2020/8/31, Mon.

 ところが、イーディスがセントルイスに行っていた数週間のあいだ、講義をしながらときどき、課題に没頭するあまり、無能さのことも、自分自身のことも、さらには目の前の学生たちの存在すら忘れてしまいそうになった。ときどき、興が先走るあまり、どもったり、身ぶりが過多になったり、いつも頼りにしている講義ノートを無視したりすることもあった。初めのうち、そういう自分の暴走が近視眼的な研究態度から来る悪癖に思えて、そのたび学生たちに謝罪したものだが、授業のあとに学生たちが寄ってくるようになり、またレポートや答案の中に想像力の兆しやためらいがちな向学心の発露が見られるようになって、誰からも教わった覚えのないこの講座運営の手法に開眼させられた。文学が持つ、言語が持つ、頭と心の神秘が持つ愛の力が、黒く冷たい活字から成る文字や単語の偶発的で霊妙で予測もつかない組み合わせの中に姿を現わした。今まで不法で危険なもののように内に秘めてきたその愛を、ストーナーは最初おずおずと、少しずつ大胆に、やがて誇らしく、表に出し始めた。
 ストーナーはこのわが道の発見を、一方で感傷的に、一方で心強く受け止めた。みずから意図した以上に、学生たちと自分自身の両方を欺いてきたような気がした。従来のストーナーの授業を機械的な反復努力によって消化することができた学生たちは今、当惑と恨みのまなざしを向けていた。今まで講座を受けなかった学生たちが、聴講に来たり、廊下で会釈したりするようになった。ストーナーは前より自信を持って講義を行ない、自分の中に熱く険しい厳正さが募ってくるのを感じた。十年遅れで、本来の自分を見出しつつあるのかもしれないと思った。その自分の姿は、かつて想像した以上のものであり、以下のものでもあった。ようやく自分が教師になろうとしている気がした。教師とは、知の真実を伝える者であり、人間としての愚かさ、弱さ、無能さに関係なく、威厳を与えられる者のことだった。知の真実とは、語りえぬ知識ではなく、ひとたび手にすれば自分を変えてしまう知識、それゆえ誰もその存在を見誤る心配のない知識のことだった。
 (ジョン・ウィリアムズ東江一紀訳『ストーナー』作品社、二〇一四年、130~131)



