが走ろうが変わらんだろうと普通の速度で歩いていった。
  • 医者では書見しつつ番を待ち、診察では体調に全然問題はないですね、正直薬を飲み忘れることもけっこうあるんですが、何も支障を感じませんと報告すると、もうほぼ終了と考えて良いでしょうね、との返答があり、変わらずセルトラリンを二八日分処方して自分で調節しながら飲むということになった。スムーズに行けば次回でたぶん終わりになるはずで、実際、九月二九日を迎えている現在、処方されたものがあと九錠も残っているので、一九錠で三か月を保たせたことになる。九〇日÷二〇錠とおおまかに考えれば四日強で一錠という計算だから、まあもう寛解したようなものだろう。よく復活したものだ。一時期は、自分の生はもう終わった、という完璧かつ混じり気のまったくない純粋無垢な虚無感に支配されていたのだが。
  • 薬局で薬をもらい(今日までギリギリセーフですよねと笑ってビニール袋に入れてもらった)、雨に濡れながら駅へ。だいぶ降っていたものの、騒がず通常の歩調で黙々と行く。それなので当然、シャツや髪の毛はかなり濡れた。
  • 職場での面談は(……)さん(小六)が相手。この日の面談についてはすみやかにメモを取ることを怠ってしまい、記録したときには七月六日の午前三時に至っていたので記憶がだいぶ欠けてしまっていたのだが、まず塾の授業(国語と算数)の効果はそこそこ感じられており、通いだしてから成績もちょっと上がったという話だったはずだ。中学受験はせずに市立に進む予定。最近面白いことはアニメ。主にはたぶんジャンプ系の少年漫画が好きなようで、いま流行りの『鬼滅の刃』とか『暗殺教室』とかを見ていると言っていた。『暗殺教室』はたしか『脳噛探偵ネウロ』みたいなタイトルのあの作品の作者の漫画で、すこし前の作品だったと思うが、動画配信サイトというかいわゆるサブスクというやつか、そのサービスで視聴しているらしい。また、たしかピアノを習っているとも言っていたはずだ。そのほか絵を描くことも好きでファッション関係にも興味があり、将来もファッションデザイナーのような方面を目指したいということだったと思う。夏期では英語をやりたいという要望。学校の授業はたぶん会話表現を習ってみんなで言い合うような形ではないかと思うのだが、全然わからないと言う。
  • その後のことは大方忘れた。石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)を読みだし、早速五〇ページほど進めている。はじめのうちは色々写真が載せられているわけだけれど、まずもって二番目の、いわばオープニングに当たるバイヨンヌの街路の写真(4)がすばらしい(「バイヨンヌ、ポンヌフ通り、またはアルソー通り(ロジェ=ヴィオレ撮影)」)。日本風に言えばまさしく軒を接してというか、隙間なく建ち並んだ建物の群れに両側を縁取られた石畳の裏路地が捉えられているのだが、通りに接した建物の壁面が生み出す垂直方向の整然とした感覚と、視界の先に伸びていく道がそなえている奥方向への志向感覚がうまく調和している(加えて縦の領域上には無数の窓(たぶんこれが鎧戸というものだろうか)およびその外に設けられた手すり(柵)によって網状の――線と隙間を規則的に組み合わせた(虚実の両線を連続的に並置させた)――装飾が付加されており、それが〈ざらざらとした〉感触を瞳に与えてくれる)。視界の果てには幻影的にうっすらとした姿で教会の尖塔が現れており、錐、すなわち先の尖った突出の形を中央後景に置くことによってこの空間を完結させている。これら〈縦〉・〈奥〉・〈錐〉という三つの感覚的形象の綺麗な統合がこの写真の魅力のひとつだろう。
  • 一九ページにはバルトの父であるルイ・バルトの肖像写真があるのだけれど、この人がかなり格好良いイケメンで、まるでアルクール・スタジオで撮った俳優の写真(ブロマイドというやつか?)のように整った姿に収まっている。右手の人差し指だけ伸ばして顔の横に当てながら椅子の肘掛けを支えに頬杖をしているのだが、いわゆる「文人」に伝統的なそのポーズも相まって、柔和さと繊細さに満ちた知性のにおいがはっきりと香っている。すくなくともこの写真においては、(口の周りに少量の髭を生やし、軍服をまとっているにもかかわらず)男性性を誇示する感覚(気配)がまるで感知されず、端正な顔立ちと肌の白さと寡黙な表情からは、むしろ慎ましい女性性のようなニュアンスすら感じないでもないし、そこから同性愛者的な雰囲気もほんのかすかににじみ出ているような気もされる。
  • あとどうでも良い話なのだが、ロラン・バルトの髪型は若い頃からほぼ一定で、オールバックの一種に当たるのだろうか、七・三くらいのバランスで分けて撫でつけるタイプのものなのだけれど、若い時分と後年の写真とでは、なぜか髪の分け方が逆になっている。七三分け自体は一二ページにある「子どものころ」の写真ではやくも現れており、一七歳時点(31および32の家族と海辺を訪れた際の写真)でもそうなっているし、三四ページの一四歳時点の写真でもそうだ。ただこのあたりではまだ撫でつけるという感じではなく、オールバック的な撫でつけがはじめて観察されるのは、女性と並んで脚を崩しながら下草の上に座っている二二歳の段階である(三八ページの「一九三七年、ブローニュの森」)。そしてこの時点までは頭の左端(向かって右側)に分け目があるのに、年を取って以降の写真ではすべて例外なく、分け目は頭の右端(向かって左側)に移っている。どうもどこかの時点でスタイルの変更があったらしい。
