2020/11/5, Thu.

 こうした引用のコラージュから浮かび上がるメッセージは確かに単純なものではない。だが、それはまさに等価システムを永続させるプロセスにおいて[﹅23]そのシステムを超越する、という共通の方法を通じて、疑いなく、〈詩〉と〈資本〉の類似性を示唆している。詩としての言語の流通は、資本としての貨幣の流通に著しく似ているし、「詩的なもの〔poetic〕」はまさに言語の剰余価値[﹅7]と定義できるだろう。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、60; 「3 詩とその分身 二つの「旅への誘い」」)



  • 一時四〇分まで眠り耽ってしまった。前夜消灯したのは四時四〇分で、一応ほんのすこしずつはやくなっているので良いのだが、そのくせ久しぶりに九時間も滞在してしまい、油を切らしたように身体がこごった感じがあった。覚醒しながらも目を閉じてまどろみを呼吸しているとしかし同時に気持ち良さもあって、そういう睡眠の快楽を感じたのは久しぶりのような気がする。天気は今日も快晴である。起き上がってコンピューターを点けておくと上階へ。
  • 母親に挨拶。また渋柿を天麩羅に揚げたとか言う。ジャージに着替え、ぼさぼさだった頭を洗面所で整えてから食事(うがいをするのを忘れた)。天麩羅(ただし柿のものではない)をおかずに米を食いながら新聞を見るが、紙面は当然だいたい米大統領選のニュースを伝えている。ドナルド・トランプが一方的に勝利宣言をして開票作業を中止するよう求めたとか。どういう理屈なのかわからない。この朝刊においてはまだ結果は不確定のようだったし、部屋にもどってきてこの文章を綴っている一一月五日午後三時の時点でも同様のようだ。
  • 南の窓の先では近傍の家並みや木々や山が横薙ぎの陽を受けて穏やかに明るんでおり、川沿いの林の一部は黄色く染まってなおさら明るく、景色総体を見てもところどころに山吹色や樺色が差しこまれていて、いよいよ色調が淡く浮遊的になってきている。窓の上端にすこしだけ覗く空も光を満たされた青に澄明で、地上とはっきり分かたれながら眩しく親和しており視線を洗う。食事を終えると風呂を洗って、それから洗濯物を取りこんだ。やたらたくさん吊るされてあったものをすべて入れてタオル類をたたんだが、母親は足拭きマットの乾き具合に満足が行かなかったらしく、それらだけ円型ハンガーに取りつけ直してまた出していた。
  • 緑茶とともに帰室。(……)そうしてFISHMANS『Oh! Mountain』を流しだして今日のことをまず記述。今日は休日で、立川図書館で借りている本の返却期限をすでに過ぎているのでそれを返しにいく。そして今日こそちゃんぽんを食うつもりである。ほか、日記は一一月三日および前日四日の分を完成させたい。それでさらに現在時に追いつくことができれば一〇月二五日以降も綴るつもりだ。とにかくやはり基本的にはまず前日・当日のことを記して現在時に追いつかせるというやり方を原則としたい。もともとずっとそれでやっていたわけで、原点に立ち戻ってまた愚直に進めていけば良いのだ。立川に出かけるのは夕刻以降、五時か六時くらいで良いだろう。図書館は本を返却するだけでなかはあまり見ないつもりでいるし、ほかに用事もないので本を返したらさっさと河辺にもどって飯を食えば良い。帰宅後はせっかくの休日なのでまた日記に邁進したいところだ。現在三時過ぎで、六時直前の電車で行けば良いかなとなんとなく思っているから、まだわりと猶予はある。出発前に音読は済ませなければならない。
  • ある物事に没入する(内在する)こととは実はそれから離れることであって、(絶えず)醒めていることによってこそ人は〈密着する〉ことができるのではないか?
  • 書見。ベッドに転がってドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)を読みながら脚を隅々までほぐす。会話に滑稽味や軽妙さがあってわりとするする読んでしまうというか、目が先走っていく感じがある。116ページに至ってようやく、「さて、ここで私は、そもそものこの物語の発端をなすべき、ある意味で滑稽でもある出来事の叙述にかかりたいと思う」と言われるので、つまりそれまではいわば前置きだったわけだ。下準備、下ごしらえに一〇〇ページ以上も費やしたわけで、長篇小説を書ける人間というのは、その内容や質がどうであれもうそれだけですごいなと、こちらからするとそういう感じだ。