  • 二時まで糞寝坊してしまった。今日は灰色っぽい曇りの日。上階に行き、用を足したり顔を洗ったりうがいをしたりもろもろ済ませて、煮込んだ素麺とサラダで食事。温かな素麺を食べていると当然汗が湧き、襟足や首周りが濡れ、晴れていた昨日よりもかえって暑いような気もしてくる。食器を片づけて風呂も洗うと緑茶を持って帰室して、コンピューターを準備した。今日もスピッツ『フェイクファー』を最初に流そうというわけでAmazon Musicにアクセスすると、FISHMANSを聞いている人間へのおすすめとして七尾旅人とかZAZEN BOYSとかが提示されていて、このあたりの音楽もまったく聞いたことがないのではやいところ触れたいものだが、そのなかにLEO今井という初見の名があり、なんとなく興味を持ったので検索してみた。というのは、そのとき出てきたアルバムが『City Folk』という作品で(どうでも良いのだが、James Farmの二作目とおなじタイトルだ)、フォーク方面のことをやっている人なのかなと思ったのだ。Wikipediaを見てみると必ずしもそういうわけでもないようなのだが、高橋幸宏のバンドに参加しているとか書かれてあったと思う。『6 Japanese Covers』というアルバムも覗いてみるとなかに"ファックミー"という曲があったのだが、これはたぶん前野健太の曲ではないか。なかなか心憎い選曲である。そういうわけでこの二作はメモしておき、ついでに前野健太も検索して、『今の時代がいちばんいいよ』と『オレらは肉の歩く朝』も記録しておいた。本当はジム・オルークとかとやったライブ音源(たしかジム・オルークだったと思うのだが)が聞きたかったのだけれど、それはなかった。そうして日記を書き出すころにはもう三時である。
  • その後、前日の日記を完成。投稿する段になって通知を流すためにTwitterをひらいたのだが、そこで木下古栗の『サビエンス前戯』なる新刊が出たという報に接した。タイトルだけですでに笑える。この人の作品もまだひとつも読んだことがない。
  • 四時半から五時過ぎまで間が空いているのだが、何をしたのか不明。五時を回ると身体を休めることにしてベッドへ。最初は五時半くらいになったら上がっていって飯を作り、そのまま食事を済ませようと思っていたのだが、父親が何かやってくれているようだったし、横着して六時過ぎまでだらだらした。そうして上っていくと父親は風呂に入ったところ、フライパンには例によってゴーヤと肉と野菜を炒めたものが拵えてあり、冷蔵庫にはキュウリとワカメの和え物もある。ならばあとは汁物があれば良かろうとタマネギと卵の味噌汁を作ると食事に入った。父親が上がると同時に母親が帰ってきた。疲れた疲れたと漏らし、今日は人数はそれほどではなかったのだがクソガキが「凝縮」されていたと言うのに、この表現は面白いなと思ってちょっと笑いそうになった。
  • 帰室するとまただらだらウェブを回ったりなんだりして、FISHMANS "感謝(驚)"が流れるあいだだけ運動をしてから風呂へ。とにかく下半身を和らげることは肝要だ。屈伸をしながら脚を伸ばす際にしばらく止まって筋をほぐすのが良い。あとはやはり左右開脚。風呂を上がったあとは六月二八日の記事を綴ったのだが、途中でAmazon Musicから音源を追加したりSYNODOSの記事をメモしたりとインターネットをちょっと閲覧してしまい、完成させるには零時二〇分までかかった。身体、というか下半身は良いのだが肩や背中がめちゃくちゃこごっている感じがあったので、寝床に避難する。下半身はわりとそうでもないのだけれど、肩や首、背などの上半身に関しては、伸ばせば伸ばしたでしばらく経つと伸ばす前よりも凝りを感じるようになるのは一体なんなのか。
  • 二時まで休んだあと、「緑のたぬき」を持ってきて食い、そのあと緑茶も用意してきて三時から今日の日記。明後日がWoolf会で今回の担当を任されているので、To The Lighthouseもいい加減訳しておかなければならない。ところで今日はどこかのタイミングでJohn Lennon『Rock 'N' Roll』を流したが、このアルバムはなかなか良い。この作品を買ったのはまだハードロックに思い切りハマっていたころだったはずなので、当時はたぶん、たとえばDeep PurpleとかLed ZeppelinとかVan Halenとかそのあたりのロックと比べて全然激しくないじゃんとか思っていたような気がするのだが、そう考えると当時の自分はやはりまるで表面しか聞けていなかったのだなと思う。というかむしろ、表面すら充分に聞けていなかったことは明白だ。どうせギターの歪みが濃いか否か程度のことで音楽の激しさを判定していたのだろう。
  • 今日のことを記したあと、Virginia Woolf, To The Lighthouseの翻訳。四時四〇分まで。以下の短い文をこしらえるのに一時間四〇分を費やす。

 食事が終わればすぐさま、ラムジー夫妻の息子と娘たち八人は牡鹿のようにこっそりとテーブルから姿を消し、寝室へ、いわば彼らの要塞へと向かうのだった。家のなかで唯一そこだけは、どんな話題でも論じ合うことのできるプライバシーが確保されていたのだ。タンズリーのネクタイや選挙法改正案、海鳥や蝶々や他人の噂など、あらゆることについて彼らは話し、そのあいだ太陽はこの屋根裏部屋に注ぎこむ。

