2020/7/10, Fri.

 (……)これらの文彩をあるがままに見ると、ブルジョワ的宇宙の星占いの星座さながらに、二つの大きな区分に集約されるのがよくわかる。すなわち、〈本質〉と〈均衡〉である。ブルジョワイデオロギーはえんえんと、歴史の生産物を本質的タイプへ変換し続ける。烏賊が身を守るために墨を吐くように、ブルジョワイデオロギーはたえず、世界の恒常的な生産に、目くらましをあびせる。そして、世界を果てしない所有の対象として固定し、その財産目録を作り、それに防腐処置をほどこし、現実的なものに、その変形作用を、他の存在様式への漏れ出しをくい止めるような、浄化剤としての本質を注射し続けるのだ。このように固定され、凍結されて、財産はやっと数えられるようになるだろう。ブルジョワ的道徳は、本質的に計量の作業となるであろう。諸々の本質が、天秤にかけられるだろうが、ブルジョワ的人間は、その不動の天秤棒の役割を果たし続けるだろう。それは、神話の目的が世界を不動化することだからである。所有のヒエラルキーをきっぱりと固定してしまった普遍経済を、神話は暗示し身振りで示す必要があるのだ。こうして、日々いたるところで、人間は数々の神話によって、引き止められ、あの不動の原型へと送り返される。その原型が、人間の代わりに生命を持ち、内部の巨大な寄生物のように人間を窒息させ、人間の活動に狭苦しい限界線を引くのであり、その限界線の範囲内では、人間は苦しみに耐えつつも、世界を動かさないでいてよいのである。ブルジョワの偽 - 自然[フュシス]は、人間が自己を作り出すことの全面的な禁止である。神話とはたえまない、倦むことを知らないこの懇願、油断のならない、屈することを知らないこの要請にほかならない。それは、あらゆる人間が、永遠でありながら日付のついたあのイメージ、あたかもすべての時代のために作られたかのような、自らのイメージのなかに、自己自身を認めることを要請している。なぜならば、永遠化してくれるという口実のもとに、人間がそのなかに閉じ込められている〈自然〉は、一つの〈慣習〉にすぎないからだ。そして、いかに巨大であっても、この〈慣習〉こそ、人間が手に取り、変形するべきものなのだ。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、376~377; 「今日における神話」; 一九五六年九月)


 一〇時台に覚醒。夢見があったが、覚めるとともに大方消えてしまった。何か男と殺し合うという、物騒なと言うよりは漫画的な趣向があったはず。そのなかで、「先立つ知はすべて大いなる美に回収される」みたいな、古代ローマの格言にありそうな言葉が出てきた。しかもラテン語風の読み方がついていたような気がする。ほか、上の夢と繋がっていたと思うが、何かレースみたいなものに参加していて、沼沢地帯みたいなところを走っていく途中、豊かな草に覆われた斜面を登ろうとすると、上にいた人間から水をぶっかけられるような場面があった。しかもその人物は「ラカン」と名指されていたような気もする。
 脹脛をほぐしつつ夢を思い出そうとするもののほとんど蘇ってこない。天気は白曇。空間の果てでカラスが間歇的に声を放ち、伸ばしている。母親が来る。一一時からオンラインで職場の会議をやるとかいう話で、そのためのURLがなかなか送られてこないので困惑したらしいのだが、Meetというアプリケーションを用いるらしい。URLを送ってくるって言っているんだからそれを待って、来たらURLにただアクセスすれば良いだけだろうと言う。

 一一時直前に起床して洗面所でうがいし、用を足して便器のなかを黄濁させてから帰室してさっそく今日のことをメモする。前日のこともメモし、六月一日分も書き進め、正午を回って食事へ。前日の天麩羅の残りをおかずに米。母親は仕事へ行く。ほかにやはり前日のポテトサラダとキュウリの漬物の余りも食う。食いながら新聞をゆっくり読み、興味を惹かれる記事はすべて読んでしまった。洗い物のため台所に立つと、カウンターの向こうでテーブルが窓の白さを映しこんでおり、端に置かれたリモコンもその中性的で平板な明るみのなかにあって固まっている。それは位置関係上、曇り空が映っているわけだが、窓はと言えば視界のまっすぐ奥にあるから白天は直接は見えず、ガラスの上には川沿いの樹々の濃緑が密集しながら風もないようでぴたりと静まっている。

