2020/10/29, Thu.

 この誘惑と去勢の物語に関して興味深いのは、それがバルト自身の批評的な価値評価システムに図らずも反映されていることである。というのも、「原テクストは、自然な分割を何ら考慮されることなく絶えず破壊され、中断されるだろう」と予告する時、バルトは、自身が「総体性というイデオロギー」と呼ぶものに対し、去勢のようなものを暗黙裡に特権視してはいないだろうか。「テクストが一つの形式に従うとしても」と、彼は書いている。「その形式は統一的……、最終的なものではない。それは断片、切れ端、断ち切られたり搔き消されたりしたネットワークである」(Roland Barthes, S / Z (Paris: Seuil, 1970), p. 27/ロラン・バルト『S/Z――バルザック『サラジーヌ』の構造分析』沢崎浩平訳、みすず書房、一九七三年、二四頁)。ありていに言うなら、理想的な女性対去勢歌手というバルザックの対比は、読みうるもの対書きうるものというバルトのそれと、隠喩的に同一化可能なものとして読めるのではないだろうか。読みうるものと同じく、サラジーヌが抱く惑わされたラ・ザンビネッラ像は、完璧な統一性や全体性を賛美するものにほかならない。

彼はこの瞬間、理想美に見とれていました。彼はそれまで、自然におけるこの理想美の完璧さをあちこちに探し求め、概して見栄えのしないモデルには完成された脚の丸みを、他のモデルには胸の線を、かのモデルには白い肩を求め、挙げ句の果てには、ある少女からは頸を、この婦人からは手を、あの子供からはつるつるの膝を寄せ集めましたが、パリの寒空の下では、古代ギリシアの豊かで心地よい創造物には一度も巡り会えませんでした。ラ・ザンビネッラは、彼があれほど熱烈に欲し求めた女性モデルのえも言われぬ均整を一身に集め[﹅5]、生き生きと繊細に、彼に示していたのです。(p. 243/二七六頁、強調はジョンソン)

しかし、書きうるテクストと同様、実際のラ・ザンビネッラは断片的かつ不自然であり、性的にも決定不可能な存在である。ソプラノ歌手が読みうるものと同じく「貪られる」生産物であるなら(「サラジーヌは、彼のために台座から降りてきたピュグマリオンを貪るように見つめていました」[p. 243/二七六頁])、去勢は書きうるものと同様、生産のプロセスであり、活発で暴力的な非決定なのである。ソプラノ歌手の登場は、まさに「女性」のシニフィエ[﹅5]としての本質を具現化していると思われる(「それは女性そのものでした……」[p. 252/二八七頁])。他方、去勢歌手の実態は、書きうるテクストと同様、究極的なシニフィエをもたない、つまり、テクストが「心」と呼ぶものを奪われた、単なるシニフィアンの戯れにすぎない。「私には心がないの」とラ・ザンビネッラは言う。「あなたが私をご覧になったあの舞台が……私の生活なのよ。他に生活はないわ」(p. 252/二八六頁)。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、11~12; 「1 批評的差異 バルト/バルザック」)



