2020/11/1, Sun.

 このように、散文詩「旅への誘い」における料理への言及が、詩的コンテクスト内への小説的あるいは写実的コードの侵入を示すとするなら――むろん、「詩的」が何を意味するかは依然不分明のままだが――、いわゆるこのコードの闘いの中で、いったい何が「叙情的」コードを示していると言えるのか。ボードレールの区別に再度目を向けてみよう。

竪琴=詩想〔lyre〕は小説が満喫するあらゆる細部からわざと逃れてしまう。叙情的な魂は総合のように大股で進む。小説家の精神は分析を大いに楽しむ(原注5: Charles Baudelaire, Œuvres complètes, Texte établi et annoté par Y.-G. Le Dantec / Édition révisée, complétée et présentée par Claude Pichois (Paris: Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 1961), p. 736〔「テオドール・ド・バンヴィル」高畠正明訳、『ボードレール全集』第Ⅲ巻、人文書院、一九六三年、八一頁〕. )。

はなはだ興味深いことだが、ここでは、小説・細部と食べ物の密接な関係が、ボードレールの言明の意味だけでなく、言葉使いそのもの――すなわち、小説家の仕事を描写する動詞、満喫する[﹅4]〔se régaler(食べる)〕と大いに楽しむ[﹅6]〔se délecter〕の比喩的な使用法――においても示唆されている。小説と結びつけられる動詞が一種の代謝的な吸収〔metabolic incorporation〕を喚起するとしたら、叙情性と結びつけられる動詞〔表現〕――逃れる[﹅3]〔fuir〕、大股で進む[﹅5]〔faire des enjambées〕――はむしろ、超過的な移動〔hyperbolic motion〕を示している。つまり、叙情的なものにおいては、食事の快楽が旅行=移動の快楽に場を譲り渡しているのだ。換言するなら、叙情的なものとは結局、一種の旅[﹅]にほかならない。
 (38~39; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)



  • 二時までベッドに留まってしまった。しまったと言わざるを得ない。しかしなぜ今日に限って九時間も滞在することになったのか不明だ。とはいえ大した問題ではない。着実に調身を続けていけば良い。ところで夢を見た。小学校五、六年生のときの担任だった(……)という先生が出てきたものだ。こちらは塾講師として働いていたのだが、その場所が現実の職場とおなじではなくどこか学校の一教室らしき部屋だった。(……)さんは不在で、授業後になんらか事務的な仕事をするように聞いていたのだがその内容がわからないため(……)先生に尋ねたところ、やや尊大な態度を返された。廊下の突き当たりに事務室というか、講師らが集まって待機したり作業をしたりする一室があり、そこに行って何かしらやれという話で、こちらとしては何をやるのか説明や指示が欲しかったのだけれど、具体的なことは何一つ言われなかったので気後れするような気持ちになった。それで事務室には行かず、とりあえずそばのトイレか何かに入ってぐずぐずしていたようだが、そのあとのことは覚えていない。ほか、おそらく自宅の居間で母親とテレビを見ている夢もあった。画面にはスペインかイタリアあたりにありそうな闘技場めいた場所で歌を披露している歌手がおり、年齢はたぶん五〇歳くらいで、パワフルかつ渋いスタイルというか、イメージとしては松崎しげるとかあるいは布施明をワイルドにしたような感じだった。もしくはTom Jonesなんかが近いのかもしれない。その人が歌っているのを見ながら、口がめちゃくちゃ大きいと母親に言ったところ、彼のひらいた口の穴はますます大きくなって、引き伸ばされるピザ生地のように拡大していき、ほとんど漫画みたいに誇張的な大きさで顔の下部を占めるに至った。
  • 水のペットボトルや急須を持って上階に行き、用を足したりうがいをしたり。食事はファミリーマートのもちっと食感の担々麺みたいなやつ。すこし前に『メレンゲの気持ち』の石塚英彦のコーナーでコンビニの冷凍食品を各社の担当者が自薦するという企画をやっていたが、そのときに紹介されていた覚えがある。一袋を三等分した少量のそれをいただいた。基本的に辛いものが苦手なお子様なので担々麺というものを食ったことがいままでほぼないと思うのだが、この品は全然辛くなかった。付属の花椒をかけても辛くないし、普通に美味かった。新聞は一面でエーゲ海地震を伝えている。なかにはパオロ・ジョルダーノへのインタビューがあったが、まだ読んではいない。パオロ・ジョルダーノというのはイタリアの人で、『素数たちの孤独』だったかそれとも『兵士たちの孤独』だったか忘れたが、たしか「素数」と「兵士」という語がついた小説をひとつずつ出していたと思う。地元の図書館の棚に見かけたことがあるのだ。あと最近ではコロナウイルスを扱った新しい作品を刊行していたのではなかったか。たぶんそれでインタビューがなされたのだろう。書評面の入口では『幕間』などを訳している片山亜紀がヴァージニア・ウルフ灯台へ』を紹介していた。短い欄なので、極々一般的な、順当な要約という感じ。書評ページはあまりよく見ていないが、村田沙耶香長嶋有の小説を取り上げていたのと、山内志朗岩波新書の『道教 一〇講』みたいなやつを紹介していたのを覚えている。後者はわりと興味がある。
  • 食後、チョコレートケーキを食べようと母親が言うのでいただいた。父親が会社の顧問弁護士だか会計士だかから引退祝いにもらったギフトカタログで頼んだもので、「デメル」という由緒正しきウィーンの老舗の品である。「ザッハトルテ」と言って、名前は聞いたことがあったが、これがそれだというのははじめて知った。くすんだような茶色のスポンジの上面にチョコレートコーティングの層が乗っているシンプルなケーキだ。付属の説明カードを読むに、デメルというこのメーカーは一七八三年だったかフランス革命の直前にはじまったらしく、ザッハトルテというのはメッテルニヒに仕えていたフランツ・ザッハとかいう人が一八三二年に開発したとかいう。品はわりと格調を整えた感じで木箱に入っており、これで五四〇〇円だかするとかいうから高級品だが、肝心の味のほうはといえば、もちろんうまいけれどびっくりするほどうまいわけでもない。たぶん色々と工夫が凝らされ作り手の力が注ぎこまれているのだと思うけれど、味覚のレベルが低いのでそれを感じ取れるほどの繊細さがこちらの舌にはないのだ。説明文には、スポンジの上にアプリコットジャムを塗ってそれからさらにコーティングしているとあったが、アプリコットの気配もこちらにはちっとも感じられなかった。
  • その後風呂を洗い、新しい八女茶をおろして注ぎ、自室へ。FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだしてEvernoteの日記記事を支度し、ウェブをちょっと覗いたあとここまで記述。現在四時過ぎ。新たにはじめた日課記録の一四項目というのは以下である。

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