2020/8/1, Sat.

 ナチ・ドイツによるソ連侵攻は、形式だけとはいえ戦時法規に則っていたこれまでの戦争と異なっていた。たとえば、開戦前からソ連住民数千万名の餓死を前提に計画が進められ、その分の食糧はドイツ軍民への供給に割り当てられていたからである。
 実際、食糧割当ての最下位とされたソ連軍兵士捕虜の場合、歴史家クリスティアン・シュトライトの調査によれば、独ソ戦全期間を通じて捕らえられた総計五七〇万名のうち、三三〇万名が亡くなったという。死亡率は六割に近い。こうしたドイツ軍の捕虜処遇は、世界史上類を見ないものであった。
 その明確な起点は、一九四一年三月三日、ヒトラー国防軍統合司令部への秘密の指示からである。

来るべき戦争は、もはや単なる武器をもっての戦争にとどまらず二つの世界観の激突にも導く。(中略)ユダヤボリシェヴィキ知識人は国民のこれまでの「抑圧者」として除去しなければならない。

 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、108)



  • 一〇時過ぎに覚醒。それからまもなく母親が戸口に来て、出かけてくるから洗濯物を頼むと言うので了承した。離床は一〇時二二分。空は今日もまた白いのだが、珍しく陽が洩れてベッドの上に灯っていた。
  • 上階へ。洗面所でうがい。母親が作っておいてくれた炒飯を電子レンジに入れ、昨晩の味噌汁も温めて新聞を読みながら食事。食後、体温を測ると三六. 二度だった。身体感覚としても平常にもどっている。食器を片づけると風呂を洗って緑茶を用意。南窓から見える山の上の空では雲がいくらか拭われてわずかな青さが覗いていた。
  • 室に帰ると緑茶を啜って汗をかきかきEvernoteを用意したりウェブを回ったりした。それからMr. Children『Atomic Heart』を流しだして今日のことをさっと記述。今日は五時ごろには労働に出る必要がある。
  • 七月三一日の記事を記述し、一二時一二分に完成させて投稿したあと、便所に行こうと椅子を降りつつ背後の窓を見やればいつの間にか空気の色が褪せている。降り出したのでは? と思いながら部屋を出て廊下のカーテンをめくって確認すれば、やはりサーサー鳴りながら空間を埋めるものがあったので、急いで階段を上り、洗濯物を取りこんだ。まったく油断のできない時季だ。扇風機も点けて吊るしたものに向けておき、下にもどるとトイレで腹を軽くして、歯ブラシを持って棲みかに帰るとインターネットを見つつ歯磨き、そうして口をゆすいできてからまた日記。
  • 七月二九日を進めるのだが、とても眠いのでやむなくベッドへ。ウィリアム・シェイクスピア小田島雄志訳『シェイクスピア全集 マクベス』(白水社白水uブックス29、一九八三年)を読んでいるうちに仮眠に入った。途中、母親が来て二、三、会話を交わす。洗濯(物を取りこんだことに対して)ありがとうと礼を言い、いつ入れたのかと訊いてくるので、一二時半と答え、雨が降ったからと付け足しておいた。母親のいた場所では降らなかったらしい。
  • それからまた欲求に抗えず眠り、三時に至って頭を晴らすと『マクベス』を読み、本篇を一応最後まで通読した。「恐怖/勇気」及びそれと結びついた「男らしさ(男性性)」、そして「血」が少なくとも外観上はこの劇の主要なテーマもしくはモチーフであるように思われるが、しかしその体系性や展開の構造はまだこちらにはつまびらかでない。
  • 四時一〇分で上階に行き、母親が買ってきてくれたパンを二つ食う。米粉のものと、表面にチョコを塗られたそのなかにクリームが入ったもので、前者はけっこう味わい深くて美味かったのだが、後者はあれは砂糖なのか外側にまぶされたものがめちゃくちゃざりざりしていたし、相当に甘かった。
  • 身支度を済ませ、中村佳穂『AINOU』を流したなかで仕事着に着替え、四時五〇分に出発。道に出れば、家のそばの林のテクスチャーはさわさわ動きうねっている。その外縁部、道沿いの石段上にはHさんが世話をしている畑があるが、そこに低木が何本か生えていて、つるりとなめらかな緑色の果実(?)がぶら下がっていた。いまから思い返すとなんか唐辛子みたいと言うか、ハバネロみたいな感じだった気がするけれど、さすがにハバネロではないだろう。普通にピーマンか何かか? しかし、ピーマンってあんな木に生えるものなのか?