  • 一時半ごろの起床。それ以前、たぶん一一時台に一度覚めたときには快晴だった記憶があるが、このときは多少陽の色合いが弱まっていたような気がする。上階へ行き、母親に挨拶してジャージに着替え、洗面所でうがい。今日は勤務がなく(この日から四日間、日曜日までずっと休みである)、出かける予定もないので髪は整えず、冴えないままに放置しておく。食事は野菜の炒め物と米。新聞には気になる記事はすくなかったと思う。二面に米ペンシルベニア州フィラデルフィアで黒人男性が警官に射殺された事件の報が出ていたので、それをいつか写すことにして赤ボールペンでくくっておいた。本当は前日の夕刊にすでに出ていたおなじ内容の記事をチェックしておいたのだが、昨日の新聞をこちらが切っておかないうちに始末されてしまったようだったので。
  • 食後、皿を洗ったり風呂を洗ったりして緑茶とともに帰室。(……)それから六時前まではインターネットに遊んで時間を消費する。とはいえ、ボールを踏んだりベッドで脹脛をほぐしたりはしているので、半分はからだの感覚や筋肉の状態を調整する時間でもある。
  • 上階に行くとアイロン掛け。母親は台所で鍋を作り、父親は入浴中だった。自分のシャツ二枚に水を吹きかけながらアイロンを当てて、ゆっくりと布地を伸ばしていく。PENDLETONの茶色のシャツはまだまだ大丈夫だが、United Arrows green label relaxingで買った紺一色のリネンシャツはさすがにもう色が弱くなっており、真っ青な平面のところどころに微小ながら乱れが感じられる。シャツも良い品がまた何かほしいものだ。と思っていると、(……)のことを思い出した。ずいぶん昔にインターネット上で知り合い、たまにSkypeで話したり実際に顔を合わせたりしていた人で、服飾学校の出身で何年か前は革製品とか衣服を作っていたので、彼に一着、何かオーダーメイドを拵えてもらうのも良いかもしれないと考えたのだ。ただ、もう何年も会っていないし、いまだに服作りをしているのかどうかもわからない。夕食を取って部屋に帰ったあと、ひとまずメールを送ってみたのだが、たぶんつながらずに自動通知が即座に返ってくるだろうと予想していたところが着信が発生せず、意外にもとりあえず届くだけは届いたらしい。
  • 夕食は鍋とか昨日の素麺の余りとか。夕刊の音楽面に目を落とす。WANDSが新アルバムをリリースというニュース。べつにWANDSDEENもどうでも良いのだが、何年も前の塾の生徒がWANDSのボーカルだった上杉なんとかいう人のファンで、けっこう暗い感じのこともやっているみたいなことを言っていたのを思い出す。その生徒はもはや名前も覚えていないけれど、髪をいくらか立てて眼鏡をかけた男子で、最初のうちはやる気がなく、強く反抗するわけでもないが作業に手をつけないことが多かったところ、何かの拍子にGuns 'N' Rosesの話になり(『Chinese Democracy』に触れたような気がする)、こちらがGuns 'N' Rosesを知っていることが判明して多少馴染んだのだった。たぶん意外と映っていただろう。外見にしても雰囲気にしても、ハードロックなどを聞きそうな人間に思われないことは自覚している。そういえば夕刊の音楽ニュースではDeep Purpleの新作も取り上げられており、なんでもこれが最後の作品になるらしい。Don AireyやSteve Morseはともかくとしても、Ian Gillan、Roger Glover、Ian Paiceの三人はよくここまで頑張って続けたと思う(特にボーカルとドラムの二人は)。
  • 部屋に帰ると七時前。FISHMANS『Oh! Mountain』を流したはず。日記にメモしてあるYouTubeの音源やインターネット記事をいくつか正式に記録用ノートに移しておき、それから書抜き。プリーモ・レーヴィの『周期律』と新聞。
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)を書抜き。一番最初の一段落がさっそく書抜き対象として記録されていたのでそこを写したのだが、そのなかに、「やっと一九六二年になって、ある熱心な化学者が、長い間、様々な工夫をこらして、「よそもの」(クセノン)を、非常に活発で貪欲なフッ素と結合させることに成功した。この企てはとても素晴らしく思えたので、この化学者にはノーベル賞が授けられた」とある。ノーベル賞を与えられたこの化学者というのはなんという人なんだろうと思って検索したところ、しかしどうも化合に成功したこの学者にはノーベル賞は授けられていないようである。Neil Bartlettというのがその人の名で、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に務めているときに、生徒だったDerek Lohmann(D. H. Lohmann)とともに世界で最初の貴ガス化合物(ヘキサフルオロ白金酸キセノン (XePtF6))を生成することに成功したらしいのだが、その後ノーベル賞を受賞したらしき情報はない。キセノン(Xenon)を発見したウィリアム・ラムゼー(William Ramsay)というスコットランド出身の化学者が一九〇四年に貴ガスの発見で化学賞をもらっているので、それと混同した記述かもしれない。
