2020/9/14, Mon.

 他人の代わりに生きているがゆえの罪の意識が生き残り証人の感じている恥ずかしさについての正確な説明になるかどうかは、まったくさだかではない。まして、生き残って証言する者が無実ではあっても、生き残りである以上、罪を感じなければならないというベッテルハイムのテーゼは疑わしい。生き残りであるがゆえのものであって、かれが個人として行為したこと、あるいは行為しそこなったことには属していないこの種の罪を負うことは、倫理の問題をうまく解決できないといつも漠然とした集団的な罪なるものを引き受けようとするという世間一般の傾向に似ている。意外なことに、あらゆる年代のドイツ人がナチズムにまつわる集団的な罪を戦後になって進んで負ったということ、かれらの親やかれらの民族が犯したことに進んで罪を感じたということの裏には、同じくらい意外なことに、個々人の責任を確認し、個々の犯罪を処罰することにたいする消極的な気持ちが働いていたのだということについて想起するよううながしたのは、ハナ・アーレントであった。同様に、ドイツのプロテスタント教会は、ある時期になって、「われわれの民族がユダヤ人にたいしておこなった悪にかんして、慈悲の神にたいして、みずからが共同責任を負っていること」を公然と宣言した。しかし、この責任はじつは慈悲の神にではなく正義の神にたいするものでなければならないという不可避的な帰結、ひいてはこの責任は反ユダヤ主義を正当化するという罪を犯した牧師たちにたいする処罰をもたらすことになるという不可避的な帰結をそこから導き出す気まではプロテスタント教会にはなかった。同じことはカトリック教会についても言える。カトリック教会は、最近もまた、フランス司教団の声明を介して、ユダヤ人にたいするみずからの集団的な罪を認めるつもりでいることを明らかにした。しかし、カトリック教会は、ユダヤ人にたいする迫害と大量殺戮にかんする(そしてとりわけ一九四三年十月におこなわれたローマのユダヤ人の追放にかんする)教皇ピウス十二世の怠慢が明白で、重大で、資料によって裏づけられているにもかかわらず、それを認めたことはない。
 集団的な罪もしくは無実について語ってもまったく意味がないこと、自分の民族や自分の父が犯したことに罪を感じるということは比喩としてしか言えないことを、レーヴィは確信して疑わない。「裏切られ、誤った道へ導かれた、哀れなわが民族に重い罪がある」と、かれに偽善的に書いてよこすドイツ人に、かれはこう答える。「罪と過ちについては個々人がみずから責任を負わなければならない。そうでなければ、文明の痕跡が地表からすっかり消えてしまう」(Levi, P., I sommersi e i salvati, Einaudi, Torino 1991., p.146)。そして一度だけ、かれは集団的な罪について語るが、そのときにもかれが語ろうとするのは、かれが可能だと考える唯一の意味においてのそれ、つまりは「当時のほとんどすべてのドイツ人」が犯した罪のことでしかない。見なかったはずのないことについて話す勇気、それについて証言する勇気をもたなかったという罪がそれである。
 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、125~127)



  • 一一時ごろに覚め、そこからまどろんだり、身体をほぐしたりして正午に至って本格の起床。覚醒して寝床にある時点で脚の筋を伸ばしたり、「胎児のポーズ」をやったりして早々にからだを和らげてしまうのが良さそうだ。また、就寝時には眠りが来る前にこめかみや目の周りを指圧する習慣をつけるのも良いだろう。
  • 洗面所に行って顔を洗ったりうがいをしたりしてから上階へ。母親は仕事で父親は在宅。食事は唐揚げと米と生サラダ。食べながら、今日は朝刊がないので前日の新聞を読む。ティモシー・スナイダーのインタビューが乗っていたが、情勢分析としてはだいたい標準的なもので、彼独自の見地というものはほとんど見えてこない内容だと思う。そのほか国際面と米国の科学政策に関する紙面を読むが(ドナルド・トランプ政権の科学政策の総合責任者みたいな役職は、三三歳の「俊英」が担っているらしい)、そのあいだなるべく身体の動きを停めるようにして、やはり何かをするにあたっては停止と不動が肝要点だ。当然の話だが、身体が動くとそれだけで意識の志向性がわずかに乱されるというか拡散する感じがある。というか、生活のなかでおりおり自分自身を観察すれば立ちどころに明らかになると思うのだが、たぶん自覚的に介入をしようとしない限り、意識が覚醒しているあいだ何の身体的動作も行わず何らかの肉体的行為を伴わない瞬間というのは、人間にはまず存在しない。つまり起きているあいだ、人は絶え間なく(ほぼ隙間のない)充実した身体的動作の連鎖のなかに(それがまるで抗うことのできない強制的な必然であるかのように)置かれ続けているということで、これはおそらくひとつのかなり大きな主題であり、問題でもあると思う。そして仮に身体的動作を完全に停める時間があったとしても、精神の動きをみずから停止させることは人間にはできない。
