3. 同一化 プチ・ブルジョアは〈他者〉を想像する能力のない人間である。もし他者が目の前に現れると、プチ・ブルジョワは目が見えなくなり、他者を無視して否定するか、さもなくば、他者を自分自身に変形してしまう。プチ・ブルジョワの宇宙では、対決の事柄はすべて反射の事柄であり、他者は同一者に還元される。スペクタクルや裁判といった、他者が露呈しかねない場所は、鏡となるのである。それは、他者が本質を傷つけるスキャンダルだからである。ドミニシやジェラール・デュプリエが、社会的実在に到達できるのは、あらかじめ彼らが、重罪院の裁判長や検事長の小さな摸像[シミュラクル]の状態に還元されていればこそである。それは、彼らを当然のこととして断罪できるために支払わねばならない代価だ。というのも、〈裁き〉とは天秤の操作であり、その天秤は同じものと同じものしか量れないからである。どんなプチ・ブルジョワの意識のなかにも、ならず者、親殺し、男色家などといった小さな摸像[シミュラクル]たちがあって、それを定期的に司法団体が自分の頭脳のなかから引っ張り出して、被告席に座らせ、激しく叱責して、有罪宣告をくだすのだ。裁かれるのは、正道を踏み外した[﹅8]類似者ばかりである。これは進むべき道の問題であって、本性の問題ではないからだ。なぜなら、人間はかくのごとくできている[﹅14]のだから。ときには――稀なことだが――〈他者〉が還元不可能なおのれの存在を現すこともある。突然プチ・ブルジョワの良心が咎めたからではない。その良識[﹅2]が〈他者〉と衝突するからである。或る人は白い肌ではなく、黒い肌をしている。また或る人は、梨のジュースを飲むが、ペルノー酒は飲まない。ニグロやロシア人をいかにして同化するべきか。救急用の文彩がある。エキゾティシズムだ。〈他者〉はまったくの対象、スペクタクル、人形芝居になる。人類の辺境に追いやられた〈他者〉は、もはやマイホームの安全をおびやかしはしない。これはとりわけプチ・ブル的な文彩である。というのは、ブルジョワのほうは、たとえ〈他者〉を実感できないまでも、少なくとも〈他者〉の居場所は想像できるからである。それが自由主義と呼ばれるものであり、承認されたそれぞれの場所に関する一種の知的倹約である。プチ・ブルジョワジーは自由主義的ではない(プチ・ブルはファシズムを生み出すが、ブルジョワはそれを利用するのだ)。プチ・ブルはブルジョワの道程を遅ればせについていくのだ。
(下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、372~373; 「今日における神話」; 一九五六年九月)
久しぶりに一時前まで寝坊。午前中には雨が降っていた覚えがあるが、いまはやんでいた。しかし例によって真っ白い曇り空。寝床にいたこのあいだだったと思うが、窓外から面白い鳥の声。打音をこまかく細長い箱に詰めこんでひたすら連続させたみたいな感じで、おもちゃのドリルかマシンガンのようでもあるのだが、とにかく何の音楽性も味わいも色気もない鳴き声で、こんなに即物的な鳴き方の鳥がいるのかと思った。あれはたぶん地鳴きというやつなのだろうか?