 風呂を洗って帰室。(……)さんから返信が届いていた。

(……)

 日記に邁進。六月一日と二日を進めてあっという間に四時間。なかなか勤勉だ。BGMはMr. Children『Q』、『深海』、『シフクノオト』ともっともメジャーなJ-POPバンドを流しておりおり歌ったあと、Sam Rivers『Crosscurrent: Live At Jazz Unite』へ移行。五時で書き物は一度切って、歯磨きしながら二〇一九年六月二四日月曜日の読み返し。

 中島 いまおっしゃったように、インティマシーの原型は母子密着の状態だろうと、わたしも思います。ところが、カスリスさんに言わせると、インティマシーの定義は、「親友に自分の内奥のものを伝えることなんだ」と言うわけです。
 小林 すばらしい!
 中島 これはおそらく、母子密着のインティマシーが、ある種変容し、再定義されたインティマシーだと思うんですよね。
 小林 そのとおりだと思います。まさに、一度、インテグリティーを通過したあとのインティマシーですよね。そこでは、インティマシーは、与えられた親密性ではなくて、みずからの内奥を打ち明け、与えることによって、まったく他人である存在とのあいだに、友情というインティマシーの関係を構築するという方向に跳んだわけですね。これはすごい、と同時に、とても西欧的。だって、キリスト教的な西欧文化の中心軸のひとつが、みずからの罪という秘密の内奥を打ち明けるという告白の伝統だからですね。西欧の近代は、ジャン=ジャック・ルソーが典型的ですけど、まさにこの問題を近代の根底に据えたわけですね。
 中島 近代的な内面性ですよね。
 小林 いや、これはなかなか難しい問題です。というのは、告白は究極的には「神」というインテグリティーが必然的に絡んでくるからで、ここにこそ、インティマシーとインテグリティーとの関係づけのキリスト教的な「解」があったわけですから。このような告白の観念は日本にはないでしょう。日本人にとっては、告白は君に恋心を告白する、ですから。西欧的には、インテグラルな自分を相手に開示することがインティマシーなのだという方向に行くわけで、これをわかっていないと、ヨーロッパ人とは真の友情が成立しない。おつきあいできないというか、単なる「おつきあい」で終わるというか。打ち明けられないインティマシーを打ち明けることだけが、友情の定義なのに。極端なことを言うと、日本人がヨーロッパに行ったときに、そこを見られているということが、多くの日本人にはわからない。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、22~24)

 二〇一九年六月二五日月曜日も。

 小林 物語というのは、まさに「物」が動いたことを伝えるわけでしょう。ヒューマンストーリーを語ることとは全然違っていて。
 中島 違う。全然違うんです。
 小林 今昔物語だってなんだってはっきりしていますが、なにかが動いた[﹅3]よね、そういうことですよね。最初にお話ししたわたし自身のインドの経験じゃないけれども、なにかが動いてしまったと、これですよね。これが原形。わからないわけですよ。つまり、人間の「心」のロジックでは解けないものが、人間の周りにたくさんあって、それが動いた、それを語らなければならない。人間の心は、歌にして歌いあげておけばいいんで、語らなくてもいい。「わたしはあなたに会いたい」と言えばいいんだから。でも、「物」は、それがどのような言語形式に適合するのかわからないんですよね。だから、こちらから見える形を語るしかない。
 (小林康夫中島隆博『日本を解き放つ』東京大学出版会、二〇一九年、39~40)

