2020/7/1, Wed.

 神話のシニフィアンは、曖昧なかたちで示される。それは意味であると同時に形式であり、充満していると同時に空虚なのだ。意味としてのシニフィアンは、読み取られることをすでに前提にしている。わたしはシニフィアンを目で捉える。それは感覚的な現実性を持っているのだ(純粋な心的領域に属する言語学的なシニフィアンとは反対である)。また、それは豊かさを含んでいる。ライオンと名乗ることやニグロの敬礼は、もっともらしい全体をなしており、充分な合理性をそなえているのだ。言語学的な諸々の記号の総体として、神話の意味は固有の価値を持つ。ライオンの歴史にせよニグロの歴史にせよ、神話の意味は歴史の一部をなしている。意味において、意味作用[シニフィカシオン]はすでに構成されているので、もしも神話が意味作用を捉えて一挙に空虚な寄生的な形式にしてしまわなければ、意味作用はそれ自体だけでも、かなり充足することができるかもしれない。意味はすでに[﹅3]完全であり、これは知、過去、記憶といったものや、事実、観念、決定などの比較的な序列を前提にしている。
 形式となることによって、意味はその偶発性を遠ざける。意味は空虚になり、貧しくなり、歴史は蒸発し、もはや文字しか残らない。ここには読み取りの操作による逆説的な配置転換がある。これは意味の形式への、すなわち、言語学的な記号から神話的なシニフィアンへの異常な逆行である。「なぜなれば我が名は獅子なれば」(quia ego nominor leo)を、純粋に言語学的な体系のなかに閉じ込めておけば、その命題はそこで充溢、豊かさ、歴史を見出す。わたしは動物である。ライオンである。これこれの土地で暮らしている。狩りから戻ってきたところだ。獲物を、仔牛、牝牛、牡山羊たちが、分けてほしいらしい。だが、一番強いのだから、いろいろな理由をつけて、全部を自分のものにする。その最後の理由が、ただたんに、「わたしの名前はライオンだ」というものである。しかしながら、神話の形式としては、もうこの命題は、そうした長い物語に関することはほとんど含んでいない。意味のほうは、価値の体系を含んでいた。歴史、地理、教訓、動物学、〈文学〉を含んでいたのだ。形式がこれらすべての富を遠ざけてしまった。その新たな貧しさは、それを満たしてくれるような意味作用を必要としている。文法の例文に場所をあけるには、ライオンの物語をずっと遠くに退けなければならない。もしニグロの映像を解放して、そのシニフィエを受け入れるようにさせたいと思ったら、ニグロの伝記のほうは、括弧に入れなければならないのだ。
 しかし、以上すべてにおいて肝心な点は、形式は意味を消去しないということである。形式は意味を乏しくしたり、意味を遠ざけたりするだけで、いつでも自由に使えるように保持している。意味は死んでしまうように思われるが、それは執行猶予つきの死である。意味はその価値を失うが、生命を保っており、それによって神話の形式が育まれる。意味は歴史にとって瞬間的なたくわえのようなものとなるだろう。それは、すばやく交互に呼び出したり遠ざけたりできる扱いやすい富のようなものだろう。形式はたえず意味のなかに根をおろし直し、そこから自然に養分を吸い取らねばならないが、形式はとりわけ意味のなかに隠れていなければならない。神話の定義づけているものは、意味と形式のあいだでの、このたえまない隠れん坊の働きである。神話の形式はシンボルとは違う。敬礼しているニグロは、フランス帝国のシンボルではない。シンボルとしては、彼はあまりに現前の存在感がありすぎるからだ。彼は豊かな、生きられた、自然発生的な、議論の余地のない[﹅8]映像として姿を見せている。だが同時に、この存在感は従順であり、遠ざけられていて、透明のような状態になっている。それはいくらか後ろに退いて、それのもとにすっかり武装してやって来た、フランス帝国性という概念と共犯者になる。存在感は借り物[﹅3]となるのである。