  • 書見は五時前まで。たぶん着替えや身支度を済ませてからだと思うが、音読をしたようだ。そうして出発。空気は冷たく夜空は晴れて、磨かれたなかに月はまだだが星が照っていた。道を行くに何か火のような、暖房を焚いているような、はたまた焼き芋をこしらえているような、そんな調子のにおいが淡く感じられ、冬の香らしく思った。脚をよくほぐしたので坂道を上っても筋肉の伸び縮みがなめらかであり、まさしく水のようにさらさら動いてひっかかりがない。
  • 最寄り駅のベンチでメモをはじめ、来た電車に乗ると意外と人が多く、席の端は空いていなかったのでなかほどに腰掛けた。(……)に着くとすぐそばの九号車か八号車に乗り換え。三人掛けを若い男が埋めていた。高校生か大学生かわからないが、何かディクテーションがどうとか言っていた気がする。あとは他愛ない馬鹿話のトーンだ。
  • 瞑目しながら到着を待っていると呼吸が実に軽くなめらかに感じられ、心身の輪郭も整っているし、知覚もしくは認識がきめ細かく、隙間を排して密で連続的になったように思われ、意識空間として濁りがなかった。腹が減っていたので立川に出るより先に(……)でちゃんぽんを食うことに。降りると駅を抜けて、歩廊を渡って(……)へ。図書館の入ったビルの側から(……)側へ曲がった際、駅から北に向かって伸びる通りを彩る車のライトを目にしたが、立川の歩道橋から見るそれとは規模や密度がまるで異なり貧弱なものの、それはそれで叙情的と言うべき光景に思われなくもない。二階入口の横から地上に向かって階段を下り、地階から入ってフードコートに。適当に席を取ってバッグを置いておき(諸外国だとこういったことはできないのだろう)、リンガーハットの店舗前に並ぶ。フードコートなどと言って店が三つか四つくらいしかないごく小さなものだが、そのなかでもやはりちゃんぽん麺は人気なのか、こちらの前に二人くらいいたし、あとからも並ぶ者があったのだ。ぼけっと突っ立って待ち、番が来ると野菜たっぷりちゃんぽんと餃子五個を注文。会計して呼び出し用の小型機械をもらうと席にもどって手帳にメモを進めた。
  • ちゃんぽんは普通に美味い。びっくりするほどではないがかなり満足できるし、以前(……)さんがそんなようなことをブログに書いていたと思うけれど、熱いスープの(麺)料理には熱を体内に取り入れるということそれ自体の充実や享楽や安心みたいなものがあって美味い。温かい汁で麺を食えばどんなものでもだいたい美味い。食いながらいつか思考が宇宙とか深海とかにおよんでいた記憶があるのだが、どういう経路でそうなったのか覚えていないし、そこでどういうことを考えたのかも覚えていない。
  • 覚えていないことは書きようがないのでどんどん省いて行こう。食事を終えると建物を出て駅にもどり、電車に乗って立川へ。やはり身体の感覚がなめらかで、座って本を読みながらもちろん呼吸をしているわけだけれど、腹の奥あたりの収縮感が妙にスムーズだった。立川に着いて改札を出ても視界および知覚が普段よりも明晰だという印象を得たようだ。北口を出て高架歩廊を行き、シネマシティと高島屋のあいだに入って奥へ。帰宅に向かう仕事人たちと次々にすれ違う。右手に視線を振ればここはギジネス系のビルの立っている区域だが、街路樹にはもう葉がなくなっており、したがって緑の色も存在せず、ビルもむろんガラスに青い空を映すわけでなくいまは黒く満たされているか蛍光灯の明かりを覗かせるかで、周囲を取りこむことなく四角四面にたたずんでいるばかり、それら諸様相が合わさって街灯の下の宙空がなんとなくひろいような、ぽっかりとした空虚感をにじませている。
  • 図書館。リサイクル資料はなし。新着にも目新しかったり興味を惹かれたりするものはそんなになかった。高山羽根子くらいか。以前見た顔もいくつかあるが、『韓国近代小説史』がもうけっこう長く置かれているのはなぜなのか。これを推薦している職員がいるのだろうか。
  • 本を返してトイレに寄るとすぐに出たはず。一〇分弱くらい歩いて駅にもどる。駅舎に入ると人波の動きを見る。視界の至るところが絶え間なく動き続けている。それらの動きに関係があるわけではないが、まったく関係や影響や相互作用がないわけでもない。ばらばらなのだけれど、部分的にはつながってもおり、総体的には流体としての秩序を、絶えず可変的で置き換わり、変容していく秩序をかたちづくっている。
  • 車内では立って書見。地元に着いてからも書見。最寄りで降りると暗黒の夜空には月。三分の一ほど欠けており、左下に向かって頭もしくは傘を突き出したクラゲのような姿。帰路は寒かったよう。
  • (……)さんのブログを読んだ。五月三一日から六月二日。「シリーズ『COVID-19〈と〉考える』 |TALK 05|松本卓也 × 東畑開人|ケアが「閉じる」時代の精神医療── 心と身体の「あいだ」を考える」(https://hagamag.com/series/s0065/7603)からの引用。あとケージと保坂和志の類同性。

