2020/8/6, Thu.

 ガス・トラックを使った実験は、[一九四一年]九月一七日に行われた。五〇〇~六〇〇名のユダヤ人を中心とした労働不能者が一三時間にわたり改造されたガス・トラックに入れられ、一酸化炭素ガスで殺害された。
 翌一八日には、施設の浴室を使ったガス殺実験が行われ、約九〇〇名の周辺地域の精神障害者が殺害された。ガスにはツィクロンB[ベー]が用いられた。
 ガス・トラックの開発にあたっては、国家保安本部のヴァルター・ラウフ親衛隊大佐(一九〇六~七二)が関与していた。彼の文書はドキュメンタリー映画SHOAH ショア』(一九八五年。「ショア」はホロコーストと同義のヘブライ語)でも詳しく紹介され、「大量射殺が兵士にとってかなりの重荷になってきており、自分のガス・トラックはこの重圧から兵士を解放した」と転換の経緯が語られている。そこにみられる意識は、ヒムラーと同様であった。
 このように、ナチ・ドイツによるユダヤ人問題の「解決方法」は過激化していった。当初、ポーランド占領までは「追放」を考え、それまでの過渡期として「ゲットー」に押し込める。追放地として目論んだソ連の膨大なユダヤ人に対しては、「大量射殺」で臨んだ。だがその限界はすぐに露見し、独ソ戦が膠着状態になるとともに、最終的には毒ガスを用いる「大量殺戮」が求められるようになるのである。
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、128~129)



