2020/10/18, Sun.

 (……)自分は内なる光を持っており、自己の中の自己、魂のなかのいまだ小さい神の声という伝統的な意味での良心に基づいて行動していると言う人がいたとしても、そうした基盤を実際に持っているかも知れないし、持っていないかも知れない。それを知るのは不可能なのだ。しかしカントが的確に論じているように、真の倫理的決断はすべて、絶対的要請に対するこのような反応に基づかなければならない。(……)
 (J・ヒリス・ミラー/伊藤誓・大島由紀夫訳『読むことの倫理』法政大学出版局(叢書・ウニベルシタス)、二〇〇〇年、134)



  • ひどく久しぶりのことで一〇時過ぎに確かな覚醒を与えられた。二度寝に取りこまれることもなく意識が保たれて、良い感じだ。窓の外にはこれも久しぶりで太陽が光っており、その明るさと熱(当然ながら夏の頃ほど肌にじりじり迫る感じはない)を浴びながら脹脛をほぐした。あいだ、短歌もなんとなく考える。「明け方は唯一ひとがみずからの傲りを知って懺悔するとき」、「「東京の街はいつでも嘘つきであなたに似てるだから好きなの」」、「祈りとは思考にあらず行為なりたとえば夜通し歩くみたいな」という三つが一応形成された。部分的にはほかにもいくつか。
  • 起き上がったときには一一時を回っていたと思う。コンピューターを点けておいて階上へ。寝間着を脱ぎ、ジャージに着替えるが、なぜか上着が見当たらない。しかし上半身を肌着のみで過ごしていると寒いくらいの陽気なので、べつのジャージの上着をとりあえず借りておいた。食事はタコ飯と豚汁。新聞には珍しく、書き抜こうと思うほどの記事はなかった。書評欄の冒頭には落合陽一の小文がある。Woolf会なんかでは落合陽一はわりと馬鹿にされている感じで、知的ぶったポーズだけであまり内容のあることは言っていないという評価が支配的で、そのとき貼られた動画を見る限りこちらもわりと似たような印象を得ないでもなかったが、東大の博士課程も通過しているわけだしなんだかんだ言っても普通に優秀な人ではあるのだろう。単なるスノッブなのか優れた思考者なのかも、彼の著作をきちんと読んでみなければ確かな判断は下せない。業界の第一線で活躍している人間は誰も、活躍しているからには実力はそなえており努力もしているものだろうと思うし、仮にその第一線自体がそもそも軽薄なものだったとしても、ある人物がそこで活躍しているという事実が持つ意味や、それによって学べることもまたあるだろう。そういうわけであまり分け隔てなく色々読んで参考にしていきたいとは思うのだが、一方でやはり性分として当節の趨勢みたいなものにあまり興味が湧かないことも確かだ。ショーペンハウアーなんかは、今現在書店に溢れている新しい書物などは間違いなくほぼすべてがゴミクズで、そんなものよりも時代を越えて伝わってきた偉大な古典をとにかく読めみたいなことを言っていて、それも無論わかるのだけれど、でもやはり現在のものも本当は読んでいかなければならないのでは? いまこの同時代に頑張っている人を見つけていかなければならないのでは? という気もする。まあ結局はときどきの興味に従うほかはないのだけれど、落合陽一に関して言えばいまのところ興味が向いているのは、清水高志および上妻世海との共著(たしか鼎談本だったか?)である『脱近代宣言』がせいぜいのところだ。
  • 書評記事では、中条省平の本や青山二郎の伝記などが紹介されていた。食後、皿を洗って風呂も洗い、緑茶を持って帰室。iTunesの最新版をダウンロードしたら再起動が必要だと出たのでシラー『群盗』を読みながら待ち、準備が整うとFISHMANS『Oh! Mountain』を流して昨日のことを記述。仕上げて投稿。今日のことも綴って二時前。
  • (……)六時を過ぎたあたりで切りとして上階へ。母親のいる台所に入り、ピーマンを細切りにしてひき肉と炒めることに。濃密な緑色の野菜を分割しているとインターフォンが鳴り、母親が玄関に出ていってよそ行きの声で礼を言っている。決して気を遣わないでね、とも添えていた。もどってきたところに訊けば、下のDちゃんかと思ったのがSくんだったと言う。今日、向かいの家に集まってバーベキューめいたことをやっていたらしく、騒がしくしたのでということで何か持ってきたようだ。それからタマネギもすこしだけ加えて炒め物を作る。レバーを左いっぱいにあけ、強火で炙りながらフライパンを振り、味つけは砂糖・醤油・味醂とした。できるともう食事を取ることにして、タコ飯と炒め物と生サラダを支度。母親はスンドゥブを作るようだったが、それを待たずに早々と卓に就いて箸を取った。マグロの刺し身も少量用意してもらっていただく。済ませて片づけると茶を注いで下階へ。
