「責任(responsabilità)」という語の起源をなす spondeo〔請け合う〕というラテン語の動詞は、「ある者(あるいは自分自身)のために、ある者の面前で、あることの保証人となること」を意味する。したがって、婚約の場面で、父親が spondeo という文句を口にしたなら、求婚者に自分の娘を妻として与えることを約束すること(このため、その娘は sponsa〔婚約者〕と呼ばれた)、あるいは、もしそうならなかったなら賠償を確約することを意味した。じっさい、最古のローマ法においては、自由人は被害の補償あるいは義務の履行を保証するために自分が人質になること、すなわち捕虜になることを買って出ることができるのが習わしで、この捕虜の状態をもとにして obligatio〔義務・抵当〕という語が生まれている。(sponsor〔保証人〕という語は、債務者(reus)の代理をして、不履行の場合にはしかるべく弁済することを約束する者を指していた)。
したがって、責任を負うというふるまいは、純粋に法律的なものであって、倫理的なものではない。それは高貴で輝かしいものはなにもあらわしておらず、ob-ligarsi〔或るものに自分を縛りつけること〕をあらわしているにすぎない。すなわち、法律上の拘束が責任者のからだにいつまでもまといついているという見方のもとで、債務を保証するために捕虜として自分の身柄を引き渡すことをあらわしているにすぎない。そうであるがゆえに、そのふるまいは損害の責任を負うことを意味する culpa〔罪〕の概念と緊密に絡まりあっているのである(このためローマ人は自分自身にたいする罪がありうることを否定したのであった。quod quis ex culpa sua damnum sentit, non intelligitur damnum sentire〔ある者が本人のせいで損害をこうむった場合は損害をこうむったとは解されない〕――すなわち、自分のせいで自分自身にたいして引き起こす損害は法律にはかかわりがないのである)。
(……)
イェルサレムの裁判のあいだ、アイヒマンの弁護側の一貫した路線は、かれの弁護人のローベルト・セルヴァティウスによって以下の言葉をもって明確にあらわされていた。「アイヒマンは、神の前では罪を感じているが、法律の前ではそうではない」。じっさい、アイヒマンは(かれがユダヤ人大量殺戮に関与したことは、起訴状によって主張された役割とはおそらく異なった役割をかれが担ったにせよ、十分に立証された)、「ドイツの若者たちを罪の重荷から解放する」ために「公衆の面前で自分で自分を縛り首にする」ことを望むとまで公言した。それでもなお、かれは最後まで、神を前にしてかれが負っている罪(かれにとって、神はHöheren Sinnesträger、すなわち、より高い良識の担い手にすぎなかった)は法律的には訴追できるものではないと主張しつづけたのであった。これほどまでに執拗に主張された区分法がもっている唯一ありうる意味は、道徳的な罪を引き受けることは被告の目からは倫理的に高貴なことに見えたが、その一方で、かれは法律的な罪(倫理的な観点からすればはるかに軽微であったはずの罪)を引き受けるつもりはなかったということである。
(ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、23~25)
- 一時四〇分離床。一時ごろには覚めていたが、例によって首周りなどを指圧してから起きる。上階へ行き、素麺と天麩羅で食事。テレビは関西出身のタレントが関西弁やあちらの人々の精神性などについて語るバラエティで、ちょっと標準語を使っただけで地元の人には「魂売った」とけなされると言っていた。これは先日MUさんもWoolf会で話していた現象だが、こういうときにやはり「魂」という語(観念)が、すなわち「ソウル」が出てくるわけだ。ほかには、赤江珠緒というアナウンサーの幼少時のエピソードとして、蟬を捕まえるのが大好きで捕らえた蟬はパンツのなかに次々に入れていき、下半身をジュワジュワ鳴らしながら帰宅するのが常だったと話されたのが面白かった。
- 食後、皿と風呂を洗うと蕎麦茶を持って帰室。スピッツ『フェイクファー』を流してウェブを覗いたあと、ここまで記録。今日は八時から「A」の会合があるのだが、それまでに課題書のホフマンスタール/檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫、一九九一年)を全部読みきることはできないだろう。昨日サボってしまったのがまずかった。これから読めるところまでは読み進めておくつもり。