  • 一二時二〇分に起床。滞在はちょうど七時間。昨晩は五時台に眠りに就いたわけで、これはここ最近の生活のなかでは比較的はやいほうなのだが、それなのにむしろ身体が重く、疲れているような感じがあった。一気に気温が上がって夏めいたために、あまり深く眠れなかったのかもしれない。
  • 茸ご飯などで食事を取りつつ新聞を読む。今日は広島原爆忌である。一面にはここ数日同様、戦後七五年の特集ということで戦争証言が載せられているが、この日は当然広島で被爆した人の話で、なんという人だったかいまちょっと忘れてしまったけれど、家の二階のベランダみたいなところに出て向かいの家の女の子と口喧嘩していたときに原爆が落ちたらしい(のちにべつの記事で読んだところによれば、広島に原子爆弾が投下されたのは午前八時一五分である)。一面の証言の終盤には、からだを焼かれた人々が水を求めて川に殺到していたという目撃体験が語られており、またこの人本人がその身において体験したこととしても、火傷でジュクジュクになった傷口に蝿が卵を産みつけて孵化した蛆が這い回る、それがとてもつらかったと語られていて、『はだしのゲン』を思い出さずにはいられなかった。べつに『はだしのゲン』に描かれていたことを疑っていたわけではないのだけれど、やっぱりマジでそういうことだったんだな、そういうことがあったんだなと思って、強い印象を受け取らずにはいられない。一〇面だったか忘れたが戦争証言の本篇みたいなページには、九五年あたりに寄稿された中沢啓治(『はだしのゲン』の作者)の文章も載せられており、彼はそこで、あの漫画は自分の自伝であり、あそこに描かれたことはすべて自分が実際に体験したことだと言っていた。『はだしのゲン』はご多分に漏れずこちらも小学校当時に図書室に置かれてあったのを読み、当時は平和だの戦争だの原爆によって生み出された悲惨さだのたぶんそれほど強くは感じず、普通に面白い漫画として読んでいたと思うのだが(強烈に印象に残っているシーンが出てこないというのはおそらくそういうことだろう)、今になってみると、やっぱりあれってかなりすごい漫画なのではないかという気がする。記録証言的作品として相当な価値を持つものなのではないか。あれを読んだからと言って、「平和の大切さ」とか「戦争の恐ろしさ」とかを必ず感じなければならないというわけではないし、核兵器の存在に反対する立場を必ず取らなければいけないというわけでもない。あの作品を読んだ人のすべてが反戦主義者にならなければならないわけではないし、そんなことは原理的にありえない。ただ、あそこに描かれたことの圧倒的かつ徹底的な具体性(たとえば川に飛びこむ被爆者の群れや、傷口を這い回る蛆虫)を否定することはこの世の誰にもできないと思うし、すくなくともそういう具体性が存在したというその一事だけは、まず知り、わきまえておかなければならないのではないか。
  • 部屋に帰還したあとは、なんか身体がこごっていたので、二時過ぎからベッドに転がって書見した。柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、一九八九年)を読み進めながらひたすら脹脛をほぐす。『意味という病』はなぜだかわからんけれど冒頭の「マクベス論」の印象が強く、たぶんこの本のなかで一番有名な論考もそれなのではないかと思うのだが、こちらとしては「マクベス論」よりも今日読んだ「夢の世界――島尾敏雄庄野潤三」のほうが面白かったような気がする。「マクベス論」より論旨もわかりやすいし、テクストに基づいた分析も納得が行くという感じ。わかりやすくまとまりすぎていると言えばそうなのかもしれないが。読んでいていくつか思ったことはあり、少量ながら読書ノートにメモも取ったけれど、いまは記すのが面倒臭いので、あとで(あるいは明日以降)気が向いたら書くつもり。
  • なぜか眠気が重くて振り払えなかったので三時半過ぎでいったん書見を中断し、Jesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』を流して仮眠に入った。眠りに入るまでのあいだ、また一時的に浮上した合間など演奏をいくらか聞いたのだが、今更ながらこのアルバムは名盤と言って良いんじゃないかと思う。ギターとピアノのデュオでこれ以上の作品は、たぶんほぼないんじゃないだろうか。
  • 四時四〇分からふたたび書見、六時過ぎまで。夕食を取りに行く。素麺を茹でてくれと母親が言うのでフライパンで三束を茹で(大鍋が見つからなかったので)、冷水で洗い、指に巻きつけてある程度のまとまりをつくりながら笊に取り、そうして食事。途中、風呂場で呼び出しボタンが押されたらしくアラームが鳴り、母親の手が放せなかったのでこちらがなんやねんと席を立って行けば、石鹸はないかと入浴中の父親が言う。洗面所を探しても見当たらず、トイレにあると母親が言うのでそちらに行き、なんか外国製の品を取って父親のもとに運んだのだが、これはロシアに行った際(ちょうど一年前になる)に買ったものなのかそれとも兄夫婦から送られてきたものなのか知らないけれど、母親は記念品だからと言ってなるべく使いたくないような様子で、それを受けて父親も、じゃあ今はわずかな残りでなんとかするから車のなかから持ってきておいてくれと言い、こちらは席に戻って食事を続け、その後母親が車中の石鹸を取ってきたようだ。
  • 夕食を済ませると緑茶とともに帰室し、Mr. Children『Q』を流して今日のことを記述した。上記の戦争証言のことを記しているあいだに涙を催してしまう感じがあり、と言うか昼間に新聞記事を読んでいた時点ですでにそうだったのだけれど、自分のことながらこういう感情性の介在は本当に良くないことだと思っている。感情性の存在そのものが悪いとは思わないが、なんかこういう形でのそれは良くない種類のものだという気がする。ただその理由はあまりよくわからない。生と歴史の具体性を捨象的な感動物語に仕立て上げて受容しているあさましい暴力のにおいがするというのが要因のひとつではあると思うが、それだけだとも思われない。恥ずかしいので日記にはいちいち書いていないのだけれど、新聞とかもろもろの情報とかありがちな良い話とかに接していて涙を招いてしまうということは実は自分にはけっこうよくあることで、こちらには性分としてそういうナイーヴでロマンティック的な部分があるのだが、これは本当は良くないなあ、望ましくないなあと思っていて、おのれの性質としてあまり好きではない。もちろんべつに感情をいつでもどこでも殺したいということではないし、感情性の介在ということもときには必要不可欠な事柄だとも思うけれど。
