2020/7/29, Wed.

 一九三八年一一月八日、親衛隊長官(親衛隊全国指導者兼ドイツ警察長官)ヒムラーは、親衛隊将校団の中将以上を集めた定例全国幹部会議の席上で、以下のように話した。

 今後一〇年の間に、われわれは危機的対決に直面する。(中略)諸国家の闘争にとどまらず、世界のユダヤ人、フリーメーソンマルクス主義者、教会との世界観闘争に突入するのである。(……)

 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、64)



  • 早朝六時に就床し、自律訓練法めいて静止しながら眠りを待つうちにいくらか朧げになったようだが、はやくも七時あたりに覚醒を見て、そのときなぜなのか汗だくだった。布団を剝いで汗を引かせてからふたたび眠り、最終的に正午起床。今日も真白い空で、どうにも晴れが見られない。上階へ。母親は健康診断に出向いている。米がほぼなかったのでベーコンと卵を焼いてそれだけで食べることにし、したがって今日は黄身を液体にとどめずしっかり焼いて固化させた。そうして卓で食っていると母親が帰宅する。キュウリに味噌をつけて食べるかと訊くのでいただくことに。シャリシャリ食っていると母親は録画してあった『私の家政夫ナギサさん』とかいうテレビドラマを映しはじめ、多部未華子ってずいぶん綺麗になったね、あんなに可愛かったかな、とかなんとか言っていた。風呂は残り水が多かったので今日は洗わず。
  • 帰室してコンピューターを点け、起動を待っているあいだ、背後のひらいた窓からひそひそと入りこんでくる空気がかなり背中に涼しく、どうやら今日は気温が低いなと感じられた。緑茶をついでくると今日のことをはやばやと記録。「まどろむ」とおなじ感じで「おぼろむ」という言い方はないのかと思ったが、どうも存在しないらしい。造語しても良いけれど、ひとまず「朧げになる」で処理。
  • それから前日の記事と前々日の記事を完成させて投稿。音楽を流すために窓を閉める際、ガラスに近づいて外をちょっと見ると雨が降り出していた。わりとこまかいが同時にはっきりとした粒の質量もそなえており、すばやく流れて広がるような降り方。七月二七日分を投稿したあと運動をして、それから最近復読をしていないからやらなくてはと「英語」記事を読みはじめたのだが、現在、舌の先のほうに口内炎みたいなものができており(鏡で確認していないのでどうなっているか詳しくは不明だが)、thの発音をするときや舌をすばやく動かすときなどそれが歯に当たってけっこう痛くストレスフルなので、音読は治ってからにしようと気を変えてすぐにとりやめた。
  • 三時からVirginia Woolf, To The Lighthouseの翻訳。四ページ目をほぼ最後まで。この日新しく訳した箇所は以下に、いままでの訳文全体は下部に置いておく。

 (……)毎週毎週、何も変わらず単調に砕けつづける味気ない波を見ている、と思ったらものすごい嵐がやって来て、窓はどれも水しぶきでいっぱい、鳥たちはランプに激突、建物全体もぎしぎし揺れて、おまけに海にさらわれないようにドアからちょっと鼻を出すこともできないのよ? そんな生活、あなたはしたいと思う? と彼女は訊ねたものだ、とりわけ娘たちに向かって、語りかけるように。そしてすこし調子を変えて付け足すのだった、だから、慰めになるものなら何でも、できるだけ持っていってあげないとね。
 「風向きは真西ですね」と無神論者のタンズリーが、骨ばった指をひろげて吹き抜けていく風に触れながら言った。彼は、夕方の散歩でそこらを歩き回るラムジー氏のおともをして、テラスの上を行ったり来たりしていたのだ。真西というのはつまり、灯台に上陸するには最悪の風向きということだった。そうね、たしかに嫌な [disagreeable] ことを言う人ね、とラムジー夫人は認めた。いやらしい人、わざわざ余計なことを言って、ジェイムズをなおさらがっかりさせるんだから。しかし一方で、子どもたちが彼を笑いものにすることを彼女は許さなかった。「無神論者」と子どもたちは呼ぶ、「ちっちゃな無神論者」と。ローズも彼を馬鹿にするし、プルーも彼を馬鹿にするし、アンドリューも、ジャスパーも、ロジャーも、みんなして彼を馬鹿にする。もう一本の歯もない老犬のバジャーさえ彼に噛みついたけれど、それは、