 それでは今度は、シニフィエを見てみよう。形式の外に流れ出ているこの歴史、それをすべて吸収してしまうのが概念である。概念はというと、これは限定されている。それは歴史的であると同時に意図的である。つまり、神話を発するように仕向ける動機である。文法の例文という性質や、フランスの帝国的な性質が、まさに神話の衝動になっているのだ。概念は、原因と結果の、動機と意図の連鎖を、ふたたび確定する。形式とは反対に、概念は少しも抽象的ではない。それは特定の状況によって満たされている。概念によって神話のなかに植えつけられるのは、まったくの新しい歴史だ。前もってその偶発性を空っぽにさせられたライオンの命名においては、文法の例文はわたしの全実存を呼び出そうとするだろう。例えば、ラテン語の文法が教育されている特定の時代に、わたしを誕生させた〈時間〉。ラテン語を習わない子供たちから、社会的隔離の作用全体によって、わたしを区別している〈歴史〉。イソップやファエドルスのなかから、こうした例文を選び出す教育学的な伝統。属詞の一致に、注目に値する、実例にふさわしい事実を見てとるような、わたし自身の言語学的な習慣、などである。敬礼する - ニグロについても、ことは同じだ。形式としての意味は瞬時のもので、孤立しており、乏しくされている。概念としてのフランス帝国性、これはまたもや世界の総体に結びつけられる。すなわち、フランスの〈全歴史〉に、その植民地的冒険に、その現今の困難に。実をいえば、概念のなかに注ぎ込まれているのは、現実というより、現実に関する或る種の知識なのである。意味から形式に移行することで、映像は知識を失う。それは、概念の知識をよりよく受け入れようとするためである。実際には、神話的概念に含まれている知識は、混乱していて、緩い結びつきからできていて、限定されていない知識である。この概念の開放的な性質は強調しておく必要がある。概念はいささかも抽象的な純化された本質ではないのだ。それは不定形で、不安定で、星雲のように、凝集したものであり、その統一性、首尾一貫性はなによりも機能に由来している。
 この意味で、神話的概念の基本的性質、それは適合させられていること[﹅11]だといえよう。文法の例文という性質は、きわめて正確に、限定された生徒たちの学級に関わっているし、フランス帝国性は、これこれの読者層に訴えかけるはずだが、他の読者層にはそうではない。概念は密接に機能と呼応しており、一つの傾向として定義される。(……)
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、330~333; 「今日における神話」; 一九五六年九月)



  • 一一時台に覚めてしばらく瞑目のうちにからだの感覚を探ったあと、正午前に起床。今日もまた薄白い曇り日。
  • 上がっていけば母親はまもなく仕事へ出るところ。素麺を煮込む用意をしておいてくれた。隣のTさんの息子であるYさんが花をくれたと言う。ペチュニア、とか言っていた。素麺をつゆに入れて煮込んだあと、丼に注いで卓に運び、新聞を読みながら食べる。ついに香港に対して「国家安全維持法案」が可決されてしまった。
  • 風呂洗いののち緑茶を用意して帰室。LINEを覗くと久しぶりにUくんから連絡が届いていた。毎週ウルフの『灯台へ』を英語原文で読んでいく会をやろうと思っているがどうか、と言う。最高にラディカルな営みなのでもちろん、詳しいお話しを聞かせてくださいと応じておいた。またそれとは別に久しぶりにお話ししたいともあったので、こちらも同じ思いだと答えて、予定を尋ねておく。
  • 一時二〇分から日記。今日のことをさっと記したのち、五月二八日にMさんと交わした会話の内容を記述していく。もうさほどきちんと推敲はしないけれど、いくらか読み返して語調を整えるくらいのことはするので、一段落の分量が多いこともあってなかなか進まない。三時半前まで二時間弱。BGMはBlankey Jet City『LIVE!!!』、Kate Bush『The Kick Inside』、Keith Jarrett Trio『At The Blue Note - Saturday, June 4th, 1994, 1st Set』。Blankey Jet Cityでは、"不良少年のうた"、"胸がこわれそう"、"RAIN DOG"あたりがやはり良い。Keith Jarrett Trioはマンネリと言えばもちろんそうで、八〇年代から現在まで顕著に目新しいことはたぶんほぼ一つもやっていないと思うのだが、どのアルバムでも常に一定以上の高い質は確保されているし、いずれきちんと聞きこんでみる価値はあると思う。