  • 「英語」記事を音読。やはり復読(音読)は毎日やるべきだ。それからMr. Children『深海』を背景に手の爪を切る。#10 "マシンガンをぶっ放せ"の2サビに"毒蜘蛛も犬も乳飲み児も 共存すべきだよと言って/偽らざる人がいるはずないじゃん"という一節があるのだが、このならびで「乳飲み児」という言葉が出てくるのはなかなかやるなと思った。意味的にはべつに大したことはないと思うのだけれど、赤ん坊とか赤子とかではなくて「乳飲み児」という言い方にした点を買いたい。たぶんメロディラインの要求する発音との兼ね合いが大きかったのではないかと思うが。
  • #11 "ゆりかごのある丘から"は知る人ぞ知る通好みの名曲みたいな語り方をされているイメージがあり、たしかに質は高いのだが、こちらとしては全体を覆い尽くしている感情性の舌触りがやや濃すぎて完全には乗りきれないぞ、という感覚を覚える。わずかながらも甘味が強すぎて、甘ったるさが舌につきまとうチョコレートみたいな感じ。物語自体は、自分が戦争に行っているあいだに恋人(明確な「恋人」関係にあったのかどうかは不明だが)がべつの人のもとに行ってしまったという内容で、今時の言葉を使えばいわゆる「寝取られ」物ということになるのかもしれないが、主題としては古典的と言ってもよいほどにありふれたものだとは思う。遅めのテンポでまさしく広々とした「草原」(曲世界の舞台はそこに設定されており、タイトルにある「丘」という語は歌詞中には一度も出てこない)を思わせるごとくゆるやかに流れる進行や、籠り気味で煙いようなギターの音色、気だるげな甘さを帯びたボーカルの声色及び歌い方など、曲調全体が(感情性と言うよりも)感傷性に結びつき貢献している印象で、(ロラン・バルトの言葉を借りれば言わば「読み得るテクスト」として)よく仕上がっていることは間違いないが、先述したようにこちらにとっては甘味がちょっと強すぎて、甘ったるさの領分に入りかけている。その甘やかな「切なさ」が良いのだという受け止め方はもちろん理解できるけれど、こちらとしてはあと少しだけ感傷性が控えめだったらちょうど良かったのに、という感じだ。ただ終盤のサックスソロは力の籠ったもので普通にすばらしく、Eric Dolphyを(控えめに)匂わせる瞬間すらある。これは山本拓夫かなと思ったのだが、そうではなくて小幡英之という人だった。
  • 爪を切ったあと入浴。風呂のなかでは先ほど柄谷行人の本で読んだ庄野潤三のことを思い出し、彼ってここ数年の、つまり晩年の作品なんかはめちゃくちゃ薄い感じのものらしく、Mさんがブログでヴァルザーみたいにスカスカだと評していた覚えもあるし、こちらも図書館で瞥見して変な感触を受け取りこれは読んでみたいなと思ってもいたのだけれど、柄谷行人の論考によればもう初期の頃からいわゆる〈中性〉と言うか意味の免除みたいなことをやっているらしい。庄野潤三はたしか『早春』という作だけ以前読んだことがあり、そのほか『水の都』と『ガンビアの春』というやつを積んであるので、さっさと読んでみる必要があるだろう。昔から考案中(「考案」などと言うほどでなく、漠然とイメージしているに過ぎないが)の小説を書くにあたって益するところがあるかもしれない。柴崎友香『ビリジアン』、ロラン・バルト『偶景』、そこに庄野潤三を加え、さらにもしかしたらサミュエル・ベケット黒田夏子なんかも加わるのかもしれないが、それらの作家や作品から学んだことを組み合わせた小説、もしくは散文詩みたいなものを書きたいとずっと前から思っている。
  • 部屋に帰るとVirginia Woolf, To The Lighthouseの翻訳をすこしだけいじった。例の"Indeed, she had the whole of the other sex under her protection"の部分で、前日のWoolf会ではここを「実際、彼女には、どんな男性に対しても護りの手を差し伸べてしまうようなところがあるのだった」としてお茶を濁していたのだけれど、Woolfがわざわざ"the other sex"と回りくどく書いている点を反映させるとともに、やはりもっと"had(……)under"のニュアンスを盛りこみたいなと思い、ベッドでまどろんでいるあいだに頭のなかで訳文を練っていたのだった。それで一応、「実際、彼女には、自分と異なるもうひとつの性に属するすべての人々をまるごと護り、みずからのもとに包みこんでしまうようなところがあるのだった」と改稿した。正直、改稿前のほうが意訳としてこなれていてうまく流れるのかもしれず、それに比べると現案は無益に堅苦しいような感じがしないでもないけれど、しかしここはこなれるよりもあえて頑迷な詰屈を取るべき箇所ではないかと思う。"the other sex"は「自分と異なるもうひとつの性」と訳出した。"the other"に含まれるはずの対照・対比・対峙・対岸的な意味をより強く盛るならば、たぶん本当は「もう一方の」としたほうが良いのだろうだけれど、それだとどうも音調が気に入らなかったので「もうひとつの」に留めたところだ。"the whole"も本来は「総体」としてのひとまとまりの意味合いがあるのかもしれないが、つまり「男性という性(種)そのものの全体」という感じなのかもしれないが、これは「すべての人々をまるごと」という言い方で反映を試みた。最後に"had(……)under her protection"について述べると、"protection"の意味はもちろん「護り」に入れつつ、さらにそこに「包みこむ」という拡張的な意味を導入し、「みずからのもとに包みこんでしまう」という言葉を後ろから付け足すことによって"under"のニュアンスを取り入れたものである。全体としてこの箇所から感じ取られる意味を最大限に写し取ることを目指したつもりだ。そのほかこまかなところをほんの少しだけ直し、この一節が含まれる段落全体だと以下のような記述になった。