- そういうわけでベッドに移ってホフマンスタールを読みはじめた。本来だったらすこしでも多く読み進めておくべきなのだろうが、もう最後まで読みきれないことはわかっているので、「帰国者の手紙」まで読めればそれで良いだろうとかえって鷹揚な気になって、読書ノートにメモなど取りながら悠長に進めた。そのうちに、予想されたことで睡魔に襲われ、意識を海月のように曖昧化してしまい、気づけば六時前だからもう食事を用意せねばならない。と言ってチキンも天麩羅も残っているので、米を炊いて汁物でも作ればそれで良かろうと見込んでいた。
- 上階に行き、笊に米をすくい取っていると両親が帰ってきた。米を磨いだあと、ナスを切って水に晒し、鍋は火にかけて味噌汁を作る用意を整える。母親がかたわらで小松菜も出したのでそれも茹で、ナスも小鍋に投入してしばらく待つと味噌を溶いた。そうしてもう食事へ。チキンや天麩羅や炒飯を温めて卓に並べ、新聞の国際面を読みながら平らげると食器を片づけ、母親が買ってきてくれた静岡茶をさっそく注いだ。茶壺に入れた茶葉のにおいを嗅ぐ限りではそんなに期待できないような気がしたのだが、部屋で飲んでみると穏やかでそう悪くない味だった。
- 時刻は七時、会合までに「帰国者の手紙」を読み終えておこうというわけでホフマンスタールを取り、文を追いながらノートにメモ書きを記した。そうしてそのうちに全部は読めなかったと謝っておこうかとLINEのグループを見ると、申し訳ないが体調が悪いので延期にしてもらいたいとUくんが発言していたので、ほかの人たちに同じて大丈夫だと応じておき、とにかく眠って力を回復させてくださいと言を送った。とはいえせっかくなのでホフマンスタールに限らず何かしらくっちゃべることはしたいと思い、雑談してくれる方はいるかと呼びかけたものの、Iさんも台風のせいなのか頭痛がするので欠席と言い、ほかの二人からは返答がないのでこれは今日は不開催だなと見切りをつけて運動をはじめた。BGMはスピッツ『フェイクファー』の残りとFISHMANS『Oh! Mountain』。やはりとにかく肉の筋を伸ばすか揉みほぐすかのどちらかが絶対に必要である。今日は久しぶりに「胎児のポーズ」もやったが、これは腰周りや太腿などをほぐすのに絶大な効果がある。また、五キロのダンベルを持って腕の筋肉も温めたのだけれど、これもなるべくなら毎回やったほうが良い。べつにムキムキになろうなどという欲望はなく、ただ筋肉をあたためほぐしたいだけなので、一定の形でダンベルを持って音楽を聞きながら静止しているだけで充分だ。
- そうして八時半を回って入浴へ。風呂場でも下半身を和らげたり、壁に手をつきながら腰をひねったりしてから湯に入る。片手でおなじ側の足首を持って上体のほうへ引きつける柔軟が、うまくやれば腰上の背面も伸ばせて良いと気づいたのだが、それをやっているだけで背中から汗の玉がだらだら湧いて肌の上を転がるのだった。
- 風呂から出てくると一年前の日記の読み返し。過去の記録の確認もずいぶん遅れており、七月後半で止まっている。MさんのブログもSさんのブログも書抜きも何もかも遅れているが、もはや頓着はしない。結局のところ、心身がそれらのほうに向いたときに行うのが一番良いと悟ったので、毎日必ずこれをしなければという考え方はやめた。一応、書き物は毎日欠かさず、わずかばかりでも書けているとは思うが、それだってもういいやと思ったらやめれば良い。過去の日記は2019/7/23, Tue.から三日分読んだ。七月二四日の冒頭の書抜きは九螺ささら『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房、二〇一八年)で、「畳まれた浮き輪はたぶん比喩でしょう頑張れないまま死ぬことだとかの」(128)という一首がちょっと良かった。
- そうして何をしようかなと迷ったのだが、とりあえず今日のことは書いておくかというわけで、FISHMANS『Oh! Mountain』の流れるなかで日記を記述。かなりゆっくりと静かな指やからだの動きで急がず書けていて良い。常に心身の静けさを保つということがやはり重要である。いや、間違えた。今日のことを書く前に「英語」と「記憶」を音読したのだった。復読も今日はわりと目の前の言葉と一体になるというか、そこにある語の連なりをひとつひとつしっかり追うというか、受け取れるものは全部受け取るぞみたいな集中感でできたので良い。言葉にせよ音楽にせよそれに触れるときには、目の前にあるものを食い尽くすみたいな鋭く静謐な獣性めいたものがやはり必要だと思う。それで一〇時過ぎから日記をはじめて、FISHMANSのあとはArt Tatum『The Tatum Group Masterpieces: Art Tatum/Red Callender/Jo Jones』を流したのだけれど、古典的ではありながらもやはりさすがと言うほかないトリオで、古き良き時代のジャズのもっとも上質な部分という感じ。とりわけRed Callenderが良かったので、興味を抱いてAmazon Musicで音源を検索してしまった。