  • 父親は台所で食器乾燥機を掃除していた。立ち上がると、皿はあとで洗うから置いておいて良いと言うので言葉に甘え、風呂を洗いに行った。漂白剤のにおいを感知したのだが見たところ漂白されているものはないし、床にもかかっていないようだったので気のせいかもしれない。外からはまだ蟬の声が聞こえるが、曇天の今日はもうかなり涼しげな気候だ。居間にもどって緑茶を注ぎながら南窓の外を見やると、Sさんの宅の鮎幟りはうまく持ち上がらず力なく振れるのみで、ガラスの下端に覗く梅の梢も揺らぐ程度だから風と言うほどのものもないが、それでも入ってくる空気は涼しく肌に流れる。そろそろエアコンを点けなくても過ごせるようになるだろう。
  • 帰室するとコンピューターを準備し、まずFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだして各所を瞥見。LINEを見ると先日延期された「A」の会合は一〇月頭と決まり、加えてUくんが、一〇月から(……)に古井由吉についての講義をしてもらうことになったのだが興味がある人はいるかと訊いていたので、もちろん興味があると答えておいた。そうして日記。書きながらおりおりFISHMANSを歌ってしまい、そのときは打鍵を止めることになる。手を動かしながら歌ってしまうこともままあるのだが、そうすると結局、文も歌もどちらも半端にしかならずうまく味わえないので、今日は二重行為をする気にならなかった。自然とそうなったのだ。記事は前日分を完成させ、今日のことをここまで記せば二時四〇分。
  • インターネットに記事を投稿したのち、運動。からだを動かしながら、自分は身体感覚や身体性を希求しているようでいて実はかなり精神優位なのではと思った。上に書いた停止 - 不動の話題にしても、微細な動作感覚が夾雑的なノイズとして意識と拮抗するという話で、それをなるべく殺して意識野を〈きれいにしながら〉その志向性を単一方向に集束させようというのは、精神によって身体を成型し、かたどって統御することができるという発想があるわけだろう。だから〈精神 - 優位〉というか〈精神 - 基盤〉というか、精神が身体の上にそびえてその影によって全面を包みこみながら管理するというか、あるいは精神が身体の下に敷かれてもろもろの感覚を受け止め支える底部を成すというか、上下どちらの方向からも考えられるし、むしろ「背景/前景」という前後のイメージで考えたほうが良いのかもしれないが、いずれにしてもそこでは精神が本源的なものとして全体に影響力を及ぼすという捉え方がなされているような気がする。
  • 一方で音楽はFISHMANS『ORANGE』がかかっており、ベッド上で合蹠をして股関節などほぐしながら#8 "Woofer Girl"を聞いていたのだが、「からっぽだらけの僕の心(こんな気持ち)」という言い方はなかなか面白いなと思った。「からっぽ」というのは端的に何もない状態のことであり、一定の空間的範囲内に何もものが存在しないという事態は一般的にそれ全体で単一のものとして捉えられるはずで、「だらけ」というような言葉を付した複数体として考えられることはあまりないと思う。あるいは「からっぽ」という言葉を「空洞」と取って、「心」の内部に個別的な空洞が集まって無数に穴を開け、おびただしい虫食いのように(いわゆる「蓮コラ」のように)なったイメージを持っても良いのかもしれないが、これはこれで、「心」とか「気持ち」とかをそういう形象であらわすこともそんなにないような気がする。欠如でいっぱいのボロボロになった全体性、みたいな。また、「暮らしは爪を立てるけど/ずっと守ってあげるから」という一節もあるのだけれど、この「暮らしは爪を立てる」という表現も、ちょっとこちらには思いつけないなという感じがするし、仮に思いついたとしても使えるものとして採用するか疑わしいような感じもあって、佐藤伸治って歌詞を見てみてもだいぶ特異なほうの言語感覚を持っているのではないかという気がする。
  • そのあとベッドに移って脚をほぐしながら休み、四時一五分でからだを起こして、FISHMANS "ナイトクルージング"とともに着替えると上階へ。父親は外出しており家には誰もいなかった。出発。なぜなのかわからないが心身がかなりよく締まっていて、肉体の輪郭と意識の輪郭がほとんどぴったり一致して明鏡的に落ち着いている感覚があった。林からはまだ蟬の声がまばらにじりじり鳴っていて、飛行機の鈍い低音もその上の空に現れてかぶさり、林の向こうからは子どもの叫び声が聞こえてくるのだが、いったいどこで遊んでいるのか。上ったあたりの裏路地にいたのだろうか?