  • もう八月に入ったが、セミの網の向こうにウグイスの声がまだ聞こえる。空は山際から雲が湧いて塩を固めたみたいに盛り上がっており、全体にも雲が混ざって希薄な風合いになっているけれど、合間に青さもたしかに覗いてそのなかをトンビが悠々と羽ばたいていく。坂道の路面は濡れており、雨で落とされたらしくガードレールの脇には葉が散乱して、数種の緑や茶色のもの形があるもの崩れたものと重なり並び、上るあいだにも音もなしに葉が降ってくる。視線を落として歩いていると、突然目の前に糸で吊られたミノムシが現れてびっくりした。
  • 最寄り駅に着くとベンチに座ってメモを取りたかったところが、座席は高年の白人と、もうひとり何やら寝そべっている男性とで埋まっていたので、仕方なく久しぶりにホームの先に進んだ。紫もかすかに混ざったような濃いピンク色のオシロイバナが線路沿いを彩っており、カナカナの音が丘からしみ出て、陽射しは顔を斜めに包むがそれほど暑くもなくて、むしろ心地よいような質感だった。
  • 青梅駅で降りて階段に入ると、前から男子高校生が何人か急いで上ってきたのだが、そのうちのひとりが胸の前に何か食べ物を抱えていて、ケースに小さな球体が入っているのをパンか何かかとこちらは思ってすれ違ったところ、背後に続く女性の二人組が笑いながら、たこ焼き持ってたねと言うのが聞こえた。どうもそうだったらしい。まるでアニメの高校生みたいだと女性らは笑い続けていた。改札を通るとSUICAの残金がすくなかったので券売機に寄り、五〇〇〇円をチャージしてから職場に向かった。公衆便所の清掃人らしき老人が、掃除を終えたところらしく、自転車にまたがってよたよた不安定に走り出していた。
  • 職場。今日は(……)さんはおらず、(……)さんだけだった。講師は(……)先生。前夜、もらったシフト表を見たところ水曜日の最後のコマに勤務が入っており、水曜日は一〇時から読書会(Woolf会のことだ)があるので最後のコマは働けないと以前伝えておいたはずだがとメールを送っておいたのだけれど、その件は代わりが見つかりそうだとのことだったので了承して礼を言った。準備時間が迫るまで教室奥の一席で手帳にメモ。
  • 今日の相手は(……)さん(小六・国語)と(……)くん(中二・英語)。(……)さんは国語はそう得意でない。記述問題など見当外れのことを書いてしまいがちなので、問われている言葉と似た語句を本文中から探して、ヒントを見つけようと助言した。たとえば今日の箇所だったら、俳句の鑑賞文で、取り上げられた俳句の「情景」が書かれているのはどこかみたいな問いがあったのだが、本文を見てみれば「早春の景」という言葉が含まれた文があるわけである。となれば大方そこが答えの中心部分ということになるだろうという具合で見当のつけ方を教示した。ほかは俳句や短歌や古文漢文についていくらか。俳句の問題中には原石鼎という俳人の「浜草に踏めば踏まるる雀の子」という句が取り上げられており、これだけ意味がよくわからなかった。雀の子が浜草を踏んでいたら何かべつのもっと大きな動物や人間などに踏まれてしまった、ということなのか? と思ったが、だとするとなぜ「に」が使われているのかわからない。と今考えていてわかったのだが、たぶんこれは、踏もうと思えば踏み殺してしまえるほど小さくていたいけな雀の子が浜草の上で戯れている、という趣旨なのではないか。こちらは先ほどまで「浜草に踏めば」で捉えていたのでわからなかったのだが、「浜草に雀の子」という修飾関係なのだと思う。
  • (……)くんはまあいつもどおりだ。途中で寝てしまったが、教科書を一ページ予習できたので悪くはない。授業後、(……)さんについて(……)さんとちょっと話す。とにかく文を書く量を増やさなければどうにもならないので、二〇〇字くらいの作文例を写してくるというのを毎回の宿題に加えるべきではないかと提案した。本当は自分で書けたほうがもちろん良いわけだけれど、彼女の場合はいきなりみずから書いてくるというのは難しそうなので、まずは写すところから始めれば良いだろう。
