2020/7/8, Wed.

 世界が神話に提供するものは歴史的な現実であり、その現実はどんなに遠い過去にまで遡らねばならないとしても、人間たちがそれを生産したり使用したりしてきたやりかたによって定義されている。そして、神話が再構成するのは、この現実の自然な[﹅3]イメージである。さらには、ブルジョワイデオロギーブルジョワという名前の欠落によって定義されるのとまったく同様に、神話は事物の歴史的性質の消失によって構成されている。事物は、自らの製造の記憶を神話のなかで喪失するのだ。世界は諸々の活動の、人間的行為の、弁証法的関連として、言語活動のなかに入り、諸々の本質の調和しあった一覧表として、神話のなかから出てくる。一種の手品が行われたのである。現実をひっくり返し、その歴史を取り出して中身を空っぽにし、自然を詰め込んだのであり、事物からその人間的な意味を抜き取って、人間的な無意味さを意味させようとしたのだ。神話の機能は、現実的なものを排出することである。現実的なものは、文字通り、たえまない流出であり、出血であり、こういったほうがお好みなら、蒸発であり、つまりは感じることのできる欠如である。
 いまやブルジョワ社会における神話の記号学的定義を完成することが可能である。神話とは非政治化された(dépolitisée)言葉である[﹅16]。当然のことだが、政治[﹅2]ということは、つぎのような深い意味で、すなわち、その現実的、社会的構造における、その世界を製造する能力における人間的な諸関係の総体として理解しなくてはならない。とくに接頭辞のdé- には、積極的な価値を与えなくてはならない。ここではそれは、一つの操作上の動きを表している。それはたえず欠落を現実化するのである。たとえば、ニグロ - 兵士の場合、排出されているのは、もちろんフランス帝国性ではない(まさにその反対に、それは現前させなければならないものである)。それは植民地主義の、偶発的な、歴史的な、つまり、偽造された[﹅5]性質である。神話は事物を否定することはしない。その機能は、逆に事物について語ることである。もっぱら神話は事物を浄化し、無垢にし、自然と永遠のなかに基礎づける。神話が事物に与える明晰さは、説明の明晰さではなく、確認の明晰さである。わたしがフランス帝国性を確認して[﹅4]、それを説明しなければ、わたしは危うくそれを自然な、自明のもの[﹅5]と見なしているところである。わたしはほっと安心する。歴史から神話に移行する過程で、神話が節約することが一つある。神話はさまざまな人間的行為の複雑さを取り消して、かわりに本質というものが持つ単純さを与えるのだ。神話はどんな弁証法をも消去する。直接的な目に見えるものの彼方への、どんな遡行も消去するのだ。神話は矛盾なき世界を組織する。深さのない世界は、明証性のうちに広げられ、幸福な明るさを築きあげるからだ。事物はひとりでに意味するように見える。
 だがいったい、神話というのはいつも非政治化された言葉なのだろうか。言い換えれば、現実的なものはいつも政治的なのだろうか。事物について自然な調子で語るだけで、その事物が神話的になるには充分なのだろうか。マルクスとともに、こう答えることができよう、最も自然な対象でさえ、政治的痕跡を、いかに微弱でいかに拡散しているにせよ含んでいるのだ、すなわち、その対象を生産し、整備し、使用し、従わせたり捨てたりした人間の行為の、多少なりとも記憶に残るものを含んでいるのだと。こうした痕跡については、対象言語は事物を[﹅]語るのだから、それを容易に表明することができるが、事物について[﹅3]語るメタ言語がこうした痕跡を表明するのは、それほど容易ではない。ところで、神話とはつねにメタ言語である。神話がもたらす非政治化の作用がしばしば及ぶのは、すでに一般的なメタ言語によって自然化され、非政治化されている基底、もはや事物を動かすことではなく、事物を謳いあげる[﹅5]ことをしつけられている基底に対してである。いうまでもなく、神話がその対象を歪めるのに必要とされる力は、一本の木の場合よりスーダン人の場合のほうがはるかに大きくなるだろう。スーダン人の場合には、政治的役割がまったく手近にあるため、それを蒸発させるには、多大な量の人工的自然さが必要である。樹木の場合には、政治的役割は遠方にあって、メタ言語の幾世紀にもわたる厚みによって浄化されている。したがって、強い神話と弱い神話があることになる。強い神話では、政治的成分は直接的であり、非政治化は粗雑である。弱い神話では、対象の政治的性質はちょうど色彩のように色あせた[﹅4]ものである。だが、ほんのささいなことで、それはやおら力を回復できる。海ほど自然な[﹅3]ものがあるだろうか。だが、『失われた大陸』の映画制作者たちによって謳いあげられた海ほど「政治的」なものがあるだろうか。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、361~363; 「今日における神話」; 一九五六年九月)