  • 空気は涼しげで、肌に摩擦もあまり生じない。Nさんを最近見かけないのだが、元気にしているのだろうか。坂に入るとともに鳴き出したツクツクホウシがあまりにも勢いに乏しくて、あんなに遅い六連符のツクツクホウシははじめて聞いたというくらいだった。一応だんだんテンポを速めてはいくのだが、夏場に比べると疲労困憊して衰えたという感が否めず、そろそろ寿命も尽きかけて息も絶え絶えに頑張っているという印象だ。坂を上るあいだ、淡いけれど空気の動きは常にあり、肌の上を過ぎていくものが続く。路面は湿っていて、緑に茶色、濡れて崩れてどす黒いような褐色に、裏を晒した薄色のものなど、葉っぱがさまざまな姿を見せて散らかっていた。
  • 横断歩道の脇に緑色のカマキリの死体が転がっていた。駅の階段を上りながら見た空はすべてが雲であり、丘陵じみてなだらかな起伏を見せるその絨毯は、たしか昭和記念公園にあったと思うがゆるい山型にふかふか膨らんだ巨大な白いトランポリンの遊具を思わせないでもない。西にほんのすこし淀みの薄くなって白さがはっきりしている場所があったが、そういう切れ目はだいたいいつも北西方向に見える気がするところ、今日は普段より南に寄っている印象で、つまりこちらの位置からほぼ真左にあらわれていた。
  • なぜかわからないが今日はやたらと人がいてベンチが埋まっていたので仕方なくホームの先へ。乗車すると扉際に立って瞑目した。眠いような感じが多少ある。降りると通路をたどって改札を抜け、SUICAに五〇〇〇円をチャージしてからコンビニへ行った。ガムとサンドウィッチ(照り焼きチキン)を買って退去し、駅前を行きながら古井由吉が言うところの外圧と内圧みたいな話を考える。電車内では目を閉じていたわけだが、そうすると当然脳内言語がよく見えるようになり、その動きがまったく停止を知らず常に絶え間なく発生を続けるものであることが露わにわかる。みずからの頭がほぼ完全に言語に占領されていることが明らかになるのだけれど、それはやはりひとつの負担であり、拘束であり、圧迫なのであって、それがあるということに単純に疲れることもあるし、もっと強く辟易することもときにはないでもない。頭のなかで言語が絶えず発生して続々と継ぎ足されていき、止めようと思っても絶対に止めることができないという事態は実際かなり不気味なものであるというか、あまり直視しすぎると狂いかねないという警戒を覚えたとして道理だと思うし、恐怖を感じる人間がいても何も不思議なことではない。事実、こちらも頭がおかしくなった二〇一八年の初頭にはそうだったわけだし、そのときに調べて知ったがたしか倉田百三なんかも「雑念恐怖」という症状を抱えていたらしく(たしか彼の場合は、脳内で自動的な数字計算が展開し続けて止まらない、というような形ではなかったか)、こちらの症状もある程度まではそれに類するものだったと考えておそらく的外れではない(ただし、こちらのいわゆる「殺人妄想」のようにそれだけでは説明がつかない現象もあった)。そういった自分の内から寄せてくる圧力に対して、視覚情報というのは多少の緩衝材になるというか、目を開けていれば一応内言を直視せずに済むからわずかばかりは紛らすことができるなと思ったのだった。といって外は外でまたべつの圧力があり、とりわけやはり人間がそうで、わざわざ言葉を交わさなくとも人と人がいればそこにはすでに意味の(したがって力の)やりとりが発生するものなので、だからちょっと顔を合わせたりおなじ空間に位置したりすれ違ったりするだけで、それがまたひとつの、かすかではあっても負担というか圧迫にはなるのだ。そんなことを言ったらおよそどんな情報でも人間にとっては一種の圧迫になってしまうではないかと問うたとして、たぶんそれはまさしく正しいのだけれど、そのなかでもいわゆる「自然」のようなものよりも、やはり特に人間の圧力が強く、率直に言って鬱陶しく疲れるというのはどういうわけなのだろう。ともあれ外を見ればそれはそれで疲れるし、と言って内を見ればまたそれはそれで疲れるというわけで、結局これは存在するということそのものにつきまとう負担なのだなあとか考えながら職場に向かった。