上階から伝わってくる母親の声からして、誰か客が来たようだった。上がっていくと(……)さんだと知れる。玄関にいるらしい。それで洗面所で顔を洗い髪をちょっと梳かしてからこちらも玄関へ。赤紫蘇ジュースを振る舞っていた。先日の件について聞いたりなどする。息が苦しくなってしまったらしい。ときどき目の前が真っ白になる感じもあったと。途中で電話がきて母親が立ち、二人でちょっと話す。もう死ぬと思ったと言うが、まあそれはそうだろう。しかし一二月が誕生日なので、あと半年もすればいよいよ(……)歳である。あと、祖父母の思い出話を聞く。祖父に祖母を紹介して引き合わせたのは何を隠そうこの(……)さんなのだ。祖母が(……)で(……)さんの隣に住んでいたらしい。それで(……)さんに会わせて、二人は(……)山へデートに行ったと。
(……)さんの息子さんとはこちらはほぼ面識がないし、孫の代に至っては見たことすらないのだが、曾孫はいるの? と訊いてみるといないらしい。ひまご、ひまご……とつぶやいて、(……)さんは何やら不思議そうにしていた。何だろう? ほか、先日(……)ちゃんが入居したことを取り上げて、(……)さんの息子だってねと言うと、そう、(……)さんってのはどこなのよと訊く。すぐ近くの宅で、いままで関わりがまったくなかったとも思えないのだが、どうも多少やはり頭は弱くなっているのかもしれない。(……)歳が目前なので、そうだとしても当然の話だ。母親が戻ってくるとお暇となったので、一緒に外に出て隣家の勝手口へとおりていくのを見守る。手すりを掴んで一歩ずつゆっくりとおりていくのだが、それを見ているとやはり老いさらばえたなあという感じはどうしても受ける。本人も、もう歩くのがことなんだよと言っていた。母親は赤紫蘇ジュースとゼリーを一つあげた。あと、母親の電話は(……)さんからだったのだが、(……)ちゃんの旦那さんは元気なんだろ? と(……)さんは訊いた。この人はもう一〇年以上前に亡くなっている。そのことを母親が告げると(……)さんは、「おいやまあ」と二回繰り返したが、この驚きの語は祖母もよく使っていた個人言語だ。
食事。素麺の煮込みなど。新聞読む。食後、風呂洗い。久しぶりに排水溝のカバーに溜まった髪の毛も始末し、カバーそのものもブラシで擦っておく。シャンプーや石鹸の滓なのだと思うが、白濁した、まるで精液が固まったような汚れが引っかかっているのだ。ここの処置をつい忘れてしまいがち。出ると茶を用意して帰室。the pillows『Wake Up Wake Up Wake Up』と『Once upon a time in the pillows』を流して五月三一日を綴る。四時前完成。新聞記事を見返して写すのが面倒臭いので今回は省いた。
Mr. Children『Atomic Heart』流して投稿。"Dance Dance Dance"は正直かなり良いと思う。わりとファンキーな手触りがあって普通に格好良くて気持ち良い。あとそう、日記投稿時にURLを流すためにTwitterに入ると、ダイレクトメッセージが来ており、誰かと思えば(……)さんだった。大変久しぶり。ひとまず読むだけで返信はあとに。
(……)
運動。柔軟のやり方がわかった。いままで筋を伸ばした状態で静止していれば良いと思っていたのだが、そうではなかった。微動することが大事なのだ。筋肉を揺らすと言うか、伸びて張った状態と柔らかく弛緩した状態を頻繁に行き来するほうが身体がよくほぐれる。そういうわけで屈伸や開脚や座位前屈や腰ひねりなど諸々の動作を、その方針にしたがって行い、四〇分ほどを使う。五時一五分で上へ。
夕食の支度。天麩羅をやろうと母親。正直天麩羅は面倒臭いのだが仕方がない。ナスやズッキーニやタマネギなどを切る。油をフライパンに注いで用意し、タマネギから揚げる。揚げている最中は首を動かしたり腰を動かしたりして柔軟。もう空腹が極まっていたので食事を取りたかったが、まだ米が炊けていなかった。それで母親がポテトサラダを作り終えると天麩羅を任せて帰室。
