2020/11/9, Mon.

 (……)明白なことだが、行為遂行的発言と単なる発話行為を区別するには、行為遂行的発言の特性に関するさらなる条件づけが必要とされるだろう。というのも、オースティンみずからが問いかけているように、「われわれはどんな言葉を発する時でも、「何かを行っている」のではないだろうか(原注8: J. L. Austin, How to Do Things with Words (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1975), p. 92〔J・L・オースティン『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店、一九七八年、一六〇―一六一頁〕.)」。言語行為――すなわち、言うことが行うことであるような行為――を漏れなく包括する定式を探ろうとするオースティンは、文法形式や変形規則の考察から、意味論的な内容や対人的な効果の考察へと移行する。そして、そうした探究の過程で、行為遂行的言語/事実確認的〔constative〕言語という当初の二項対立は不可避的に崩壊する。行為遂行的発言の言語(学)的な特性を定義できなかったオースティンは(この点についてはのちほど説明することにしよう)、発言の内在的な性質ではなく、相互発語的状況での実際的な機能に焦点をあてながら、一揃いの新たな分析用語を提示する。行為遂行的/事実確認的という二項対立を手離したオースティンは、あらゆる発言を以下の三つの「次元」に従って分析するよう提案するのだ。(一)発語的[﹅3]〔locutionary〕〔次元〕(音声、意味、言及)、(二)発語内的[﹅4]〔illocutionary〕〔次元〕(意図的・慣習的な力)、そして(三)発語媒介的[﹅5]〔perlocutionary〕〔次元〕(実際的な効果)。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、96; 「4 詩と行為遂行的言語 マラルメとオースティン」)