 「馬鹿馬鹿しい」と、かなりきつい声色でラムジー夫人は口にした。自身から受け継がれた子どもたちの誇張癖は良いとして、また、何人か町に泊まってもらわなければならないくらいたくさん人を招いてしまうのも(そういうことがあるのは事実だが)さておき、来てくれた人たちに無礼があるのは許せない。特に若い人、教会のネズミみたいにみすぼらしくても、夫が言うには「飛び抜けて優秀」だし、彼を熱狂的に崇拝していて、休暇中にもここまで訪ねてきてくれるような人たちに対しては。実際、彼女には、自分と異なるもうひとつの性に属するすべての人々をまるごと護り、みずからのもとに包みこんでしまうようなところがあるのだった。何がそうさせるのか彼女にもうまく説明はできなかったが、おそらく彼らのそなえている騎士道的な礼節や勇敢さ、あるいは彼らが条約交渉を担ったりインドを統治したり、国家財政を管理したりしているという事実が理由のひとつではあるのだろう。しかし結局のところ、それはきっと、彼女自身に寄せられるある態度、女性なら誰でも好ましく [agreeable] 感じずにはいられないような、信頼のこもった、子どもみたいに純真で敬意に満ちた態度によるもので、年配の女性が若い男性からそういった好意を受け取っても、決して品格を損なうことにはならないのだ。だから、その価値とそれが意味するものすべてを骨の髄まで感じ取れないような娘には――どうか、我が娘たちのなかにはそんな女の子がいませんように!――災いあれ。

