2020/8/25, Tue.

 「それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、
  永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう」

 スローンは視線をウィリアム・ストーナーに戻して、乾いた声で言った。「シェイクスピア氏が三百年の時を越えて、きみに語りかけているのだよ、ストーナー君。聞こえるかね?」
 ウィリアム・ストーナーは、自分がしばしのあいだ息を詰めていたことに気づいた。そうっと息を吐き、肺から空気が出ていくにつれて服が少しずつ皮膚の上で動くのを意識する。スローンから目をそらして、教室内を見回した。窓から射し込んだ陽光が学生たちの顔に降りかかり、あたかも体内から発する灯りが薄闇を照らしているように見えた。ひとりの学生が目をしばたたき、陽射しを浴びたその頬に和毛[にこげ]の細い影が落ちた。机のへりを固く握り締めていたストーナーの指から力が抜けていく。てのひらを下に向け、改めて自分の両手に見入ったストーナーは、その肌の茶色さに、爪が無骨な指先に収まるその精緻なありかたに、驚嘆の念を覚えた。見えない末端の静脈、動脈を血が巡り、かすかではかなげな脈動が指先から全身へと伝わっていくのが、感じ取れるような気がした。
 (ジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』作品社、二〇一四年、14~15)



  • 一〇時ごろに覚め、寝床に貼りついたまま喉や首や腰などを指圧しているうちに一〇時半を迎えて起き上がった。コンピューターを点け、洗面所で顔を洗ったりうがいをしたりしてきてからEvernoteを準備。両親は買い物に行き、ついでに昼食も取ってくるらしい。起きた時点では曇り気味だったはずだが、いまはいくらか陽の色も見え、窓をすり抜けて肌に触れてくる温みがあるのでエアコンを点けた。スピッツ『フェイクファー』を今日も流して昨日のことを書き綴り、一一時半過ぎには完成させて投稿。「日記バックアップ用」のほうにも投稿しておくのだが、いままで検閲済みの文章を投稿していたところ、そもそも検索に用いるかもしれないのだから検閲されていては意味がないではないかと気づき、いまのところ記録してある三日分の記事の検閲を外し、個人名などをいちいち元にもどしていった。塾の生徒の名前も記されているのでもし情報が流出したらたぶん首になるが、情報漏洩が起こったとしてもこちらの責任ではないし、べつに人を殺したわけでもないので本質的には問題ではない。
  • そうして腹が減ったのでものを食うことにして上階へ。芸もなくハムエッグを焼いて丼の米に乗せる。醤油を垂らして液状の黄身を白米に混ぜながらむさぼり、かたわら新聞にも目を通す。食器を片づけると風呂も洗い、緑茶を支度して帰室。FISHMANS『Oh! Mountain』を流して今日のことをここまで短く記した。『Oh! Mountain』のなかに良くない瞬間というものは存在しないのだが、最近は、導入的な"Oh! Crime"を除けば一番最初にあたる"土曜日の夜"がとりわけ格好良いなと思っており、これも弾き語れるようになりたいのだけれど、アコギ一本でこの弾力を出すのは至難の業だろう。
  • それからどうしようかなと思いつつもやっぱりとりあえず日記を書いておくかというわけで、六月二六日の文を進め、一時四五分に至るところでいったん切って洗濯物を取りこみに行った。ベランダに出て吊るされたものを室内に入れていると、柵に取りつけられたシートみたいなものの隅に茶色い塊があるのに気づき、なんだこれと思ったら大きめの蛾だった。わりと大きくて、虫が嫌いな人だったら激しい嫌悪とともにかなり動揺するだろうというほどのサイズがあり、表面の模様にしても色合いにしても、なんかの木の樹皮が一部剝がれてそこに貼りつけられたかのような感じだ。そいつが室内に入ってこないように網戸を閉ざしてタオルを畳むあいだ、外では陽が照って明るい暖色が空間に被せられているけれど、蟬の声はもうあまり分厚く聞こえずカラスのほうが明らかに目立つくらいで、もう夏も終わりなのかと思われた。それにしても今年は夏がよほど短かったというか、曇りの日々がとにかく長くて、一時は二週間くらいほとんどずっと曇り空だった印象があるし、炎天らしい炎天に触れたのも一度くらいしかないんじゃないか。それはこちらの活動開始が遅くて外出するのがだいたい夕方からという事情が大きいのだろうが、炎天に襲われたただ一度の機会というのは八月一一日にT家に行ったときのことである。
