2020/8/23, Sun.

 一九四五年一月一二日、アウシュヴィッツ方面に攻勢を開始したソ連軍は、二七日騎兵を先頭に同地を占領した。すでに前年七月二三日マイダネク絶滅収容所を解放していたソ連軍は、西側連合軍よりかなり早くナチスの収容所に入ったことになる。
 ソ連軍は到着時、アウシュヴィッツ全体で七六五〇名の生存者を確認している。ほとんどが病人で、この後に亡くなった人も多く、二月六日にポーランド赤十字部隊が調査したときには、生存者は四八八〇名になっていた。
 (芝健介『ホロコースト中公新書、二〇〇八年、224)



  • 一時半前まで寝坊。九時間近くの長い滞在になってしまった。今日の空気はあまり暑くはない。上階に行って中華丼の素を混ぜた野菜炒めと米などで食事。新聞の書評欄にいくつか興味を惹かれる著作あり。村田沙耶香黒田夏子の『組曲 わすれこうじ』を取り上げていた。テーブルの向かいで母親が父親について、せめて週に二日か三日はまた働いてほしいよ、毎日家にいても、と愚痴を漏らして、クソどうでも良いし知ったこっちゃねえという話なのだが、続けて母親は、本人の好きにさせろ? とこちらの考えを予想して言ってくるので、まあまさにそのとおりなんじゃないかと返答した。そもそも一応いままで四〇年くらい働いてきて家庭を経済的に支えてきてくれたわけだし、半年だか一年だか知らないがしばらくちょっと休憩しようと思ったとしても何も不思議なことはなく、それを横からまたすぐに働け家にいるなと要求するのは単なる母親のわがままの押しつけなのではないか。そういう要望を伝えること自体は良いとは思うが、それにしたって言い方とタイミングがあるわけだし、父親当人の身になって想像してみるに、長いあいだ働いてきて引退を迎え、ちょっとほっと一息ついてしばらくのあいだゆるやかな生活をしようかなと思っていたところに、また働け働けとやいやい言われたら、普通に考えて不快になるのではないかと思う。その程度の配慮にも思いを致すことができないのだろうか、という疑問がまずひとつこちらにはある。加えて、なんで家にいてほしくないのと尋ねてみたところ、だってもったいないじゃん、まだ六二なんだから全然働けるじゃんという返事があったのだが、経済的な問題を措けば労働するか否かなど完全に本人の勝手にすれば良いことだとこちらは思うし、生き甲斐がどうの、充実感がどうの、家にいても張り合いがなくてどうのと母親は言っていたが、それは母親個人の経験にすぎないわけで、父親が張り合いを失っているかどうかはわからないし、今現在、畑仕事などをやることに充実を感じているという可能性だって普通にあるだろうし、それにやっぱり労働の場で社会との関わりを持ちたいなとか本人が思ったら、周囲が言わずともまたおのずと働き出すだろう。こちらの見るところでは、もったいないじゃんとか、張り合いがないじゃんとか、父親当人の生を慮ったかのような理由を母親が挙げるのは単なる建前に過ぎず、実際のところは毎日長い時間顔を合わせていると鬱陶しくてストレスが溜まるというだけのことだと思うので、そうなんでしょ? と訊いてみたところ、それもある、と母親は明確に認めはしたものの、こちらの感じではそれもある、などではなくて、明らかにそれがほとんどすべてであり、すくなくとも理由のうちの中心部分を占めているように見えるのだ。だったら普通にそう言えという話で、そこを隠してもったいないだの何だのと、まるで他人を気遣ったかのようなもっともらしい言辞を弄することの欺瞞性にはやはりいくらか反感を覚える。べつにいつでもどこでも欺瞞を排さなければいけないとは思わないのだが、こういう形での欺瞞はなんか良くないものだという感じがしてわずかながら不快である。母親はまた、どこの家もそうなんだろうねと言って知り合いの宅のことをいくつか挙げてみせたが、まあ確かに定年後に時空をともにすることが増えて互いにストレスを感じる家庭というのはわりと多いのだろうとは思うけれど、それも知ったこっちゃねえというか他家のことなど本質的にはどうでも良い話だし、どの家庭であれそういうなかでうまく折り合いをつけてやっていくほかないのだから、いつまでも愚痴ばかり漏らしていないですこしはそれにふさわしい言動とか関係の持ち方とかを身につければ良いのではないか。それが嫌ならさっさと別居か離婚をすれば良いだろう。