東畑 もうちょっと別の言葉で説明すると、オンラインの面接というのは安全なんですよ。互いに相手に殴られる可能性もなければ、身体を触られる可能性もない。バイオレンスもエロスも身体的に展開される可能性がない。もちろん、対面の面接でもそういうことは起こらないし、起こらないようにするのが僕らのプロフェッショナルではあるんだけど、「起こりうるけれども起こらない」ということと「そもそも起こり得ない」ということとでは全然違うと思うんですね。身体的な暴力が起こる可能性がそもそも遮断されている状況では、お互いの間にある不安とか危険といったもののやり取りが難しい。逆説的ですが、このことが治療において、相手を支える力をかなり減らしてしまっているなというのは感じました。安全すぎることは、心を遠のかせてしまう。それこそオンラインではウイルスもやりとりされないわけだけど、同時に不穏なもの、危険なもの、不潔なものがやりとりされにくい。(……)

     *

松本 このことと関連して言うと、僕は精神病理学という学問をこれまで学んできたんですが、最近では、精神病理学における「了解」とはなんなんだろうということを考え直してるんです。「了解」というのは、患者さんの言っていることを治療者が「分かる」ということなんですが、結局のところ、この「了解」とは、ある種の身体性によって支えられるしかないのではないか。つまり、東畑さんが先ほどお話された「プレゼンス」、目の前にいるということがすごく重要だということです。どうしてそれが重要かといえば、自分の身体と心に起こっていることは、自分だけの苦しみではなくて、目の前にいるこの人にも起こりうるかもしれない――つまり、自分の目の前にいる人が、自分のつらさを共感的に理解しているかもしれないという感覚は、ただ相手が自分の症状などを字面として理解しているという事実から得られるのではなく、この人の身体にも同じことが起こりうるんだということの確認なのではないかと思っているんです。「了解」について論じたカール・ヤスパースが、「了解」の肝は「共体験」にあると言っているのですが、それは身体性によって可能になるのではないか。
 あるいは、「了解」は「身体の交換可能性」によって支えられていると言っていいかもしれない。実は、これまで面接室は、この「身体の交換可能性」によって支えられてきたのではないかと、あらためて感じています。(……)

     *

東畑 (……)つまりは「馬が合う」という状態をいかにオンラインで作れるのか。ZOOMにせよ、スカイプにせよ、馬を合わせにくいメディアではないかと、逆に言うと、これまで行っていた対面とは、馬のためのメディアであったのではないかと思える。身体というメディアは、馬に好都合なんです。馬と馬とが向き合い、馬が合ってみたり、喧嘩してみたりする。そして、それとは別軸でジョッキー同士も話し合ってる。この二重性が精神分析心理療法の骨子だったのではないか。ここが今は難しくなってるわけですが、じゃあ、難しいなら諦めるかといえばそうではなくって、できることもあると思ってます。たとえば僕がクライエントとZOOMでなんの話をするかというと、「馬同士のコミュニケーションが取れていませんよね」ということ自体について話をしていくんです。ジョッキー同士で、ここでは馬が生きていない、だからいくら話しても不満に感じてしまったりするし、どうしても寂しくなったりしてしまうということについてを主題化し、語っていくことです。それは馬同士がコミュニケートできていないというコミュニケーションについて話ことです。不在を語る。