- Amazon Musicをうろついているうちに一一時を迎えてしまったのだが、一方でArt Tatumのアルバムがきちんと聞けなかったというか、一曲終わって次の曲に移るときになぜかWinampが停まるという事態に陥って、これは一曲目から二曲目に移るときだけそうなるのかと思ったところが二曲目から始めてもおなじことになった。そもそもいまだにWinampなんていう時代遅れのプレイヤーを使っている人間などもはやほとんどいないのだろうし、iTunesにでも鞍替えするべきなのかもしれないが、とりあえずコンピューターを再起動してみることにして、機械を停止させるとベッドに転がった。そうしてふたたびホフマンスタール/檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫、一九九一年)を読む。まず「道と出会い」という短いエッセイ。「旅行案内書の欄外」に書きこまれていた過去の自分の書抜きを発見するところから始まって、そこに含まれていた「虚空にのこる鳥の飛跡」という言葉にまつわって「黒い稲妻」のような燕たちの描写も挟みつつ、「出会い」にまつわる小論をぶってみせる流れは悪くない。何より、「光あふれる晴れやかなこの数日、鳥の飛ぶさまはすばらしいものであり」と最初に書き出すことで晴れ晴れしい天気の模様が一篇の背後に敷かれ、燕の描写もあいまってそれが篇の風通しを良くして思念偏重に陥ることを防いでいる。その後、典拠不明の引用に含まれていた「アギュール」という名前の主は、自分が夢のなかで見たあの男だろうと言ってその「夢」の描写に移行するのだけれど、そのような展開もそこそこ面白いというか、こういう繋ぎ方ができるのだなという感じだ。ただ、そこで語られる「夢」の内容自体はいかにも典型的なオリエント風のイメージに収まっていて大したものではないと思う。実際、訳者の付記によれば「アギュール」というのは旧約聖書「箴言」の三〇章に出てくる人物だと言い、その名が含まれた冒頭の引用のほうはマルセル・シュウォブ『雑録集』(一八九六)からのものらしい。
- そのあと「美しき日々の思い出」にも入っていくらか読み進めたが、こういう一応紀行文の体裁を取ったエッセイ的散文がこの本のホフマンスタールにあっては一番面白いような気がする。最初のほうの小説は奇妙な感覚を与えはしたものの形としてこなれてはいないし、「ルツィドール」になると今度は普通の安定した堅実な小説に収まっている。二つ目のパートに収録されたもろもろの「手紙」や「対話」はもちろん手紙の主の自分語りか対話篇であり、具体的な描写や空間の動きなどがあまり取り入れられず、思想や観念を説明することに偏りがちで、そうするとなんだか読んでいてあまり流れないというか、もうすこし物語か風景みたいなものが欲しいなという気持ちになってしまう。そのあたりのバランスが一番良く揃えられているのが紀行文形式なのではないかという気がしたのだ。
- またしても途中でまどろみながらも、一時半前まで書見を進めた。それからコンピューターを点け、日記を書きながらふたたびArt Tatum『The Tatum Group Masterpieces: Art Tatum/Red Callender/Jo Jones』を流したのだが、やはり曲の移行時にWinampが停まるので、上に記したとおりiTunesにプレイヤーを変えることにした。Winampよ、いままでよく頑張ったが、貴様はもはや用済みだ。そういうわけで更新をせずに放置していたiTunesを最新版にアップデートし、いま流してみているが、これでiTunesまでも曲の移行ができずに停止したら笑えるぞ。