  • 帰室するとまた日記に精を出すのだが、数日前からAmazon Musicに「My ディスカバリー」とかいうプレイリストが勝手に追加されており、どうもそれはAmazonのほうで(AIか何か使っているのか)おすすめしてくれる音楽のミックスらしく、そんなもん余計な世話だというかわざわざすすめてもらわなくてもいいっすと思うのだけれど、覗いてみると知らない名前のなかにStevie SalasとかDizzy Mizz LizzyとかBilly Sheehanとか曽我部恵一BANDとか中村一義とかが混ざっているので、意外と悪くなさそうじゃんと思っていたのをここで流してみることにした。一曲目はThe ピーズという知らないバンドの"喰えそーもねー"という曲で、ギターの音などは悪くないが旋律と声と歌詞はそうでもない。二曲目はStevie Salas "Disco Lady"で、思ったほど面白くはない。#3はChar "Bamboo Joint"だが、はじまった瞬間に、これLed Zeppelinじゃんと思った。アコギでやっているのだけれど、『Led Zeppelin』の#6 "Black Mountain Side"とだいたいおなじサウンドだと思うのだが。#5はDizzy Mizz Lizzy "Thorn In My Pride"で、Dizzy Mizz Lizzyってはじめてちゃんと聞いたけれど普通に格好良い。その次はDramagodsという知らないグループの"So'k"という曲で、これがけっこう良かったのだが、検索してみるとNuno Bettencourtのバンドだというのでなるほどと思った。次のPopulation 1というのもおなじバンドの別名らしく、これも良い。さらに続く#8 Mourning Widows "All Automatic"もやはりNuno Bettencourtのグループらしく、なんでそんなにこのギタリストを推してくるのかわからんが、この曲も格好良くて、Nuno BettencourtってExtremeとは違った形でけっこう面白いことやってんなと思った。
  • そういう感じでNuno Bettencourt関連は収穫だったが、ほかはべつにそうでもない。三時過ぎまで日記を書くと書見へ。清岡卓行編『金子光晴詩集』(岩波文庫、一九九一年)を読了。やはり『鮫』が一番良かったように思う。あとは散文のほう、紀行文などを読んでみたい。自伝である『詩人』というのは以前Mさんにそそのかされてささま書店でゲットしてある。
  • 455: 「目がさめたら、けふも又俺だ!」: 川本真琴 "やきそばパン"とまったくおなじテーマ(「あたし 目が覚めたら今日もまたあたしだった」)。
  • 458: 「ほどらひといふことが ござる/ひとを好くにしても、憎むにも」: 「ほどらひ」: 初見。「(物事のちょうど良い)程度」というような意味だろうが、古語でもあり、大阪や京都や富山方面のことばでもあるよう。
  • 金子光晴のあとはそのままホフマンスタール/檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫、一九九一年)を読み出す。九月五日に設定されている「A」の課題書。ホフマンスタールという作家を読むのははじめて。ひとまず最初に収録されている「第六七二夜のメルヘン」を読んだが、なんか変な感じで、よくわからん小説。肝心なところで曖昧さが差し挟まり、ご都合主義的な感じもいくらか覚えなくはないのだが、ほかではあまり見たことのない独特の奇妙さがある気がする。ただしだからといって面白いのかどうかは不明。