  • 労働。今日は二コマ。一コマ目は(……)くん(中二・数学)と(……)さん(小四・国語)。本当は(……)くんもいたのだが、彼は頭痛がきつくて、学校は行ったのだけれど塾はお休みするという話だった。残念ではあるが、以前の彼を考えれば、頭痛を抱えながらも学校に行けたというだけでかなりの進歩なのではないか。(……)とは久しぶりの邂逅。父親は(……)だかどこかの出身らしく、その付属校に入れたいと前々から言われているのだが、このままでは普通に無理である。それなので塾の授業後に毎回自習の時間を取らせるという話が出ているのだけれど、訊いてみても乗り気でなさそうだったのでひとまず今日のところは帰らせた。本人は勉強が大嫌いというわけでもないと思うしそこそこできるとも思うのだが、と言ってやる気に満ちているわけでもなく、当人としてはべつに私立大学付属校に行きたいという気持ちはないだろう。しかしそれではどうしたいのかといってあまり明確な望みもなさそうで、けっこう長く当たっているのだけれど信頼関係があまり深くは作れていないというか、欲望や関心がいまいち見えないところがある。(……)
  • (……)さんは入会したばかりで正式には今日が初授業。中学受験にいくらか興味があり、受けるかどうかまだわからないがとりあえずそれ用の勉強を試してみたい、という感じらしい。そういうわけで「(……)」というテキストをはじめたが、理解力や読解力はなかなか悪くなさそうな感じだ。やりとりにとりたてて難もないし、このまま続けていけばけっこう力がつくのではないか。
  • 二コマ目は(……)さん(高三・英語)、(……)くん(高二・英語)、(……)くん(中二・英語)。(……)さんはいつもどおり。個々の文法がうんぬんということもむろんあるが、それよりも全体的・基本的な英文の感覚に馴染めていないような印象なので、語と語のつながり方をこまかく確認していったほうが良いかもしれない。(……)くんはなかなかよくできる人で、いま使っている「(……)」だと本人が物足りないかもしれないと(……)さんに言ったところ、次回は「(……)」を扱って、どちらが良いか当人に訊いてみてくれとのことだったので、そのようにコメントを記しておいた。(……)くんは普段は部活や学校で疲れて眠ってしまい、話にならないことが多いが、今日は文化祭の振替えで休みだったらしくエネルギーが確保されていてきちんと取り組めた。何度も口頭で質問して語彙など確認したので、それらはわりと頭に入ったのではないか。授業後、(……)さんが迎えに来た父親のところに行き、週一コマ・英語で継続させてくださいと直談判してきたと言う。反応は悪くなかったと言うので、たぶん続けてもらえることになるのではないか。(……)くんとは仲が良いので、こちらとしてもそうなってくれればありがたいところだ。
  • なぜかわからんのだが今日も退勤は一〇時過ぎになった。九時半を逃せば次の電車が一〇時以降で結局待たなければならないのでべつに良いのだが、待つにしてもはやく行けばそのぶん本を読んだりメモを取ったりもできるわけである。基本的に急ぎたくない性分なのでたらたらやっているということはあるかもしれないが、それにしたって何にそんなに時間がかかっているのかよくわからない。というか、ほかの人たち、仕事はやくない? そんなにすぐ終わる? という感じなのだけれど。やはり授業中にもうコメントを書いたりもろもろ済ませたりしているのだろうか。