  • 新聞写し、2020年(令和2年)6月9日(火曜日)朝刊。8面に【トルコ 軍事介入で存在感/リビア内戦/支援の暫定政権 首都圏掌握】(カイロ支局 酒井圭吾)。「国を二分した内戦が続くリビアで、トルコ軍が軍事支援する暫定政権が、ロシアやアラブ諸国が後押しする軍事組織「リビア国民軍」を首都[トリポリ]圏から後退させた。トルコは、リビア沖でのガス田開発を視野に一段と関与を強める構えで、中東諸国は警戒を強めている」。まずリビア内戦については次のような簡易な説明。「2019年4月に東部を拠点とする「リビア国民軍」が暫定政権の転覆を狙って蜂起。産油国リビアの利権を狙い、露仏や主要アラブ諸国は国民軍を、トルコやカタール、イタリアは暫定政権をそれぞれ支援する「代理戦争」の様相を呈している」。それを踏まえた最近の情勢として、「政権軍は3月以降、国民軍がロシアの防空兵器で固めた軍事拠点を相次いで奪還した。今月4日には「首都圏」を端から端まで制圧した」とSNS上で表明し、6日には原油の輸出港に近い中部シルトへの空爆を開始した」と記されている。
  • 暫定政権軍は一時は劣勢だったらしいのだが、そこを救ったのがトルコだと言う。「トルコは1月、軍事顧問らを送り込み、ミサイルやドローンの供与を本格化させた。友好国のカタールには多額の資金供出を担わせているとされる」。そして、「劣勢に転じた国民軍は今月6日、支援を受けるエジプトを介し、8日からの停戦案を申し出た。しかし、AFP通信によると、政権側は「停戦は国民軍が(完全に)破れた時だ」としており、受け入れないとみられる」。
  • 「トルコが介入する狙いは、東地中海の天然ガス田にある。排他的経済水域EEZ)内にあると一方的に主張してガス田探索を強行するトルコに反発する周辺国をけん制するため、対岸に協力国家を築く戦略を描いている。タイップ・エルドアン大統領は4日、トルコを訪問したリビアの暫定首相とガス田の共同開発で合意した」と言い、同時に「暫定政権内では、アラブ諸国で抑圧されるイスラム主義組織「ムスリム同胞団」の影響力が増している。同胞団に近いエルドアン氏には、同胞団系政権をリビアで確立する思惑もある」ようだ。
  • 「トルコは元々、軍の国外派遣には慎重で、1990年に始まった湾岸危機や2003年のイラク戦争でも派兵は見送った。しかし、4年前にクーデター未遂を乗り切り、軍の影響力を排除したエルドアン氏は近年、シリアやイラク北部で軍事介入を進めてきた」らしい。
  • 11面、すなわち文化面に【萩原慎一郎さんの遺作/歌集『滑走路』を映画化/若者の不安・葛藤 多面的に】との情報。「32歳で命を絶った萩原慎一郎さんの歌集『滑走路』の映画化が決まり、今秋の公開が予定されている」と。監督は大庭功睦[のりちか]という人。「歌集『滑走路』は、萩原さんの死去半年後の2017年12月に初版500部で刊行され、8刷り3万部を超えるヒットになった」らしい。「萩原さんが所属した「りとむ短歌会」主宰で歌人の三枝昂之[さいぐさたかゆき]さんによると、文語と口語の混交体が主流の現歌壇で、萩原さんは完全口語の短歌を目標にし、実現の途上だった」とのこと。
  • インターネットを見ている最中に、Los Angeles Timesが原爆投下は不要だったという論説を載せたという情報に接し、即座に検索して該当のページにたどり着いてみれば、書き手のひとりがGar Alperovitzである(https://www.latimes.com/opinion/story/2020-08-05/hiroshima-anniversary-japan-atomic-bombs)。この人は六〇年代から原爆投下不要論を主張している学者で(*1)、界隈ではたぶんもう大御所みたいな感じなんではないか。米国内にもかかわらずこういう文章を載せることができるって、Los Angeles Timesってさすがだなあと思うし、なんだかんだ言ってもアメリカのメディアって捨てたものじゃないなあと思う。この記事はのちほど読まなければならないだろう。
  • *1: "(……)in 1965, historian Gar Alperovitz argued that, although the bombs did force an immediate end to the war, Japan’s leaders had wanted to surrender anyway and likely would have done so before the American invasion planned for Nov. 1. Their use was, therefore, unnecessary." (Ward Wilson, "The Bomb Didn’t Beat Japan … Stalin Did"(2013/5/30)(https://foreignpolicy.com/2013/05/30/the-bomb-didnt-beat-japan-stalin-did/#))
  • 新聞を写したのち、歯磨きしてまたベッドで書見。柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、一九八九年)の続き。しかしなんだかやたらと眠い感じがあって、途中いくらかまどろんでしまう。また、終盤一時が近づいてくるころには、なぜか文庫本を持つ手の先がかすかに震えはじめた。腹が空になってきたためではあるのだろうが、毎晩普通に空腹にはなっているわけで、それなのに手指が震えるということはここ最近はなかったのに、なぜか今日はそういう現象がこの身に訪れたのだ。脹脛をめちゃくちゃほぐしまくっていたことと関係があるのだろうか。
  • そういうわけで一時で書見を切り、夜食を用意してきて過去の日記や他人のブログを読む。
  • Sさんのブログを覗くと、八月三日付の記事で、入浴中に頭を洗いながら考え事をしていると、自分がいまシャンプーをしているのかリンスをしているのかわからなくなることが結構あると書かれてあり、さらに「酷いときには、今日いつ風呂に入ったのか、それがわからない、その記憶がないことに、ふと気付くこともある。で、そのことに気付く場所が、風呂のなかだったりもする。つまり今、風呂に入っているのだけど、いつどうやってここまで来たのか、おぼえてないし、現状で、身体をどこまで洗浄したのかもわからない」ともあるのだけれど、これめっちゃわかるなと思った。最近はもうそういうことはほとんどなくなったようだが(しかしその変化の理由はよくわからない)、昔は(と言うかおそらく去年くらいまでは)入浴のあいだずっと思念のほうに意識が行っていて、上がって洗面所に出てから、そう言えば俺は頭を洗わなかったのでは? と気づく、ということがわりと頻繁にあった。髪が伸びていれば洗ったかどうか質感でわかるが、髪を切ってまもないときだったりすると、あまり判別がつかない。たしかに洗っていないと判断できるときもあったし、感触からすれば洗っているはずなのだがその記憶がまったく思い出せないというときもあった。まあべつに洗い忘れたからと言ってわざわざもう一度入り直して洗うということはしないのだけれど、風呂場にいるあいだの行動やその手順というのはほぼ完璧に自動化されていて、そこに能動性はまるでなく(もしかしたら受動的な状態ですらあるかもしれず)、意識をそちらに向けなくとも心身が勝手に(何か外部的な存在に操られているかのように)適切に動いてくれるということだったのだろう。生活のなかでそういう風に〈全自動式機械〉として動いている場面は人にはけっこうあると思われ、たとえばトイレで用を足してから室を出るまでの行動なんかはそうなのではないか。
  • それから四月後半の記事を読むが、四月二六日に今泉力哉『愛がなんだ』という作品の感想があり、「最後に主人公のテルコがさりげなくマモルとすみれに気を遣いつつ、ちゃっかり自分の新たな相手候補として別の男と飲みに行こうとする、あのような大人びた、大人ズレした、ちゃっかりした、世間的にはスマートと言われるような行動を起こすことになる根底には、元々の相手への執念のような思いがあって、そのような心の中の猛火を隠してそつなくやっていくためにこそ、そんな洗練された態度は必要なのだと言わんばかりなところがすごい。けしてあきらめないことが、だからこそ表面的にはすべてから解脱したかのような態度を取らせて、そのうえであらたな戦略を組織するための準備に向けていくのだという、戦いを続けるために必要な知性というか、情熱にかたちを与えて取り組みを継続的なものにしていこうという果敢な姿勢に、感動させられもするし同時に慄いて引いてしまいもするのだ」という記述が興味深かった。「けしてあきらめないことが、だからこそ表面的にはすべてから解脱したかのような態度を取らせて、そのうえであらたな戦略を組織するための準備に向けていくのだという、戦いを続けるために必要な知性」。
  • 翌四月二七日には片山亜紀訳のヴァージニア・ウルフ「病気になるということ」の紹介。noteに公開されているこの新訳も、Sさんがブログに載せたこの四月時点で即座にメモしており、はやいところ読みたいとは思っているのだが、いまこの瞬間はまだ時と欲望とが満ちていない。Sさんの感想もとてもすばらしく、素敵な文章だと思う。