  • 49: 「気楽さ」の「倫理的なちから」: 「いかなる勇ましさもすすんで失おうとすること」。
  • 51: 「彼はブルジョワジーの価値観に与してはいなかったし、それにたいして憤ることもできなかった」: 後半の文言はちょっと意外だ。ロラン・バルトという人は生涯を通じて「ブルジョワジーの価値観」(もしくはプチ・ブルジョワイデオロギー)に生理的な嫌悪感を禁じえなかった人だと思っていたので。とはいえ、単に「子ども」時代のことだからということなのかもしれないし、「嫌悪感」と「憤ること」とは違うとも考えられる。しかし、のちのページのさまざまな記述を読んでみても、どうもバルトはブルジョワ的価値観やいわゆる「ドクサ」に対して嫌悪や忌避を覚えるだけでなく、ある程度は両義的な関わり方をしていたようにも思われるのだ。それについてはひとまず措いておき、51の「金銭」の断章にもどると、「憤ることもできなかった」理由としては直後に続けて、「というのは彼の目には、ブルジョワジーの価値観とは、小説的なジャンルに属する言語活動の情景でしかなかったからである」と述べられており、それより前では、「ブルジョワ的な場所」たるバイヨンヌには「休暇で行くだけ」で、「演劇の舞台を見に行くようなものだった」とも語られている。だから幼少期のバルトにとってブルジョワ的な文化や価値観の表出や言葉遣いというものは、ある種フィクションの作品を読んだり見たりしているような、〈その外にいて〉それを眺めているような〈見世物〉として感じられていたのではないか。だとすれば「憤ることもできなかった」というのも理解できる話で、「憤る」ためには距離が遠すぎたということなのかもしれない。ただ一方で、「彼は、ブルジョワジー生活様式だけにかかわっていた」とも言われているのだが、逆に言えばすくなくとも「ブルジョワジー生活様式」には関わりを持っていたわけで、この点はもしかするとバルトが「宗教」という文化の信仰的内容にはおそらく興味を失いながらも、そこにも「儀式の魅力だけはまだ残っている」(85)と感じることと何か関連しているのかもしれない。
  • おなじ「金銭」の断章によれば、子供時代のロラン・バルトは相当に貧しい生活を送っていたようで、「食べ物に困ることさえあった」(52)と言う。そしてこの「貧苦」あるいは「困窮」から、「自由な代償や、快楽の多元的決定や、〈気楽さ〉(……)という哲学」が「生まれたのだろう」と推測され、「彼の考えかたを形成した問題とは、おそらくは金銭であり、性ではなかったのである」と段落は結語されるが、ここで「金銭」に対比されて「性」が出てくる点が興味深く、それがどういう意味合いを持っているのかこちらにはよく掴めていない。たぶん精神分析方面の知見を踏まえているのだろうか。
  • 52: 「価値という点で、金銭はふたつの相反する意味をもっている(対立素なのだ)」: 「対立素」。
  • 54: 「彼は、勝ち誇った発言があまり好きではない。(……)きわめて正当な勝利でも、発言という点になると、悪しき言語価値、つまり〈傲慢さ〉となってしまう。この言葉はバタイユのなかで見つけたものだ。(……)この言葉や今や、あらゆる勝ち誇った言述へと広げられたのである」 / テーマ: 「勝ち誇った発言」(もしくは姿勢) - 「勇ましさ」 - 「傲慢さ」(arrogance=「厚顔さ」)との(真正面からではない)闘いの探究。
  • 「岸内閣の下で自民党幹事長」就任、安保闘争時には「小沢佐重喜を安保特別委員会委員長に起用して強行採決の段取りを進め、とにかく新安保条約の成立まで岸政権を守り抜いた」。「川島はこのとき自衛隊の治安出動を検討していたという」が、上掲したようにそれを阻んだのが赤城宗徳である。池田勇人の総裁三選に功あり、六四年に自民党副総裁に就任、佐藤栄作政権下でも「終生自民党副総裁の地位を維持し、常に与党ナンバー2の地位を保ち続けた」。


・作文
 10:46 - 11:00 = 14分(5月27日)
 11:06 - 11:13 = 7分(6月30日)
 11:16 - 11:49 = 33分(5月28日)
 11:53 - 12:38 = 45分(5月28日)
 26:14 - 27:37 = 1時間23分(5月28日)
 計: 3時間2分

・読書
 12:39 - 13:08 = 29分(バルト: 1 - 8)
 20:40 - 21:16 = 36分(ジョンソン)
 21:17 - 24:14 = 2時間57分(バルト: 8 - 54)
 27:41 - 28:10 = 29分(Wikipedia
 計: 4時間31分

・音楽