- そんなことはもちろんなかった。忘れていたが夜半前から雨が激しくはじまって、ヘッドフォンをつけていても覆いをくぐって響きが耳に侵入してくるくらいで、窓を閉めていてそれだから規模がわかる。二時を越えると台所に行っておにぎりや味噌汁などの夜食を用意したが、からだを動かしながら、よくヴィパッサナー瞑想とかマインドフルネスの方面で「いまここ」の瞬間に最大限集中して注意を払う、みたいなことが言われるけれど、「瞬間」なんてものは本当はないのではないかと思った。「瞬間」とはおそらくまずもって幅のある時間との対比で、そのなかにおける位置づけとしてしか認識されないものだと思われるから、時空を「瞬間」という小片として捉える認識様態自体が回顧的なものであらざるを得ないというか、要するに(その幅がどんなに微小であれ)「現在」を通り過ぎたあとの地点から振り返る形でしか「瞬間」という形象は発生しないのではないかと思われ、本当に「現在」に内在しているときにはその「現在」は「瞬間」というよりはむしろ「全体」なのではないか。そして、この世の時空にはその都度その都度の「全体」、その流動的な生成 - 変身の繰り返ししか存在しない……。いや、その時空の連続性(のように見えるもの)をどのように(どのような形態として)理解すれば良いのかはまだわからないが、「現在」が「全体」であるというところまではたぶん確かではないかと思われ、ベルクソンが(例の「純粋持続」とかいう観念でもって)言ったことは大体そんなことなのではないかと推測する。
- 二時半過ぎから書抜き、石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)。167: 「愛と言語の作業とはまさしく、おなじ文につねに新しい調子をあたえることだと考えられる。そうして、記号の形態は繰りかえされてもシニフィエはけっして繰りかえされることがないという驚くべき言語を作りだす。言語(と精神分析学)がわたしたちの情動すべてに刻みつける残酷な〈単純化〉にたいして、話者と恋する者がついに打ち勝つ、という言語を作りだすのである」
- 新聞記事の書抜きもすると台風のせいなのかインターネット回線が切れたので、回復を待つあいだに瞑想をした。窓をほんのすこしだけ開けたが、外にはもちろん雨音が満ちており、雨粒が空間を隅々まで埋め尽くしているなかをかき乱すように風も走って、大気の様相が高まっては静まって常に変成しているのが聞き取られる。そのなかで二種類の虫の声だけが不変の常数として宙を貫いており、そのひとつは八分音符を一瞬の間断もなくひたすら叩き続けるもの、もうひとつはそれよりわずかに速いテンポで何音かを刻むと一、二音分の休符を置いてすぐにまた鳴きはじめるというものである。雷も何度か聞こえ、最初の鳴りは押入れのなかで誰かがゴソゴソやっているような弱くくぐもった音だったが、そのあとにはトンネルを造るためにはるか遠くの山を爆破しているような太めの響きが伝わってきた。
- 寝床に移る前にすこしでも英語を読もうというわけで、Jesús A. Rodríguez, "BLM Organizers See the 1972 National Black Political Convention as a Model. What Can They Learn From It?"(2020/8/28)(https://www.politico.com/news/magazine/2020/08/28/1972-national-black-political-convention-black-lives-matter-blm-401706)を読んだあと、ベッドでホフマンスタールをまた少々進めてから就寝。眠りが来るまでのあいだ、こめかみや側頭部などを指圧して柔らかくした。
- 205: (ホテルの水差しや洗面器など)「ごくふつうのもの」が「現実離れし」、「幽霊じみて」見える。
- 206: 「辻馬車の幽霊」を見て「軽い吐き気」を感じた。
- 206~207: 「木」を目にすると、「永劫の無」あるいは「非在」から「風」が、「生ならぬものの息」が吹き寄せてくる。
- 207~208: 「汽車の窓」から見える世界は「この世ならぬほどうつろ」で、そこに宿っている「生ならざるものは恐ろしい」。
- 209: さまざまなものが「幽霊のごとき生ならぬ生」の「戯画としか見えず」、それは「金」に対する「嫌悪感」を引き起こす。
- 212~213: ゴッホの絵には、「対象の奥にひそむ命が現前していた」。それは、「物の存在のずっしりとした重み」、その「不可思議」であり、そこではどんなものも「ひとつの実在」となっている。
- 213: 「ぼくの魂にじかに語りかけたこの言葉」 → 121: (チャンドス卿における)「物言わぬ事物が語りかけてくる言葉」?