生活のおりおりで両親のやりとりを見ていて思わざるを得ないのは、なんでこの人間たちは人間としての関係の作り方がこんなにも未熟で下手くそなのかな? という疑問にほかならず、いままでの人生でそういうことを経験し考えてこなかったのだろうかと不思議でならないのだけれど、とりわけなんというか、対立を装いながらその実おざなりの態度で馴れ合っているというのがこちらからするとほとんど生理的に気色が悪い。つまりなんか口論的なやりとりをしたあとに(それは大概、母親の言葉に父親が不快を催して高圧的な態度を取るという形であらわれるのだが)、まるでそれがなかったかのようにすぐさまべつのどうでも良い事柄に移って笑い合ったりしているというのがこちらにはいかにもグロテスクに映るわけだ。だからすくなくとも父親に関して言えば、彼のなかでは不機嫌そうに振る舞うこととなんかどうでも良いことで笑うことの二つがそれほど遠く離れていないというか、そのあとに尾を引くような真正の怒りを感じない程度のささやかな事柄についても高圧的に振る舞わずにはいられないという事態が観察されるように思われるのだが、そんなにカジュアルに他人を抑圧しないでほしいと思う。母親も含めて彼らには単純に相手としっかり話し合って問題をわずかなりとも良い方向に進めていこうという気持ちがどうもないようで、いつでも事柄をなあなあに済ませて、対立と調和、不快と肯定を綯い交ぜにして放置したまま、怒りを発露したと思ったら次の瞬間にはもうへらへら笑っているわけで、この非生産的な停滞感と来たらまったく度しがたいものだ。端的な話、喧嘩するならちゃんと喧嘩してほしいし、対立するならきちんと対立してくれたほうがこちらにとってはまだマシである。彼らはたぶん対立することがとにかく面倒臭いのだと思うけれど、そのくせしてすくなくとも父親のほうは夫婦としての自覚と(ことによると)誇りめいた感情すらそこに持ち合わせているようで、しかしそんな風に、ひとつの人間個体としてきちんと対立することすらできず怠惰かつ怠慢に互いにもたれかかった関係が「夫婦」と呼ばれているものの一般形態なのだとしたら、人類などさっさと滅んでプランクトンあたりからやり直したほうが良いのではないか。
  • 食後、皿洗いと風呂洗いをして緑茶を持って自室へ。スピッツ『フェイクファー』を今日も流し、前夜に仕上げた六月二五日の記事を投稿。その際、noteに投稿するのがなんか面倒臭くなって、もういいかと思ったのでnoteへの投稿はやめてはてなブログに一本化することにした。そもそもnoteに日記を公開しはじめたのははてなブログとは違うメディアにも進出して読者層を広げていこうかなと思ったことがひとつ、また複数の箇所に投稿しておくことでバックアップとしても機能するだろうと考えたことがひとつなのだが、読者など大して広がりもしないし、広がらなくてもべつに良いだろうといまでは思うし、バックアップにしても非公開のはてなブログをもうひとつ作って日記はそこに記録しておくつもりだ。それなのでnoteはもはや用済みとしておさらばすることにしたのだが、一応いままで読んでくれた人へのお知らせは残しておこうというわけで一文したため、「雨のよく降るこの星で(仮)」のURLをそこに紹介しておいた。それから「日記バックアップ用」というブログも作って六月二五日分をそちらにも投稿。Evernoteに保存されてある日記はぜんぶそちらにも記録しておこうと思うのだが、面倒臭いのでおいおい、徐々にやれば良いだろう。
  • それから手の爪を切ることに。『フェイクファー』の終盤が流れるのを聞き、また歌いながら指先を整え、スピッツが終わると今日もFISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)をリピート。佐藤伸治の声と歌唱の軽さ、つまり感情や感傷の重力から大部分逃れている感じというのはやはり特筆物なのだろう。たとえば「yeah」とか言ったりシャウトしたりしても、彼の場合はそこに感情とか歌い手の内面とかがまるでまとわりついてこない感覚がある。そういう意味での、浮遊的で、これ以上なく〈軽薄な〉歌声。
  • 爪を切ったあとはなんか思いついていたので、詩の断片をちょっと作った。なんかやたらラブソング風の、それこそ感傷的なものになってしまった。冒頭はスピッツ "スカーレット"に「離さない 優しく抱きしめるだけで/何もかも忘れていられるよ」という一節があって、それを受けたもの。爪を切っているあいだにこの曲が流れて、それでなんとなく言葉が浮かんできていたのだ。これで完成ではなく、もうすこし何か付け足して形にしたいとは一応思っているが、まあ最終的にはどちらでも良い。