 一一時のアラームで意識を固める。ごろごろしつつ身体揉んだり脹脛刺激したりして、一一時二五分離床。

 夢。図書館。消毒をしないといけない。ゲート。借りる本も消毒。
 ほか、(……)。何かテーブルで食べるか話すか。椅子に手指を触れると、さわらないほうが良いと馬鹿にされる。
 何か馬鹿にされたり非難されたりする夢をこれ以外にもいくつか見たような覚えがある。

 University of Reading。

 茶つぐ。風ないよう。(……)さんの家の鮎は縦に力なく垂れ下がっている。首吊り死体の緩慢さで左右にほんの少しみじろぐ。

 五月二九日の日記に新聞記事を写す。ジョージ・フロイドの事件を写しながらちょっと涙を漏らしてしまって、まるで愚かで浅ましいことだなあと思うのだけれど、この愚かしさは必要な愚かしさなのだと思いたい。

 Mr. Children歌う。

 Borodin Quartet『Borodin/Shostakovich: String Quartets』をバックに五月三〇日。これは(……)からもらった音源なのだが、このアルバムの演奏は相当すばらしい気がする。Borodinの曲もShostakovichの曲も、路線は全然違うけれどどちらもすばらしい。Borodinのほうは"String Quartet #2 in D"で、Shostakovichは"String Quartet #8 in C Minor, Op. 110"。明らかに集中して聞く価値がある音楽だが、しかし一体いつになったらきちんとした音楽鑑賞を習慣化できるのか?

 五月三〇日も完成させられた。投稿後、(……)くんの面談記録をノートに。Mr. Children流し、歌う。身体をほぐすことを知ったので、かなり声がスムーズに出るようになった。このままアコギを買い、曲と詞を作り、似非シンガーソングライターとして遊びたい。

 上階に行って小さな木綿豆腐一つだけ食う。新聞。中印の抗争など。釘のついた棍棒でインド兵二〇人が殺されたと。ほとんど世紀末的な野蛮さ。

 帰室して歯磨きとともにバルト読み、着替え。OAM Trio & Mark Turner『Live In Sevilla』とともに「英語」を少し読み、この日のことをメモしてもう出発するよう。

 出発。風、乏しい。林の樹々の緑色は密に停まっている。隣の空き地の旗がかすかにくねっているだけ。
 道を西へ。右方、林縁の石段の上の無秩序な茂みのなかに、強いピンク色のアサガオ風の花。これはオシロイバナというやつだったか? いま調べてみたところ、やはりそのようだ。Wikipediaを覗くと、「南アメリカ原産で江戸時代始めごろに渡来」とのこと。「花は赤、黄色、白や絞り模様(同じ株で複数の色のものもある)などで、内、白と黄の絞りは少ない」とあるが、「絞り模様」という言葉をはじめて知った。画像検索して出てきたものを見る限り、色が細かく差し込まれて、ややまだらっぽいような複雑な様相になったもののようだ。「夜間に開き花筒が長いので口吻の長い大型の夜行性鱗翅目でなければ吸蜜は困難」らしい。「花弁はなく、花弁に見えるのはがく」なのだと言う。マジかよ。「根や種子に窒素化合物のトリゴネリンを含み、誤食すると嘔吐、腹痛、激しい下痢を起こす」らしい。
 道に沿って脇には葉叢が豊かに続いて織り重なっており、見ながらどこかの葉の上にカタツムリがいそうだなと思ったのだが、それはたぶん黄色っぽくなった落葉が葉の上に乗っていたのにカタツムリの姿を連想したためだろう。意外と出るのが遅くなって電車まで猶予がなかったので大股になる。通り掛かる家の庭では白い蝶が庭木に寄っている。公営住宅公園の桜の木は葉のいくらかを果物みたいな黄色に変えている。
 坂に入ると足をはやめてさらに急ぐ。雨後で木の下なので当然道は隅まですべて濡れており、湿り気が満ちているなかに、いまは陽がかろうじて出ていて白条がうっすらと横切り差し込まれ、そのなかだけ路面がきらきらと緻密に光る。途中、昨晩の帰りに見た木と花にまた目をやる。やはりヤマボウシだろうか? 似ているとは思うのだが、そのものかわからない。
 最寄り駅に至る。階段を行くあいだ、西空に太陽が、雲に巻かれつつもいくらか光って額に温みを触れさせてくる。坂を大股で上ってきたので既に脚が疲れ、筋肉が使われた感じがする。電車に乗るとメモ。到着しても切りの良いところまで記し、おりて職場へ。階段口に掛かったあたりで(……)方からの人々が降りてくる。階段をおりつつ、横をどんどん抜かされていく。

 職場。(……)
 (……)
 (……)
 (……)