- 219: 「「見る」ということ」: ホフマンスタールにおいて視覚は特権的な感官である。
- 219: 「物の色がぼくを支配するふしぎな時間がある、と言わなかったろうか。だがむしろ、ぼくの方こそが色を支配する力を手に入れるのではないだろうか」。 / 「奈落にも似て奥深い無言の神秘」: 「奈落」=無音性。 → 206: 「辻馬車」を見たとき、「底知れぬ奈落のうえ、永劫の空無のうえをつかのま漂うようだった」。
- 220: 波や船などの「事物のうちに、全世界のみならず、ぼくの生のすべてが含まれているように思えた」。
- 220~221: 「生のすべてが、過去が、未来が、尽きることなき現在のうちに泡だちつつ、ぼくにむかってうごめき寄ってきた」。
- 221: 「色」は「一種の言葉」、「そのうちに無言なるもの、永遠なるもの、とてつもないものの立ちあらわれてくる言葉」であり、それは「音よりも崇高」なので、色に比べるならば音楽なぞ、恐るべき太陽の生のかたわらにおかれた弱々しい月の生のようなもの」に過ぎない。
- 221: 「ぼくは、こうしたことすべてから何も感じない粗野で鈍い人間と、ぼくがただ呆然として眺めているほかない徴をさっさと解読してその意味を知ってしまう教養ある魂の持ち主との、ちょうど中間あたりにいるのかもしれない」。
- 221~222: 「こうこうたる炎をちりばめた南方の空は、じっさい、まれにときおり、ぼくの全存在が静まりかえった水面のようにふくらみ昂まってゆく夜には、とほうもない約束となり、そのもとにあっては死ですらオルガンの響きのように砕け散ってしまうように思えたものだ」: 「ぼくの全存在が静まりかえった水面のようにふくらみ昂まってゆく夜には」、「死ですらオルガンの響きのように砕け散ってしまう」。
- 222: 「言葉もなく身を閉ざしてぼくの前に横たわり、ただ重圧感とよそよそしさしか感じさせないものが、ふいに身を開き、愛の波に包むかのようにぼくをひとつに絡めとってしまうとき」、「ぼくは事物の内部にあってただひたすら一箇の人間に、あとにもさきにもないくらい自分自身になりきっているのではないのか」。
- 223: 「ひとりきりになりながらもおのれを見失うことなく」、「名もなく」なりつつも「幸福」である。
- 228: 「思うに、抱擁ではなく、出会いこそが、ほんとうの、決定的な愛のしぐさなのだ」。
- 237: 「カタリーナが右手に眼をやると、サンソヴィーノの館があり、あの列柱、あのバルコニー、あの歩廊があり、夕方の光と影がそれらから、現実のものとは思えない情景――夜と昼とをともに招く祝祭の静かな始まりをつくりだしていた」: 「夕方の光と影」、「夜と昼とをともに招く祝祭の静かな始まり」。
- 246: 「それは眠りであり、また、たえずあたらしい夢のなかへとあらたに目覚めてゆくことであり、所有にして喪失だった」: 「たえずあたらしい夢のなかへとあらたに目覚めてゆくこと」。
- 247: 「眠りはすっかり滑り落ちて、石の床が素足に心地よく触れ、水差しからは、生きたニンフのように水がわれみずから躍り出た」: 「われみずから」。
- 247: 「白い紙はあふれる朝の光にかがやき、言葉で埋めつくされたがっていた。おまえの秘密を教えてくれるなら、そのかわりに幾千もの秘密を教えよう、というふうに」。
- 253: 「野薔薇の生籬[いけがき]にはさまれた道が長くつづいた。眼前を小鳥が一羽飛び去った。薔薇の花のひとつが落とす影よりも小さかった」。
- 「帰国者の手紙」においては、事物がひどく「うつろ」に、非 - 生命的に恐ろしく映る事態と、「対象の奥にひそむ命」、物の「実在」感とがまざまざと差し迫ってくる事態の二つが言及されており、この二種の認識様態はどちらも日常的な知覚のあり方から解離したものという点で共通しているが、その方向性は真逆だと言って良いのだろう。前者から後者への転換を成したのはゴッホの絵画の力であり、したがって端的に「芸術」の力だということになるだろうが、本当はそのあたりのよりこまかい理路を追うべきなのだと思う。すくなくとも前者の認識様態は「金」に対する「嫌悪」と結びついているわけだから、資本主義的文明に対する反感というか、それへの馴染めなさ、つまりはそこからの疎外がひとつの要因としてはあるはずだとひとまず考えられる。