 細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』から、鳴海英吉「列」を引いている。「この鳴海の詩篇も優れた、実に生々しく鮮烈で、おぞましく酷薄な詩であるように思われる」と評しているが、いま読んでもやはりけっこう強い印象を受ける。ところで最終連の、「おれは罵倒するソ聯兵の叫びが/こんなにも無意味だと知ったとき/おれの眉毛が 突然せせら笑う」という流れが文形式として整いきっていないように思われたので、もしかすると写し間違えか漏らしがあったのかなと思って、四月四日に閉店間際の(……)書店で入手した鳴海英吉『定本 ナホトカ集結地にて』(青磁社、一九八〇年)を覗いてみたら、この部分は、「おれは罵倒するソ連兵の叫びが/慌てているんだと知った/おれの眉毛が 突然せせら笑う」となっている。細見が引いたのはおそらく初出時の形なのだろう。しかしそれが何という媒体だったのかまではこちらはメモしていない。『ナホトカ集結地にて』は、目次を見るとすべての篇が漢字一文字のタイトルで統一されて綺麗に整然と並んでおり、こういう形式的統一性への志向とか、「列」の内容の鮮烈さを見るに、もしかするとこの本は名作なんじゃないだろうかという予感を得る。なるべくはやいうちに読んでみたい。

  列

 ふりむくな と言われ
 おれは思わず ふりかえってみた
 
 砲撃でくずれ果てた町があった
 まず くすみ切って煙が上っていた
 くねった電柱があって黒い燃えカスだった
 黄色のズボンを下げた兵士が
 むき出した二本の足をかかえていた
 桃色のきれと 血を啜う黒い蠅が見え
 死んで捨てられた もの たちが見えた

 兵士の口のまわりには
 米粒が蛆色をして乾き 干し上り
 めくれあがった背中の大きな傷口に
 もぞもぞと動いている蠅
 おれは断定した
 あいつも飢えていたのだ
 おまえもおれも乾ききっていたのだ

 くだかれたコンクリートのさけ目だけが
 さらさらと白い粉末のようなものを流し
 果てしなく 乾いて そのまま流れつづける
 あれは女ではない
 おまえのかかえ上げたものは
 砲撃で焼かれつづけたさけ目[﹅3]
 しわしわと 死んでも立っているものを
 美しいと おれは凝視しつづけていた

 ふりかえるな 列を乱すものは射殺する
 おれは罵倒するソ聯兵の叫びが
 こんなにも無意味だと知ったとき
 おれの眉毛が 突然せせら笑う
 いつもお前の言い分は 列を乱すなである
 おれの眉毛の上に 八月のような
 熱い銃口があった
 整列せよ まっすぐ黙ってあるけ
 (鳴海英吉「列」; 細見和之石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』中央公論新社、二〇一五年、213~215より)

 軽い運動で身体をほぐす。Sam Rivers『Crosscurrent: Live At Jazz Unite』の最終曲、"Eddy"を聞きつつ。簡単で短い進行をループさせる単純な曲で、Sam Riversがソプラノで好きにやり、その周りでギター、ベース、ドラムも補強しながらおのおの良い感じに遊ぶという感じなのだが、ギターの技がこまかくてなかなか良い。巧者の印象。調べてみると、Jerry Byrdという人らしい。Brother Jack McDuffの作品などに参加しているよう。あとFreddy Coleの作品にはけっこういくつも参加しているようだ。

 Sam Riversが終わったあとはcero『Obscure Ride』へ。運動は六時前に切りとし、手の爪を切る。歌を歌いつつ。"Orphans"はやはり良く、とても感傷的で、音域が広がったからメロディも大方出せるようになったし(2Bの「姉がいたなら あんな感じかもしれない」の最後の「い」の音以外はたぶん出る)、カラオケに行ったらめちゃくちゃ歌いたいのだが、カラオケに行く機会はない。爪を切り終えるとまた六月二日をちょっと進めて、食事の支度へ。