  • 五時半で上へ。食事の支度。ナスと豚肉を炒め、ブナシメジと母親が買ってきたなんだかよくわからない菜っ葉を合わせて味噌汁にする。父親は元祖父母の部屋で衣類を整理しているらしい。食い物ができるとそのまま食事へ。そうして部屋に帰るとgmailを確認したのだが、そのついでに大層久しぶりでfuzkueの「読書日記」を読んだ。最新の八月一六日の一日分のみ。一応自分も日記を書いている身としてfuzkueの人の試みを応援したいと思って購読しているのだが、実際全然読めていない。購読していればいずれ書籍版が送られてくるので、そちらで一気に読んでも良いとは思っているが。
  • 八時から新聞を二日分移す。BGMはたぶんこのときすでにCharles Lloyd『Rabo de Nube』になっていたと思うのだが、これはあらためて聞いてみるとすばらしいライブ盤だ。#3 "Booker's Garden"が昔から好きで、まだipodを使っていた時代など外出先で聞きながら揺られていたものだが、今日もこの曲のJason Moranのピアノソロに差し掛かると作業を止めて耳を寄せた。いわゆるモールス信号奏法というのか、Sonny Rollinsとかがたまにやるやつで要するにおなじ音をリズミカルに繰り返すだけのことだが、それを中心に据えたソロになっており、展開はよくまとまっていて、最後の大きな盛り上がりからソロの終末に至って一気に抜けていくところなど、気持ちの良いカタルシスというか一種の射精感みたいなものがある。それで新聞写しを切り上げるとAmazon MusicでCharles Lloydのライブ音源を探してはメモしていった。彼の最新作(ではないかもしれないが)としては、Charles Lloyd & The Marvels + Lucinda Williams『Vanished Gardens』(https://music.amazon.co.jp/albums/B07CZRTGDT)というやつを出しているようで、Lucinda Williamsというボーカルはどこかで名前を見たことがある。そのほか、Macy Grayの音源なども記録しておき、九時で入浴へ。風呂のなかでは久しぶりに束子で身体を擦ったのだが、以前と比べて明らかに束子が肌の上を滑るときの感触がなめらかで、これは全身の肉をおりおり指圧してほぐしているからだろう。
  • 出てくると、「これでお別れ」ではじまる八行を繰り返すタイプの詩を久々にいじっていくらか整えた。だいたいのテーマは出揃った感じで、あとはまだ思いついていない部分を埋めることと、こまかな箇所を詰めることと、それらをどういう順番に配列するかが解決できれば完成だろう。詩を四〇分ほど改稿して一〇時半に至ると石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)を書抜きし、さらにGeorge Steiner, "Drawn from silence"(2004)(https://www.the-tls.co.uk/articles/paul-celan-et-martin-heidegger-book-review-hadrien-france-lanord-george-steiner/)をようやく最後まで読んだが、そのあいだの音楽はJason Moran『All Rise: A Joyful Elegy For Fats Waller』とMacy Gray『Stripped』。Fats Wallerとかのかなり古いほうの音楽にも興味がある。Jason Moranのこのアルバムは彼の音楽をうまく現代風に料理しており、けっこう色々な感じでやっていてなかなか悪くない。"Honeysuckle Rose"とか、こんな風になるのねという感じだった。Macy GrayのアルバムはChesky Recordsの人が例のどこかの教会で録ったやつだったはずで、音の響き方はめちゃくちゃふくよかで良くも悪くも特徴的だが、最初の曲のギターソロなど音だけでも気持ち良い。Russell Maloneである。そのほかドラムはAri Hoenigが叩いているし、四月あたりにコロナウイルスに殺されたWallace Roneyも参加している。
