2020/11/3, Tue.

 (……)「私の子、私の妹」という冒頭の訴えでは、親密さ〔familiarity〕が家族性〔familiality〕と合致している。つまり、望まれている二つの隣接存在の結びつき(「一緒に暮らす」)は、発生論的類似性という自然記号のもとに置かれている。隔てられた二つの主体の換喩的な出会いが、生物学的な類似性という隠喩的絆の内部で生じているのだ。したがって、このような結びつきが、定義上、近親相姦的であるとするなら、近親相姦は――修辞的な言葉で表現すれば――隠喩と換喩の完全な収斂になるだろう。
 同じ収斂は実際、女性と国の関係にも見出すことができる。人と場所の関係は、定義上、換喩的、すなわち、恣意的、偶然的だが、ここでは隠喩的、すなわち、必然的、対称的である、と言われているからだ。隠喩はこうして、書き入れ〔writing〕のプロセス――類似性の書き入れ――と同時に、消去〔erasing〕――差異の消去――のプロセスと化している。また、隠喩が消去するのは人と場所の差異だけではなく、まさに隠喩と換喩の差異でもあるのだ。言語の全領野が、隠喩と換喩の二軸によって生み出される空間として(原注8: Cf. Roman Jakobson, Essais de linguistique générale (Paris: Seuil, 1966), p. 515〔ロマーン・ヤーコブソン『一般言語学』川本茂雄監修、みすず書房、一九七三年、三九頁〕. 「言説の展開は相異なる二つの意味論的な線に沿ってなされる。つまり、一つのテーマ〔topic〕は類似性もしくは隣接性によって別のテーマを導くのだ。前者については隠喩的な[﹅4]プロセスを、後者については換喩的な[﹅4]プロセスを引き合いに出すのが、おそらく最も適当であろう……。正常な言語行動においては、これら二つの方式が絶え間なく作用している」。)、すなわち、両者の分離によって記述されるなら、「旅への誘い」の修辞は、この二軸の交点、数学用語で原点[﹅2]と呼ばれる点に完全に位置づけられると思われる。
 はなはだ興味深いことに、この詩がわれわれを導くのは、言語のこの「原点」なのである。

……、すべてが
  魂にそっと
  語ってくれよう
なつかしく優しいふるさとの言葉[﹅7]〔langue natale〕。

このように、最初の言葉・原初の言葉を喚起することで、この旅は出発ではなく回帰、すなわち、先の旅によって踏破された距離を抹消するもの、「魂」とその起源=原点の間隔を消去するものとされている。われわれは、叙情性に関するボードレールの指摘と再度結び合わされることになる。「あらゆる抒情詩人は、その本性によって、宿命的に、失われた〈楽園〉への回帰を遂行する(原注9: Charles Baudelaire, Œuvres complètes, Texte établi et annoté par Y.-G. Le Dantec / Édition révisée, complétée et présentée par Claude Pichois (Paris: Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 1961), p. 737〔「テオドール・ド・バンヴィル」高畠正明訳、『ボードレール全集』第Ⅲ巻、人文書院、一九六三年、八一頁〕.)」。起源、〈楽園〉、近親相姦。あらゆる差異――空間的、時間的、言語的、あるいは間主体的〔差異〕――の抹消を通じて、この旅は未分化で不動の、そして、運動、時間、法に先立つ本源的充溢性へと歩みを進めているように思われる。(……)
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、42~43; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)



  • 一一時半ごろになって覚醒した。太陽が一応光を伸ばしてきていたが、雲も多い。枕をのけて後頭部をベッドにつけると、頭を左右にゆっくり転がして首筋を和らげた。それをだいぶ長くやって、一二時を回ってから離床。上階に行くとトイレで長々と放尿し、洗顔とうがいを済ませてから食事を取る。前夜とおなじく白身魚のフライなど。新聞に秋の褒章の一覧が載っていたので何か芸術関連の人はいないかと探したが、知っている名前は見当たらなかった。去年はAbdullah Ibrahimが受けていた覚えがある。