 マグロを焼くようにと言い使っていた。マグロと言うか、メカジキというやつだと思うが。ほか、麻婆豆腐があったのでそれも作ることに。フライパンを熱し、油を垂らし、ローズマリーを散らし、ブロック状のメカジキ三枚を敷き、弱火で蓋をする。麻婆豆腐にはキャベツを加えることに。それで玉から二枚剝いでこまかく切り、素のなかに投入する。メカジキは「ビミサン」とかいう先日母親が買ってきた高いらしいつゆで味つけすることにして、それを水で嵩増ししたなかにチューブのニンニクと生姜、あと辛子をほんの少し混ぜて箸で溶く。そうしていると父親が帰ってきた。(……)でまた出ると言う。フライパンにつゆを注いで火を強めたのち、小さめの木綿豆腐二つを手のひらの上で分割して赤いスープに入れ(あるいは豆腐を加えたのがメカジキを味付けするより先だったかもしれないが、そんなことはどちらでも良い)、最後にとろみ粉を少量の水で溶いて加えれば完成。もう食事にすることに。米は丼に盛って麻婆豆腐を掛け、メカジキのほかに即席の卵スープも食うことに。卓に就いて夕刊を見ながらものを食べていると母親帰宅。本当はサラダも作るように言いつかっていたのだが、それは母親に任せるつもりで怠けた。母親はメルカリでスニーカーだか買ったらしく、その支払いのためにコンビニに寄ったついでにチキンを買ってきたので、それもいただく。(……)あたりで殺人事件があったとか言う。(……)

 父親の会合は(……)らしい。(……)に会ったらよろしく言っといてと頼んでおいた。食事中、テレビでNHKが、中国でいわゆる「人権派」の弁護士として活動していた王全璋のインタビューを報じはじめたので、一時新聞から目を離し、音量を上げて耳と目を向けた。二〇一五年の七月九日から始まった「人権派」の人々の拘束で逮捕され、国家転覆罪で五年間くらい服役していたらしい。朝六時から夜九時まで両手を上げたまま拘束されるという仕打ちが一か月ほど続き、当局の人間は彼の顔に唾を吐いたり蹴りつけたりしたと言う。当局は裁判をなかなか行わず、長期に渡って拘束するという処置を取ったが、これはもちろん拘束した人を身体的・精神的に消耗させるための卑劣なやり口だろう。裁判のときも、七人くらいが王氏を押さえつけて強行したと言っていた。王氏は香港の事態には当然、おそらくほとんど絶望的なまでの憂慮を抱えているはずで、「とても恐ろしいことだ」と悲嘆を表明していた。
 それを見終わるとまた新聞に戻り、読むべきものを読むと食器を片づけて帰室。緑茶を用意して飲みつつふたたび日記。六月二日。音楽はFISHMANS『Oh! Mountain』と『ORANGE』。"感謝(驚)"は日本国で最高のポップソングの一つ。八時四五分で記事が完成し、投稿。それからまたこの日のことを記録するともう一〇時が目前だ。