  • 「そんな生活、あなたはしたいと思う?」と訳した箇所の原文は"How would you like that?"で、どのようにあなたはwould likeしますか? 欲しますか?→欲しないでしょう? という反語の意味で取ったのだけれど、「したいと思う?」だと問いかけとしてちょっと直接的すぎる気もしている。せっかくwould likeを使っているわけだし、もうすこし弱いニュアンスにしたいところだ。岩波文庫の訳も、「こんな生活をどう思う?」となっている。それに続く"she asked, addressing herself particularly to her daughters."の部分はaskとaddressの意味が近くてやや冗語的なのだが、address oneself toに語りかけるみたいな意味があるようだったので、この分詞構文を「~のように」と意訳した。しかも訳文は倒置形にしているので、どうかな? という感じもないではないが、リズムとしてはわりと流れる形になった気がする。その段落の最後、"So she added, rather differently, one must take them whatever comforts one can"は、意味の読み取り自体は問題ないのだが、直接話法にするのか間接話法にするのかという点は不分明だ。岩波文庫は台詞的に訳しており、こちらもそれに引きずられてよく考えず直接話法風に訳したのだが、のちほど読書会の場では、ここはaddedのあとにthatが省略されている通常の間接話法だろうという話が出たのだ。とすればthat節内の主語がoneと一般化されていることも合わせて間接話法で距離を置いたほうが良いのかもしれないが、しかしいま読んでいて気づいたのだけれど、間接話法だったら"one must take"にはならないのではないか? 普通に時制が調整されるのではないかという気がするが、しかしmustに過去形はない。こういう場合ってどうなるのだろうか、had toに変わるのだろうか? しかしそうするとたぶんニュアンスが変わってしまうだろう。また、この箇所は夫人の主観(思い)ではあるものの、"one must take(……)"ということが一般的な事実として述べられていると思われるので、不変の真理などとおなじように原形になるのかもしれない、とも考えられる。しかし最終的には不明。
  • もうひとつ、おなじ文のなかの"whatever comforts one can"の部分だが、こちらはここを、whateverが主語でcomfortsが動詞のまとまりだと捉えていたのだけれど、読書会ではKWさんが、whateverは疑問形容詞でcomfortsは名詞なのではないかという説を提出した。たしかにそう考えることもできそうだ。こちらはcomfortを自動詞的に、「~の慰めになる」みたいな意味で捉えていたのだが、comfortに自動詞の用法はないようなので、むしろKWさんの解釈のほうが文法的に正当なのかもしれない。ただ、ここでcomfortの目的語になるのは普通にthem=灯台の人々であるはずだが、それはすぐ直前にもう出てきているので、わざわざ繰り返さなくても良かろうと目的語が省略されたという可能性もありうると思う。文法的解釈は不明確だが、ただいずれにしても意味合いは変わらないはずなので、結局はどちらでも良いだろう。
  • あと、"Yes, he did say disagreeable things"という夫人の独白で、「嫌な」にあたる語が"disagreeable"だと明示しておいたが、これは二段落前、ラムジー氏の内言のなかにも使われていた語である。"never altered a disagreeable word to suit the pleasure or convenience of any mortal being"という部分で、こちらはここを、「この憂き世に生きるどんな人間を前にしても、その喜びや都合におもねって不愉快な [disagreeable] 言葉を言い換えてはならない」と訳しておいた。disagreeableな言葉でも躊躇せずにはっきりと伝えなければならないという信念を持っているラムジー氏を慕ってこの別荘にやってきたタンズリーが、実際、disagreeableな言葉を口にしてみせるわけである。だから自覚的にか無自覚にかは知らないが、弟子であるタンズリーは教師ラムジー氏の信念を共有しており、忠実にそれに従っていると言うことができるだろう。
  • 四時半まで翻訳。その後、料理へ。シチューを作った。と言って、こちらがやったのは野菜を切って鍋で炒めるところまでで、水を注いだあとは母親に任せた。最近出歩いていなかったし、散歩がてらコンビニまで行こうと思っていたのだ。しかしもうすこし時間が下ってから出ることにして、帰室するとゴルフボールを踏みながら過去の日記を読み流した。
  • 自分の過去の日記を読み返したあと、Mさんのブログを読むことにしてアクセスし、四月の記事に触れる前に最新記事をちょっと覗いたのだが、すると得体の知れない「焦燥感」に襲われてかなり消耗したらしい様子が記されてあったので、大丈夫だろうかと心配に思った。こちらがパニック障害時代にずっと苛まれてきた「不安」とはちょっと違うのかもしれないが、そこに存在していることそのものが恒常的な闘争になるという点はたぶんおなじだろう。あれはきつい。耐えがたい。一日で収まっていれば良いのだが。
  • 出発へ。服装は赤褐色の幾何学的な雰囲気のTシャツに、真っ黒いズボン。玄関を出ると隣家の車庫に男性がいて、あちらもこちらを認めたので挨拶をした。Tさんの息子さんだろう。雨が降っていたので傘をひらいて階段を下り、息子さんと言葉を交わしておこうと思って隣の車庫に向かっていけば、お父さんに似てるねとあちらから声が掛かる。苦笑で受けて、次男ですと教え、Yさんですかと訊くと肯定が返った。笑みが明るく、ほがらかな感じの高年男性だった。蕎麦屋を営んでいるほうの息子さんのはずで、たしかもうひとり兄弟がいたと思うのだが、その人の話は近ごろ聞かない。あるいは、息子さんと言ってTさんのおばさんがあと半年で一〇〇歳だからもう七〇代には入っているはずなので、兄弟の人が先に亡くなってしまったのだろうか? しかしさすがにそんな話があればこちらの耳にも届いて覚えているだろう。
  • 先日Tさんが救急車で運ばれたそうだが、それ以来体調は大丈夫なのかと訊ねると、大丈夫、問題ないとの返答があった。過呼吸になったらしい。やっぱりもうあの歳だから、いつ来るかっていうのがあるんじゃないの、だからちょっと調子が悪くなると不安になっちゃうんじゃないかって、医者はそう言ってたねと話す。実際、一〇〇歳も目前ともなれば、無事に明日の朝を迎えられるかも怪しいところだろう。ただ最近はまた草取りにも出ているようなので、やっぱり外に出られたほうがね、と受ける。いつもお世話になっていてと言ってくれるのでおなじ言葉を返し、うちのほうでも、できることはやりたいと思いますんで、よろしくお願いしますと挨拶を送って道に出た。
  • コンビニまでの道中で色々見聞きしたはずなのだけれど、現在この日から四日が経って八月二日を迎えており、かつこの道行きの記憶をメモすることを怠っていたので多くのことを忘れてしまった。もったいない。十字路を越えて坂を上りはじめたあたりまで傘を差していたのだが、後ろからこちらを追い抜かしていった女性が傘をひらいていなかったので、そこで確認してみるともうほとんど降っていなかった。坂を越えて裏通りを進むと一軒の前に低木が茂っており、濃いピンク色の大きな花が灯って葉叢を飾っているので止まってちょっと眺めてみれば、外周のたしか五弁のなかにもっとこまかな花びらが重なって、中心からは蕊が伸びていると、そんな構成だったと思う。何の根拠もなく、クレマチスという名がなぜか浮かんできたが、たぶんその花ではない。例によっていま検索してみたところ、ハイビスカスとかムクゲとか、こんな感じでなかったかと思うのだが、これはどちらもアオイ科フヨウ属の花らしいので、おそらくフヨウの類だったのではないか。夏芙蓉というのがたしか中上健次の小説作品において主要モチーフになっているという知識があるが(なんだかんだ言って彼の作品はまだ『岬』しか読んだことがないので、典拠は示せない)、実物を認識したのははじめてかもしれない。
  • そこを過ぎて歩く道に、雨後のことで虫の音も鳥の声も淡くひそやかで、その先に川を隠しているだろう道沿いの林のほうからいくらか洩れてくる程度だが、表通りに向かって曲がるあたりでウグイスが控えめに鳴き出した。街道に出て、客もなく立ち呆けているガソリンスタンドの店員を眺めながら、Tさんのことを思った。一〇〇歳がもう目の前に来るほど生きていても、やはりストア派的な不動心でもって死を受け入れることはできないものなのか。普段はもはやいつ来たって構わないと受け入れているつもりでも、いざ実際にその近まりを感じればやはり不安や恐怖が生じてくるものなのだろうか。
  • コンビニでは豆腐やら即席の味噌汁やらもろもろを買い、出ると来た道をそのままもどった。時刻は六時半くらいだったのではないか。往路は静かだった裏道にカナカナが鳴きはじめて、重なりあって立ち騒いでいた。あのセミの声はやはり少々気体的と言うか、輪郭が煙いよう、かなり声高ではあるけれど淡くて押しつけがない。あとそうだ、コンビニでは、もし帰りにもまだYさんがいたらおばさんにと言って差し上げようと思い、パンとか飲み物とかも買ったのだが、帰りつくと車庫にもう人の姿はなかったので我が家で消費することにした。
  • 夕食はシチュー。食後、緑茶を持って帰室し、飲みながらインターネットをちょっと回る。温かい茶を飲んでいるのでクソ暑い。汗だく。肌着がべたつき、自分の汗のにおいが肌から漂いだしてくる。八時前からMさんブログ、二〇二〇年四月一二日。「独哲学者マルクス・ガブリエルの思想は過大評価か? 福嶋亮大が『新実存主義』を読む」(2020/2/25)(https://realsound.jp/book/2020/02/post-510064.html)という記事が紹介されていたのでメモしておいた。Mさんが引用している箇所もひとつ写しておく。