  • 音読。「英語」も「記憶」もともに。やはりなぜか、基本的に日本語の文章が収録されている「記憶」のほうはあまりたくさん読む気にならない。英文のほうがやはり声に出し、舌と唇を動かすにあたっては面白いのだろうか。一時間以上読んだのち、書抜き。図書館で借りている本を優先するべきだろうということでシラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年)から一箇所抜き、ロラン・バルトの本が終わったのでもとの流れにもどって巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)も写した。書抜きはとにかく一日に一箇所だけでも良いのでやっていかないと永遠に終わらない。書抜きだけでなくて日記も、その他の諸事もそうなのだが。
  • 九時を過ぎて入浴へ。湯のなかでは相変わらず指圧。今日は珍しく足裏(とりわけ縁のあたり)も揉んだ。ボールを踏んでいてもやはり細部や側面に近いほうなどは硬さが残っている。入浴は大方指圧の時間にするのが良さそうだ。上がるとさっさと帰室(……)。そういうわけで三時まで継続的にだらだら過ごした。合間、全然うまくない安物のカップタン麺やスンドゥブを持ってきて食った。怠けているあいだはだいたい脹脛を中心にして脚を揉んでいた。さほど強く正確に刺激せず、揉むというよりは肉を揺らすような感じで適当に触っているだけでもだいぶ良い感じになる。骨との接合部を簡単に和らげられるのも良い。膝頭を使った臥位でのマッサージでは、当然届かないのだ。
  • その後、The Seatbelts『COWBOY BEBOP Original Soundtrack』(https://music.amazon.co.jp/albums/B01MZ8UQ39)を流して新聞記事を移し、そしてここまで記述。『COWBOY BEBOP』の音楽は菅野よう子の仕事で、冒頭の"Tank!"がたぶん一番有名なのだと思う。#3 "SPOKEY DOKEY"のブルースハープなども大したもので格好良い。たしか同曲だったと思うが、スライドで奏でられるアコギのバッキングの一部が、Led Zeppelinの"In My Time Of Dying"を想起させるものだった。と思っていま聞き比べてみたのだけれど、初聴で得た印象ほどに似ていない。それは措くとして、このサウンドトラックでは何曲かでブルージーなスライドギターが披露されていてどれも良い感じなのだが、こういう演奏を聞くにつけ、本当にアコギでブルースをやりたいのだったらスライドができないとやはり駄目なのだろうなと思う。どの程度卓越した演奏ができるかは措いても、とりあえずボトルネックが扱えなければ、つまりスライドもきちんとできないのにブルースをやるなどと言っていてはまるで話にならないのだと思う。ゆくゆくは習得しなければならない。
  • 四時半。五時一二分以前に消灯する予定だったので、もうコンピューターを閉ざして書見へ。シャットダウン前、最後にGuardianにアクセスしてフランスの教師殺害事件関連の記事をメモしておいた。ベッド縁に座ってシラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年)を少々読む。
  • 36: 「それとも、志願して兵隊になるか――だが、そいつは問題だぞ、きさまらの面だましいを、第一向うで信用するかな――」: 「面だましい」: 「面魂: 強い精神・気迫の現れている顔つき」。