 どうも母親が風呂に入ったようだぞと気配を感知しつつ、写し終えた新聞と湯呑みと急須を持って上へ。やはり入浴しており、無人の居間はテレビだけが稼働している。母親は、入浴中、必ずテレビをつけっぱなしにしている。なぜかわからないが、居間に誰もいないという状態が不安なのだと思う。本気でそう考えているわけではないと思うが、たぶん、無人のあいだに泥棒でも入るのではないかという心配があるようで、それで誰かいるかのように見せかけたいようだ。茶葉を捨てに台所に行くと洗い物が流し台に放置されていたので、ついでに処理しておいてあげることに。乾燥機の食器を片づけて洗いだすと、テレビでは何やら音楽演奏が始まり、たしかあれは川井郁子という人ではなかったかと思うが、ヴァイオリニストと、たぶん東儀秀樹だったのではないかと思うが横笛の演者と、あと一人キーボード奏者が、明らかに聞き覚えのある旋律を奏でるのだが、何という曲か思い出せない。"荒城の月"を思い起こさせるような、物憂げな濃闇風のマイナー調の曲なのだが。これはたしか、『美の女神たち』みたいな名前の番組だったか? それは美術に関係する番組だったか? 川井郁子が毎回ゲストを招いて共演しながら音楽を演奏する番組があったのは覚えているのだが。演奏の終わりに、DAIWA HOUSEの提供が明示された。
 そういうわけで検索してみると、これは『100年の音楽』という番組だった。川井郁子は「ゆうこ」という名前だと思っていたところ、正しくは「いくこ」だった。番組ホームページによれば先ほど聞いた曲は"遠くへ行きたい"というものらしいのだが、こんな曲知らんぞ。永六輔作詞、中村八大作曲らしい。一体どこで聞いたのか?
 洗い物を済ませたあと急須に一杯目の湯を注いでいると、一〇時に達してテレビは変わり、住宅街みたいなところにある何かよくわからん白い自動販売機を紹介している。九九〇〇円とか値段がある。それを背に便所に行こうと玄関に出ると、飾られている大きな白いヤマユリのにおいが強く漂っている。これは、家の向かいの林縁の土地を畑として使っている(……)さんが、誤って切ってしまったので良かったら活けてくださいとか言って昨日だか一昨日だか持ってきたらしいのだが、母親はたびたび、においがすごいねと漏らしている。たしかにきつい香りだ。トイレで放尿して戻ってくると、先の自販機は婚約指輪を売るものだと明かされていた。思い立ったが吉日ということで、決断したらすぐにプレゼントできるようにということで開発したらしい。サイズが問題だが、相手の指のサイズがわからなくとも、リング自体が閉じきっておらず、大きさを調節できるようになっているのだと言う。

 帰室すると、"荒城の月"と言えばこちらにとっては滝廉太郎よりもScorpionsの『Tokyo Tapes』なので、それを流す。こちらのコンピューターに入っているScorpionsの音源は、たぶんすべて(……)にもらったものだと思う。#5 "We'll Burn The Sky"は正直普通に格好良いと思う。Klaus Meineのボーカルもやはりすごい。この高さで、この織物的ななめらかな質感、〈手触りの良さ〉と芯をやすやすと結合させることはたぶんなかなかできない。音楽とともにここまでまた今日のことを記録。

 「英語」を復読。復読はやはりなるべく毎日やりたい。「英語」と「記憶」、どちらか一つだけでも。なぜかわからないが、どちらかと言うと「英語」のほうに意欲が向く。『Tokyo Tapes』の#8 "Fly To The Rainbow"まで流れたところで切りとして、それから入浴へ。洗面所で久しぶりに「板のポーズ」。以前のようにじっと静止して耐えるのでなく、プランクポーズから膝をついて背を反らす形に移行し、また腕立ての姿勢に戻り、ということをゆっくり繰り返す。筋肉のほぐし方、あたためかたがよくわかった。力を入れた状態で静止すれば良いと思っていたのだがそうではなく、ゆっくりと丁寧に動かせば良いのだ。中国の人々が太極拳をやっている理由が完璧に納得できた。
 風呂のなかでは、(……)くんが七月三日に話していたことを思い出す。つまり、オンライン家庭教師の話で、聞いたときにそういう発想はなぜか起こらなかったのだが、こちらもそれをやれば良いのでは? と思ったのだ。どうせこのままアルバイトをしながら読み書きを続けていても大した金は稼げないし、大した金が稼げなければいつまで経っても一人暮らしができないわけで、その行き詰まりを打開するための方策として有効ではないかと思ったのだった。とは言え、こちらにその能力が充分にあるかどうか。(……)くんはたぶん、顧客と一緒に本を読んで気づいたことや考えたことを話し合う形で教える、みたいなことをやっているのではないかと思うが、そのやり方を踏襲するとしても、顧客を満足させられるだけの知見をこちらが提供できるかどうか。(……)翻ってこちらは毎日しこしこ日記を綴っているだけの人間である。わざわざ金を払ってまでこちらという人間を生かすことに助力してくれる人がいるのかどうか疑わしい。とは言え、塾講師の仕事でこの先どうにかなるでもなし、たくさん売れて金になる文も書ける気もしないし、書けたとしてもあまり文章を金にすることには気が向かないので、浮き世をうまくサヴァイヴしていくための一方策として頭の一部に留めておいても良いだろう。塾講師の仕事は現在、準備時間なども入れて時給換算してみると一時間で一一五〇円くらいにしかならないことがいま判明して、思いのほかに少なかった。もっと割の良い仕事だと思っていたが、まったくそんなことはなかった。これよりは稼ぎたいので、もしオンライン家庭教師的なことをやるとしたら、時給一五〇〇円かできれば二〇〇〇円くらいには設定したい。ただ、本当にやるとしたら、金銭が介在するわけなので、本来はきちんと契約書とかを作らなければならないと思うのだが、契約書の作り方などもちろんまったくわからない。普通はやはり、弁護士とか行政書士みたいな人に依頼するのだろうか? だがそんな金があるはずもない。まあ副業程度でやるならば、口約束か、自分で適当に文書を作る形で良いのかも知れないが。また、もし仮にオンライン家庭教師的なことを始めたとしても、塾講師の仕事を完全に辞める気はいまのところはない。若い人たちと接するということもとても重要なことだし、やはり、具体的な現場は一つ、持っておきたい。実際に自分の身を運び、そのなかに置き、そこで個々の人間を目の前にして意味と力の交換をする時空というものが絶対に必要なのだ。

