2020/10/16, Fri.

 公務員としてのトロロープのエネルギーと想像力は、英国およびその属領全体に亘って、場所から場所へ、あるいは人から人へ、極めて迅速で効率よく情報を伝達するという計画にとらわれていた。彼は柱型のポストの発案者であった。そして小説の創作活動に入ると、効率のよい情報伝達のイメージは、虚構の人物と彼らにまつわるストーリーを世間に行き渡らせることへと変わった――実際の社会から小説家を経て、印刷され、出版され、代金を支払われ、読まれる小説として、また社会へと戻るのである。
 トロロープにとって、小説の創作活動の本質は(小説の創作活動とは、支配的な社会的諸価値の自由な流通に、上記の形で参加することと定義づけられる)、プロットを作り出すことではなく、登場人物を作り出すことである。小説における登場人物は、「皆の知っている性格の諸特徴を孕んだ、虚構の人物である。私の考えでは、プロットというのは、こうした人物を創り出すための手段に過ぎない」(Anthony Trollope, An Autobiography, World's Classics ed. (London: Oxford University Press, 1961), 109)。小説中の登場人物は、すでに読者の知っている性格の諸要素を再編成したものである。こうした登場人物は、言うならば、読者に仕返しをする[自分自身の貨幣で返済する]。また、トロロープに倣って妊娠のイメージを使って言うならば、その小説を読む人々の性格的特徴との血縁的似寄りを持っている子供である。貨幣を鋳造することは、元からあったパターンを受け継いでいく点で受胎のようなものである。そしてこのメタファーを続けて使って言えば、小説のなかに創り出された登場人物は、その社会の中で通用する章と銘(例えば、女王の顔やガーター紋の銘文が挙げられる)のある新しい貨幣のようなものである。こうした新しい貨幣は流通し、その社会の中で、それと分かる価値を持つことになるだろう。そして、新しい貨幣は、その中で流通し、異質、評価不能、同化不能のものではなく、その中でそれと認識できる価値評価可能のものとなった社会の価値体系と同質のものとなる。こうした貨幣は、それが例示する正当性と価値の基準を是と認め、またそれによって是と認められるのだ。一八六三年の一月の『ナショナル・レヴュー』に載ったあるエッセイは、実際このような商業のメタファーを使って、英国社会において、トロロープの小説に出てくる登場人物がいかなる役割を果しているのかについて述べている。「その登場人物は公共の財産だ」とこの『ナショナル・レヴュー』は述べ、結果としてトロロープは「国家の一機関と言ってよい。……彼の人気は絶大で、主な登場人物は同国人になじみ深いものであり、彼の物語に寄せる関心は広く行き渡っている。それ故必然的に、彼の物語は、毎日の社会の商業活動の基である一般の手持ち商品の一つになっている」と言っている。この定言的表現は、トロロープの目的が達成されたことを証明している。その社会の諸価値を肯定し維持しながら、小説のなかの登場人物を、社会的コミュニケーションの媒体とするという目的である。
 (J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、118~119)



  • 午前中に二度ほど覚めたようだ。最終的には一時二五分に意識が固まったので、いつもどおりである。久しぶりで多少晴れて、陽射しの色も淡く見られる。枕をどかし、ベッドに直接後頭部をつけ、頭を左右にごろごろ倒して首をほぐしてから起床。(……)からメールが来ていた。slackにて(……)が一二月一四日の計画案を話しているので返信がほしいとのこと。コンピューターを点けておいて上階へ。
  • 母親は仕事。父親は家の外、こちらの部屋が面した南側にいるのが寝床の時点から感知されていた。米はない。冷蔵庫に天麩羅の余りがあったのでそれとカップ麺で済ませることに。

 午前中に二度くらい覚めたような記憶がある。最終的には一時二五分に意識が定かに。いつもどおり。久しぶりにいくらか晴れて、陽射しの色も薄く見られる。枕をどかし、ベッドに直接後頭部をつけて、頭を左右にごろごろやって首をほぐしてから起床。(……)からメールが来ていた。slackで(……)が一二月一四日の計画をしているので返信がほしいと。コンピューターを点けておくと上階へ。
 母親は仕事。父親は外にいるのがベッドにいるときから感知されていた。米はない。冷蔵庫に天麩羅の余りがあったので、それとカップ麺で済ませることに。洗面所で髪を整える。やはり焦りがある。起床をはやめなければどうしたって余裕が生まれるわけはない。そのためには当然消灯と就寝をはやめなければならない。昨日は目標の五時二〇分をちょっと過ぎてしまったので(それでも前日よりもはやくなっているので悪くはない)、今日は五時二〇分か一五分あたりの消灯を目指す。日記もいまは記録・記述の二段構えになっており、そのうちしかし記録のほうすら満足にできていない現状で、このままではどうにもならないことはわかってはいる。また一筆書き方式に移行するか。本当はそれが一番良いのだろうが、どうもそうする気になれない。日記の営みの一番の目的というのは、やはり生およびこちらが触れた範囲での世界のなるべくすべてを記録するということなので、記述は二の次といえば二の次ではある。つまり、第一段階としてさしあたりは記録さえ取れて残しておければ問題ないのであり、そこから先の記述段階は、ブログに載せて人目に触れさせたり、あるいはいずれ読む人がいるかもしれないということを考えると、文章を整えておきたいというだけのことにすぎない。あるいは、こちら自身の、単なる歴史的資料としてだけではなく、文としても読むに値するものにしたいという、一種の作品形成欲みたいなものにすぎない。だからとにかく記録に落とし込めていれば、ブログに発表できなくとも最悪問題はなく、極端な話、今日の記事を一年後に記述したってべつに良いとは言える。とはいえ一方で、やはりできればリアルタイムに近い形でブログに日々の記録を発表していきたいという気持ちもある。そうするにはやはり一筆書きに移らなければならないだろう。
 新聞を読みながら食事。居間の南窓は網戸になっており、空気が通ってかなり涼しい。清涼そのもの。爽やかな感触。新聞を読みつつ食事。キルギスで大統領が辞任表明。タイでは首都のデモで非常事態宣言に基づいた緊急措置。軍の動員も可能に。主導者二〇人ほどが逮捕。タイでも民主化を目指す活動家が夜道で襲われるみたいな事件が以前からいくつも起きているようで(New York Timesに以前そういう報告があった)、やばい感じ。
 洗濯物を取り込み、タオルをたたむ。食器と風呂を洗うと帰室。今日が(……)さんの誕生日だったらしい。LINEをひらくと皆が祝っていたのでこちらもおめでとうと言っておく。slackのほうにも二、三、投稿し、一二月一四日の件は忙しいので明日以降と言っておいた。それから緑茶を用意してきて、FISHMANS『Oh! Mountain』を流しつつここまでメモ。五時には出るので猶予は少ない。運動と音読は必ずこなす。