  • 退勤して駅へ。電車に乗って扉際で待ち、最寄りで降車。暗夜である。北側の丘は空も林も別なく一様に黒く固まり籠められており、そのなかに乏しい家明かりのみが辛うじて浮かび、黒の支配の絶対性を乱している。自販機でコーラを買ってから階段を上っていくと、駅横のちっぽけな広場で花火をやっているようで、立ちひろがる薄煙と貧しい光が見えた。おそらく中学生ほどの子どもたちらしい。なかなか良いではないかと思いながら駅を抜け、横断歩道を渡って坂道に入ろうとしたところで、せんせー! と声が飛んでくる。先生って俺のことかと思いながら振り返ると広場の縁に人影があり、誰だ? と惑いつつ自分が呼ばれたのかどうかまだ疑っていると、(……)ー! と続いたので、(……)さんかと笑った。花火やってるー! と言うので、いいじゃんと答えるが、通りを挟んでいて遠いので車の途切れた隙に渡ってもどり、広場から出てきた彼女と顔を合わせた。(……)さんはボロボロのオーバーオールを身につけており、両膝の周りが破れて完全に露出しているので、なにそれ、ファッション? ファッションなの? とからかったが、単にボロくなっただけだということだ。花火はひとつ下の幼馴染及び弟と一緒にやっており、幼馴染はすぐそこの(……)牛乳屋の息子だと言う。中二と中三になっても一緒に花火で遊ぶ幼馴染なんて、なかなか良い関係ではないか。学校の成績が出たところだが、英語が五だったと嬉しそうに言うので、とても良いと称賛する。こちらだということがよくわかったねと訊くと、歩き方で絶対そうだと思ったと言うので笑う。たぶんこちらの歩みは特徴的なのだろう。まずもって脚を動かすスピードが大多数の人に比べて相当に遅い。あとは提げていたクラッチバッグも決め手になったらしい。どうせなのでと思って、先ほど買ったばかりのコーラをバッグから取り出し、まっすぐ差し向けて、あげるよと贈呈した。秘密ね、本当は奢っちゃ駄目ってなってるからと付け足しておいたが、この程度ならバレたところでどうなるわけでもない。幼馴染は中二だと言うので、じゃあ売りこんでおいてよ、と塾の宣伝を頼み、いい先生がいるって、と口にしながらみずから大笑いすると、やはり大きく笑った(……)さんも、F先生以外にね、と冗談を返すので、そう、俺以外いい先生だっつって、とさらに冗談を重ね、そうして別れた。ふたたび通りを渡り、コーラをあげてしまったので街道沿いの自販機で五〇〇ミリリットルのコカコーラゼロを買い直す。正直五〇〇ミリもいらなくて、二八〇ミリで満足なのだが。あげたボトルは二八〇ミリなので中途半端だし、(……)さんだけにあげるのではなくてついでにほかの二人にもあげたほうが良かったかなとも思ったが、今更もどるのも面倒なので先を進んだ。残りの帰路は、ああいう時間があるのだなあというようなことを思い巡らせていたようだ。ああいう時間というのはおそらく、花火に興じる子どもたちのことでもあるだろうし、そのなかの中三女子とこちらが交わしたやりとりや、現在持っている関係のことでもあるだろう。彼女もいずれ、歳を重ねて大人になり、こちらのことを忘れ、あるいは記憶しながら生き、死んでいく。
  • 帰宅するとシャツを脱いで靴下とともに洗面所に持っていき、手も洗った。明日は「(……)」とかいう懐石の店を二時に予約したと言う。部屋にもどるとベッドに転がって、ウィリアム・シェイクスピア小田島雄志訳『シェイクスピア全集 マクベス』(白水社白水uブックス29、一九八三年)を読みながらしばらく休む。野崎睦美という人の解説も含めて一応全部読み終わった。多少気になるところがいくつか残っているので、気が向けば本文にもどって検討してみるつもり。「解説」には『マクベス』関連の批評史が概略されており、一八世紀のW・ワイターという人は、「一連の心象[イメージ]の総体に注目し、たとえば、マクベス夫人の独白(一幕五場)におけるナイフと毛布の結びつきから、その背後に当時の劇場の約束事を浮かび上がらせてみせるなど、いわば二十世紀の心象研究を先取りした感がある」(186)というのだが、これはテマティスムみたいなことをやっているのだろうか。彼が「開拓した批評の道の延長」には、「しっくりしない衣服」というイメージを考察したらしいC・スパージョンという人や、「「裸の赤子」に具象化された「憐れみ」の分析を通して劇の意味を鮮やかに説き明かした」(186)というC・ブルックスなどがいるらしい。