  • ものを食うと皿は母親が洗ってくれたのでこちらは洗面所に行って整髪。濡らした髪を櫛つきドライヤーで整えたあと多少ワックスで流しておき、それから風呂洗いへ。済ませると緑茶を用意し、「デメル」のチョコレートケーキの最後の一切れとともに自室に持ち帰った。FISHMANS『Oh! Mountain』を流してウェブを見ながら一服したのち、ここまでさっと記録。昨日のうちに昨日の分もほぼ書いておいたので次にまずそれを完成させ、それから一〇月二四日などに取り組むつもり。やはり基本的にはまず当日前日あたりを覚えているうちに仕上げてしまう方針が良いのではないか。
  • 呼吸を常に見るという心身的技法をとにかく身に定着させ、確立させる必要がやはりある。呼吸(というか呼吸に意識を向けること)というのは一種の切断機みたいなものであり、あるいは心身の一時停止機能で、思念と行動の絶え間ない連鎖をほんの一瞬であれ束の間止めてくれるものだ。それによって人は現在時に立ちもどることができ、そうすれば時間が、〈自分の知らないところで〉勝手に流れ去っていくのをある程度は押しとどめることができる。そうでなければ人間の意識というのはほぼ常に特殊現在地点を離れて何ものかのほうへふわふわと浮遊・遊離しているというのがこちらが自己観察から得た実感的なデータで、つまり人はたいていの場合、日本の古語で言うところの「あくがる」の状態にある。魂が身を離れてさまよっているということだ。呼吸に目を向けることで魂(玉の緒)をある程度はからだに引き戻し収めることが可能となり(つまりは「魂鎮め」ということだろうか?)、したがって常に息を媒介にしながら世界を見ることができれば、心身は地に足ついた安定的な状態をある程度は保つことになる。意識の志向性に、呼吸のなかをくぐらせるというわけで、あるいは呼吸を〈経由地〉にするとか、どんな言い方をしても良いのだけれど、つまりは志向機能の構成要素としてその冒頭に再帰性を据えるということで、直接的に世界(外界(外在?))に向かうのではなくて呼吸(すなわち自己の存在感覚/存在点)を第一の通過地点として必ず通り抜けるということだ(関所/関門の比喩)。べつのイメージとしては、志向性に直線ではなくて、円を描かせるということ。自己に向かう円状の軌跡を描かせた上で自分の心身を通り抜けて世界に出ていく、という形象。
  • 仏教でいうところの「二念を継がない」というのもなんとなくわかってきたような気がする。二念はどうしたっておのずから生まれるものだが、その発生を感知するやいなやたとえば呼吸にもどることで(あるいはより広範に(一般的に)言っていわゆる「サティ(気づき)」の技法によって)二念の(引いてはそれに続く重層的思念の)連鎖を切断・停止させる、ということだろう。みずから気づかず思念の拡大に耽っているような状態から束の間であれひとまずは脱出するということだ。意識的に(自覚的に目を向けながら)二念以下を継いでいくことに関しては、たぶんそれほど問題はないと思う。仏教(もしくは特に禅宗?)の実践というのはおそらくひとつにはここに、つまりは「気づき」に集約されると思われる。気づくこととは、停めることである。思念というものは必ず常に発生し、最終的に停めることはもちろんどうあがいたってできないのだが(最終的な停止とはむろん死のことである)、すくなくともそれにその都度一瞬ごとに気づくことで、その野放図な連続・連鎖をある程度制御していこうという目論見が仏教にはあると思われ、したがって仏教的実践者の心的動態というのは、思考や感情やもろもろの心身的動きが生まれる(あるいはそのなかに巻きこまれる)→それに気づき(目を向け/観察網によってそれを拾い)、一瞬なりとも停止させる(そこから外在化する)→また動きが生まれる→また気づき、停止させる、という、この作動/停止の絶え間ない、瞬間ごとの交換・往還だと考えられる。それが仏教者の常住する精神的闘争だ(その闘争は意識があるあいだは(つまり寝ているときを除いて生命があるうちは)一瞬も途切れることなく永続する)。