     *

 それでは、音楽を書く目的は何だろうか。たしかに、扱っているのは目的ではなくて音だ。あるいは、答えは逆説的な形態をとるにちがいない。意図的な無目的性、あるいは無目的な活動。しかしこの活動は、生を肯定する。すなわち、混沌から秩序を生み出したり、創造における向上を示したりする試みではなく、ただ私たちが生きている生そのものに目覚める方法なのだ。いったんそこから知性や欲望を取り除き、ひとりでに進むにまかせれば、生はとても素晴らしいものになる。
ジョン・ケージ柿沼敏江『サイレンス』より「実験音楽」p.31-32)

ここを読んだとき、保坂和志は要するにジョン・ケージだったんだなと腑に落ちた。音楽から音を解放して聞こえるものすべてを作品としてしまう、というより生(せい/なま)であるものがそのまま作品でもあることに気づかせるケージの身ぶりは、人物と場所だけ設定してあとは筋書きもなにもなく彼らの動くままに任せてしまうという保坂和志の一部の小説作品であったり、考えたことをすべてその順番のままに書きつけてしまうような彼のエッセイであったりに通ずるところがある。同じ物語に対する反発でも蓮實重彦の考え方というのはやはりもう少し穏当、という言い方をすれば劣ったものに聞こえるかもしれないのでアレだが、バルト的にいえばやはり物語と戯れるという身ぶりこそが重要なのであり、そういう意味でいえばケージではなく、音楽家のアナロジーで考えるならばむしろシュトックハウゼンブーレーズルイジ・ノーノクセナキスらのほうに近いのではないか。「方法」と「形式」におそろしく自覚的な阿部和重を高く評価しているのも、この見立てに沿ってみるとよくわかる。

  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)を書抜き。「時が指の間からすり抜け、もう止められない出血のように、体から刻一刻と逃げ出しているように感じられた」(212)。
  • 夜半から日記にそこそこ邁進しており、わりと勤勉にやれたものの急ぐ感じがあってよろしくなかったと自己評価している。ただし、脹脛をほぐすことの効果は圧倒的だったらしい。座り続けていても全然疲れが迫ってこず、精神的にも余裕があって消灯目標を果たすためにはやく切り上げる気になったという。


・読み書き
 14:50 - 15:20 = 30分(2020/11/5, Thu.)
 15:21 - 16:50 = 1時間29分(ドストエフスキー: 100 - 155)
 17:12 - 17:24 = 12分(記憶)
 17:24 - 17:35 = 11分(英語)
 18:54 - 19:16 = 22分(ドストエフスキー: 155 - )
 19:43 - 20:58 = 1時間15分(ドストエフスキー: - 203)
 21:25 - 22:12 = 47分(ブログ)
 23:37 - 24:04 = 27分(ブログ)
 24:05 - 24:56 = 51分(2020/11/3, Tue.)
 25:08 - 25:21 = 13分(レーヴィ)
 25:23 - 25:50 = 27分(新聞)
 25:58 - 27:40 = 1時間42分(2020/11/4, Wed. / 2020/11/5, Thu.)
 28:14 - 28:36 = 22分(ドストエフスキー: 203 - 212)
 計: 8時間48分

  • 2020/11/5, Thu. / 2020/11/3, Tue.(完成) / 2020/11/4, Wed.
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 100 - 212
  • 「記憶」: 185 - 187
  • 「英語」: 308 - 317
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-05-31「いまなにを見ていたなにを聞いていた私は一個の風景だった」 / 2020-06-01「透明な日を巻き戻す壁掛けの短針と指切りをして寝る」 / 2020-06-02「雲海に浮き輪を投げる溺れるものがいることを期待しながら」
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年): 書抜き: 89 - 91, 212
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月6日(月曜日)朝刊: 書抜き: 9面 / 21面

・音楽
 22:13 - 22:35 = 22分(ギター)