  • 原文は、"Disappearing as stealthily as stags from the dinner-table directly the meal was over, the eight sons and daughters of Mr and Mrs Ramsay sought their bedrooms, their fastnesses in a house where there was no other privacy to debate anything, everything: Tansley's tie; the passing of the Reform Bill; seabirds and butterflies; people; while the sun poured into those attics, (……)"というところで、本当はeverythingが先に来て具体的な話題が列挙されている順序を活かしたかったのだけれど、どうもそれは難しそうだ。また、そのあとがwhileで繋げられているのもけっこう難しく、このwhileなんやねんという感じなのだけれど、ひとつにはwhileには「さらに、その上」みたいな追加の意味があるらしいので、寝室は子どもたちにとって何でも話し合える隠れ家であることに加えて、太陽も注ぎこんで過ごしやすいみたいなことなのかなと思う。あとは普通に「~のあいだに」とか「~の一方で」みたいに背景的な情報の付加を導く接続詞なので、一応その線を取りたいというか、子どもたちが色々なことについて楽しく話し合っているあいだ陽射しが明るく降り注いで部屋を満たす、みたいな空間的イメージを演出したいと思うのだけれど、上記の訳の「そのあいだ」とかいう繋ぎ方ではちょっと駄目だ。さらに問題なのは、"while the sun poured into those attics, which a plank alone separated from each other(……), and lit up bats, flannels, (……)"という風に、atticsに対する長い補足説明が挿入されたあとにthe sunに対する二つ目の動詞(lit up)が出てくることで、なんやねんこの書き方というか、なぜわざわざここにやたら長い修飾情報を足して、poured intoとlit upの距離をこんなにも遠くひらいて記述の流れを途切れさせたのかがよくわからない。岩波文庫の訳ではwhich以下挿入情報のほうを先に訳したあと、「昼間には陽がよく差し込んで、クリケットのバットやフランネルの服(……)まで照らし出された」と、poured intoとlit upを近づけて一文内に収めており、そういう選択を取ったことはよく理解できる。このへんもうまい処理を見つけなければならないだろう。
  • それで五時を回ったところで音楽を聞くことに。まずFISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)。もっとも高い。ドラムを後ろに敷いて真ん中のベース、右のギター、左の鍵盤というこのリズムの交錯と絡み合いはとにかくすばらしい。マジですごい。その風通しの良い緊密さのなかを佐藤伸治が陽気な道化の幽霊のようにヘロヘロ浮遊するわけだ……。
  • 次に、Charles Lloyd, "Forest Flower: Sunrise"(『Forest Flower: Charles Lloyd at Monterey』: #1)。Lloydの吹き方というのも独特で、何を吹いているのかよくわからないような靄っぽい気体感はほかではあまり聞かれないものだと思うが、ひとりJoe Lovanoがこの路線を受け継いでいるのだろう。それにしてもCharles Lloydってこのころからいままでずっと、ほとんど変わっていないのではないか? この音源だとやはりKeith Jarrettが聞き物で、ソロの入りの意気軒昂な鮮烈さはさすがにすごいし、後半にも耳を惹く音の連なりはあって、どうも音使いもしくはフレーズの感触がのちのスタンダーズ・トリオのときとは違うような気がしたのだが、どうなのだろう。こまかな点はわからない。
  • 聞くと五時半前。本当はホフマンスタールを読みたかったのだが、良い具合に眠気のにおいがあったのでそのまま就寝することにした。


・読み書き
 15:12 - 16:28 = 1時間16分(2020/8/31, Mon. / 2020/8/30, Sun.)
 21:53 - 24:19 = 2時間26分(2020/6/28, Sun.)
 27:02 - 28:39 = 1時間37分(2020/8/31, Mon. / Woolf: 6/L29 - L34)
 計: 5時間19分

  • 作文: 2020/8/31, Mon. / 2020/8/30, Sun.
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994): 6/L29 - L34

・音楽
 29:09 - 29:26 = 17分(FISHMANS / Charles Lloyd)