  • 作動/停止の往復を言い換えればおそらく内/外の行き来ということになるはずで、したがって要するにいわゆるメタ視点(メタ認知)をできるかぎり常態化するというのが仏教的実践(ヴィパッサナー瞑想)のもっとも簡易な要約になると思うのだけれど、だからと言って、いわゆるメタ視点を完全に永続化させることなど人間にできるはずもないし、そもそも「メタ視点」などというものが真正かつ完全なものとして本当にあるのかということ自体こちらには疑わしい。物事の純粋外部に出ることなどできないのではないか? と思うし、そうする必要もないと思う。いわゆるメタ視点とか外在とか言われているものは実際のところ内と外との境界線上に立つくらいのことではないかと思うし、人がある物事の外部に本当に出ることができたと思っても、そのとき実はその場所もまた何かべつの物事との境界線上になっているのではないか。したがって、仏教(ヴィパッサナー瞑想)の目指すところは、こちらの理解では、常に境界線上に立ち続けるということになり、それを定式化するのに都合の良い言葉がまさしく仏教には存在している。「不即不離」である(ここまで綴ったこちらの思考がこの言葉のもともとの意味として正しいのかどうかは知らないが)。「つかず離れず」ということだ。
  • 呼吸からはじまって仏教的観念に至った以上の思念は四時過ぎから綴ったもので、その前には前日の日記および一〇月二四日の日記を作成することに邁進していた。四時直前までで二つとも完成。悪くない働きぶりだ。BGMは『Oh! Mountain』のあとはFISHMANS『98.12.28 男達の別れ』(https://music.amazon.co.jp/albums/B07G391LJL)。二四日分の記事をウェブ上に投稿してTwitterにもURLを貼りつけておくと、上の思考を記したあと書見へ。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。すでに五時前だったが、今日は勤務が遅いので余裕がある。それで脹脛をほぐしながら読書をしておくことにしたのだ。一時間くらい膝で肉を揉めばかなり充分な柔らかさになるので、一日の活動のなかでなるべくはやいうちにそうする習慣をやはり確立させたい。ストレッチも大事だけれど、からだ全体の基本的なコンディションを整えるにあたっては、足裏と脹脛をほぐすことに勝るものはない。
  • ドストエフスキーはちょっと古いような言い方が色々気になったと言うか、語彙的にこちらの文章のなかにも場合によっては取り入れられそうだなという語の箇所をメモしておいた。以下に正式に記録する。
  • 25: 「夫の死後、上流社会との交際がしだいに疎遠になり、ついにはふっつりととだえてしまっていたおりから、ワルワーラ夫人はこうした人物の訪問を大いに徳としていた」: 「おりから」: 「折しも」とおなじで、「ちょうどそのとき」の意だが、「ちょうど~~だったので」という理由の意味をも表せるようなので、どこかで使える気がする。
  • 25: 「男爵のほうでも、ワルワーラ夫人が、田舎暮しとは言い条、なかなかの人物を側近にはべらせていることは、一目で見抜けたはずであった」: 「言い条」: むろん「~~とはいえ」と同義で、現代日本語においてはおそらく文章のなかでさえもはや死語だと思うが、独特の感じがあって使ってみたい。なぜ「条」の字が「~~とはいうものの」の意味になるのかも気になるが、いまぱっと検索した限りではよくわからない。
  • 27: 「春五月もたけなわのころで、わけても夜ごとの美しさはたとえようもなかった」: 「わけても」: 「とりわけ」はわりと使うが、「わけても」という言い方はこちらの口調のなかにはない。
  • 27: 「二人の友は、夕暮れになると庭で落ち合い、深更までも四阿にすわりとおして、おたがいの胸のうち、心のたけを吐露し合った。詩的な情緒のただようおりふしもあった」: 「おりふし」: 上とおなじようなことで、「おりおり」は良く使うのだが「おりふし」を用いたことはたぶんない。
  • 33: ステパン氏は、「私たちに向って、「著作にかかる準備もでき、資料も集まっているはずなのだが、なにかこう筆が乗らなくてね! どうともならん!」などとこぼしては、しょんぼりと首うなだれることが、ますますおりしげくなった」: 「おりしげく」: 使えそうな言い方。「足しげく」の仲間というか、「繁し」の語がわりと色々なものと結びつきやすく、汎用性が高いのかもしれない。「事繁し」という語もあるようで、これも使えそう。