「英語」を読む。音楽はMr. Children『DISCOVERY』からMiles Davis『Bag's Groove』へ。六時四五分頃夕食へ。天麩羅や素麺の余りや米やポテトサラダ。ニュースによれば今日、東京の感染者は二二四人と。新聞読む。中国にせよロシアにせよ、反対派が拘束・逮捕されるという事態がやすやすと起こっており、いまに始まったことではないが強権性が強まっている。習近平は既に任期制限を撤廃しているし、プーチンも先日の国民投票で改憲が定まり、(……)さんの言葉を借りれば「皇帝」路線を盤石にした。どうも困難な世の中だ。
テレビはその後、『ANOTHER SKY』。録画したもの。世界の秘境特集とか。まず間宮祥太朗という人がアフリカだかどこか行って、サバンナでライオンを近距離で見る。雌ライオンの瞳が琥珀色と言うか金に近い黄色で、ずいぶんと綺麗な目をしているなあと思った。今しがたシマウマを喰って休んでいる雄ライオンも出てきたが、こちらは鬣で広い顔と言い均一に白っぽく染まって層のない瞳と言い、たしかに怖い顔をしている。
知花くららはザンビアで、あれはパラグライダーというやつなのか何なのかよくわからないが空飛ぶ座席みたいなやつで飛行する。母親があんなの怖いね、大丈夫なのかなというのに、よくあれで小便漏らさないね、俺だったらチビッちゃうよと受ける。飛行中に眼下に虹が生まれているという瞬間があり、虹よりも高いところを飛んでいるというそのモチーフもしくはイメージには正直ちょっと感動して、すごく詩的に感じた。詩か短歌にできそう。
濱田岳はアルゼンチン。「手の洞窟」というやつ。岩壁に一面手形がびっしりついているらしい。何となくどこかで聞いたことはあるような気がする。洗い物をしていたのであまり映像は見られなかった。あとはマチュピチュなど。
皿洗い、茶を用意して帰室。(……)さんへの返信を作る。
(……)
音楽はMiles Davis『Birth of The Cool』へ。冒頭の"Move"で、一番低音の管楽器、これはチューバなのか? わからないが、それが有効に効いていることに気づく。チューバだとすればBill Barberという人。たぶんバリトンではなくて、それよりも低いと思う。しかしこの音楽、これで一九四九年、五〇年録音なの? というのはやはりちょっと驚く。相当にすごいのではないか?
昨日のことをメモもしくは下書き。小沢健二『犬は吠えるがキャラバンは進む』とともに九時半まで。終えるとなぜかB'zの"DEEP KISS"を思い出して、YouTubeで流す。まあ格好良いとは思う。音域は相当に高いし、さすがにこんなに出ない。ついでになぜか"ギリギリchop"も思い出したので流してみたが、こちらはまだ一部のシャウトとかサビの終わりを除けば、音域的には一応出すことはできる。もちろんただ出るというだけだが。あとこの曲ってたしかBilly Sheehanともやっていたよなと思いだして検索するとdailymotionに動画があったのでそれも見たが(https://www.dailymotion.com/video/x6yzovk)、音質が悪くてSheehanのプレイはあまりよくわからない。だが彼のベースってプレイにしても音色にしても、やはり普通にかなり気持ち悪いなとは思う。「気持ち悪い」と言ってもちろんけなしているわけではないのだけれど、まず速弾きぶりが気持ち悪いし、最高ポジションでやすやすとチョーキングをきめてみせるところも気持ち悪いし、極めつけにあのデジタルな音色は相当に気持ち悪い。普通あんな音にしないだろう。ほとんどアンドロイドみたいな、人工性の極致みたいな音だ。あとは稲葉浩志ってやっぱり歌唱はすごいはすごくて、日本のメジャーどころのロックボーカルとしては、ボイスコントロールは間違いなくトップクラスだろう。歌詞はけっこうダサいものが多いけれど。
日記は今日、昨日、一昨日のことを記録。
風呂前、便所に入る。すると外で、何やら鳥がぎゃあぎゃあ騒いでいる。それで朝聞いた即物的な鳥の声のことを思い出す。声の種類としてはまったく別物だが。