 君をやさしく抱きしめるだけで
 何もかも忘れていられる
 そんなことがあるわけなくて
 苦痛も、羨望も、迫害のことも、処刑のことも
 忘れてなんかいられないけど
 だからってぼくらの関係が偽物だなんて
 誰かが宣言できるはずもないだろう
 抱き合ったところでからだひとつ分け合うこともできやしない
 そんなぼくらがともに持てるのはことばくらい
 だけどたとえば、「大嫌い」でも、「月が綺麗ですね」でも
 「スパゲッティ食べたいね」でもなんでもいいけれど
 ぼくらが分かち合えるのはことばのおもての紋様までで
 その意味となればいつでも出会えずすれ違ってばかり
 だからこそ、この世は成り立って地球はとまらず回るわけだし
 そのなかでぼくらもなんとかやっていくことができるんだろう
 だからからだを混ぜ合う必要なんてどこにもないし
 肩と肩とで寄り添う必要だってない
 血色の悪い手なんかお互い握らずに
 拳四つ分くらいの距離をあけながら隣に座って
 一緒に歌でも歌えれば
 それでもう最高なんじゃないか

  • それから"感謝(驚)"がひたすら繰り返されるなかで今日のことを記述して五時半前。
  • 上階へ。料理は両親がやる様子だったのでこちらはアイロン掛けをする。テレビは『笑点』。24時間テレビとかいうわけのわからない番組の一部として生放送をしているらしい。ゲストとして佐々木希が出演し、テツandトモと一緒になって跳ねたりなんだりしていたが、特に面白いことはない。その後の大喜利では、24時間テレビのテーマが「動く」という言葉らしく、冒頭の自己紹介で噺家たちは「う・ご・く」をそれぞれ頭文字として一句作るように求められていたが、トップバッターの三遊亭小遊三が「美しい御婦人方が首ったけ」という句をこしらえて、「首ったけ」なんていういくらか古いような(昭和のにおいのするような)言葉を使ったのはちょっと良かったし、内容としても彼自身のキャラクターに合致していて悪くなかった。ほかには特に面白い点はない。
  • アイロン掛けを終えるとシャツなどを両親の衣装部屋に運んでおいてから帰室。隣室からアコギを持ってきていじりはじめ、しばらく適当に遊んでから、スピッツ "センチメンタル"を弾き語れるようにするかというわけで音源を聞いて音を取りはじめた。「聞々ハヤえもん」とかいうフリーソフトがあって、これは音源の再生速度やピッチも変えられるし一時停止・再生・巻き戻しなどの操作も簡単にできるので、ソフトウェアフォルダに残っていたこのソフトを使ってコピーすれば良かろうと思ったところが、Amazon Music Unlimitedのサービスでは音源のダウンロードはできないらしい。あるいは、いまは試用期間中なのでできないということだろうか? ともかくデータがダウンロードできなければ「ハヤえもん」で再生することはできないわけで、仕方ないとブラウザ上の再生ページでマウスをいちいちクリックして音源を止めたり始めたりしながらコードを取っていったが、シンプルな曲なのでべつにそれでも問題なかった。一応全篇を通してこんな感じで弾けば良いなというのは掴めたので、あとはこまかいところのリズムを詰めたり、間奏部をどうするか考えたり、練習して実際に歌いながら弾けるようにしたりするだけである。
  • 七時を回ったあたりで食事へ。ゴーヤ炒めやかき揚げや刺し身。テレビは『ナニコレ珍百景』。特に面白いことはない。新聞を読みながらものを食い、食器を片づけ緑茶を用意して帰還すると、以下の三つのニュースを読んだ。

 東京都がホームページで公開している小池百合子知事の記者会見録の一部を、担当部署が削除したり、書き換えたりしていることが、都への取材で分かった。都によると、本年度だけで少なくとも9件あった。事実関係が間違っている場合などに注釈も付けず改変していた。(……)