  • 34: 「彼の気持をまぎらせ、かたがた地に墜ちた名声を回復するよすがにもと、夫人は、文壇や学者仲間の上流どころに何人かの知己がいるモスクワへ彼を連れていった」: 「かたがた」: 「一方で」とか、「同時に」とか、「~を兼ねて」とか、「ついでに」とか、「合わせて」みたいな意味だろう。要するに英語で言うところのwhile的な語。
  • 34: 「だがモスクワも、思わしいところではなかった」: 「望ましい」とか「好ましい」とかはときどき使うが、「思わしい」を使ったことはたぶんない。だいたい病状について言われる気がする。
  • 36: 「上流社交界との顔つなぎはほとんど失敗に終り、恥を忍んで無理を重ねた末に、虫眼鏡でようやく見分けられるほどの細々とした縁がつながったにすぎなかった」: 「虫眼鏡でようやく見分けられるほどの細々とした縁」。
  • 六時前まで読んで上へ。母親はまた天麩羅を揚げている。古い柿があるからとか言っていた。ほかに春菊も混ぜたようだ。いくつかつまんでいただいたが、普通にうまい。白米をよそり、シジミの混ざった即席ワカメスープと味海苔も用意して卓へ。新聞を見つつ腹を埋める。たしかこのとき三面の、大和堆についての記事を読んだはずだ。石川県からそのまま北に向かったあたりの沖にある好漁場というが、中国漁船が大挙して違法操業をやめず、日本の漁師が苦慮しているらしい。中国という国は本当にこんな路線を取ってこの先どうするのだろうか? 国内的にも国際的にも騒擾の種をしこたま集めまくっているとしか思えないのだが。それが限界に達したときに内破的に、そしてまた外圧的に巨大な混乱がはじまるのではないかというのが、具体的な根拠にもとづいていない素人の臆見ではあるもののこちらの主な懸念だ。加えてそのときに、もし米国の大統領がドナルド・トランプみたいな人間だったら最悪としか言いようがない。ちょうど日付の上では本日一一月三日は米国大統領選の当日で、実際には時差があるのでいま(日本時間で一一月四日の午前三時)投票が進んでいる頃かと思うが、ここでまたどうなるかによって、この先の米中関係や国際秩序も多少なりとも変わってくるだろう。
  • テレビに映っていたのはたぶん『刑事コロンボ』だったのだと思うが、ピーター・フォークがやたらと若くてまだちょっとみずみずしいような質感を帯びていて意外だった。あるいはべつのドラマだったのか? よく見なかったが、しかし刑事ものだったのは間違いないと思う。食後は母親のエプロンにアイロンを掛け、緑茶を支度して部屋に帰投。そうして出勤前に音読である。「英語」はGeorge Steinerの文章や、一九七二年三月一一日(だったか?)にインディアナ州ゲイリーで開催された初のBlack National Congress(ではなくて、いま確認したらNational Black Political Conventionだった)についての記事など。「記憶」のほうはジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』からの引用。パウル・ツェランについてのプリーモ・レーヴィの評言はけっこうすごいような気がする(彼の表現法は、死に瀕した者の喘ぎ、ばらばらの吃音だ、みたいな批評だ)。レーヴィは基本的に難解な言い回しやむやみに飾ったような大げさな表現を好まなかったらしいし(それは彼自身のきわめて明晰かつ良心的で風通しの良い文章からして容易に理解できる)、ツェランについてもたぶん賛同まではしていなかったのではないかと思うのだけれど、しかしその彼がパウル・ツェランをやはり無視することはできなかったという点に、プリーモ・レーヴィという作家の貴重な謙虚さ誠実さと、パウル・ツェランという詩人の重要性がおそらくあらわれているのだと思う。