風呂では念入りに柔軟もしくは体操。湯に入るまで、四〇分くらいはたぶんやっていたと思う。だから入浴自体は一時間を越えた。出て「十六茶」のペットボトル(先日の墓参りの際に(……)さんにいただいた)を持って帰室しようとすると、父親にそういえばお前、と呼び止められて、給与明細を求められる。ああ、そうだったと思い出す。のちほど、書抜きの最中に二〇一九年五月から一年分をまとめて用意しておいた。
二〇一九年六月二三日日曜日。冒頭の書抜き。これはかなりそのとおりではないかと思う。
中島 (……)おそらく日本語も、空海の時代の日本語に比べると相当変わってきている。それにもかかわらず、いまおっしゃったような構造的な問題が残っているわけです。よく日本は関係性を中心とする考え方をしがちなところだと言いますが、わたしはその考えはいつも不思議に思っています。逆に、カスリスさんもそうですが、アメリカの知識人としゃべっていると、非常に繊細な関係性の感度をもっているわけです。自分たちの抱えている、それこそインディビジュアリズムに対する批判を常にもっていますよね。日本の場合、それをすぽっと抜きにして、関係性だから大丈夫なんだという、非常にあやふやな構造があります。
小林 それを、「甘え」の構造というわけですよね(土居健郎[たけお]『「甘え」の構造』弘文堂、1971年)。つまり、関係性が先立つ。関係性はすでにあるのであって、私はすでにその関係性のなかにいるのだから、私はそれには責任がないという方向に、日本の文化は行く傾向が強い。無責任体制、甘えですね。
中島 そうですね。
小林 まず甘えありきなんですよ。それは、たとえば母子融合的な関係に乗っかっているわけですよ。だって、当たり前ですが、母親と子どもの1対1の関係のときに、主語を明記する必要はないですから。いちいち「私は[﹅2]乳がほしい」とか言わなくていいわけですよね。基本的に言語の発生段階では、いちいち主語を明記して関係性を構築しなくていいわけです。でも、その後、その親密な1対1の関係が崩れると、今度は、他の人に対して自分がなんであるのかを、自分自身で責任をもって規定しなくちゃいけなくなる。そのとき自分をインテグラルに把握する必要が出てきます。ここの問題だと思いますね。
近代ヨーロッパでは、君の責任において関係性をつくりなさいというモラルが押し掛かってくるので、非常に繊細な神経が生まれる。でも、日本人には、すでに関係はあるのだから、自分がつくらなくてもいいという考え方がどこかにある。これは、特に企業もそうですが、集団になったときに、そこに全部の関係性を押しつけてしまって、自分はそこから逃げる、つまり自然に免除されている状態に自分を落とし込んでしまうということがありますね。
(小林康夫・中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、20~22)
(……)さんブログ。二〇二〇年四月六日。以下の引用を読んで、さまざまな物事に触れそれを取り込んでいくことによって、より広く深く成長し、変容していけるというこちらの基本的スタンスは、本質的にはゆえのない無根拠な楽天性に基礎づけられているなと思った。「旅をすること、さまざまな他者に出会うこと、それは必ずしも〝他者〟に出会うことではない。そのことが、自分の経験的な自明性を徹底的に疑わしめるのでないならば」とか、「旅や探検を好む者は、その逆に、他者の他者性を奪うこと、差異を吸収すること、自己の内に所有することをめざす」とかいう一節は、こちらにとって痛烈な警句として響く。もちろんこちらの態度はある程度の段階までは真実だろうし、なくてはならないものだとも思うが、あまりそれに信を置きすぎることも警戒しなければならないだろう。
超越論的動機は、「旅」や「探検」への動機と異質である。つまり、差異や多様性を経験したいという動機と正反対である。だから、レヴィ=ストロースは「旅人と探検家がきらいだ」と書きだすのである。だが、超越論的動機が、「旅」や「探検」と切りはなしえないことも事実である。デカルトは旅人であり、探検家的でもあった。旅なくして、彼のコギトはない。しかし、彼は旅に憧れたのではなかった。旅をすること、さまざまな他者に出会うこと、それは必ずしも〝他者〟に出会うことではない。そのことが、自分の経験的な自明性を徹底的に疑わしめるのでないならば。