  • また、トマス・ド・クインシーも『マクベス』中、門番の場のノック音についての論文を書いていると言う。シェイクスピアに関するロマン主義的批評(というのがどういうものなのか知らないが)の集大成としては、二〇世紀初頭にA・C・ブラッドレーという人がいるようだ。「彼は全篇を覆う暗闇の雰囲気やそれがもたらす恐怖感を劇の精神として抽出し、それをマクベス夫人の反自然的感情に結びつけるなど、犀利な分析を行なう」(187)らしいので、すこし気にならないでもない。一方、「実証的な分野の研究」としては、「シェイクスピアの人間観が無意識の裡に[﹅6]いかにスコラ哲学の影響を色濃く留めているかを考察したW・C・カリーの『シェイクスピアの哲学的傾向[パターン]』をまず挙げることができる」(187)らしく、これもそこそこ面白そうな印象を受ける。
  • 九時まで読んで食事へ。素麺や天麩羅など。父親は酒を飲んだようで、ひとりでテレビに向かってぶつぶつ反応したり時に馬鹿笑いしたりと相変わらずうるさく、鬱陶しい。夕刊を読みながら飯を食っていると、タブレットが音を立てたので椅子から立ち上がって手に取ったが、表示をスライドする前に切れてしまった。ロシアの兄夫婦から電話が掛かってきたらしいが、用事はもちろん、父親が定年を迎えたことへの祝いだろう。まもなく再着信があり、父親が出て、画面にはMちゃんが映っているらしく相好を崩して呼びかけていた。洗い物をしていた母親もそのうちそこに加わり賑やかにやりはじめたが、こちらは黙々とものを食べながら新聞を読む。食事を終えて皿洗いも済ますと母親が、いまSくんも来ますからねとMちゃんに言っていたのでリクエストに応えてタブレットの前に行ったが、Mちゃんは恥ずかしがっているのか顔を隠していた。それからしばらく手を振ったり、呼びかけたり、言葉を交わしたりする。兄は顎髭をますます濃く黒く茂らせており、モスクワにいるくせに「I♥NY」のTシャツを着ていた。Tさんが言うにはロシアではもう対コロナウイルスのワクチンができたというのだが、マジで? という感じ。ずいぶんはやくない? そんな情報、見かけていないぞ。一〇時に至ったところで俺は風呂に入ると言ってMちゃんに手を振り、入浴に行く。
  • 風呂のなかでは今日の国語の授業を思い返して、学校教育とか受験制度の勉強ってマジでクソつまらんと言うか、本質的なものにほとんど何一つとして触れていないなとあらためて思い、そういうなかでどういうやり方ができるかなあということをいくらか巡らせたのだが、仔細に記録するのは面倒臭いので省く。風呂を出てくると通話はまだ続いていたが、そこには加わらずに緑茶を用意しコーラを持って室に帰り、冷たいコーラと温かな緑茶をちゃんぽんで飲むというハイブリッドな飲み方をキメながら今日の日記を書きはじめた。開始が一〇時四〇分あたりで、中村佳穂『AINOU』を聞きつつ進め、BLANKEY JET CITYBLANKEY JET CITY 1997-2000』に繋げて現在#3 "ロメオ"まで至っているのだが、時間を見ればもう零時二〇分、いつの間にか一時間四〇分も綴っていたわけで、生を記録するというのは本当に時間が掛かる。
  • それから書抜き。ひとまず通読したばかりの『マクベス』を今日は写すことにして二〇分間打鍵、そののち次に何を読もうかと積み本に目を向けたところで、柄谷行人『意味という病』に「マクベス論」が入っていたことを思い出し、ちょうどなんとなく実作ではなくて思想や批評の方面が読みたかったこともあり、これにするかと決めて本の塔をすこしずつ分割して目当ての文庫本を取り出した。ベッドで二時間読んだが、途中、いくらかまどろんでしまった。