(…)ガブリエルはもともと、構築主義を批判する立場から「新しい実在論」を掲げたことで名をあげた。構築主義とはごく単純化して言えば、現実なるものは存在せず、たださまざまな解釈や表象を現実と取り違えさせる社会的な作用(知、メディア、歴史……)があるだけだ、という考え方であり、かれこれ半世紀近く大きな影響力をもった。例えば、犬の鳴き声という不変の現実はない、ただワンワンやバウワウというさまざまな解釈が現実だと勘違いされているだけなのだ――このような立場に根ざす人文系の研究者は、いわゆる「言語論的転回」の名のもとに、言語的に構築されたカッコつきの「現実」の分析に向かった。現実そのものは実在せず、ただ任意のパースペクティヴからなされる解釈の連鎖しかないのだから、あとは現実になりすましている言語について考えればよいというわけだ。
 しかし、近年のフェイク・ニュースやメディア・ポピュリズム、あるいは歴史修正主義の猖獗を考えれば、構築主義は「いちばん声のデカいやつがそのつどカッコつきの『現実』を構築してそれを既成事実化する」という状況を追認しかねないのではないか? そもそも、本当に言語を超えた現実は「実在」していないのか、構築主義に反してでも実在性にアプローチするための哲学を組織し直すべきではないか……こういう問題意識を追い風にして、ここ十数年来、実在論唯物論が急速に脚光を浴び始めたのである。ガブリエルはこの潮流の有力な担い手として、複数の「意味の場」の客観的な実在性を強調した。