  • 音読するともう七時がやって来そうだったので着替え。音読中は『Lalah Hathaway Live!』(https://music.amazon.co.jp/albums/B015SS70A6)を流していたのだが、着替えるときにはFISHMANSの『空中キャンプ』に変えた。スーツ姿になり、歯ブラシを持ってきて二曲目の"BABY BLUE"を聞きながら歯を磨き、最後まで聞くと出発。両親に挨拶をして玄関に出、トイレで膀胱を軽くしてから道に出た。林の外縁にあるごく小さな畑地には低木がいくつかあり、前を通りながらも仔細に見ないうちにずいぶん伸びていたが、この木がつけている小型のピーマンみたいな実がいったい何なのかわからずにいたところ、今日か昨日母親が言っていたことによればイチジクなのだと言う。あれがイチジクだとはまったく思い当たらなかった。ここの畑は(……)さんという人がときどき来ていじっているのだが、加えて最近では(……)さんという人がおりおり我が家の周りに来ていて、隣だか下の土地だかを借りて畑をやりたいという話だったのが、もろもろ勘案してこの(……)さんの区画を半分貸してもらうことになったらしい。
  • すでに七時、空に夕刻の青みが残っているはずもなく、雲が朦々と煙り立っているのもあって鈍い天だが、雲間に星が二、三、明るく散ってはいる。十字路が近くなったところで公営住宅の横を通る坂下から中年以上の男性四人くらいと、仲間らしい車一台が上ってくるのが見えた。通りに出ると車と一団は挨拶を交わして別れ、四人はそのまま上り坂に入っていく。そのあとをこちらも折れて、傾斜を踏んでいく。今日は時間が充分あったので虫の音を耳に共連れながらかなりゆっくり上ったはずなのだが、出口に近づいた頃には、脚はなめらかに駆動するけれどやはり呼吸がやや重いような感じがあって、この程度で息が切れるとは、もしや知らぬうちに肺とか心臓とかが悪くなっているのだろうかと思った。長きに渡る夜更かしの習慣が祟って、からだが表面上は健全なようでも実は芯から衰えているのだろうか。
  • それで駅の階段も慎重なように、肉体の感じを確かめるようにしながら上がり、ホームに入ると先の四人がベンチを埋めていた。どうも地元民ではなくて散策に来た仲間ではないか。川にでも行っていたのかもしれない。後ろを通るとき聞こえたところでは、予想ほど雨が降らなかった、というようなことを話していた。こちらはホームの先に向かい、やって来た電車に乗って着席。向かいは若めの男女カップル。たぶん二〇代か、こちらと同年代くらいだろう。男性のほうが歳上なように見え、女性は十中八九二〇代だったと思う。瞑目して呼吸を聞き、(……)に着くとほかの客が降りるのをちょっと待ってから車両を出る。階段口にかかるときに(……)小学校のほうを見やったが、さすがにこの時間ではもう明かりはなく、闇に包まれたなかに部屋部屋の窓が一層黒い闇溜まりとなって整然と配置されているのみであり、それもほとんど周囲と境はないというか、半ば気のせいのように辛うじて見て取れる程度だ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 八時四五分ごろ退勤。九時直前の電車に間に合うように出たつもりが、今日は祝日なので電車がいつもとずれており、直近のものはもう行ってしまったらしく、掲示板には九時半前の時刻が表示されていた。仕方あるまいと改札をくぐり、ホームに出るとトイレを目指して反対側の端のほうまで歩く。いったいどういうことなのかわからないが、家を出る前にも放尿したし職場でもふたたび用を足したにもかかわらず、またもや小便がしたかったのだ。しかもトイレに入って小便器の前に立ってみれば、わりと勢い良く出るものが出る。それからホームをもどって、途中にあるスナック菓子の自販機で細長いパッケージのポテトチップスなどを買うと、ベンチに就いて書見した。ドストエフスキーの続き。こちらの背後、ベンチの反対側には背もたれ部分を挟んでこちらと背中合わせの形で中高生くらいの男女が腰掛けており(運動着というかウインドブレーカー的なものをまとった格好だったような気がする)、仲が良さそうというか、いわゆる友達以上恋人未満的な距離感を漂わせていた。(……)行きが来てこちらが乗ってからも、一番線には(……)方面への電車がもう何度か着いていたにもかかわらずそれらに乗らずベンチに残りながら携帯でも一緒に見ているようで肩と顔を寄せ合っている後ろ姿が見えていた。電車に乗るために待っているのではなくて、ただ二人の時間をそこで過ごしていたのだったら素敵な話だ。しかしその後見たときにいつの間にかいなくなっていたので、たぶんどこかで電車に乗って帰ったのではないか。あるいは(……)行きではなくて(……)行きを待っていたのかもしれない。