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 都政策企画局によると、改変は5月15日の定例記者会見など6回の会見で行われた。いずれも新型コロナウイルス対策に関連する質疑だった。

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 本紙が確認できた範囲では、石原慎太郎知事時代は発言の間違いは、当該部分に「※」を付けるなどして本文中で正しい説明を表記。例えば、2007年12月21日の会見で、石原氏は地球温暖化防止の京都議定書を批准していない国としてオーストラリアを挙げたが、会見録では注釈で「12月3日に批准」と付記した。
 小池知事になってからも、17年10月の会見で2028年夏季五輪の開催都市を「ロンドン」と言い間違えた際は、括弧書きで「正しくはロサンゼルス」と訂正している。

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 一連の改変は、7月の知事会見録で本紙記者との質疑が一部消えていたことを問い合わせて判明した。この部分は18日に元の発言のまま記載された。政策企画局は取材に「いつから現在の運用にしたかは分からない。正確な事実関係を伝えるためで他意はない。忖度でもないが、今後は書き換えや削除はせず、注意書きで補足する」と答えた。

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情報公開法では、文書の開示請求があった場合、30日以内に、開示について決定を行うこととされていて、事務処理上難しいときなどは、30日以内に限って延長、文書が大量なときは、特例として、「相当の期間」延長できるとされています。

この特例を使った開示期限の延長について、昨年度までの5年間に、防衛省の本省が受け付けた開示請求を対象に調べました。

それによりますと、特例を使って延長されたのは合わせて2528件で、延長の期間は、平成29年度までの3年間では、最も長くて「3年以上4年未満」でした。

その後、延長の期間が「4年以上」と長期間になるケースが相次ぎ、「4年以上」は、平成30年度は合わせて64件、昨年度は合わせて30件に上り、このうち最も長いものでは、「9年以上10年未満」とされたケースも4件ありました。

長期化の理由について、防衛省の公文書監理室は、情報公開請求の件数が増加傾向にあることや、特定の部署に請求が集中することがあるといった背景を挙げる一方、「最終的には、延長した期間よりも早く開示決定している」と説明しています。