  • また、「夕飯。天ぷらが出たのだが、弟は天つゆを用意してくれていなかった。いったいいつぐらいからだろうか? たぶんこちらが学生の時分からだと思うのだが、高級料亭でもなんでもないそこらへんの飯屋でも、天ぷらには天つゆではなくて塩がいっしょに出されるようになった。本当にうまい天ぷらは塩をちょっとだけつけて食うのだ、それこそが通なのだというわけのわからないマウンティングが全面化してしまった昨今の天ぷら界隈を、こちらは全力で批判する。だまって天つゆ持ってこい! おまえたちはいったいいつまでブルジョワの身ぶりを模倣することでみずからの階級に目を瞑り現状否認を続けるのだ! 労働者は労働者らしくおれのように天つゆをがぶ飲みしろ! 弟はこちらのために天つゆをその場でちゃちゃっと作って出してくれた。味が薄かった。もっと体に悪そうな、ガツンとくるような、濃口の天つゆをくれ!」という記述に笑う。
  • 「偽日記」をめちゃくちゃ久しぶりに読む。ほとんど毎日覗いて瞥見してはいるのだけれど。二〇一九年一一月四日にRYOZAN PARK巣鴨というところで行われた樫村晴香トークについての言及。

●最初、保坂さんの『読書実録』第三章〔愛と幻想と現実〕の、ミシェル・レリスから引かれた文章、「さらに深まる空虚を埋め合わせる必要に迫られたとき、私は思弁的議論ではなく、経験の充実をもってこれに向き合おうとしていた」を取り出して、ラカン風に解説してみせる。空虚を、経験の充実で埋めることはできない。空虚は空虚によってしか埋められない。愛とは、自分の持っていないものを用いて相手を救うことであり、そのようにしてしか空虚は埋まらず、おそらく女(愛)-欲望において問題を抱えていたレリスの空虚は埋まらない。ラカンならそう言うだろうが、それは半分しか正しくない、と。空虚があるから欲望が生まれるのではなく、逆に、欲望という(人間を規定している)システム、欲望というOSが、空虚というものを生んでいる。そして、そのような「欲望というOS」が今や終わろうとしているのだ、と。

     *

●東アジアにしか存在しない独自の「下品さ」というものがある(たとえば、タイでは下品な人に出会ったことがない、と)。それは、日本、韓国、中国にしかみられない。ここでいう「下品さ」とは、自分に自信がなく、自分の存在を支える背景的な(隠された・隠喩的な)核のようなものがないので、その都度その都度、自分の存在を過度に誇示する威嚇的態度をパフォーマティブに、表出的に示すことによって自分の存在を支えているようなあり方のことだ、と。

今までに出会った、最も下品さの強度が強かった人は韓国のポン引きだった。街を歩いていると、いかつい男が近寄ってきて、耳元で「メ二ハイリマスヨ」と囁かれた。意味が分からず、「私は韓国語が話せません」と英語で言うと、「日本語ですよ、目に入りますよ」と言った。要するに、「目に入れても痛くないくらいかわいい女の子がいますよ」という意味だ。