 赤城宗徳『あの日その時』はちょっと読んでみたい。改定安保条約騒動のときの政府内の動きが書かれているはず。

 書抜き。ジョンソンをゆっくり。Scorpionsが終わったあと、"Long Tall Sally"繋がりでThe Beatles『Past Masters』へ。D1#2 "From Me To You"のコーラス構成がけっこう面白いような気がした。特にサビの最後のまさにタイトルの語句の部分。別に珍しくはないのかもしれないが。何か聞いててあまり聞かない動きのような気がした。ほか、#12 "Slow Down"はなかなか良いし、#14 "I Feel Fine"も何だかんだ言ってやはり良い。#11 "I Call Your Name"は寺尾聰がライブでカバーしていて、一時期YouTubeにある音源をよく聞いていたが、あれはなかなか格好良い。#15 "She's A Woman"はJeff Beckが(『Blow By Blow』)、#18 "I'm Down"はAerosmithが(『Permanent Vacation』)でそれぞれカバーしている。
 その後、バルトも書抜き。ディスク二に入ると、#2 "We Can Work It Out"のBパートのメロディ及びコーラスの叙情性はすばらしいし、続く#3 "Paperback Writer"もちょっとすごいと言うか、変な曲だけれど格好良い。この曲とか次の#4 "Rain"とか聞くと、Paul McCartneyのベースってけっこうこまかくてよく動くし、わりとはしゃぐところがあると言うか、いやいや一六分とかそんなに刻んじゃって良いの? みたいな感じを受けるし、音色とゴリゴリとした質感の度合いは全然違うと思うけれど、動き方としてはYesのChris Squireなんかを思わせるところがある。#5 "Lady Madonna"のベースもすばらしいぞこれは。
 #7 "Hey Jude"のメロディのキャッチーさもやはりすごい。始まった途端に惹きつけられる。ものすごく綺麗に整った、美しいと言いたいほどの旋律の形をしていて、Paul McCartneyがポップソング製作者としての本領をこの上なく発揮している感がある。ほとんど感動的なまでの、明快極まりない構造性による快楽的なポピュラー性。このAパートのメロディラインを作れたら、もう完璧に勝ちでしょという感じ。

 かなり久しぶりのことで、詩をほんのすこしだけ書き足す。

 三時半からまた日記。六月二七日を記録する。BGMはBen Monder『Amorphae』。Paul Motianの最晩年の録音の一つだが、参加しているのは二曲だけ。書き物は五時まで。さすがに疲労し、頭のなかが痺れるようになる。それでもベッドに移ってからバルトを読もうと試みたが、当然まともに読めず、二ページで断念して五時一五分に眠りに向かった。