  • ひとつめの記事について言えば、東京都政策企画局の担当者は文言を削除変更した意図を「正確な事実関係を伝えるため」と言っているが、何の注もつけずにそこにあった言葉をただ削除してしまっては、記者会見のその場においてそういう発言がなされたという「正確な事実関係を伝え」られなくなることは明らかではないだろうか? こんな風に、歴史とか文書記録とか言葉とかがあまりにも簡単にないがしろにされてしまう世の中では、文学とか哲学なんてものが流行らず不要物とされるのもむしろ当然のことだとしか思えない。こういう人たちは、人間の文明(の多くの部分)が(口承も含めた)言語記録によって(進歩か否かは措いてもすくなくとも)発展し変容してきたということについていくらかなりとも考えを巡らせたことがないのだろうか。
  • 歯磨きをしつつ去年の日記を読み返し。2019/7/21, Sun.ではNさんおよびYさんとクリスチャン・ボルタンスキー展を見に行くなどしている。展覧会の感想はいまの目で見るとクソつまらん文章だ。翌日は九螺ささら『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房、二〇一八年)の短歌が冒頭にいくつか載せられているが、「あくびした人から順に西方の浄土のような睡蓮になる」と「目玉焼きが真円になる春分は万物が平等になる一日[ひとひ]」あたりが良い。あとは「「牛乳を鍋で沸かしたとき出来る膜をあつめるしごとしてます」」というのもあって、これには笑ってしまうし、なかなか思いつくことのできない一首なんじゃないか。
  • 数日前に新聞で読んだのだけれど、三島由紀夫の『豊饒の海』というのは転生譚らしく、そのことを知って以来、俺も『百年の孤独』と輪廻転生を合わせてなんかやたら長い大河小説みたいなもの書けないかなあとか思っている。転生すれば国も地域も関係ないので、仏陀時代のインドから始まって輪廻転生にまつわる思想を最初のうちに提示しておき、中世のヨーロッパとか日本の戦国時代とかを通って最終的に現代世界に至る二五〇〇年くらいの歴史小説、みたいな。もし本当にやるとしたらきちんとした歴史の知識が相当なければできないと思うので、まだまだ先のことだろう。あとは魔女か吸血鬼あたりの長命種というかほぼ不死みたいな存在を中心に据えた『族長の秋』もやりたいと前々から思っているが、これもやるなら魔女狩りの歴史とかを知らないといけないので、いつになるかまったくわからない。後者に関しては『族長の秋』風の語りにヴァージニア・ウルフ的な精細かつなめらかな心理記述を組み合わせられないかとか思っているのだけれど、『族長の秋』ほどの語りおよび時空操作のスピードを本当に目指すとしたらウルフ的内面描写はとてもできないというか、普通にそのまま接合しようとしてもうまく噛み合うわけがないので、何か適した方法を開発するか、文体の着地点を見出さなければならないだろう。
  • 入浴して出てきた途端に父親がなんとか叫んで、スマートフォンで野球か何か見ているようで興奮しながらひとりで画面に向かって言語的反応を送っているのだが、普通にうるさくて鬱陶しい。帰室すると音楽が欲しかったのでFISHMANS『ORANGE』を流し、Uくんのブログを読むことにしてアクセスし、八月五日の「Skit 1」という記事を読んでいるうちに昨日の就眠間際の変調のことを思い出したので忘れないうちに記録しておいた。また、Uくんの記事のなかには「健忘」という語も出てきたのだが、そういえばなんでこの言葉に「健」という字がついているんだろうなと思った。「健」といってまず想起されるのは「健康」の熟語なので、「健忘症」という風に症状として扱われるような現象になんでそんな字が使われているのか、と。精神はものを忘れてしまうけれど肉体的には影響がなくて身体としては健康なままの忘却、というようなことなのか、あるいは「健」の字には程度が甚だしいという意味もあるようなので、普通の物忘れよりも激しく深刻な忘却症状ということなのか。
  • あと、前夜の変調のことを思い出したのは、頭のなかに乾いた砂が混ざってひりついているような感じというか、そんな風な感覚的差しこみが脳にもたらされたからだ。それでやはり薬を飲んでいないためかなと思って、洗面所に行ってセルトラリンを一粒摂取しておいた。現在ほぼ脱薬段階に入っており、医師からは自分で調整して適したときに飲んでくれれば良いと言われている。薬はちょうど半分減ってあと一四粒残っており、前回処方してもらったのは六月三〇日なのでおおよそ二か月を一四粒でもたせたことになるわけで、ということはだいたい四日にひとつくらいの摂取ペースなのではないか。
  • やっぱり極々単純な基本的原則として、ゆっくり動くこと、常に瞬間に集中し続けること、生成を最大限に見、感じ取ること、それが大事なのではないか。たとえば歌を歌っているときなど、正しい音まで声が届かないことがあるけれど、問題なのは声の調節に失敗したということではなくて、その失敗をよく見ることができなかったということのほうだと思う。だから、よく見て感じ取ることができているならば、失敗したところで何ひとつ問題はないだろう。
  • Uくんのブログの八月六日の記事には渡辺一夫『敗戦日記』が引かれていて、これはもちろん読みたい本である。引用の最初は一九四五年三月一一日の記述で、その日に渡辺が「あらためて日記の筆をとることに」決めたことが表明されているが、彼のその「気持ち」の変化はやっぱり東京大空襲と関わっているのだろうか。
  • その後、Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994)をほんのすこしだけ翻訳。"They must find a way out of it all."という短い一文を訳すだけのことに多大な時間をかけてしまう。"it all"の具体的な内容は措いておいても、普通に行けば「それを抜け出す道を見つけなければ」というような内容になるわけだけれど、こちらとしてはmustをむしろ「~に違いない」の意味で取って、「彼女たちは道を見つけるに決まっている」という方向性で訳出したかったのだ。ただ確信的な推量のmustはだいたいbeと一緒に使われる印象があったし、こういう用法において「~に違いない」の意味に取れるのか否かわからず、その点を検索してやたら時間を費やしてしまったのだが、結果としてはよくわからない。推量のmustはbe動詞や状態動詞と一緒にしか使わないとか、未来の事柄には使わないとかいう説明もあったのだが、でも「~しなければならない」というもとの意味が拡張されれば普通に「確実に~だろう」くらいのニュアンスにはなるわけだし、とか思って、語法的に正しいのかどうかは不問にして、こちらの一存で、「でも、あの子たちはこういう暮らしとは違った道を見つけるんでしょうね」という文を作った。ここはMrs RamsayがCharles Tansleyを馬鹿にしてやまない娘たちを叱ったあとの段落で、それ以前には男性を手厚く保護する原初の母性みたいなイメージとしての夫人像が出てきており、男性が女性に捧げてくれる敬意は非常に価値があるものなのだ、そのことがわからない娘には災いあれ、というような内容が提示されている。だからこの文の"it all"は、女性が持つ男性との関係のあり方などに関わっているだろうと推測され、加えてそのあとで、もっとうまくやれたかもしれないと夫人が思い返している事柄の具体例として、"her husband; money; his books"の三つが出てきている。だから夫人としては、男性という人々はやはり誠意を尽くして守ってあげるべき対象であり、だからこそCharles Tansleyを馬鹿にすることも許されず彼を厚遇してあげなければならないし、夫の助けになることもしなければならないのだけれど、彼女はその一方で彼らを甲斐甲斐しく世話することの苦労ももちろん感じており("There might be some simpler way, some less laborious way, she sighed"にそれはあらわれているだろう)、新しい世代である娘たちには何かべつの生き方があるはずだとも思っている、というような心理がここに書かれているのではないか。そして実際、同段落のあとのほうで娘たちは、パリにでも行って男の世話などせずに好き勝手やるような暮らし("a wilder life")を夢想しているのだけれど、こういう流れを勘案してきた際に、「娘たちは新たな道を見つけなければ」とするよりも、「娘たちはきっと新たな道を見つけるに違いない」としたほうがなんかうまく調和するような気がしたのだ。なぜそうなのかはよくわからないのだが、「見つけなければならない」だとなんかちょっとマッチョ感が強いというかなんというか。「きっと見つけるんだろう」としたほうが、"sigh"とも結びついて、私がどうこう言ったところで娘たちはどうせ違う生き方をしていくんでしょう、という諦観みたいなニュアンスも盛りこめるような気がする。そういうわけで、この日訳した短い部分は以下のようになった。