  • その関連記事に出てきた二〇〇九年七月一三日の記事も読む。佐々木中について。

●「現代思想」6月号フーコー特集の佐々木中「この執拗な犬ども」は素晴らしかった。読んでいて、だんだん鼻息が荒くなって行くのが分かる。『夜戦と永遠』という本は素晴らしい本ではあるが、その第三部は、ぼくにはいまひとつよく理解出来なかった。例えば、第一部のラカンの部分ならば、ラカンを精密に読み込んで行くことを通して、ラカン自身によってラカンの理論が崩されてゆき、さらにその、ラカン自身によって崩されたラカンの先に、ラカンの別の姿、ラカンの別の可能性が、まったく別の風景がみえてくるという風になっていて、それこそが凄いのだが、第三部のフーコーは、フーコー自身によってフーコーが否定されてゆくというところまでは納得出来るのだが、ならば、フーコー自身によって否定されたフーコーの先に、新たなフーコーの(ポジティブな)何がみえてくるのかというところになると、そこが充分には(ぼくには)分からなくて、唐突に「ドゥルーズによるフーコー」(というか、端的にドゥルーズ)が導入されてしまうという感じで、丁寧に、執拗になされるフーコーの祖述と、その先にある結論のようなものの繋がりがよく納得出来なかったのだが(ほとんど唐突に出て来る「可視的なもの」と「言表可能なもの」との対比が、いまひとつよく理解出来なかった)、「この執拗な犬ども」を読むことによって、『夜戦と永遠』の第三部が、はじめて納得出来た。というか、この「執拗な犬ども」という形象によって、『夜戦と永遠』で描かれる、長々としたフーコーの祖述の必然性がはじめて理解され、さらにこの本で言われる「革命」という言葉が、はじめて説得力(と希望?、しかしこれを希望と言うことが許されるのだろうか?)をもって迫って来るように思われた。「この執拗な犬ども」とあわせて読むことで、『夜戦と永遠』は、それを「読む前」にはもう戻れないような、画期的な本となるように思う。「この執拗な犬ども」には、本当に勇気づけられるというか、興奮させられ、身を引き締めさせられた。また改めて(何度も)『夜戦と永遠』と「この執拗な犬ども」を、ぼくなりに自分の持てる全力を傾け、必死に食らいつくように、気合いを入れて読み返すことになるだろう。(でも、「文藝」の磯崎憲一郎『世紀の発見』の書評は、全然よくないと思うけど。)