とくにセクション2がとても素晴らしい。「現代の感染症患者の心性を描き出している」(片山亜紀による解説)とも言えるだろうが、それだけでなく、患者であるか否かを問わず、我々は本来皆が「横臥する者たち」であったはず、そうじゃなかっただろうか?と思いたくなる。なぜなら「横になってまっすぐ見上げたときの」この世のあらゆるものの信じがたいほどうつくしい有様が、ヴァージニア・ウルフらしさ満載で、ここには描かれているじゃないですか。というよりもここでは自然の光や花や空が描写されているわけではなくて、それを見たときのおどろきとよろこびと、それを誰かに言いたい思い、伝えたい嬉しさと恥ずかしさの混ざり合ったような、そういった心の内側の、自然の景色と同じくらいよく動き回る現象がとらえられているようで、というか、それがつまり描写ということで、それがそれに閉じることなく、なんでもなくまた次の言葉へ繋がっていく。この仕草、誰かの振舞いの流れ…ふだん自分の時間の多くを「直立人たちの軍勢」へ加担することに費やしてしまっていることを恥じ入りつつ何度も読み返したくなる。

  • その後六月一九日の日記を進め、柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫、一九八九年)を読んだりウェブをうろついたりしたあと、午前七時一〇分に就寝。
  • 『意味という病』の72ページには、「小松川事件」という出来事と、それによって死刑になったという李珍宇なる人の名が記されているのだが、これは完全に初見の固有名詞だ。Wikipediaによると「事件の概要」および犯人の供述は次のようなもの。