  • 退勤して発車間際の電車に乗り、扉際で待って降車。雨が降っており傘を持っていなかったが、そこまで厚い降りではなかったので急がず濡れながら帰った。帰宅後のことはあまり覚えていないが、一一時四〇分くらいまで休んでから食事に行ったようだ。自分ひとりしかいない居間で静かに落ち着いて食事を取れたはずである。黒沢清ヴェネツィア映画祭だかなんだかで銀獅子賞とかいうものを取ったという報があったと思う。食後はすぐには風呂に入らず、帰室して茶を一服してから入浴に行ったはずだが、そんなことはどちらでも良い。
  • 書抜き、石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、194: 「自然なものとは、物質の「自然」の属性とはまったくちがう。それを口実にして、社会的多数派が身を飾りたてるものである。自然なものとは、ひとつの合法性である。それゆえ、その自然なものの下にある掟を、すなわちブレヒトの言葉によると「規則の下にある悪弊」を明らかにする批評が必要になってくる」。
  • Mさんのブログ、二〇二〇年五月九日。「分裂病親和性を、木村敏人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である。別に私はかつて「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な事態を代表象するのが「統合指向性」である)」(中井久夫『新版 分裂病と人類』より「分裂病と人類」p.8)。
  • のち、この日の日記を少々書いてから音楽。FISHMANS『Oh! Mountain』から"夜の想い"と"頼りない天使"を聞く。前者は、「動き出してるこの空/走り出した白い犬」というところがやはり好き。後者は面白い。聞いているうちにドラムがキックを四拍すべて打ち出したのに気づいたのだが、四分を強調したその刻みがほかの楽器よりもわずかにはやいように聞こえ、一方でベースはそれよりもいくぶんもったりと、シャッフルなのかストレートなのか、どちらともいえない微妙な八分音符を奏で続ける。シャッフルとストレートのちょうど中間にあるという感じでもおそらくなく、加えてたぶん箇所によってわずかに揺らいでもいると思うのだけれど、この曖昧なビート感はちょっとすごい気がする。その上にさらにギターとキーボードが乗るのだが、この二者はリズム的にはほぼ一体化していたような印象で、しかもここでもまたリズム隊とのあいだにかすかに間があるようで、どちらかといえば歌のほうに寄っていたのではないか。したがって、ドラム・ベース・ギターおよびキーボードという三方向の楽器たちが互いに微妙にずれ合い、微小な隙間を挟みながら関係しているのだけれど、その繊細なずれが合わさって全体としてはうまく高度に調和しているみたいな、あまりよく意味がわからない事態が起こっているように思われた。そういう特殊なリズム感覚がこの演奏にはあるのではないか。
  • 二曲を聞くとベッドに移り、ジョナサン・カラー/富山太佳夫・折島正司訳『ディコンストラクション Ⅰ』(岩波現代選書、一九八五年)を読みだしたのだが、すぐに眠気に捕まえられてやむなく就寝。やはり就寝の一時間か二時間前にはもう寝床に移らなくては駄目だ。とりあえず三時半くらいにはベッドに還って書見をするよう目指したい。


・読み書き
 13:49 - 14:48 = 59分(2020/9/13, Sun. / 2020/9/14, Mon.)
 26:32 - 27:03 = 31分(バルト/新聞)
 27:17 - 27:56 = 39分(ブログ)
 28:27 - 28:48 = 21分(2020/9/14, Mon.)
 29:01 - 29:25 = 24分(カラー: 195 - 208)
 計: 2時間54分

・音楽
 28:48 - 29:00 = 12分

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • FISHMANS『ORANGE』
  • FISHMANS, "夜の想い"、"頼りない天使"(『Oh! Mountain』: #4, #11)