  • ちょうど一二時の起床。夢を少々見たし、それ以前に覚めた記憶も薄くある。夢のなかではどうも結婚していたらしい。天気は紛うことなき快晴である。ベッドを抜けて布団をたたんでおくと、上階へ。母親はもう仕事に出るところ。たらこスパゲッティをつくっておいてくれた。風呂も洗っておいてくれたらしいのでありがたい。髪を多少梳かしたりうがいをしたりしてから食事。今日は朝刊が休みのようなので文字を読まず、点いていたテレビを見ながらスパゲッティを食った。「ホンモロコ」という淡水魚の紹介。もともと琵琶湖の固有種だがいまは埼玉県での養殖が盛んで、年に(だったと思うが)二二万トン生産していると言う。透明感あふれる美しい魚体や味の上質さから「川魚のダイヤモンド」と呼ばれているとのこと。やたらうまいらしく、非常に上品でやさしいうまみだとか言われていた。養殖場で餌や土や水にどのような工夫がなされているかという説明を聞く。
  • 食後は皿を洗って片づけ、いつもどおり緑茶を持って帰室。南と西の両方の窓のカーテンをひらいて陽を取り入れておく。コンピューターではEvernoteを支度し、「死に際にあなたがくれた言葉だけお守りとして宇宙を走る」「仏にも酔いつぶれたい時があろうとりわけ罪を知らぬ御代には」という二首をつくってから日記。今日のことをここまで短く記せば一時一六分。BGMはむろんFISHMANS『Oh! Mountain』である。"感謝(驚)"は躍動的で輝かしくすばらしい。
  • 呼吸への意識うんぬんとか言っているのは結局のところそのときどきの時空を密に感じ取ってなるべく隙間(断絶)を生まずに生命体としてなめらかに流れていきたいみたいな欲求で、要するにいわゆる「いまここ」への集中・傾注という定式にはまとめられるのだろう。時空が心身に何の手触りも残さないままにいつの間にか過ぎて消え去っていくことに対する不満めいた情がある。大げさに言えばそれは許せなさとなるだろうし、もっと軽く言えばもったいないような気持ちということだろうか。瞑想というのはその時空の連続性を生成の位相においてひたすら追いかけ如実に感得し続けることを目指す身体実践であり(その果てに結果として時空がむしろ連続性を失い、非 - 連続体として解体されるに至るのかもしれないが)、本当はだからやはり座る時間をつくっていったほうが良いのだろうとは思う。なかなか一日の生活のなかでやる気が向かないが。
  • 一一月八日の作成を進める。途中、二時頃に洗濯物を仕舞いに行ったと思う。三時まで日記を綴り、それからベッドで書見。脹脛や腰や背をほぐす。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)は日曜日の悶着があって以降の八日間と、さらにその後の新たな展開。途中から、語り手が直接目撃体験したわけではないニコライ・スタヴローギンの動向や行動に場面および焦点が移行した。四時半ごろまで読み、それから上階へ。
  • たしか今日の朝だか昨晩だかに作られた野菜スープというか巻繊汁みたいなものにうどんが投入されていたはず。それを電子レンジで温めるあいだ洗濯物からパジャマなどを畳み、卓に就いて食っていると父親が帰ってきた。食後はアイロン掛けを済ませて、そうするともうほぼ五時だったので靴下を履いて階段を下り、歯磨きと着替えを済ませる。そうして出発へ。上がると父親が何時までかと訊いてくるので最後だとこたえる。ラジオからは自民党内の自浄作用が失われたみたいなことを喋って批判している女性の声が流れ出ており、「杉田」という固有名詞が聞こえたのに最初は杉田なんとかいう官房副長官のことかと思ったのだが、どうも杉田水脈のことのようだった。彼女のような看過できない発言をする人物を、以前だったら党内でも注意して諌める機能が働いていたのがいまはそういう力がなくなっているみたいな話だったと思う。そう述べる女性自身も自民党に属しているらしくて、誰なのかなと思っていたらそのうちにホスト側が、野田さんも次回の総裁選には……みたいなことを言ったので、ああ野田聖子だったのかと認識した。いま検索したところでは、たぶん「【音声配信・ノーカット完全版】特集「学術会議、女性活躍、フラワーデモ…。自民党・幹事長代行の野田聖子氏に聞く」野田聖子×澤田大樹×荻上チキ▼11月9日(月)放送分(TBSラジオ荻上チキ・Session」平日15時半~)」(https://www.tbsradio.jp/535071)とあるこの番組ではないかと思う。父親はたしかTBSラジオをよく聞いていたはずだ。
  • 出発。かなり冷たい、ひえびえとした空気だった。一昨日の往路帰路の爽やかめいた涼しさとは全然違う。顔面の肌もいくらかひりつくくらいである。空には雲も多いが青さもひろく、星もひとつきり白々ときらめいている。正面、西空の際は大きな雲が占めていてそのなかには影色が強く、南や東に浮かんでいる実体感が希薄な膜のような灰色雲とはかなり違った様相である。光の残滓などむろんもはや一点も見られないが、あの雲の方向のはるか先にやはり太陽があるわけだろう。十字路にかかるとにわかに風が生まれ、空気の動きが厚く大きくなった。
  • 折れて坂に入ればそれが収まったのは林に遮られるからである。ただ、木々の間からは木の実が落ちて葉の重なりを貫いていくらしい固い音がしきりに立つから、やはり侵入はあるらしい。道脇に生えた下草のなかに、なぜか片側一列だけ葉が残って縦に並んだものがあり、人間の背骨の模型のようだった。
  • 駅前にも落葉は増えており、カエデのものがおそらく主で、乾いてやや丸まりながらも指分かれの形を残したそれらはまさしく褪せたメイプル色で、つまり赤味と香ばしいような茶色と白さが微妙に配合された色合いで、クッキーのようでもあり蟹の死骸のようでもあり、(形からイメージするに)世俗の星屑のようでもあった。ホームのベンチは埋まっていたので先のほうに進む。手帳を出してメモ書きをはじめてまもなく電車が来たので乗り、乗っているあいだは座れず揺られて文字が書きにくいので扉前で瞑目し、着くと客が去ったあとに座っていくらか書いた。