  • マクベス論――意味に憑かれた人間」はこの本の最初に収録されている。冒頭にまず、シェイクスピア自身の芸術論を披瀝したと目されている『ハムレット』の台詞が引かれている。「芝居の目指すところは、昔も今も自然に対して、いわば鏡を向けて、正しいものは正しい姿に、愚かなものは愚かな形のままに映しだして、生きた時代の本質をありのままに示すことだ」というのがその一文であり、柄谷はここに記された「自然という言葉において彼[シェイクスピア]がアクセントを置いているのは、明らかに人間の内部という自然である。すなわち彼は精神というものを自然としてみようとしたのである」(9~10)と解釈しているが、「明らかに」などという強調を使って断言しているわりに、この引用文のみでは「自然」=「人間の内部」あるいは「精神」という等式が成り立つ理路は「明らかに」は見出せないとこちらは思うし、台詞の引用以外の根拠も特に示されない。『ハムレット』(野島秀勝訳、岩波文庫、二〇〇二年)に実際に当たってそのすこし前から引いておくと次のようになる。「動作を科白に合せ、科白を動作に合せるのだ。その際とくに注意すべきは、自然の節度を越えないこと。何であれ演[や]りすぎれば、芝居の目的に反する。芝居の狙いは昔も今も変りなく、いわば自然に向って鏡をかかげ、善には善の、悪には悪の、それ本来の姿形を、時代の現実にはその真相をくっきりと映し出して見せるところにある」(154)。ちなみにこの箇所に付された訳注によれば、ドーヴァー・ウィルソンはハムレットのこの台詞について、「『自然を映す』のではなく、『典型的な人間性を示す』という意味だ」と述べているらしい。「自然」の原語はもちろん"nature"だから、そういう理解は成り立たないこともないだろうと思う。
  • 文学とかについてよく言われる「鏡として映し出す」式の比喩がこちらにはいまいちわからないのだが、上の台詞にはまず前提として、「自然」そのものに直接目を向けてもその「本質」を掴むことはできず、鏡に映し出さなければそれは人の目には映らないという考えが含まれているだろう。もしそうではなくて「自然」そのものから「本質」を汲み取ることができるならば、鏡に映すなどという間接的な経路を取る必要はないはずだからだ。あるいはそもそも、人は直接的に「自然」に視線を向けることなどできはしない、という考え方がそこでは取られているのかもしれない。
  • 少なくともこのハムレットの台詞においては鏡は「自然」に対して向けられているわけで、だから鏡に映った像を目にするのは「自然」そのもののはずである。そもそも鏡とは、その前に位置するものがみずからの似像(イメージ)を見るためのものなのだから。ところで芝居あるいは演劇とは観客に向かって披露されるものだから、芝居が鏡だとして、そこに映し出された像は観客に対して提示されているはずであり、同時に、鏡が観客に向けられているのだとしたら、そこに反映された像はまた観客の姿でもあるはずだ。したがって、演劇を見る観客はおのおの、芝居のなかに自分自身のイメージが(直接的には捉えられない自分自身の「典型」もしくは「本質」のようなものが)表現されているのを見出すということになる気がするのだが、こう考えてみたとしてこの図式はあまり面白いものではなく、どちらかと言えば退屈な演劇観(文学観)だと思う。
  • 話をもどすと、ハムレットの台詞に含まれた「自然」を「精神」として読むことには、第一段階においては(第一義的には)確たる根拠はないとこちらは思うのだが、この「自然」という語は「マクベス論」においてかなり中心的な概念のようなので、柄谷の読みは一種の作業仮説と言うか、「自然」を「精神」として考えるとこういうことが見えてきますよと示すための前提的導入だと捉えれば良いかとさしあたり思っている。で、柄谷行人が考えるその「精神=自然」とは、十全に観察及び分析することが不可能な畸形性と言うか、どのように分節的に整理して理解しようとしても区分しきることのできない不定性みたいなものだと思われ、一〇ページにおいて彼は次のように述べている。「精神」を「自然」として見ようとするシェイクスピアの姿勢に含まれているのは、「"自己"というものがどんな分析をも超出してしまうばかりでなく、ほかならぬ自己自身をも拘束し破壊するという事態、存在しないはずのものが存在するばかりでなく、それほどに現実的なものもないというような奇怪な事態の経験である」。