  • 上の件を検索して余計な時間を使ってしまい、『周期律』は二箇所しか写せず、新聞の書抜きを切りとしたところで一時間が経って八時二〇分に至っていた。そして音読。「英語」を読んでいく。このときには音楽はすでに中村佳穂『AINOU』に移っていたはずだ。たしか書抜きのあいだに移行したはず。久しぶりに流してみてもやはり、#3 "きっとね!"はとても良いし、#5 "永い言い訳"のビブラートはすごいし、#10 "忘れっぽい天使"は最高である。
  • 九時まで音読して入浴へ。洗面所でプランクをちょっとやり、浴室に入ると屈伸を繰り返して脚の筋を伸ばした。湯のなかでは手の指を反らせる方向に引っ張って柔らかくする。上がると保湿液およびユースキンを両手に塗っておいて帰り、Richie Kotzen『Bi-Polar Blues』を流していくらか調身。風呂のなかでなぜかこのアルバムの"Tobacco Road"を思い出していたのだ。この曲はいずれ、Kotzenのバージョンに添って弾き語れるようになりたいと思う。というかとにかくブルースをアコギ一本できちんと歌ったり演じたりできるようになりたい。二〇分ほど開脚や合蹠などしてからデスクに就き、To The Lighthouseを読んだときにわからなかった単語を含んだ一節を「英語」ノートにいくらか写しておいてから、新聞をふたたびちょっと書き抜いたあと、ようやく今日の日記。ここまで綴ればもう零時になってしまった。
  • (……)中村佳穂のあとにYes『Fragile』を流しており、それでなんとなくYesの作品を追ってみるかという気になって、ファーストアルバムの『Yes』(https://music.amazon.co.jp/albums/B084QHVJYJ)を再生してみた。いかにも六〇年代後半といった感じの雰囲気。しかしけっこう悪くない。#3 "Yesterday and Today"など、わかりやすいけれど佳曲なのではないか。The Beatlesのカバーである"Every Little Thing"もよくできているように思った。#2 "I See You"というのはThe Byrdsのカバーらしいのだが、ここではジャズの作法の色が強い。とりわけギターはそうで(このときはまだSteve HoweではなくてPeter Banksという人)、ただ当然ながら、語法にしてもトーンにしてもこれは六〇年代以降のものだと思う。
  • あと夕食時、テレビのニュース番組で知的障害者の親の苦悩みたいなテーマが取り上げられているのをちょっと目にした。自分が死んだあとに、たとえば強度行動障害などを持った我が子がどうやって生きていけるのだろうかという不安や心配のことで、そうした心情を持つのは道理だろう。ひとつにはかなり丁寧で手厚い訪問介護のサービスが紹介されていたが、このとき挙がっていた例ではひとりに対して一六人だかが三交代制で二四時間カバーしているらしい。業界的にはヘルパー不足が問題で先行きは見えないように語られていたが、ひとりにそれだけの人数を当てるとなるとどうしたって人員は足りなくなるだろう。
  • この日のことはほかにメモも取られていないのでここまで。


・読み書き
 19:19 - 20:20 = 1時間1分(レーヴィ / 新聞)
 20:32 - 21:00 = 28分(英語)
 22:18 - 22:46 = 28分(Woolf)
 22:47 - 22:57 = 10分(新聞)
 22:57 - 24:15 = 1時間18分(2020/10/29, Thu.)
 24:15 - 26:17 = 2時間2分(2020/10/21, Wed.)
 26:20 - 26:42 = 22分(シラー: 116 - 122)
 計: 5時間49分

  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年): 書抜き: 8 - 11
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月5日(日曜日): 書抜き: 2面 / 7面
  • 「英語」: 223 - 241
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994): 語彙確認: 9
  • 2020/10/29, Thu. / 2020/10/21, Wed.
  • シラー/久保栄訳『群盗』(岩波文庫、一九五八年): 116 - 122

・音楽
 28:52 - 28:58 = 6分(鑑賞)