  • ブログを読むと九時半に至り、Woolf会の開始まであと三〇分だったので、インターネット記事を色々メモして時間を使い、一〇時から隣室に移って会に参加した。今日ははじめに導入の雑談として、Jさんが今朝見た夢を話してくれたのだが、それがけっこう長くて、よくそんなに覚えているなと思った。全体的に虐げられる感じの難儀な夢だったようで、堆肥だか牛糞だかのなかを匍匐前進で進むような場面もあったらしい。
  • 今日のTo The Lighthouseは六段落目、'It's due west,'というTansleyの台詞からはじまる段落である。文法とか構文としてめちゃくちゃに難しいという箇所はないと思われ、意味もおおむね取りやすいと思うが、こまかなところを結構色々突っこんで話しているうちに時間がかかってあっという間に零時を過ぎた。文法的によくわからんのは段落最後の一節で、すこし前から引いておくと次のようになる。"Rose mocked him; Prue mocked him; Andrew, Jasper, Roger mocked him; even old Badger without a tooth in his head had bit him, for being (as Nancy put it) the hundred and tenth young man to chase them all the way up to the Hebrides when it was ever so much nicer to be alone." で、このなかに含まれているforの用法がいまいちわからなくて、こちらは深く考えずに、教科書的には「というのも」と訳される接続詞のforだと思っていたのだが、being以下はwhenが来るまで分詞構文的な形になっているわけで、分詞構文って普通、接続詞を省きたくて使う形のはずなのにわざわざ接続詞を復活させてんの? というのがよくわからんし、それは措くとしてもこのbeingに意味上の主語を付さなくて良いのだろうかという疑問もある。意味合いとしてはここは、TansleyがRamsay家の子どもたちから馬鹿にされており、歯抜けの老犬までもが彼を疎んでいるということの理由を述べていると考えられるから、being(……)the hundred and tenth young manの主語はTansleyであるはずなのだが、形としてはそれが明示されていない。この問題は、forを接続詞ではなくて前置詞として捉えるとしてもおなじように行き当たり、解決されないものである。それに対してKWさんが、mock O for ~という形なのではないかという理解を提示して、会の場ではどうなのかなと確定しきれなかったのだが、いま読み返してみるとその捉え方が一番すんなり通るような気がする。何より、この解釈ならばbeingの意味上の主語の問題が解決されるわけである(目的語のhimがそれを示しているので)。ただ、beingの前に直近の動詞として来ているのはBadgerの行為であるhad bitなので、果たしてbite O for ~という形はあるのかな? と思ったのだが、その場でSさんが調べてくれたところでは、一般的にはbiteにそういう用法はないらしい。とは言えここはmockとbiteがセミコロンで並列されているところでもあるし、そういう文法的規則に完全に当てはめて考えるというよりは、おそらくはmock O for~の形を念頭に置きながらも、ウルフはたぶんmockとbiteの文を書いたあとに、(カンマを挟みつつ)後ろから補足的にその理由を付け足したかったのではないだろうか。だから文法的解釈はともあれ、事実上、意味及び機能としては接続詞のforとおなじ働きを果たすことになっていると思う。
  • 零時半ごろに本篇が終わって、そのあと二次会と言うか駄弁りの時間みたいなものに入ったのだが、こちらのコンピューターはそれに入る直前に回線が切れてしまったのでちょっと経ってから参加するとLINEで送っておき、再起動を施しているあいだにコンビニで買ってきた卵蒸しパンを食べた。それで会話にもどったときには、KさんがもともとICUに行きたかったみたいな話をしていた。最初はイスラエルパレスチナ問題を勉強したかったらしいのだが、アラビア語に挫折して日本史のほうにかたむき、成瀬仁蔵という日本女子大学の創設者の研究をするようになったといういきさつだったと思う(ちなみにこの会話のときこちらは成瀬仁蔵を「なるせりんぞう」と聞き取っており、いま検索してもそれらしき人物が出てこないのでやや手間取った)。こちらもUくんにFさんは早稲田でしたっけと訊かれたので肯定し、一応早稲田の文学部で西洋史コースにいたが大学では何一つ学んでいない、卒論は一応フランス革命について書いたがゴミを生産してしまった感じだと手短に話した。
  • Uくんがこちらの日記に触発されて最近ブログを書くようになったという話から、彼がこちらの日記はやばいからとにかく皆さんいまここで読んでくださいと絶賛しながら呼びかけてくれ、その場でURLが貼られて紹介された。Mさんはこちらの営みを、一九世紀的すぎるでしょ、と評した。その含意はこちらにはよくわからないが、たしかに現代的にクールなフットワークの軽さ(?)というよりはロマン主義的な愚直さと言うか、近代的徹底性みたいなものを思わせる様相だと言えるかもしれない。Kさんは昔読んでいたブログを思い出したと話した。筆者がそれまでの人生を非常に些末なことまで思い出して跡づけるような感じだったのだが、最終的に書き手は自殺し、最後の記事はその人が自殺する様子の動画だったとかいう話で、自殺の件もあってそのブログはまもなく閉鎖されてしまったのだけれど、こまごまとしたことを詳しく記しているのが似ているかもしれないとのことだった。Kさんはその自殺者のブログについて、生のささやかな瞬間を書いているのが小説的だったと思うと言い、小説ってもともとそういう、正規の歴史に対する小さな歴史という意味合いもあったと思うんですけど、みたいなことを続けたが、たしかになあとこちらは思った。私史と言うか、むしろ卑史(そしてあるいは秘史)だったわけだ。そういう意識はこちらにもないではない――書かなければすべて消え去ってしまう歴史の断片を記し残しているというような感覚は。ただまあ本当は、この日々の文章というのは要するに毎日自伝を書いているということなのだろうと思う。biographyの正しく語源的な意味を実践している(生(=bios)を書き刻むこと(=grapho))というわけで、さらに言い換えれば、プルーストがやったことを一日単位でやっているということだ。