 (……)くんとは今日さっそく飯に行くことになった。最初は街道沿いにあるガラス張りの、地ビールを提供する店に行こうとなって向かったものの、懸念どおり一〇時前で既に閉まっている。以前来たときはたしか零時くらいまでやっていたはずだが、おそらくコロナウイルスのせいで自粛しているのだ。次に、もとお好み焼き屋だった店が居酒屋になっているというので、街道をてくてく歩きそこに行ってみる。ここはもとは「(……)」という店で、と言うかそれが店名だったか覚えていないが「(……)」という名字の家がやっていたはずで、この家の息子がこちらの中学時代に教育実習生として学校に来ていた。その人は(……)に属していたようで(……)とか(……)所属の連中とは面識があったようだし、奴らが「(……)」に行こうぜとかどうのこうのとか言っていたことがあったのも覚えている。あとは、猥談好きな連中が、その(……)教育実習生に対してセックスしたことあんのとか、「セックス」という単語ではなかったと思うが、性経験の有無を尋ねて、実習生はそれに対して、いくらか照れたようにあるいは当惑したようになりながら、いや、ここでその話はまずいだろみたいな風に受けていたのも覚えている。
 で、その店はいまや「(……)」とかいう居酒屋になったらしいのだがここも普通に閉まっており、店の前の看板を見るとラストオーダーが21:00とあったのでさすがに笑う。これこそ(……)クオリティだと言いながら道を戻り、結局駅前の(……)に落ち着くことに。一応個室なのでと(……)くんが言って。

 入店。入口に一番近い室。好きなものを好きなだけ食べてくれと言う。内定祝いで奢るという話になっていたので。なんて先輩みたいなことをやっているのだろう! 信じがたい! レシートをもとに頼んだものを列挙しておくと、飲み物はパインサワーとジンジャーエール。食べ物はポテトフライ、枝豆揚げ、餃子、エイヒレ、シーザーサラダ、マグロ巻、鶏の軟骨揚げ。と言うかいまレシートをよく見てはじめて気づいたのだが、お通しが二つで八〇〇円もしていて、高すぎではないか? 「チャージ」とも書いてあるので席代も込みらしいが、たかが大衆居酒屋に席代なんていうものがあったのか? どうでも良いことだけれど、「(……)」の本社である(……)は武蔵野市に所在しているらしい。
 一つ開けて二つ隣の室にはたぶんわりと若いほうの男女が集っているようで、いや、俺、(……)くんと遊び行きたいんすよ~とか若い男が言っており、この(……)って(……)じゃねえだろうなとひそかに思っていた。ほか、女性の声が男性に向けて、童貞がどうのこうのとか語っていて、この店にお定まりのありきたりの猥談という感じ。ここの(……)は来るといつも、ほぼ必ずほかの席で猥談に盛り上がっている連中がいる。
 店員は金髪のやや身体の大きめな女性。この店の店員はいつも愛想が悪いというイメージがあったのだが、今日の人は特にそんなことはなかった。ものを運んできてくれるたびに礼を言う。
 就活は大体オンラインだったらしい。エントリーにせよ試験にせよ面接にせよ。面接環境を整えるのが面倒臭い。一度切れたこともあったらしい。
 ニヒリズム。あまりまともに向き合いすぎると、精神の調子を崩すけどねと。斜めに向き合わないと、と。ニヒリズムを通過すると生きることは楽しくなるよとひとまず冗談めかして言っておき、ニヒリズムがむしろ始まりでしょうという話をする。世界の無根拠性に気づいたからと言ってそれで何でもありとなるのではなくて、そこを踏まえて自分にとって確かなことを探究していくと。たぶんニーチェの「超人」とかってそういう方向に話だと思うのだが、ニーチェはまだ一冊も読んだことがないので確かなことは知らない。(……)くんの先生もそういうことを言うらしい。まあだいたいそういう路線になるだろう。ナラティヴ論でそういうことを言っていたと。ナラティヴ論とはつまりは「物語」のことだろう。ただ(……)くんはそこで、そういう立場も一つのナラティヴじゃないですか、しかもそのナラティヴがほかのもろもろのそれよりも上に置かれているじゃないですかということを言って、そこに疑問を感じて乗れないみたいなことを言った。いかにもポストモダン的な病に嵌まっているという感じではある。
 やっぱり哲学と文学って似てるんですかね、と。まあ共通点は大きい。どちらも人間と世界に関するあらゆることを扱う。ただ文学は具体へ向かう、もしくは具体から始まる傾向がある気がする。哲学は抽象から始まったり、概念へと向かう。こちらは文学から入ったが、すると言葉のニュアンスに敏感になって、哲学的概念の射程もわかりやすくなった。
 (……)さん。(……)の先生だった。どんな人だったか紹介。「ひとりびとり」。(……)。
 自分の生にもとづいて考えたり、応用できたりすると面白い。倫理学者が倫理的な行動をするべきか、という議論。
 面接で、法哲学ってどういう風に役立つんですかと。いじめを例にして説明したらしい。役立つか否かという問いが本質的なのだろうかと問うことが哲学。
 内定は(……)の子会社らしい。法務部。
 授業は法哲学行政法法哲学は哲学とあまり変わらないが、法規的な方面を多少絡めると。動物の権利とか。スイスとかでは魚の権利なども考えられている。ピーター・シンガーの名を思い出す。法哲学というからルジャンドルとかやるのだろうかと思ったが、さすがにそんなことはないようだ。
 デリダ。文学的な散文詩みたいなやつは気になる。講義録出版。数十巻になるとか。以前どこかで見た。『現代思想』の國分功一郎の発言だったか?
 デリダの動画。法政大学出版局の本。YouTubeの。積ん読ウンベルト・エーコも同じ。
 友だちいるらしい。読書会でもやってみればと。LINEで哲学的なことについてやりとりしたりはするようだが。デリダについて話したり。とてもいいねと。
 ドストエフスキー。プレゼントされたらしい。『地下室の手記』。中二病をこじらせまくった。これお前だからと言われたらしい。まあ、何かを真剣にやろうとしたら、みんな中二病だから、恥ずかしくならざるをえないからねと。
 書抜きの習慣について話す。一箇所でも書き抜く場所があれば、まあいいかなという感じになると。
 アニメ。多少見るがファンではないとのこと。二〇一八年の鬱期間中に違法アップロードされたハンターハンターをひたすら見ていたと話す。