また、「精神という場所ではどんな奇怪な分裂も倒錯も生じるということをあるがままに認めたところに、彼の比類ない眼があ」り、「観察したり分析したりするには、この自然はあまりに手強い」。そして、たとえば心理学者らは「ハムレットマクベスの中に思想・性格・病理等々を見出すだろうが、何一つそんな形骸に分解しうるものはないのである」とのことだ。柄谷はこのような「精神=自然」を、二七ページでは「現実」と言い換えてもいる(シェイクスピアは「人間がどれほど奇怪な観念にとりつかれたとしても、それを病理としてみるのでもなく、道徳的な歪みとみるのでもなく、一つの「現実」すなわち「自然」としてみようとしたのだ」)。柄谷が考えているところをこちらなりの理解に置き換えれば、シェイクスピアは(あらゆる?)既存の意味づけの形式にもたれかからず、それを拒否し、たとえば「思想」とか「性格」とか「病理」とかに分節=整理(捨象的抽象化)される手前の不分明な領域としての「精神=自然」を「あるがままに」捉え、表現しようとした、ということになるのではないか。したがって、シェイクスピアにおいてはその意味づけの仕方(あるいは意味づけの拒否の仕方)に彼の独創性があるということになると思うが、この「マクベス論」は「意味に憑かれた人間」と副題されているので、たぶんこの先で、劇中人物たるマクベスの意味づけの仕方についても検討されるのではないか。だからそこには、「作者」であるシェイクスピアによる意味解釈と、作中人物であるマクベスによる意味解釈という二つの意味づけの水準があると思われ、もしそうだとしたら、その二層がどのように関係してくるのか、あるいはしないのか、という点がひとつのポイントになるのではないかと思う。
  • ほか、一五ページに『ハムレット』はエリオットの言うような失敗作ではなく、「間然するところのない「悲劇」なのだ」という一節があり、「間然」という言葉が初見でわからなかったのだが、これは「欠点をついてあれこれと批判・非難すること」という意味らしく、「間然するところがない」、すなわち完璧で非難するところがまったくない、という形でよく使われるようだ。また、一六ページには野島秀勝(岩波文庫版『ハムレット』の訳者)の『近代文学の虚実』の内容を要約するなかで、「完璧な「存在の偉大な鎖」におおわれた世界が分解していくというこの見方は、ヘーゲルを逆向きにしただけのことである」という批判が出てくるのだが、このなかに記されている「存在の偉大な鎖」って、ちくま学芸文庫から出ているアーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』とおなじ言葉やん、と思った。Arthur Oncken Lovejoyというこの人はたぶん相当にマイナーなほうの学者だと思うのだけれど、『存在の大いなる連鎖』は面白そうで(「充満」と「連続」という二つの原理が西洋的思考の根幹を形作ってきたことを跡づける「観念史」の試みらしい)注目していたところにこの一節に行き当たったので、柄谷自身だか要約元の野島のほうだか知らないけれどこんな本まで読んでいたのかと思ったところが、「存在の偉大な連鎖(great chain of being)」というのはどうも思想史における一般的な用語としてあるようだ。「ブリタニカ国際大百科事典」(https://kotobank.jp/word/存在の偉大な連鎖-90603)に解説されているところでは、「ルネサンス時代および近代の初期 (特に 17~18世紀初頭) に,西洋思想に大きな影響を及ぼした新プラトン主義の宇宙観。宇宙は連続する無数の存在によって満たされており,それらすべての存在は,最も完全な存在 ens perfectissimumないしは神へといたる階層的秩序のなかに組込まれていると説く。この観念は,ルネサンス時代および 17~18世紀初頭の頃は,ほとんど普遍的な観念であった」ということで、なるほどこれはたしかにヘーゲルだなと理解される。と言ってヘーゲル自身の著作など一冊も読んだことがないけれど。そう言えば今日(八月二日に)図書館に行ったところ、新着図書に熊野純彦が訳したヘーゲルの『精神現象学』(ちくま学芸文庫)が入っていた。