 でも、あの子たちはこういう暮らしとは違った道を見つけるんでしょうね。きっともうすこし簡単で、もうすこし骨の折れないやり方があるはずだから、と彼女はため息をついた。鏡を覗きこんだときなど、白髪は増えて頬もこけてきた五十歳の自分を目の前にして、彼女は思うのだった、色々なことをもっとうまくやれたのかもしれない、と――夫のこと、お金のこと、彼の本のこと。

  • 一文目の"find a way out of it all"をどう訳すかがやはり肝なのだけれど、この場合は"a way"をそのまま「道」としてしまえば、生の道行き、人生行路的な意味でうまく理解されるように思うし、それに合わせる"find"もまったくひねらず「見つける」という辞書的な直訳でうまく流れるような気がする。
  • 翻訳をして疲れたので、ベッドに転がって清岡卓行編『金子光晴詩集』(岩波文庫、一九九一年)を書見。二時半まででちょうど一〇〇ページ読み進める。読みながら、詩句の断片やイメージをいくらか思いつく。本で気になった箇所は以下。
  • 288: 「鶏血凍の朱の焼原」: 「鶏血凍」: 初見。珍奇。検索しても出てこない。「鶏血石」というものがあるらしいので、おそらくそこから作られた独自語だろう。ちょっと欲しい。
  • 289~290: 「瀬戸びきの便器のやうに/まっ白にぬりつぶした顔」: 良い。女性(「ぱんぱん」=娼婦)の「顔」に「便器」。
  • 293: 「血の透いている肉紅の闇」: 「肉紅」: 欲しい。中国語にあるようで、「ロウホン」と読むらしい。
  • 307: 「神ではないが、神と格闘するために生れてきた選手の逞ましさ」: 良い。
  • 319~320: 「神さまといふのは、ひよつとしたら、偶然とか、寸前尺魔とかいふほどのことを、人がさうよぶのではないでせうか」: 「寸前尺魔」: 初見。本当は「寸善尺魔」と書くよう。「この世の中には、よいことが少なく悪いことばかりが多いたとえ。また、よいことにはとかく妨げが多いこと」。
  • 369: 「女のこころは、/洗ひながした米の磨ぎ水のやうにうすじろくとごつて」: 「とごつて」: 初見。三河弁らしい。「沈殿する」の意。金子光晴は愛知県生まれである。
  • 書見後は豆腐やおにぎりなど夜食を持ってきてMさんのブログ。二〇二〇年四月二九日。