  • ほか、レトルトカレー談義やみんなの「簡単メシ」についてなど。ブログにも書いていたのだが、Uくんはレトルトカレーを電子レンジで温めず、冷たいままパックのご飯(こちらは温めてある)にぶっかけて食べるらしい。それがむしろ美味いと言うのだが、まずもってカレーを冷たいままに食うという発想をいままでの人生で一度も抱いたことのなかったこちらは、カレーは温かいものだというイデオロギーに支配されていましたよと笑った。Uくんは料理は全然しないらしく、食事がコンビニの弁当からレトルトカレーに変わったことが大きな進歩だと言うが、それでもやはりなるべく手間はかけたくないということで、カレーを温める数分間を待つのが嫌なようだ。数分くらいストレッチしてたらすぐやんと思ってこちらは笑うのだが、やはりできるかぎりさっと済ませたいみたいな感じがあるのだろう。そこからUくんがさらに、全然元気がなくて何もやる気がないとき、みんな何を食べますかと一同の「簡単メシ」を訊いていき、こちらは夜食はたいがいコンビニの豆腐と即席の味噌汁だと答えた。Jさんが、夏場などはお腹が減らない時期が周期的にやってきて、そのあいだはほとんど何も食べないような生活を送り、ふらふらしてきて低血糖が恐れられるような状態に至るとようやくものを食べる気になる、と語り、なかなかハードコアな食生活を取っているようなのだが、それで何か良い食べ物ないですかねと質問をした。こちらは、低血糖を防ぐにはナッツとか少量のものを一日のうちで頻繁に食べて食事の回数を増やすとかだいたい言いますよね、とか話し、Kさんは、「パルテノ」というヨーグルトに蜂蜜を混ぜて食べると美味しくて、食欲がなくても食べられるかもしれないと助言していた。「パルテノ」というのはそこそこ良い値のヨーグルトらしく、Jさんも存在は知っていたのだが、親に仕送りをもらっていることを考えるとそんなに高いものを食べちゃ駄目なんじゃないかみたいな躊躇にとらわれて手が出せず、高くて良いものが食べられないならもう何でも良いや、とかえって逆方向に流れてしまうのだと言う。そんなことを言ったら生計を完全に頼り切っているこちらなど飯を食えなくなってしまうのだが、それに対してKさんは、でも、元気がないときならほかのものは食べずに「パルテノ」だけで済むじゃないですか、だからほかの人が普通に食べるのと食費的には変わらないんだから、いいんですよとさらにアドバイスを送っていた。
  • あと何が発端だったのかYouTuberの話がなされた時間があったのだが、Jさんは「咀嚼系」の動画を色々見ているらしい。ものを食べるときの音をめちゃくちゃ高音質に録って(撮って)提供している人々がいるらしく、彼女いわく、そういう人たちはどういう風にものを食べてどういう風に音を出すかということにすごく気を遣って努力し、すごく鮮やかで綺麗な音を録っている、もうプロなんですよ、とのことだった。食事中に口をひらきながらくちゃくちゃ音を立ててものを食う人間は一般にわりと嫌悪されるもので、「クチャラー」という言葉で名指されたりもするけれど、Jさんが視聴しているのはそういう汚い感覚を与えるものではなく、とにかく高度に研鑽された咀嚼音の技術の実践らしい。こちらはその話を聞きながら、たぶんそういうのって禅宗で行われている食事の作法の訓練とかに近いのかもなとか思い(道元は『正法眼蔵随聞記』か何かのなかで、食事の時間もまた修行であると言っていたはずだ)、また一方で、そういうのって要はフィールド・レコーディングを聞いているのとおなじようなことかもしれませんねと口にしたのだが、Uくんも、JNくんという友だち(名前は前々から聞いており、八月八日に初参加するもうひとつの読書会でお話しできるはずである)がそう言ってました、技術的発展によって人類の(聴覚的)感性がようやく現代音楽のほうに追いついたんだ、ASMRとかが流行ってるのはそういうことなんだって、みたいなことを話した。ASMRってエロ方面も含めて色々あると思うのだけれど、たとえばキーボードの打音とか、一般的観点からして音楽的ではまったくないもろもろの物音にも快楽や心地よさなどを感じるという受容形式が現れている事実は、たしかにそういう方向から理解することも可能なのだろうし、もしかしたらジョン・ケージ的な世界の実現――とまでは行かなくともそれへの接近――とすら言えるのかもしれず、要はいまの技術で録ればどんな音でもわりと面白くなるんじゃね? などとも思ってしまうが、こちら自身としては自室で音楽を流して聞いているときと、外を歩きながら鳥の声や虫の音やさまざまな自然音や人工音を耳にしているときとでは、感覚的には何の違いもない。だからもう出先で音楽を聞くということはまったくなくなったし、携帯音楽プレイヤーも古いipod nanoが壊れて以来、数年間持っていない。こちらには必要のないものだし、むしろ外空間にいるときにイヤフォンで聴覚を閉ざしたくないと思う。
  • 三時を回ったところで挙手し、もう三時ですし、僕はそろそろ、帰ろうと思います、と申し出た。日記も書く必要があるし、と付け加えるとKさんが頑張ってくださいと言ってくれたので礼を返し、みんなにも挨拶を向けて退出した。それからなぜか自分のブログで最新の日記二日分くらいを読み返してしまったが、さっさと自室にもどろうと立ち上がり、コンピューターと周辺機器を運んでから夜食を取りに行った。今日コンビニで買ってきたばかりの豆腐とインスタント味噌汁に、もちもちチョコロールとかいうやつも二つ残っていたので加えて、三品を部屋に持ち帰るとWikipediaで「カーボベルデ」のページを読みつつ腹を満たした。「大西洋の中央、北西アフリカの西沖合いのマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島ソタヴェント諸島からなる共和制の国家」であるこの島々は、Horace Silverの父親の出身地なのでなんとなく記事をメモしておいたものだ。「15世紀から1975年までポルトガル領であった」と言い、「独立に際してアフリカ大陸部のギニアビサウと連邦を形成する計画があったが、1980年に同国で発生したクーデターによって頓挫し、現在に至っている」とのこと。「国名は、カーボベルデ共和国の対岸にあたるアフリカ大陸西端の岬、カーボ・ベルデ(ヴェルデ岬、ポルトガル語で「緑の岬」の意)に由来する(ただし、ヴェルデ岬自体はセネガル領)」。一九世紀以降、「農業で暮らしていけなくなったカーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった」とあるが、このうちのひとりがHorace Silverの父親だったわけだ。ひとまず「カーボベルデの国会成立と独立」のところまで読んだ。気になった情報は以下に。