  • 歯を磨くあいだの時間でVirginia Woolf, To The Lighthouseの翌日読む部分を確認すると、また寝床に転がってホフマンスタールの続きを読むが、途中、けっこうまどろんでしまった。最初の篇についていえば、召使いの娘が身投げする理由がまるで不明だったり(一応、「あるとき、怒りがとつぜんわけもなく湧いてきたのか」(9)と注釈されてはいるが)、二二ページで宝石屋の隣に温室があることを知ると突発的にそれを見たいという欲求を覚えていたり(「急に温室が見たくなり」)、また終盤でポケットのなかの金貨を探るときにも、「ふいになにやらはっきりしないことを思いついて動きがとまり、おぼつかないままに手を引き出した」(31)と曖昧さがつきまとった書き方をされていて、こういう点に、なんか妙だなという感覚を覚えるものだ。この最後のぼんやりとした手の動きによって宝石店で買ったアクセサリーが地面に落ち、それを拾おうとしたところに馬の蹴りを受けた主人公は結果、死に至って物語が終幕するわけなので、この中途半端な行為は一篇を幕引きにつなげる重要な分岐点であるはずなのだが、しかし彼が「手を引き出した」理由はいかにも不鮮明に記されていて、ご都合主義的な感じがしないでもないと上に記したのはそういうことだ。ただ、この箇所だったらわざわざ「なにやらはっきりしないことを思いついて」などと曖昧な言葉を挟まずに、ポケットを探っているうちにふと飾りが落ちてしまい、とか書けば良いはずで、そのほうがむしろすっきりするようにすら思うのだけれど、どうも不透明な要素が付与されることで妙な手触りが生まれているような気がする。それでいえばこの直前には、馬の「兇暴」で「醜悪な顔つき」を目にしたことで主人公が幼少期に見た「醜い貧乏人のゆがんだ顔」を想起する記述が短く挿入されているのだけれど、これもここに置かなければならない必然性が見受けられず、物語の進行上も、おそらく象徴的意味の上でも何も役割を果たしていないように思われるので、なぜこの描写を入れたのかわからない。
  • そういうなんだかよくわからん感じというのは二つ目の「騎兵物語」という篇でもわりとあって、44から46ページには曹長が村を通っていく際に出くわしたもろもろの人間や動物が列挙されているのだが、それらの描写は写実的観点から見てこまかいわりに現実感の表象を狙っているわけでもなさそうで、やはり変な雰囲気を帯びており、何の出来事にもならずただ騎兵の周りを通過していくのみなので、かなり無意味に近いような印象を覚える。そのすぐあとには曹長が橋をあいだに挟んで自分とまったくおなじ外観の騎兵と遭遇する場面が続き、距離が近くなるとそれは曹長自身であることが判明するのでこれはいわゆるドッペルゲンガーのモチーフである。最初の篇にもこういうホラー風味の、もしくは幻想風味の要素というものは盛りこまれていて、一篇目にあったそれはわりと悪くない感じだったのだが、ただここではドッペルゲンガーはあらわれるや否やすぐに消えてしまって、しかもその出来事がそのあとで何に繋がるでもない。先の44から46にかけての一連の描写は、この分身の出現を準備するような雰囲気を下地として敷くためのものだったとも考えられないこともなさそうだが、そのわりにドッペルゲンガーの登場自体はそれらの描写よりも遥かに短く済まされているし、明らかにこの篇の中心として取り上げられているわけではない。
  • ひとまず二篇を読んでみた段階での感触としては、どちらも篇の中核が見出せず、全体にもやもやと霧がかかったような感じがあり、文体を見てみても詳細ではあるのだけれどそれが力や色や味につながらないようなそっけなさがあり、フラットで、独特の〈静けさ〉をもって淡々と通り過ぎていくような雰囲気だ。それには翻訳も多少寄与しているのかもしれず、日本語の言葉としてわりと整っていると思うのだけれど、独特のリズムと固さみたいなものがあり、意味の推移に必ずしも瑕疵とは見えない〈ぎこちなさ〉めいた手触りが感じられる。