- ホフマンスタールにおいては「見る」こと、つまりは視覚こそが世界との合一感を成し遂げる特権的な回路であり、「見る」ことを通してこそ、「事物のうちに、全世界のみならず、ぼくの生のすべてが含まれているように思えた」り、「生のすべてが、過去が、未来が、尽きることなき現在のうちに泡だちつつ、ぼくにむかってうごめき寄ってきた」りする。こうしたいわゆる主客合一、主体が世界のうちに溶けこみ融合するというテーマは、文学・哲学・宗教の分野ではありふれたもので、ここで語られていることは先日Woolf会で話題に上がった時間認識、一瞬のなかに世界のすべてが凝縮されているような高密度の〈瞬間〉という様態と相応しているだろう。ただこの本で重要なのは222から223にあるように、主客合一がなされるとき、自分は「事物の内部にあってただひたすら一箇の人間に、あとにもさきにもないくらい自分自身になりきっているのではないのか」とか、「名もなく」なってしまうとか述べられていることで、つまり、自己のアイデンティティが溶け消えて固有名を消失した地点でこそ、まさしく「一箇の人間」に、この上なく「自分自身になりきっている」という逆説的な論理が提示されている点にこそこちらは興味を覚える。〈存在〉そのものへの回帰のヴィジョンというか、そこから(再)発生してくる自己の本来性というか。
- あとは246にある「たえずあたらしい夢のなかへとあらたに目覚めてゆくこと」というフレーズがやたら良く感じられる。作品のタイトルにでもできそうだ。
・読み書き
15:17 - 15:27 = 10分(2020/9/5, Sat.)
15:31 - 17:53 = 2時間22分 - 1時間(まどろみ) = 1時間22分(ホフマンスタール: 204 - 218)
19:05 - 20:04 = 59分(ホフマンスタール: 218 - 224)
21:17 - 21:34 = 17分(日記)
21:35 - 22:01 = 26分(英語 / 記憶)
22:03 - 23:05 = 1時間2分(2020/9/5, Sat.)
23:20 - 25:23 = 2時間3分(ホフマンスタール: 226 - 242)
25:28 - 26:04 = 36分(2020/9/5, Sat.)
26:36 - 27:27 = 51分(バルト/新聞)
28:38 - 28:59 = 21分(Rodriguez)
28:59 - 29:32 = 33分(ホフマンスタール: 242 - 254)
計: 9時間40分
- 作文: 2020/9/5, Sat.
- ホフマンスタール/檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫、一九九一年): 204 - 254
- 2019/7/23, Tue. / 2019/7/24, Wed. / 2019/7/25, Thu.
- 「英語」: 271 - 280
- 「記憶」: 112 - 115
- 石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年): 153 - 167
- 読売新聞2020年(令和2年)6月28日(日曜日): 7面 / 8面
- Jesús A. Rodríguez, "BLM Organizers See the 1972 National Black Political Convention as a Model. What Can They Learn From It?"(2020/8/28)(https://www.politico.com/news/magazine/2020/08/28/1972-national-black-political-convention-black-lives-matter-blm-401706)
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