  • 37: 「みんなでどこかへ腰を据えて、そら、あのポケット本とか年鑑とかいうやつな、ああいうものを拵えるのだ、それから小遣かせぎには、ちか頃流行の批評でも書いたらどうかってな」: 「ちか頃流行の批評」: 『群盗』は一七八一年の作。その頃、「批評」が「流行」しはじめていたのか。(おそらくは「近代的」な意味での)「批評」のはじまりや、その発展史は重要そうだ。それこそ、ひとつの「起源」的な画期は一九世紀あたりかと思っていたのだが(サント=ブーヴが「近代的」な意味での「批評」を確立したというのがたぶん教科書的な理解だと思う)。古代ギリシア・ローマの価値をめぐる「新旧論争」とかいうものがルネサンスあたりにあったらしく、たしか新派側としてシャルル・ペローなんかがいたと聞いているが、「批評」の前身としてはそのあたりになるのか? 「批評」的な営み自体はもちろんそれ以前からずっと行われてきたはずだが。そういえば、杉捷夫にフランスの文学史だったか批評史みたいな大きめの本があって、一時期水中書店で見かけながらもずっと買わずにいたのだった(たぶん、『フランス文芸批評史 上巻』というやつだったのではないか)。参考書としてはあのあたりが良いのかもしれない(もっとも、『群盗』はドイツを舞台にしているわけだが)。
  • 47: フランツ、アマリアに対して: 「(彼女の胸をたたきながら)ここに、ここに、カアルがいるのですね、寺院に鎮まる神のように。現にも、あなたのまえに立つものは、カアルだ、夢にも、あなたを支配するものは、カアルだ、宇宙万物は、あなたのまえに融け合って、ただ一人の男の姿となり、ただ一人の男の影を映し、ただ一人の男の声となって響くのですね」: アマリアにとって: カアル=「神」。「宇宙万物」=「融け合って」、「ただ一人の男」に。〈融解〉のテーマ。
  • 56: フランツ: 「毒薬の調合法などというものも、今じゃ、おおっぴらに、科学の領域にはいってきたし、実験がものを言って、自然もとうとう限界を見破られちまった、心臓の鼓動の数なども何年も前から計算ができて、人は脈搏にむかって、こう呼びかけるのだ、ここまでは打て、そのさきは止まれ!」: 「科学」、「実験」、「自然」の「限界」などの文言。「科学」の営みが一般的なものになってきていることが見て取れる。「脈搏」に「打て」「止まれ」を「呼びかけ」てそれをコントロールできる、などという発想は、「西欧近代」なる世界について典型的に言われる思潮(「科学」技術の進展によって人間は「自然」を操作的に利用することができるようになった)の具体例だろう。ほとんど熱狂的な「自由」の称揚などを見ても、この小説にはいかにも「近代」という感じの発想が諸所散りばめられていて、やはりフランス革命と同時代の作品なのだなあという感は覚える。ただ一方で、「法」に関してはどちらかと言えば否定的なものとして扱われがちな気がするが、そのあたりたぶんルソーとの類同性があるのではないか。
  • 五時九分まで読んで消灯。すぐには布団をかぶらず、しばらく膝頭で脹脛をほぐす。眠気というよりは、なぜか頭が痺れるような、意識内に発生するノイズめいた感覚が襲ってきた。それで布団にくるまったあとはすぐに寝ついたはず。


・読み書き
 12:49 - 13:07 = 18分(2020/10/17, Sat.)
 13:16 - 13:52 = 36分(2020/10/18, Sun.)
 19:09 - 20:22 = 1時間13分(英語 / 記憶)
 20:39 - 21:11 = 32分(シラー / 巽)
 27:03 - 27:35 = 32分(新聞)
 27:36 - 28:32 = 56分(2020/10/18, Sun. / 2020/10/16, Fri.)
 28:35 - 29:09 = 34分(シラー: 34 - 57)
 計: 4時間41分

  • 2020/10/17, Sat.(記述・完成) / 2020/10/18, Sun.(記述)
  • 「英語」: 112 - 144
  • 「記憶」: 158 - 161
  • シラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年): 書抜き: 22 - 23 / 34 - 57
  • 巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年): 書抜き: 142, 146
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月3日(金曜日)朝刊: 2面 / 4面
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月4日(土曜日)朝刊: 2面

・音楽