  • 話のつくりとしてうまく丸く完結するのではなく、書いたら書きっぱなしで隙間をひらいたままみたいなところがあるようで、緊密に組み立てて綺麗な形を作り上げようという気配がまるで感じ取れず、だから一面では下手くそなようにも見えるのだけれど、しかしどうもこれは拙劣さというものではなくて、そもそも関心の向かっている先が普通の小説と違うのではないかという気がする。綺麗な形をなさないといって、だからといっていびつな畸形を作っているというわけでもなく、むしろ形があまりないというか、定まった形を見出せない気体みたいな感触が強く、だからまさしく掴みどころがない、という言葉がぴったりなように思う。ほかではあまり触れたことのないような印象を覚えるけれど、しかし明確に面白いかというと疑問でもある。すくなくとも単純でわかりやすい面白さはないタイプの小説ではないかと思うが、それでは複雑でわかりにくい面白さがあるかといってもわからない。
  • 写実性(もしくはロラン・バルトの言う現実効果みたいなもの)に寄与することもないほぼ無意味と思われるような描写とか、ほかの事柄と繋がって集束することのない非完結性とかは、いわゆる「物語」的な約束事の外部を志向してそこにある種の「リアリティ」みたいなものや、(「物語」ではない)「現実」の感覚を与えることを目指して取り入れられることが多いと思うのだけれど、ホフマンスタールの場合はそういうことを狙っている感じもない。「物語」ではない「現実」ってこういう風に割り切れなかったり、奇妙だったり、まとまっていなかったり、説明がつかなかったりするものなんですよ、ということを提示するような気配はたぶんまったくないと思う。
  • 14: 「しなやかな枝を両手でかきわけてうしろにはねのけ、ひときわ木々の生い茂る庭の隅にもぐりこんでゆくと、蔓や小枝の織りなす暗い網目から、青空がしっとり濡れたトルコ石のかけらとなって降ってくる」: 良い。
  • 18: 「(……)言葉につくしがたいものも、すべてことごとくひとつかみの藻屑のようにいずこかへ打ち捨てられ、無みされてしまうかのように思えてきた」: 「無みする」: 初見ではないと思うが、ちょっと欲しい。
  • 20: 「この界隈にふさわしく、かなりうらぶれた店構えで、通りに面した窓には、質屋か故買屋で買いあさってきたようなつまらぬ装身具がところせましと並んでいる」: 「うらぶれた」: 初見ではないがいままで使ったことがないのでちょっと欲しい。/「故買屋[こばいや]」: 初見。「故買」は、「顧客から買い取りや交換を求められた品物が盗品であることを知りながら、その品物を買い取りまたは交換する行為のこと」で、「窩主買い(けいずかい)ともいう」らしい。
  • 「あっさりおいしい」と冠された薄味の日清カップヌードルと豆腐を持ってくると、それらを食べながらMさんのブログを読んだ。二〇二〇年四月三〇日と五月一日。一連の引用。

 差別をめぐって、差別者と被差別者にはいちじるしい非対称性がある。(…)フェミニスト江原由美子が指摘するように、差別者は差別を差別だと認識していない。そのため、被差別者は差別を差別だと認識させるために、あらゆる手立てを尽くさなければならない。この意味で差別批判とは、新しい差別を発見する/発見させる行為である。しかし、いっぽうで差別者からすれば、差別と認定される自身の言動は悪意のない、「普通」「あたりまえ」のことであり、取り立てて問題にする必要のないものでしかない。このように、差別が日常的な慣習と区別されるものではないために、非難された差別者の弁明(「わざとやったのではない」「そんなつもりでいったんじゃない」)は悪質な言い訳や言い逃れに聞こえてしまう。これがさらなる非難を呼び起こしてしまうのは、すでに指摘したとおりだ。
 ここでは近代的な法(刑罰)が前提とする「責任」の考え方がくずれている。差別においては、たいていの場合、差別を差別だと認識していないからである。これにたいして、反差別運動は被差別者が「足の痛み」を感じるかぎり、行為者に「責任」があるとみなしてきた。「責任」があるかどうかを決定するのは、行為者(とその周囲の状況)ではなく、その行為の影響をうけた人物なのである。このように、反差別運動において、法的な「責任」の考え方、責任の成立機制が転倒されたことで、「自律」的「個人」=「市民」による無自覚な、意図せざる差別の「責任」を追及することが可能になった。