  • 職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 駅に入って乗車。扉前に立っていると(……)もあとから乗ってきて、ほほえみとともに会釈するとこちらの近くで止まったので、座りますかと言って腰掛けた。それで先ほどの苦情電話についてちょっと話し、別れ際には、今日色々やってもらってありがとうございましたと礼を言って降車。最寄りからの帰路にとりたてて記憶はない。というのは、苦情の件について考えを巡らせていたからだろう。それで帰宅するとインターネットで、(……)情報を検索したのだが、求める情報どころかそれに近い内容のものすらちっとも出てこない。(……)のホームページを検索してもそうなのだ。
  • それで余計な時間を使ってしまったのだが、飯に行くとものを食べながら母親に、今日苦情の電話があったよと報告し、詳細をちょっと説明した。話の内容は上述したものとおなじようなことなので省略する。入浴を終えて部屋に帰るともう一時過ぎだったのではないか? この夜半はだらだらしてしまい、三時にかかってようやく書抜きをすることができたのみである。プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)を終わらせ、新聞記事もちょっとだけ写すと三時四〇分、四時一五分に消灯する目標だったので日記の加筆は断念し、ベッドに移ってドストエフスキーを読んだ。シャートフがニコライ・スタヴローギンを殴ったのはそれまでのほのめかしどおり妹ダーリヤが何かしら関係していると思っていたのだが、そうではなかった上に、マリヤ・レビャートキナ嬢は実際にスタヴローギンの正妻だったらしい(本人がそう言っている)。シャートフの動機は、「あなたの堕落に対して……虚偽に対して」(458)と言われているが、どういうことなのかあまり判然としない。ただその後のやりとりを読むに、シャートフはスタヴローギンから絶対的なまでの思想的影響を受けたようでほとんど彼を熱狂的に崇拝せんばかりなのだが、その偉大なるスタヴローギンが(よくわからない革命組織か何かの)「会員」であること(そしてレビャートキナと結婚したこともだろうか?)などに激しく落胆し、激昂したというような心理のようだ。シャートフにせよキリーロフにせよスタヴローギンから多大なる影響を受けたらしいし、今日(一一月一〇日に)読んだところではレビャートキンも彼を(心の底まで完全にではないにせよ)仰いでいて、みんなやたら彼のことを偉大な人間と評価し、「旗印」とか「首領」として持ち上げ、かつぎ上げようとするのだが(とりわけピョートル・ヴェルホーヴェンスキーがそうだ)、そのわりにスタヴローギンの偉大さとか有能さを描写する実体的なエピソードというのはここまでなかった気がする。そもそも彼についての情報量自体そう多くはなく、いままでの記述からこちらが理解している彼の像というのは、美丈夫であり、何事にも動じることのない感情的な冷淡さをそなえており、決闘や殺人も無情熱にこともなげにやってみせかねない恐れ知らずであり、過去にはとりたてて理由もなくいくらか突飛な行動を取って(人の鼻をつかんで引き回すとか、他人の妻に突然接吻するとか、あと耳をかじるなんてこともやっていたか?)社交界の顰蹙を買い、狂人なのではないかという噂を得たというくらいだ。やや常軌を逸した人間ではあるらしいのだが、どういう点において偉大であり、崇められているのか、そのあたりまだよくわからない。
  • この小説は、キャラクターとしてはけっこうどの人物も立っているような印象で、その点やはり巧みなのだろうなと思う。スタヴローギンは上述のように謎めいた冷徹な魔王みたいな感じだし、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーは一癖も二癖もありそうな道化、リプーチンは胡散臭く低俗だし、キリーロフは出番がすくないわりにやたら思弁的なことを吐くので印象深く、レビャートキンは実に卑俗な小悪党だが一方で詩なんか書くものだから妙な感触で、ステパン氏はこれも道化的だが息子ピョートルとは違い皮肉っぽさがなくて真摯(紳士)な分余計に滑稽で、ワルワーラ夫人はいかにもなマダム、といったところだ。多弁で道化っぽい人物がなかでもけっこう生き生きと光っていてこちらは好きというか、自分でもいつかこういうキャラクターをつくってみたいなということはちょっと思う。


・読み書き
 13:06 - 13:27 = 21分(2020/11/9, Mon.)
 13:27 - 13:59 = 32分(2020/11/8, Sun.)
 14:11 - 15:01 = 50分(2020/11/8, Sun.)
 15:07 - 16:26 = 1時間19分(ドストエフスキー: 396 - 455)
 27:04 - 27:21 = 17分(レーヴィ)
 27:24 - 27:41 = 17分(新聞)
 27:42 - 28:15 = 33分(ドストエフスキー: 455 - 472)
 計: 4時間9分

  • 2020/11/9, Mon. / 2020/11/8, Sun.
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 396 - 472
  • プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年): 書抜き: 329, 339 - 340(終了)
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月7日(火曜日)夕刊: 3面
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月8日(水曜日)朝刊: 7面

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • EaglesHotel California』
  • Guillaume de Chassy & Daniel Yvinec『Songs From The Last Century』