1958年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。

警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。

     *

小松川署捜査本部は9月1日に工員で同校定時制1年生の男子学生・李珍宇(当時18歳)を逮捕した。

犯人は東京都城東区(現:江東区)亀戸出身の在日朝鮮人であり、窃盗癖もあった。図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、保護観察処分を受けていた[1: 第30回国会 参議院法務委員会議事録(https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103015206X00319581021参議院会議録 1958年10月21日付]。

李は、犯行当日プールで泳ごうと思い同高校に来たところ、屋上で読書をしている被害者を発見。彼女をナイフで脅し強姦しようとする。しかし大声を出されたため殺害し屍姦、遺体を屋上の鉄管暗渠に隠した、と自供。また彼は4月20日にも、23歳の賄い婦を強姦し、殺害。その後も屍姦したと自供した(強姦については法廷では否認、検察によって導かれた供述であるとした)。

  • 裁判ほか助命嘆願や被害者遺族の発言は次のようなものだが、この遺族の言葉にあらわれている無私性というか、その言葉ではあまりぴったりとしないけれどなんかそういった感じのものはすごい。いわゆるネット右翼の人が見たら発狂するんではないか。仮にいまの時代におなじような事件が起こったとして、果たしてこういうことは言えるのかな? と問うと、特に明確な根拠はないのだが、あまり可能ではないような気がする。やはり戦争がまだ遠くはなかったころの言葉ということだろうか、とも思うのだけれど、ただ当時だってべつにいわゆる在日朝鮮人のことなんて知ったこっちゃねえという人はいくらでもいたはずだし、むしろ問題の可視化とか取り組み方に関してはいまのほうが進んだのかもしれない。その点は全然知らんのだが、とは言え色々な方面から見て、現在にはもはや持ちえない、一九六〇年周辺のリアリティを帯びた発言のような気がなんとなくする。

李は1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。

事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、大岡昇平[2: http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480702753/ ]ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。大岡昇平木下順二、旗田巍、吉川英治渡辺一夫らは「李少年を助けるためのお願い」(1960年9月)という声明文を出し、

「私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮との不幸な歴史に目をおおうことはできません。李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、日本人としての責任を考えたいと思います。したがって、この事件の審理については、とくに慎重な扱いを望みたいのであります」[3: 野崎六助『李珍宇ノオト: 死刑にされた在日朝鮮人』p.35][4: 江口朴郎『シリーズ・日本と朝鮮』p.154][5: Proceedings of the International Conference on Japanese Literature in Japan、第24巻、p.152][6: 『別冊新日本文学』第1巻、第1~2号、1961年、p.146。]

と訴えた。また、被害者の遺族は

「これまで、日本人は朝鮮人に大きな罪をおかしてきました。その大きな罪を考えると娘がこうなったからといって、恨む筋あいはありません。もしも珍宇君が減刑になって出所したら、うちの会社にひきとりましょう」[7: いいだもも、武谷祐三『戦後史の発見: 聖なるワイセツから「終末」まで』p.181(産報、1975年)][8: いいだもも、武谷ゆうぞう『「戦後」ってなんなんだ!?: 風俗+事件+人物でさぐる』p.541(現代書林、1988年)]