片手間に聞いていて思ったのは、例えばBill EvansKeith Jarrettを並べて語ることが多い世の一般的風潮はやはり不正確だろうということで、この二者は多くのリスナーにおいて「美しい」演奏だという印象を生じさせるだろうという点ではかろうじて共通要素が見出せるものの、それはもっとも大まかな水準での話であって、スタイルとしてはまるで違うし、その「美しさ」の質も相当に異なっていると思う。その相違をこまかく明らかにすることはいまはできないが、たぶん一番異なっている点の一つとして、感情性の有無あるいはそれに対する距離の取り方が挙げられるのではないか。Keith Jarrettという人は演奏中に喘ぎのような声をやたらと漏らすことでも有名で、たしか『The Koln Concert』は「ピアノとセックスしている」なんて評されたこともあるとどこかで聞いた覚えがあるけれど、喘ぎ声を措いてもそもそもフレージングとして感情性がかなり強く、自らが味わっているおそらく官能的とも言うべき陶酔におおむね無抵抗に従って情動を赤裸々に表出することで聴者をもその情動的官能性に巻きこんでいく、という側面が大きいと思う。そういう点にもしかしたらロックミュージック勃興以降の感性を見ることも可能なのかもしれないが、それはともかくとして彼における情動性というのは音列の配置やその緩急の波打ち方、あるいは時折りの突発的な散乱ぶりに明らかに聞き取ることができるとこちらは考えており、要するにKeith Jarrettの弾き方は全然規則正しくない。対してBill Evansという人は少なくとも一九六一年の時点ではこれ以上ないほどに整然とした演奏をするピアニストであり、その音楽の表面に感情性の香りはほとんど現れておらず、すさまじく精巧なロボットのような印象すら与えるほどなのだけれど、それは「機械的」だということではまったくなく、むしろきわめて人間的と感じられるニュアンスとしての「美しさ」に満ち満ちている。その点が、Bill Evansというピアニストがそなえている不可思議な特異性の一端ではないか。上記のような印象が当たっているとして、Bill Evansには比肩しうる相手がほぼ存在しないほどに高度な構造的感性が宿っているというところはたぶん間違いないと思うのだけれど、そんな簡単な話で片づいたら誰も苦労はしない。
  • 55(「占い師の身ぶり」): 「かつて、占い師がその杖で空のほうを、すなわち指し示すことのできないもののほうを指し示しているすがたは、美しかったにちがいない」: 「指し示すことのできないもののほうを指し示している」
  • 56(「選択ではなく同意を」): 「彼は中国を「選択した」のではなく(……)中国でいとなまれていることにたいして、(……)〈同意した〉のである」。「だが、それはほとんど理解されなかった。インテリ読者層がもとめているのは、〈選択〉だからである。中国から帰ってくるときは、観客で満員になった闘牛場へ控え場から飛び出してくる雄牛のように、猛り狂うか、勝ち誇っていなければならなかったのである」: 「勝ち誇って」いる態度のテーマと「〈選択〉」の結びつき。
  • 57:(「真実と断定」): 「彼の言述の目的は真実を言うことではないのに、ところがその言述が断定的になっている」 / 「断定的なのは言語のほうであって、彼ではない、と考えるようにしている」 / 「おなじ思いから、彼は自分がなにかを書くたびに、それが友人のひとりを――けっして同じ友人ではなく、いつも違う友人を――傷つけるのではないかと思ってしまう」: 「友人」(他人)を「傷つける」ことへの「不安」: 一種の〈弱々しさ〉?(〈雄々しさの欠如〉)。
  • 62(「愚かしさについて、わたしに権利があるのは……」): 「愚かしさとは、固くて割ることのできない核であり、〈根源的なもの〉なのであろう」。「それを〈科学的に〉分解するすべは何もない」 (→ 「「真実は、固さのなかにある」とポーは言った(『ユリイカ』より)」。「ギリシア語の〈ステレオス〉とは〈固い〉という意味である」)。 / 「愚かしさについては、結局、わたしは次のようにしか言う資格はないだろう。〈それはわたしを魅了する〉、と。魅惑こそが、愚かしさ(もし人がこの名詞を口にしたなら)がわたしに抱かせるにちがいない〈正確な〉感情なのだろう」: 不思議。困惑。 / 「愚かしさは〈わたしを抱きしめる〉のだ(それは手に負えず、それに打ち勝つものは何もなく、あなたを「熱い手遊び」のなかに引きこんでしまうのである)」