カーボベルデ共和国(カーボベルデきょうわこく)、通称カーボベルデは、大西洋の中央、北西アフリカの西沖合いのマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島ソタヴェント諸島からなる共和制の国家。首都のプライアはサンティアゴ島に位置している。

カーボベルデは島国であり、15世紀から1975年までポルトガル領であった。独立に際してアフリカ大陸部のギニアビサウと連邦を形成する計画があったが、1980年に同国で発生したクーデターによって頓挫し、現在に至っている。(……)

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国名は、カーボベルデ共和国の対岸にあたるアフリカ大陸西端の岬、カーボ・ベルデ(ヴェルデ岬、ポルトガル語で「緑の岬」の意)に由来する(ただし、ヴェルデ岬自体はセネガル領)。

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ポルトガルの冒険家が1456年と1460年に、最初にこの諸島に着いた時は無人だったが、卓越風、海流などにより、ギニア海岸地方よりセレール人、ウォロフ人、レブ人、ムーア人の漁師などが訪れていたと思われる。

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(……)その後[1455年以後]数十年の間に、エンリケ航海王子の仕事に就いていたカダモストとアントニオ・ノリが残りの島々を発見した。1462年にポルトガル居住者は初めてサンティアゴ島に到達し、熱帯最初のヨーロッパ人の居住地となるリベイラ・グランデ(今のシダーデ・ヴェーリャ)を創設した。植民地化が始まった当初は、マデイラ諸島やアソーレス諸島のようなポルトガル人の大規模移住は行われなかったが、16世紀には、アフリカから南北アメリカ大陸へ向かう奴隷船の中継拠点となり、奴隷貿易で栄えた[3: 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05]。カーボベルデには入植したポルトガル人と連行されたアフリカ人によってクレオール文化が築かれ、両者の混血も進んだ[3]。海賊がしばしばポルトガル人居住地を攻撃した。1585年、イギリスの海賊サー・フランシス・ドレイクはリベイラ・グランデを略奪した。(……)

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カーボベルデ諸島は18世紀終盤以降経験する頻発する旱魃・飢餓と、奴隷貿易の衰退によりその繁栄は緩やかに失われた。しかし大西洋奴隷貿易における中央航路の位置は、カーボベルデを理想的な補給港たらしめていたことから、19世紀には、サン・ヴィセンテ島にあるミンデロはその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。その一方で同じく19世紀には断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、農業で暮らしていけなくなったカーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった[3: 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05]。

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1951年にポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、カーボベルデを含む各植民地のナショナリズムを緩和させるために、その法的地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし1956年、カーボベルデ人のアミルカル・カブラルとラファエル・バルボーザは、ひそかにポルトガル領ギニア(現・ギニアビサウ)で、ポルトガル領ギニアカーボベルデの独立のためのギニアカーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボベルデポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、2両国の独立運動の基礎を成した。PAIGCは1960年にその本部をギニア共和国の首都コナクリに移し、1963年からポルトガルに対する武装抵抗を開始した(ギニアビサウ独立戦争)。武装闘争は結果的に1万人のソビエト連邦キューバのサポートを受けたPAIGCの兵士と、3万5,000人のポルトガル人およびアフリカ人の軍隊による戦争になった。

1972年までには、ポルトガル軍が駐留していたにもかかわらず、PAIGCはポルトガル領ギニアの4分の3を制圧していたが、カーボベルデは地理的に隔絶しており物流がさほどないことから、PAIGCはカーボベルデポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、1974年4月25日にポルトガルで起きたカーネーション革命を受け、PAIGCはカーボベルデでも活発な政治運動となった。

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1974年12月にPAIGCとポルトガルは、ポルトガル人とカーボベルデ人による暫定政府の同意書にサインした。1975年1月30日にカーボベルデ人は国会を選出し、1975年7月5日にポルトガルからの独立の法的承認を受けた。

  • よく覚えていないのだが、五時直前まで日記を進めたあと、ベッドにコンピューターを持ちこんで遊んだようで、六時二〇分ごろ就寝した記録になっている。


・読み書き
 13:10 - 13:21 = 11分(日記: 7月29日)
 13:21 - 13:39 = 18分(日記: 7月28日)
 13:57 - 14:16 = 19分(日記: 7月27日)
 14:49 - 14:55 = 6分(英語)
 14:55 - 15:01 = 6分(日記: 7月29日)
 15:02 - 16:28 = 1時間26分(Woolf: 4/L14 - L41)
 17:03 - 17:33 = 30分(日記 / ブログ)
 19:52 - 20:19 = 27分(ブログ)
 21:05 - 21:32 = 27分(ブログ)
 27:36 - 28:13 = 37分(Wikipedia
 28:40 - 28:51 = 11分(日記: 6月17日)
 計: 4時間38分

  • 日記: 7月29日 / 7月28日 / 7月27日
  • 「英語」: 64 - 69
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse, Wordsworth Editions Limited, 1994(翻訳): 4/L14 - L41
  • 2019/7/6, Sat. / 2019/7/7, Sun. / 2014/7/17, Thu.
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-04-12「文体の異なる地方で信号を待つ日替わりの主語を数えて」 / 2020-04-13「街路樹の下で集めた囀りを母音と子音に分解する」
  • 「at-oyr」: 2020-04-22「お話」 / 2020-04-23「アキちゃん」 / 2020-04-24「禁酒時代」
  • 「偽日記@はてなブログ」: 2019-11-04 / 2019-11-08 / 2009-07-13
  • Wikipedia: 「カーボベルデ

・音楽