と申し出た。

  • この事件は当時の社会にはおそらくけっこうなインパクトを与えたようで、「事件を基にした創作」の欄には、木下順二大江健三郎大岡昇平、金石範、深沢七郎大島渚といった名前が並んでいる。また、「秋山駿はこの事件に関して『内部の人間』を著し」、「鈴木道彦もこの事件をきっかけに在日に対する日本人の民族責任を追及した」らしい。
  • 「夢の世界――島尾敏雄庄野潤三」中にはW・H・オーデンが引用している一二世紀アイスランドの古伝説(『ニャウル伝説』)が取り上げられ、その「併列」的な書き方について、「この伝説の書き手は一見「在りさうもない」[これは小林秀雄の言葉である]現実をあるがままに見ているのである」(83)と述べられ、柄谷はその「文体」による「リアリズム」に関心を寄せている。彼によれば、この書き手の特質は「「美しいもの」と「醜いもの」を同時に[﹅3]みることができる眼を所有していたこと」(84)であり、「そういう両義性の場所におそらく自覚的に立っていた」(84)ということである。柄谷はそれを、「文体」と一致した形での彼らの「思想」だとも言っている。
  • これは「マクベス論」でシェイクスピアを評価した観点と軌を一にしたものである。10ページにもどってみると、まず最初の段落で柄谷は、シェイクスピアの芸術観と結びついたものとして、「存在しないはずのものが存在するばかりでなく、それほどに現実的なものもないというような奇怪な事態の経験」があっただろうと推測しているのだが、これは上記の「一見「在りさうもない」現実をあるがままに見ている」態度とちかしいものだろう。第二段落にはまた、「「きれいはきたない、きたないはきれい」と、『マクベス』の魔女はいう。そして、これは時代の価値観の混乱を意味するよりも、シェークスピアが精神というものをありのままに見た言葉だというべきである。つまり、精神という場所ではどんな奇怪な分裂も倒錯も生じるということをあるがままに認めたところに、彼の比類ない眼がある」というこの劇作家への高い評価が記されているが、「精神というものをありのままに見」、「あるがままに認め」ると、「きれいはきたない、きたないはきれい」という「両義性」が生まれてくるというのは、「現実をあるがままに見」ることが「「美しいもの」と「醜いもの」を同時に[﹅3]みること」だという論旨とほぼ同一のものだと判断される。
  • この書物全体における柄谷の関心は、基本的に一貫してそういう「自然」「精神」「現実」を「あるがままに」捉えようとした作家に向けられていると思う。要するに、既製的な(規制的な)観念に還元することのできない(そこからはみ出してしまう)過剰性(という語がふさわしいかどうかには一抹の疑問がある)や畸形性(「奇怪な分裂」とかいう言葉を読む限りこちらのほうが良いような気もする)を見極め表現する試みを彼は一貫して評価していると思うのだが、たぶん「現実」とは常にそういう剰余的なものなのだろう。
  • 101には「夢」の様相に近い庄野潤三の小説を分析するなかで、「疑問は事物の既在性に圧倒されおし流されていく」とあるが、「既在性」という語はなんだか物珍しく映って、自分の語彙に取り入れられそうだなと思った。
  • 庄野潤三の小説(『静物』)については、「「心理的なもの」が一切省略されて」おり、「そのかわりにどうでもいいような[﹅9]ことがうんざりするほど丹念に書かれて」いて、それによって「意味」が排除されているという考察があるが(102)、これはロラン・バルト的なテーマ(〈意味の免除〉)であり、こちらの主要な関心のひとつにあたるものだ。したがって、庄野潤三という作家の作品をさっさと読まなければならない。
  • 105では「われわれは死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している」というモンテーニュの格言が引かれていて、これはそこそこ気が利いた言葉ではある。
  • 106には「「見る」ことは世界を「意味」によって汚染させること」であり、「近代文学における心理的解釈の拡大と視覚的描写の拡大は、実は同一の現象にほかならないのである」というテーゼが一瞬だけ触れられているが、これはたぶん、『日本近代文学の起源』で詳述されるテーマだろう(同書を読んだことはまだないのだが、そういう内容だと聞きかじった覚えはある)。『日本近代文学の起源』は一九八〇年に刊行されているけれど、この「夢の世界」が発表された一九七二年の時点ですでにそういう発想はあったわけだ。
  • 135は「私小説の両義性」。嘉村磯多(『故郷に帰りゆくこころ』)からの引用中に、「髣髴たる海天に青螺のごとく浮いてゐる美しい島々の散在」という比喩。初見の表現。
  • 159は「歴史と自然」という森鷗外論。やはり引用中(『山椒大夫』)に、「凪いだ海の、青い氈[かも]を敷いたやうな面[おもて]」という一節。「氈[かも]」が初見。「毛氈」という語では見たことがあるが。


・読み書き
 14:12 - 15:34 = 1時間22分(柄谷: 71 - 82)
 16:38 - 18:11 = 1時間33分(柄谷: 82 - 108)
 19:15 - 20:14 = 59分(日記: 8月6日)
 20:15 - 20:37 = 22分(英語)
 21:27 - 21:47 = 20分(Woolf)
 22:08 - 22:34 = 26分(シェイクスピア
 22:35 - 23:22 = 47分(新聞写し)
 23:26 - 24:59 = 1時間33分(柄谷: 108 - 134)
 25:09 - 26:01 = 52分(日記 / ブログ)
 26:30 - 27:45 = 1時間15分(日記: 6月19日)
 27:48 - 28:57 = 1時間9分(柄谷: 134 - 162)
 計: 10時間38分

・音楽