 (……)さんのブログ。2020-07-13。
 「土曜日の夜だったか、寝るまでの時間、窓を開けたら風が入ってきて、レースのカーテンが大きく持ち上がり丸く膨らんで、すぐに吸い込まれて網戸にぴったりとへばりついた。部屋を風が、波のように行き来しているのだった。」


  • 2020/7/5, Sun.をようやく仕上げることができたのが一時半前。投稿する際に、すこし前からブログのタイトルを変えようと思っていたのだけれど、それをここでついに実行して、何のひねりもないそっけなさでただ「日記」の一語にした。ほかに何かないだろうかと一応ちょっと考えてはいたのだが特に何も思いつかないし、どういうワードにしても余計な気取りがつきまとうのでこの率直さが結局は一番良いだろう(あまりに工夫のないこのストレートさは、それはそれである種の気取りをはらんでいるように感じないでもないが)。
  • 七月五日分を仕上げたところでいったんヘッドフォンを外したのだけれど、父親はまだ階上にいるようだったので、もうすこし、二時くらいまでは日記を進めてみるかというわけでさらに2020/7/6, Mon.に取り組んだ。かたわら聞くのはJesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』。しかし空腹状態が長く続いて血糖値が下がってきたのかからだも頼りないような感じだし、なかなか鷹揚にかまえて集中できるものでもない。二時過ぎにヘッドフォンを外すとようやく居間が無人になったらしく判断されたのでやっと飯を食いに行くことができた。一〇時半ごろに帰宅して、食事を取るまでに空っぽの胃をかかえたまま三時間半も待たなければならなかったわけだ。昼間にものを摂取したのが二時頃だったので、そこから数えるとちょうど半日空いたことになる。

RullerとBrinkの"Love for Sale"すばらしい。
屈伸。脚の裏を伸ばす。


  • 風呂のなかで思ったのだが、というかそれ以前に七月の文を書いているあいだにすでにそういう心持ちになっていたのだが、(……)さんのスタンスを真似して「報告」のような感じで日記を書くのは良いかもしれない。いまはどうなのか知らないが(……)さんは以前、日記は(……)さんと深夜に喫茶店でだべって近況や日常のよしなしごとを「報告」しているのと感覚がほとんど変わらないと言っていたはずだ。その姿勢を学ぶべきではないか。文を作ると考えるからきちんと形を整えたいなどという欲求が湧いて足が重くなり、どうも一発では書きづらいなと思うわけで、誰か(その誰かとは現実の知り合いでも良いし、現在または未来にこちらの文章を読む実在の人間でも良いが、まとめて言って〈他者〉、すなわち(純粋に仮構的な)観念としての〈読者〉ということになるだろう。その〈読者〉とはまた、〈(いまではない)いつかの自分自身〉でもある)に向かって自分の生をひたすら喋っているだけだと捉えればもっと書きやすくなるのではないか。もちろんそこでもリズム、あるいは音調を整えるという志向(思考)は働くけれど、それは成型的基準から見た(書かれた)文としてのリズムというより、「報告」としての、すなわち語りとしてのリズムということになる。というわけでいま実際にそういう心構えで文を綴っているのだが、これなら記録→記述の二段構えを取らずとも書けるような気がする。
  • つまり、磯崎憲一郎『肝心の子供』に出てくるビンビサーラのあり方だ。「ビンビサーラは物心ついたときから以降もうまもなく臨終を迎えるいまに至るまで、途轍もなく長い、ひとつながりの文章をしゃべり続けている。途中には話題の転換や逸脱、休憩が入ることはもちろんあるにしても、彼がいま語っている事柄は常に、なんらかの形でそれ以前の話を踏まえたものにならざるを得ないのだから、それは長い長い一本の文章を語っているのと同じことではないか。だが、そこでラーフラは思い直した。これは人生の時間が途切れなく続いていることのたんなる言い換えに過ぎない」(磯崎憲一郎『肝心の子供』河出書房新社、二〇〇七年、79~80)。ただひたすらに、自分が見、聞き、感覚し、思考し、行為したことを、誰かに向かってくまなく報告し続ける自動機械としての存在性。

 風呂ではひたすら頭蓋や顔を揉む。



 四時二〇分。背をほぐす。"Love For Sale"。すばらしい。何度でも聞く価値がある。明日slackに知らせておこう。