  • 出勤前の食事はベーコンと卵を焼いて米の上に乗せたもの。夕刊を取りに外に出ると風が林を鳴らしており、地には雨痕があるけれどもう降ってはいない。もどってニュースを読みつつ腹を満たす。新聞にはまだ報がなかったが、先ほどTwitterで、香港に適用された例の「国家安全維持法」で初の逮捕者が出たという情報を見た。
  • 片づけて下へ行くと歯磨き。歯ブラシがもはや相当に古びていて毛の根元も(だんだん歯垢が溜まっていくのだろう)汚れているので、帰りに新しいのを買ってこようかと考えた。着替えて支度すると今日のことをわずかに書いて出発。やはり林が風に鳴っている。路上にはこまかな羽虫がたくさん湧いており、宙をうごめいて顔の周りを飛び過ぎる。道の先に掃き掃除をしている老女を認め、近づいたところで挨拶をかけると、Fさんの息子さん? と訊くので肯定で受けた。たぶんSさんの家の横をちょっと下りたところに住んでいる人だと思うが、名前がわからなかった。帰宅後に母親に訊いたところ、Kさんと言うようだ。スマートで(あるいはすらっとしていて、だったか)格好良いねと言われるので笑って礼を返す。Tさんしかり、こちらは高齢の女性に外見を褒められることが多い。いったいどこから聞いたのかわからないがこちらが塾勤めなのも知っていた。それで場所を教え、春とかは歩いていくんですけどね、最近は暑いんで電車に乗っちゃいますね、とか二、三、話して別れて進んだ。
  • 坂道はむろん湿っている。なかに一箇所、割れた木の破片が落ちていて、沈んだ色合いのなかにあってそこだけ明るめの橙褐色が目に立つ。空気はかなり蒸し暑く、最寄り駅の階段から西空を見上げれば青灰色に近づいた雲がひろく支配を誇っており、一部崩れてほつれた部分があるものの、その向こうにもまた雲の層がひかえているようで薄光の手触りをはらみながらも重ねて白い。ベンチに就いて手帳にメモを取るうちに電車が来たので立ち上がれば、座部と接していた脚の裏側が水気を帯びているし、青梅で降りてホームを歩いても髪のなかに湿り気が籠って、空気はかなり水っぽいようだ。
  • 勤務。今日は(……)くん(中二・英語)と、久しぶりに(……)くん(中二・英語)が相手。授業中、中学校で卓球部だった時代の粗相を笑い話として語った。勤務後は(……)さんとも話したり、ちょっと教えたり。退勤するとコンビニへ。(……)さんが、雨降ってたよ、大粒の、と言っていたがたしかにそうだった。コンビニでは歯ブラシ二本とスナック菓子を買い、それから駅に入って電車に乗りメモを取ろうと思ったところが手帳がない。それで職場に忘れてきたことに気づいたので降りてもどり、改札口で職員に、職場に忘れ物をしてきちゃったんで一度出たいんですけどと話して通してもらった。手帳を回収してもどってくると電車に乗ってふたたびメモに移ろうとしたが、今度はペンを忘れてきたことに気がついた。職場に置いてある赤のボールペンと一緒にレターケースに入れてきてしまったのだ。迂闊なことで、それで結局メモを取れずに終わる。
  • 最寄り駅からの帰路では昨日に続いてまた濡らされることになり、しかも雨は昨日よりも強かったのだが、それでも意に介さずに急がず歩き、平気な顔で打たれながら坂を下って平ら道を行った。さすがにだいぶ濡れて、後頭部や顔の側面などに粒が垂れて流れる感覚があったので髪をかき上げて茶を濁す。
  • その後のことはメモがないのでわからない。


・作文
 13:22 - 13:32 = 10分(7月1日)
 13:34 - 15:22 = 1時間48分(5月28日)
 17:02 - 17:10 = 8分(7月1日)
 21:47 - 22:18 = 31分(7月1日)
 27:05 - 28:17 = 1時間12分(6月25日 / 6月26日)
 28:37 - 28:55 = 18分(7月1日)
 計: 4時間7分

・読書
 15:43 - 16:21 = 38分(バルト: 54 - 64)
 16:48 - 16:55 = 7分(バルト: 64 - 65)
 計: 45分

・音楽