  • 書見後はブログを読んだり日記を書いたり。そして現在三時四八分。新聞記事を記録する。なるべく毎日、少しずつでもとにかく写していかないとどうにもならない。二〇二〇年六月八日月曜日朝刊である。七面、【イスラム過激派指導者を殺害/仏軍、マリで】(パリ支局 山田真也)。「フランス国防省は、アフリカのマリで3日に行った軍事作戦で、イスラム過激派組織「イスラムマグレブ諸国のアル・カーイダ組織」(AQIM)のアブデルマレク・ドルクデル指導者を殺害したと発表した」。「AFP通信によると、ドルクデル指導者はアルジェリア出身。AQIMは2016年に起きたブルキナファソでのホテルやレストランの襲撃を実行したなどと主張してきた。フランスのフロランス・パルリ国防相は5日、「大胆な作戦を実行した人々に感謝の意を表す」などとのコメントを出した」。
  • 一〇面、【コロナたたきとハンセン病差別/無自覚の民間が暴走】(文化部 小林佑基)。「新型コロナウイルスの感染者とその家族らに対する差別やバッシングが問題となっており、日本新聞協会なども、扇情的な報道にならないよう努めるとの共同声明を発表した」。

 ハンセン病市民学会共同代表の内田博文・九州大名誉教授は、ハンセン病患者への差別や偏見を作り出したのは国の強制的な隔離政策だったが、とりわけ助長したのは「無らい県運動」に象徴されるような、自覚のない民間の関与だったと指摘する。
 官民一体となって展開された無らい県運動は、戦前より戦後の方が強力に推進された。戦後は民間の関与が大きくなり、暴走したからだと、内田氏は説明する。例えば、小中学校は、児童・生徒の身体検査で患者の発見に自主的に協力し、住民の通報も奨励された。患者が見つかれば、自治体職員らは患者やその家族に隔離に従うよう強く働きかけ、家屋の徹底的な消毒も行った。その結果、患者だけでなく家族も地域にいづらくなった。
 民間が暴走した背景には、隔離の根拠が、戦前の「社会防衛」から戦後は「患者の保護や福祉」へと変わったことがある。「運動に参加する人々は、患者や家族の保護のために、良いことをしているという意識だった。差別の加害者との自覚はなかった」

  • 「無らい県運動」については次のような説明。「「らい病」と呼ばれたハンセン病の根絶を目指した国に協力するため、各県が地元警察などと連携して行った取り組み。自治体職員らが患者の家を訪問し、療養所への入所を勧奨した。1930年代に始まり、戦後も活発に行われた」。内田教授は「さらに、今回の外出自粛生活では、身体障害者や要介護者、経済的弱者らが、必要な支援を受けられない状態だとも指摘する。「『合理的配慮の欠如』という隠れた差別」と述べ、自粛の要請と支援がセットで行われるべきだったとする。だが日本では、同情心と差別心が表裏一体のことが多く、いたわりの対象だった弱者が声を上げると、一転してたたかれやすいという」とあるが、この最後の文に書かれていることはまったくその通りではないかと思う。
  • またちょっと日記を書いたのち遊んで六時一五分就床。


・読み書き
 11:44 - 12:12 = 28分(日記: 8月1日 / 7月31日)
 12:40 - 13:29 = 49分(日記: 7月29日)
 13:29 - 13:40 = 11分(シェイクスピア
 15:00 - 16:08 = 1時間8分(シェイクスピア: 115 - 174)
 16:25 - 16:35 = 10分(シェイクスピア: 176 - 180)
 20:42 - 21:00 = 18分(シェイクスピア: 180 - 188)
 22:36 - 24:21 = 1時間45分(日記: 8月1日)
 24:23 - 24:43 = 20分(シェイクスピア: 25 - 129)
 24:50 - 26:50 = 2時間(柄谷: 1 - 30)
 27:17 - 27:24 = 7分(ブログ)
 27:29 - 27:35 = 6分(日記)
 27:44 - 28:08 = 24分(新聞)
 28:14 - 28:31 = 17分(日記: 7月29日)
 計: 8時間3分

・音楽