(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』p.241-245)


 この点にかんして社会学者の北田暁大が興味深い指摘をしている。北田は、近代的な法における責任観を「弱い責任理論」、差別批判における責任観を「強い責任理論」と整理している。北田は「強い責任理論」を「近年日本でも注目を集めている他者性の政治学/差異の政治学/承認の政治学(以後、総称して「ポストモダン政治学」と呼ぶ)といった知的潮流において展開されている他者論・責任論」とみなしている。(…)そして、北田は、「強い責任理論」が反公害運動や反差別運動において重要な役割を果たしたことを認めたうえで、「強い責任理論」を社会的規準として採用することに反対している。北田によれば、「とんでもない責任のインフレ」と呼ばれる状態に陥るのだという。少し長くなるが重要な指摘なので引用しよう。

「何をしたことになっているのか」の定義権を行為解釈者に委ねることによって、水銀をたれ流す企業の行為責任の剔出に成功した「強い」〔責任〕理論は、一方で、指を動かし料理をしただけで「世界の秩序を乱した」ことにされてしまう魔女たちの責任をも承認してしまうのであった。もちろん、こうした魔女たちの災難は、何も宗教的なコスモロジーによって因果関係の知が規定されていた時代特有のものとはいえない。「社会が階級闘争で引き裂かれれば、ユダヤ人が労働者を扇動したと言われ」、「金融危機が起これば、ユダヤ人が金融制度を陰謀でコントロールして危機を引き起こしたと言われ」〔……〕続けてきた現代の「魔女」ユダヤ人のことを想起してもらえばよい。サルトルが『ユダヤ人』で鋭く指摘したように、すべての「悪しき」結果の原因をユダヤ人の行為に見いだす反ユダヤ主義の論理は、原因の除去という「善行」に専心することを鼓舞し、みずからの行為責任への反省を曇らせることとなる。このとき、反ユダヤ主義者たちはあくまで忠実に「強い」〔責任〕理論を己が行動原理として行為していることに注意しよう。魔女狩りを禁じえない責任理論の行き着く先は、無理やりにでも「悪い」出来事の原因を誰かの行為に見つけだし、自らの行為の責任をやすんじて免除する、壮大な無責任の体系とはいえないだろうか。

 つまり、北田は、魔女狩りユダヤ人排斥という不当な論理を排除できないという理由から、「強い責任理論」を、「道徳的行為・態度選択の指針を与える規範理論」としては採用できないと退けている。ところで、そのような「強い責任理論」が「道徳的行為・態度選択の指針を与える規範理論」として採用され、「責任のインフレ」が起こり、「壮大な無責任の体系」が広がっているのが現状ではないだろうか。
(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』p.247-249)


 しかし、人間は意図もせず、結果も予見できない行為の責任をとれるものなのか。主観的になんら悪いことはしていないのに客観的には責任があるという考えは、人間は生まれながらに罪を背負うというキリスト教の「原罪」に近いのではないか。先に紹介した鼎談本で、哲学者の千葉雅也がこの点にかんしても興味深い指摘をしている。アダルトビデオ監督の二村ヒトシが「いまインターネット上にあるのは人間の内面ばかり、傷つきからくる怒りばかりだよね。〔……〕しっかりした強さを持っていない者の集団が、社会的な力を持ってしまって何かを攻撃して抑圧しようとしていますよね」と発言したのにたいして、千葉はそのような集団は「ニーチェ」的な「畜群」=「弱者」だと指摘している。「畜群」は「恨みつらみ、ルサンチマンに基づいて群れることで、結果、強者よりも強くなる」という。『道徳の系譜楽』のニーチェによれば、罪は負債であり、道徳には、「負い目」という「負債」を強者に背負わせることで弱者が強者を支配する論理がある。その結果、人間は「自分が有罪であり、罪をつぐなうことができないほどに呪われた存在」となった。