 店の前で挨拶。とにかく一冊読み終わりますと。レヴィナス論を読んでいるらしい。形而上学倫理学のあいだ、みたいなとタイトルを言っていたが、これは検索してみるに、佐藤義之レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで』だろう。今年の四月に出たやつで京大の人が書いたと言っていたから符合している(講談社学術文庫入りしたのが今年で、単行本は二〇〇〇年に出ているよう)。初見の名前だが、二〇〇四年には『物語とレヴィナスの「顔」――「顔」からの倫理に向けて』なる本を晃洋書房から出しており、ちょっと気にならないでもない。

 雨のなかに出て駅へ。街路の植え込みのアジサイがずいぶんと大きかった。しかもまだごく淡い白緑で色づいていなかったのだが、ずいぶんと遅くないか? 粒はこまかく大規模に集合してシャーベット的な様相。ロータリーの周りのベンチに就き、雨のなか濡れながら、上半身をぐったりと完全に前に折り曲げ、頭を両脚のあいだにもたれこんでいる人がおり、大丈夫かな、声をかけたほうが良いかなと思ったのだが、雨もけっこう降っていたし素通りしてしまった。一体何があったのか。酒に酔い過ぎたのか、何か死にたいような気分だったのか? 駅に入るとベンチでメモ取りつつ最終の(……)行きを待つ。この時間だと人は相当少なく、来た電車から降りてくるのも何だかよたよたしているような人が多い。(……)行きが来ると乗り、最寄りへ。

 帰路。坂。黄色がかった電灯の光の靄で煙っている。煙草のにおい。坂に入ったあたりでは前を行く人がいたので(さっさと先に行って見えなくなったが)、その人が吸っていたのだろう。空気の煙っぽい様相とテーマ的に調和している。樹々が雨を溜めており、頭上からぼたぼた水が落ちてきて、それがけっこう大きな粒で、肩口を遠慮なく濡らすし、頭頂に当たれば髪の毛に吸収されずにそのまま頭皮を転がって側頭部や後頭部までくすぐる。
 坂出ると雨弱くなっている。かなり。足の早い、気紛れな雨。道行きながら、周囲から雨音。打音。当然、打つものによって違う。葉や木、車庫の屋根、あるいは風鈴か、金属質の明確な音程のある音。それらがサウンドスケープを成しており、それを聞くのは音楽に耳を傾けるのとほとんど変わらない。と言うか、こちらにとっては音楽だろうが本だろうが食事だろうが会話だろうが散歩だろうがなんだろうが、生のあらゆる瞬間に本質的な違いはない。全部、おおむね同じだ。差異とニュアンスと意味と質感と比喩とイメージと論理だ。

 帰宅。両親既に寝室に下がっている。着替えて入浴し、一時半から書抜き。だいぶ疲労していたが。バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇一六年)と石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)。それぞれ一箇所。一日一箇所で良いので書抜きを習慣化したい。まあ音楽鑑賞もそうなのだが。一日一曲でいいのでと思っているのだが。その後ベッドでバルト読み出すが、予想通り途中で眠りに落ち、四時に至る。遊んだのちに五月三一日ちょっと書いて五時二〇分に就床。