  • ベンチに就いて書見に精を出しているこちらの右手にはもう一組カップルがやってきて、こちらの二人はもっと歳上、二〇代だろう。電車のなかではこちらの向かい左方に就いていたが、何度かカラパイアがどうのとか言っていた。カラパイアというのはなんかよくわからん不思議なニュースを集めるまとめブログみたいなサイトの名前だったはずで、たぶんそれを指していたのだろう。そこに載っていたのかどうかは知らないが、男性のほうがハンター・バイデンの名前を口にしたときがあって、女性に対して、いまアメリカの大統領候補のひとりになんとかバイデンっていうのがいて、その息子がやばいって話、と説明していた。たしか、レポートだか課題だかがどうとか言っていたような気がするので、大学生だったのだろうか? 女性のほうはなぜか、顔がめっちゃかゆいとたびたび訴えていた。
  • その人たちがこちらとおなじ駅で降りたのだが、このような人々が我が地域に住んでいるのを見かけたことはなかった。連れ立って行くところを見ると、大学生というよりも普通に夫婦みたいな印象を得たのだが、学生というのはこちらの勘違いなのか、あるいは同棲関係ででもあるのか。駅を出たところであちらは右に折れて街道沿いを進み、こちらは渡って坂に入った。木の間をくだっていき平らな道に出ると南の空には月が露わで、発泡酒の泡みたいに雲が無規則に伸びうねっているさまがよく見えるほどに夜は明るい。よく見れば月の前にも希薄な雲が揺らいでいるのだが、その程度の遮蔽はものともせずに光は照っている。道を行くに少々大気は冷たいものの、人の気配もなく家内からもほとんど漏れてこないし、虫の音も遠く、マンホールの蓋の奥から通りすぎざま地中を流れる水の音が聞こえるくらいの静寂で、心身が落ち着く良い夜だと思った。
  • 帰宅後は、この日は脹脛をよくほぐしたから肉体疲労が弱く活動する意気があったのですぐに日記に取り掛かって邁進している。この当日のことを一〇時前から一一時直前まで綴っているのだが、あいだに少々空きが挟まっているのは、「Avast Cleanup Premium」というソフトをダウンロードして設定していたのだ。こちらのコンピューターはAvast Anti-Virusとかいう無料のセキュリティソフトを使っていて、たぶんきちんと調べればもっと良いのがあったり、そもそもきちんと金を使ったほうが良かったりするのかもしれないが、よくわからないので適当に選んだこれを昔から利用している。で、そのソフトがときおり有料版へのアップグレードなどを誘う広告類を画面右下に表示してくるのだけれど、このとき、さまざまなことが原因でコンピューターの動作速度が低下しています、みたいな案内が出てきたのだ。たしかにコンピューターのパフォーマンスは最近低下の度が著しく、このままだと遠からずおしゃかになりそうというか、そろそろ新調せねばなるまいと思っていたのだが、この表示を見て(以前からたびたび示されてはいたのだが)クリックしてみると、上記の「Cleanup Premium」とかいうソフトの案内が映され、一年契約で二〇〇〇円くらいだったので、なぜかそのくらいなら試してみるかという気になったのだ。べつに新しいコンピューターをさっさと買えば良いわけで不必要な気もしたのだがなぜか手続きを済ませてしまい、その後もろもろいじったけれど、しかし結果としてはこれがわりと正解で、動作速度はけっこうはやく快適になった。まだいくらかはこのコンピューターを使っていられそうだ(特にそうしたいほどの愛着はないが)。
  • その後は入浴や書見や書抜きや日記という平常の日課。音楽としては『Lalah Hathaway Live!』(https://music.amazon.co.jp/albums/B015SS70A6)をひとつには流した。#10 "Forever, For Always, For Love"のギターソロがやたらと激しかった。Errol Cooneyという人らしい。もうひとつにはEric Dolphy『Musical Prophet: The Expanded 1963 N.Y. Studio Sessions』(https://music.amazon.co.jp/albums/B07M9C6N8F)。打鍵しながらできちんと聞いてはいないので確かでないが、D1#4 "Alone Together"がこれはもしかしてすばらしいのではないかと思った。Richard DavisとEric Dolphyのみのデュオ。