 千葉の指摘を敷衍すれば、差別主義者も反差別主義者もみずからを「足の痛み」を抱えた「弱者」だと相手に提示して、「責任」=「負債」を他者に負わせようとしている、といえる。ポリティカル・コレクトネスが社会を覆う状況にだれもが息苦しさを覚えるのは、「とんでもない責任のインフレ」=「無限の負債」を感じるためである。そのうっとうしさから逃れようと、すべての「負債」を肩代わりしてくれる犠牲の羊(スケープゴート)を探し出し、「魔女狩り」のように「炎上」させ、「自らの行為の責任をやすんじて免除する」ことが繰り返される。
 行為者(の意図や予見可能性)ではなく、行為の結果を中心とする責任理論の転換は、近代リベラリズムにおける無自覚な差別を批判することを可能にした。しかし、いまやそのような責任理論は、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスに流用され、ポリティカル・コレクトネスをめぐる言説のうっとうしさの原因となっている。
(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』p.250-252)


 刑罰理論における応報主義と帰結主義という考え方がここでは参考になる。たとえば、現在の日本では絞首刑による死刑が認められている。死刑とは政府がおこなう場合にだけ認められた合法的な殺人である。政府以外の組織や個人・団体の場合、その執行は認められず、殺人という犯罪とみなされる。つまり、刑罰とは、身体の拘束や財産の剥奪など、本来ならば(通常の市民生活にあっては)犯罪とみなされる行為を、政府が合法的におこなう、というきわめて特殊な制度なのである。この特殊な制度である刑罰を正当化するために、応報主義と帰結主義というふたつの考え方がある。
 犯罪者は自由に行為を選択して法を犯した。それゆえ、犯罪者はその行為に見合った罰を受ける。これは当然の報いである。このように刑罰を正当化する議論は、応報主義と呼ばれる。いっぽうで、刑罰は、ほかの犯罪を抑止するなど、さまざまな社会的利益を期待できるとして、その社会的利益をもって刑罰を正当化するような議論は帰結主義と呼ばれる。
 先に紹介したジョシュア・グリーンらは、刑罰理論における応報主義を修正し、帰結主義的に正当化すべきだと主張している。グリーンらは、「どんな犯罪者の犯行も、さらには我々すべての行為も、自らのコントロールの外にある諸原因によって決定されている」のだから「決定論的世界において犯罪者に対する応報主義的な態度は的外れであり、我々の適切な態度はむしろ憐れみ(と必要に応じた隔離)である」と指摘している。
(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』p.254-256)

  • その後は寝床でウェブを回って夜が明けてから就寝。


・読み書き
 11:12 - 11:36 = 24分(作文: 2020/8/24, Mon.)
 12:30 - 12:47 = 17分(作文: 2020/8/25, Tue.)
 12:48 - 13:44 = 56分(作文: 2020/6/26, Fri.)
 13:57 - 15:14 = 1時間17分(作文: 2020/6/26, Fri.)
 15:16 - 17:31 = 2時間15分(金子: 455 - 469 / ホフマンスタール: 3 - 34)
 19:29 - 19:37 = 8分(fuzkue)
 20:00 - 20:28 = 28分(新聞)
 21:50 - 22:31 = 41分(詩)
 22:35 - 23:09 = 34分(バルト)
 23:10 - 23:47 = 37分(Steiner)
 23:51 - 24:07 = 16分(Woolf)
 24:09 - 26:21 = 2時間12分(ホフマンスタール: 34 - 54)
 26:32 - 26:55 = 23分(ブログ)
 計: 10時間28分

・音楽