デカルトのコギト(絶対的な唯一性)は、たんに相対的な他者や異質性ではなく、いわば絶対的な他者性や差異性を体験することなしに在りえない。むろん、絶対的な他者が在るのではない。他者の他者性が絶対的であり、けっして自分のなかに回収できないということなのだ。旅や探検を好む者は、その逆に、他者の他者性を奪うこと、差異を吸収すること、自己の内に所有することをめざす。
(柄谷行人『探求Ⅱ』p.230-231)
もう一つの引用も。一段目は、「規則が共有されているならば、それは共同体である」までは自明なのだが、それに続く「したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる」ということは、こちらにはいままで生まれたことのない発想だった。二、三段目もわかりやすいが重要だろう。
(……)規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(……)
第二に、以上と関連して誤解が生じやすいのは、「他者」の概念である。たとえば、人類学者あるいは民俗学者も、共同体の外部に在る他者(異者)について語っている。しかし、そのような異者は、共同体の同一性・反復のために要求される存在であり、共同体の装置の内部にある。共同体は、スケープゴートとしてそのような異者を排除するし、またそれを「聖なるもの」として迎えいれる。共同体の外部とみえるものが、それ自体共同体の構造に属しているのである。この種の外部はむしろ異界と呼ばれるべきである。
異者は超越者であったり、おぞましい(アブジェクトな)ものであったりする。一方、他者はむしろありふれた存在である。たしかに、異者も他者も、私にとって異質な存在である。異者と他者の違いは、他者が単独性において見られているのに対して、異者が一般性(類型)において見られていることである。怪物、鬼畜、でぶ、ちび、奇形、外人、毛唐、――。異形なるもの、異様なるものが、そういわれるのと逆に陳腐なまでに類型的であることに注意すべきである。たとえば、サイエンス・フィクションでE・Tとかエイリアンとか呼ばれるものは、所詮爬虫類や昆虫の変様でしかない。ところが、他者はその単独性においてそれぞれユニークであり、多様である。E・Tであろうと、犬であろうと、その者を他者として知るときは、その類型(一般)的外見は消えてしまう。同時に、その者は何によっても取り替えられない単独性として外在する。逆にいえば、異者の「異質性」は他者の他者性を消す機能をはたすのである。すなわち、この異質性は他者の異質性(外在性)を消すのだ。
(柄谷行人『探求Ⅱ』p.236-238)
「サルバドール・プラセンシア『紙の民』――これは刊行当初けっこう話題になっていた覚えがある、と思っていまその刊行が何年であったか調べてみたところ、2011年7月とあって、マジかよ! もうそんな前になるのかよ!」とあって、これにはこちらも、マジで? 嘘でしょ? と驚愕せざるを得なかった。こちらが文学に触れはじめるより前の刊行だったの? 読み書きをはじめて二年くらい経った時点ではじめて書店で見かけた覚えがあるのだが。
荒川修作と小林康夫の対談の引用も。荒川修作という人の文章にはまったく触れたことがないが、さっさと触れねばならないのだろう。「名詞的なポジショニングというのを捨て」た「形容詞的なものが遍在する場」というのは、どういうものなのかよくはわからないのだが、ただとても面白そうなにおいは感じる。
小林 それは以前、荒川さんがおっしゃっていたんです。われわれはまだ形容詞について語れる段階に達していない、というふうに。さっき言われた、遠くて近い、高くて低いといった矛盾の一切、あるいは情動的なものというのは形容詞でしょう?