 私たちは物理学を一緒に勉強し始めた。私が当時もやもやと暖めていた考えを説明しようとすると、彼はびっくりした。人間が何万年もの間試行錯誤を繰り返して獲得した高貴さとは、物質を支配するところにあり、この高貴さに忠実でありたいからこそ、私は化学学部に入学した。物質に打ち勝つとはそれを理解することであり、物質を理解するには宇宙や我々自身を理解する必要がある。だから、この頃に、骨を折りながら解明しつつあったメンデレーエフの周期律こそが一篇の詩であり、高校で飲みこんできたいかなる詩よりも荘重で高貴なのだった。それによく考えてみれば、韻すら踏んでいた。もし紙に書かれた世界と、実際の事物の世界との間に橋を、失われた輪を探すのなら、遠くで探す必要はなかった。アウテンリースの教科書に、煙でかすんだ実験室に、私たちの将来の仕事の中にあった。
 そして最後に、根本的なことがあった。彼は物事にとらわれない正直な青年として、空を汚しているファシスト流の真実が、悪臭を放っているのを感じないだろうか、物事を考えられる人間に、何も考えずに、ひたすら信ずるよう求めるのは恥辱だと思わないだろうか? あらゆる独断、証明のない断言、有無を言わさぬ命令に嫌悪感を覚えないだろうか? 確かにそう思う。それなら、私たちが学んでいることに新たなる威厳や尊厳を感じられないはずはない。生きるのに必要な栄養物以外に、私たちが糧としている化学や物理学が、私たちの探しているファシズムへの対抗物だということが無視できるはずはない。というのも、それは明白明瞭で、一歩一歩が証明可能だからだ。ラジオや新聞のように、虚偽や虚栄で織り上げられたものではないからだ。
 (67~68; 「4 鉄」)

  • 四時四七分の消灯に成功。就寝前には短いあいだだが書見とともに脹脛マッサージもできた。やはり寝る前に一時間くらいの読書兼脚揉みを習慣化するべきだろう。


・読み書き
 13:37 - 13:50 = 13分(2020/11/3, Tue.)
 13:50 - 14:09 = 19分(2020/11/2, Mon.)
 14:10 - 14:23 = 13分(2020/10/24, Sat.)
 14:31 - 15:56 = 1時間25分(2020/10/24, Sat.)
 16:18 - 16:47 = 29分(2020/11/3, Tue.)
 16:51 - 17:49 = 58分(ドストエフスキー: 22 - 42)
 18:29 - 18:44 = 15分(英語)
 18:44 - 18:55 = 11分(記憶)
 20:59 - 21:25 = 26分(ドストエフスキー: 42 - 53)
 21:49 - 22:12 = 23分(2020/11/3, Tue.)
 22:28 - 22:54 = 26分(2020/11/3, Tue.)
 25:13 - 25:31 = 18分(ドストエフスキー: 53 - 62)
 25:49 - 26:14 = 25分(レーヴィ)
 26:15 - 26:48 = 33分(新聞)
 26:49 - 27:57 = 1時間8分(2020/11/3, Tue.)
 28:24 - 28:47 = 23分(ドストエフスキー: 62 - 70)
 計: 7時間39分

  • 2020/11/3, Tue. / 2020/11/2, Mon. / 2020/10/24, Sat.
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 22 - 70
  • 「英語」: 291 - 300
  • 「記憶」: 183 - 185
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年): 書抜き: 60, 67 - 68, 73, 79
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月6日(月曜日)朝刊: 書抜き: 7面 / 9面

・音楽