(…)私たちは道徳がないから差別をするのではない。私たち人間集団は「利己的な理由から、ある道徳的価値観を他の価値観より支持する場合がある」という「道徳部族=モラル・トライブス」(ジョシュア・グリーン)であるがゆえに、差別につながってしまうような言動をしがちなのだ。グリーンは、異なる道徳的な信念を持つ集団同士の対立を「常識的道徳の悲劇」と呼んだ。差別もまたその悲劇のひとつに数えられるだろう。
 ジョシュア・グリーンによれば、「リベラル」は「道徳部族」の偏狭さを超える「グローバルなメタ部族」であった(ちなみに、ふたつあるとされる「メタ部族」のもういっぽうは「リバタリアン」である)。これまで説明したように、ポリティカル・コレクトネスの中心になっているのは、「市民」の「尊厳」を守るために差別を禁止するというシティズンシップの論理である。私たち人間集団は、グリーンが指摘した「道徳部族」であり、自分が所属するローカルな集団内の道徳的価値観を他の価値観より支持する傾向があった。その道徳的な信念は、しばしば特定の宗教や民族といった、集団内の共通のアイデンティティに結びついている。たいして、シティズンシップの論理においては、どのようなアイデンティティを持つ者でも自身の「尊厳」が保証される代わりに、あらゆる他者の「尊厳」を尊重する「市民」としての振る舞いが求められるからだ。その意味で、ポリティカル・コレクトネスは、部族(アイデンティティ)の道徳を超え、部族にかかわらず適用される、メタ道徳であるといえるだろう。
 しかし、リベラリズムは本当にメタ道徳になりえるのだろうか。「第三章 ハラスメントの論理」で示したように、企業や大学で「ハラスメント」対策として実施されているPCは、それ以外の者からは「ブルジョワ道徳」だと見られているのである。先に述べたように、グリーンは「グローバルなメタ部族」として「リバタリアン」もそのひとつに数えているのだが、「リベラル」と「リバタリアン」のいずれも市場経済に親和的であることが重要である。
 ポリティカル・コレクトネスをめぐる鼎談本で哲学者の千葉雅也は、「グローバル資本主義」は「それまでの共同体の狭い規範を崩し、ありとあらゆるものをすべて交換できるようにしていくという趨勢」があり、「ポリコレ」とは「なるべく交換がスムーズにいくようにするということ」であると指摘している。そして、「#MeToo」とは「交換の論理」であり、「グローバル資本主義の論理」である、と。たしかに「リベラル」は「道徳部族」のちがいを超える「グローバルなメタ部族」であるかもしれないが、いっぽうでそれは「グローバル資本主義の論理」なのである。
(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』p.235-237)

  • 頭蓋がやや軋んでいて固く、さっさと寝たほうが良いかなと思いながらも日記を綴り、四時過ぎから音楽。slackに上がっていた「(……)」の音源をいくつか聞き、その場で短いコメントもさっと記して投稿しておく。聞きながら思い出した「tofubeats - Don't Stop The Music feat.森高千里 / Chisato Moritaka (official MV)」(https://www.youtube.com/watch?v=PyeFDMBw640)も聴取。この音源の森高千里の歌ってときどき明らかに音程がずれていて、適正の位置まで届いていないようなことがけっこうあると思うのだけれど、それはたぶんあえて直していないのだろう。
  • 五時前から一六分間瞑想して就寝。


・読み書き
 15:42 - 16:10 = 28分(詩)
 16:12 - 17:25 = 1時間13分(作文: 2020/8/23, Sun.)
 20:08 - 20:42 = 34分(ニュース)
 20:47 - 20:59 = 12分(日記)
 21:00 - 21:26 = 26分(作文: 2020/8/23, Sun.)
 22:04 - 23:02 = 58分(作文: 2020/8/23, Sun. / 2020/8/22, Sat. / ブログ)
 23:35 - 24:27 = 52分(Woolf: 5/L19 - L23)
 24:39 - 26:31 = 1時間52分(金子: 270 - 370)
 26:45 - 27:00 = 15分(ブログ)
 27:00 - 27:28 = 28分(作文: 2020/6/26, Fri.)
 27:29 - 27:48 = 19分(作文: 2020/8/22, Sat.)
 計: 7時間37分

・音楽