荒川 そう言われてみると、そうです。これは完全に、東洋の直観から生まれてくるもので、決して欧米の哲学からは出てこないと思う。
小林 ヨーロッパ的なコンテクストというのは主語と術語を非常に明確にするところから始まるけれども、それだけでは、荒川さんの言うごちゃごちゃのごみのような希望には到達できない。形容詞的地平、形容詞的場というのがあるような気がするんです。
荒川 すべてを反転させるための条件というのはすべてパラドクスで成り立っているんです。
小林 たとえば神、あるいは時間、空間、自我、コギトなど、何でもいいのですが、われわれはすべて名詞で定点を押える、つまり名詞でポジションを決めようとしてきたわけです。
荒川さんのやってらっしゃることがある意味で非常にクレイジーでむちゃくちゃに見えるのは、名詞的なポジショニングというのを捨てて、形容詞的なものが遍在する場をつくろうとしてらっしゃるからだと思うんです。そういうことであれば、遍在するポジションというのは何となくわかるような気がするんですが、そうするとしかし、それはロマンティックにすぎるんじゃないですか?(笑)
(荒川修作+小林康夫『幽霊の真理』)
(……)さんのブログ。二〇二〇年四月三日、「トラブルシュート」。「かたわらの担当者の声がけっこう上ずってしまっていたり、表情がこわばっていて頬が軽く引き攣ってしまっていたりすると、そういう相手を見ると僕はなぜか、かえって落ち着いてくるところがある。「こんなこと今まで一度もなかったですよ!」と身の潔白を証明しようとするかのようになんども連呼する相手に「まあ、大抵のトラブルははじめてやって来るものだと思いますよ…」などと、わざと普通の声で返したりする」という部分の冷静さにかなり笑ってしまった。
続く四月四日、「私」の冒頭には、「買い物がてら、近所を散歩しながら、ぼーっと道行く人々を眺めていて、若い人も、子供も、老人も、男も女も、歩く人も自転車も自動車も、すれちがった様々な人々が、それを含めた何もかもが、もしかして全部自分だとしたらどうだろうか、と思った。自分と彼らは、ぜんぶ自分。今この私はそう考えているけど、すれ違ったあの人はそう考えていないだろう、しかし、それも含めてぜんぶ自分なのだ。そう考えた自分とそう考えていない自分、というだけなのだ」とあって、これはすごい。こういう小説を書いてみたい。三段目にも、「それは誰かに対する私の共感とか感情移入ではない。そうではなくて、はじめからどうしようもなく自分で、この世界全体がもともと自分で、それが状態に応じて分割され、自分とそれ以外になってるだけみたいな感じだ。(……)もっと極端に言えば、私は誰かを殺さないけど、誰かは私を殺すかもしれなくて、しかしそれはそう思わなかった私とそう思った私がたまたま出会ったことの結果にすぎない。だから殺された私は死ぬが、殺した私は生きている。私は死んでしまったり、生きていたりする」という説明があり、これをもし表現できたら、そのテクストは狂っている。これはすごい。やってみたい。全然わからんけれど、グレッグ・イーガンとかがもしかしたら、「文学」としてではなくてテクノロジカルなSFの領域から、そういう表現を追求しているのではないか。
書抜き。ジョンソンの次の書抜きを見ると長くて面倒臭かったので、今日はバルトのみ。五箇所。書抜きながら、やはり常に自分の身体及び精神の感覚を見つめていないと駄目だなという気になり、自らを常に監視し統御するようにして指をゆっくり静かに動かす。つまりは常にこの瞬間に集中するということで、要するにヴィパッサナー瞑想の実践だ。BGMはSteve Kuhn『Remembering Tomorrow』。David Finck(b)とJoey Baron(ds)。いかにもJoey Baronという感じのタムなどの音回し。Wikipediaを覗いたところ、BaronはLaurie Andersonという人と仕事をしていたらしいのだが、この人は"an American avant-garde artist, composer, musician and film director whose work spans performance art, pop music, and multimedia projects"らしい。"Anderson is a pioneer in electronic music and has invented several devices that she has used in her recordings and performance art shows. In 1977, she created a tape-bow violin that uses recorded magnetic tape on the bow instead of horsehair and a magnetic tape head in the bridge"と言う。ルー・リードと結婚した人らしい。
ブログに載せていた連絡先をgmailからTwitterに変更。gmailを覗くのは面倒臭いし、TwitterももうURLのみで個人的なことはまったく発しなくなったので、繋げても問題はないので。"contact if you like"という文言にして、わずかばかりの愛想を付与した。
就寝前に六月一日をあと少し進める。さすがに疲労があり、肉体が消耗しているのが感じられる。カーテンに塞がれて見えないが外は既に明けており、もちろんとうに鳥が鳴きはじめていて先ほどは鶯がけたたましく狂っていた。文章を書く際はやはり身体をなるべく動かさずに静止するのが大事だと再認識した。そうすると、うまく行けば文により近づき、その質感を精密に感じ、ある程度同一化することができる。
五時過ぎまで書いてベッドへ。明かりを点けなくともカーテンをひらけば本が読める。石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)をひらいたものの、さすがにまぶたがおりてどうにもならなかったので、二ページだけ読んで五時二七分に就床。