2020/11/11, Wed.

 (……)「ある種の行為遂行的発言は、舞台上の俳優によってなされたり、詩の中に導入されたりすると、独特の仕方で[﹅6]空虚になったり、無効になったりする[原注18: J. L. Austin, How to Do Things with Words (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1975), p. 22〔J・L・オースティン『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店、一九七八年、三八頁〕.]」(強調はオースティン)と主張する時、オースティンが異議を呈しているのはその動詞の使用法ではなく、その主体のステイタスである。この議論に拠るなら、間主体的な状況は、詩の場合、虚構化されている。つまり、語っている主体は登場人物や俳優であり、〔現実的な〕人間ではない。しかし、(オースティンがしばしば力説する)行為遂行的発言すべての慣例を考慮した時、はたして、審議の開始を告げる議長、赤子に洗礼を施す司祭、評決を伝える裁判官が、登場人物というよりむしろ〔現実的な〕人間であると言えるだろうか。次のように言う時、オースティンが認めているのはまさにこのことである。「船上の船長であるがゆえに、あなたが真正の権威を有している場合とは違い、あなたがもし孤島で……「権威を主張し」ようとしても、私はあなたからの命令を受け入れない[原注19: ibid., p. 28〔同書、四九頁〕. 人間間における慣例的権威から「自然的」権威への立ち戻りについて研究するなら、オースティンの言う孤島を舞台とする映画、『流されて〔Swept Away〕』のようなものが生み出されることになるだろう。ここでの立ち戻りは言葉によって――この場合は、行為の犠牲者ではなく、その加害者が発するノー[﹅2]〔no〕という語による、ある行為の中断によって――不可避的に逆転されることになるだろう。]」。このように、行為遂行的発言は、発言者を慣例化された権威の代弁者に仕立て上げる時、その発言者を自動的に虚構化するのだ。例えば、党の慣例[﹅2]以外のどこで、大統領候補者を指名できるだろうか。主体という虚構の背後には、社会という虚構が控えている[原注20: 「擁護救済〔Sauvegarde〕」(Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes (Paris: Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》), p. 419〔「擁護救済」豊崎光一訳、『マラルメ全集』第Ⅱ巻、三四八頁〕)における、マラルメの社会[﹅2]〔société〕という語についての説明を参照せよ。「〈社会〉、哲学者たちの遺産である、この最も空疎な語には、少なくとも以下の点で、好都合で簡単なところがある。つまり、この厳かな概念が呼び覚ます厳命に似たものは、ほとんど事実の中には存在しないので、それについて弁じることは何の主題も扱わないか、うんざりして口を閉ざすに等しいということである」]。なぜなら、社会は(近親相姦の)禁止、あるいは(社会)契約から始まったと述べるにしても、それは、行為遂行的発言の背後にある権威の起源は、究極的な起源が確定できないそれ以前の行為遂行的発言から演繹される、と述べているにすぎないからである。もちろん、こうしたお前も同類といった反駁[﹅11]〔tu quoque〕方法を用いてここで行おうとしているのは、詩と評決の差異を無効にすることではなく、そうした区別の根底にある臆説をひとえに問題視することなのだ。人々が詩ではなく、評決によって処刑されるとしても、その理由は、法は虚構ではないから、とはならないのである。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、102~103; 「4 詩と行為遂行的言語 マラルメとオースティン」)



  • たぶん一番最初に覚めたのは九時頃だったと思う。カーテンをひらいて陽射しを取り入れ、瞳にも吸収して起床を目論んだのだが、目を閉じて眩しさを受けているうちに意識が飛んだ。その後も飛び飛びに覚醒を見たが結局は正午前である。どうもすみやかに起きられないが、消灯はだんだんはやくなってきているし、滞在も八時間弱程度に概ね定まってきているのでまあ良いだろう。
  • 母親がいったん帰宅していた。朝から仕事で、弁当を持っていって帰ってこないと聞いていたのだが、どうやらメルカリで売ったサンダルを発送のため取りに来たようだ。もろもろ済ませるとこちらも煮込みうどんやメンチで食事。新聞を見るとナゴルノ・カラバフ自治州を巡るアルメニアアゼルバイジャンの紛争が一応完全停戦に至ったと。アルメニアが事実上敗北を認めて、自治州周辺の地域を段階的にアゼルバイジャンに譲渡(返還?)していくことが決まったとかいう話だし、今回アゼルバイジャンが奪還した地域もそのまま維持されるらしいので、アルメニアは実効支配地域をかなり失うことになる。そうすると当然国民は黙っていないだろうと思ったところ、さっそく首都で停戦合意に反発する人々が国会に押し入って議長などが負傷したと言う。その他米大統領選を受けて、分断の修復は困難な道だろうとか述べる記事。今回の大統領選前の世論調査では、支持候補が負けたとき暴力の行使は正当化されるという考えに同意した人々が、共和党側も民主党側もそれぞれ二割いたらしい。現状は南北戦争以来最大の分断などと言われているようだ。
  • 食器と風呂を洗って帰室。緑茶で一服しつつコンピューターを準備し、FISHMANS『Oh! Mountain』とともにひとまずここまで記述。今日は四時半には家を発つ必要がある。そして帰宅後はWoolf会だから読み書きほかの時間はあまりない。昨日一一月四日まで仕上げられたので、前日分を仕上げることと、一一月五日を完成させることがとりあえずの目標だろう。三時前くらいにはベッドに移って休身したいが、最近音読ができていないのでそれもこなしたい。To The Lighthouseの英文も確認しておかないと。
  • 前日分に取り組む。まもなく一時半に達したので洗濯物を入れに行った。ベランダにまだ陽射しは溜まっており、心地よく温かい。西方の太陽を見上げれば林の上端までけっこう間があるが、あと三〇分もすればこれが梢に触れはじめるのだからだいぶ急激な下降具合だ。日向のなかに座りこんで肌に光を吸わせながらタオルなどを畳んだ。洗面所に運んでおくと、下着や靴下などを整理しておいて室に帰還。日記をふたたび進めて、二時一六分で前日分が完成。そこそこの働きぶりである。あと出発までにできるのは読書兼休身と音読くらいだろうか。
  • 読むのは引き続きドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。三時半で書見を切り上げて上階へ。ピザパンを温めて持ち帰り、食いながら「偽日記」を覗いたのだが、直近の記事が面白く、めちゃくちゃアクチュアルな内容だと思った。一一月四日付のものと三日付のもの。

●たとえ負けたとしても負けを決して認めず、相手が不正をしたせいだと言い張れば、少なくとも味方に対する面目は保たれる。たとえ何の根拠もないデタラメであっても、強い口調、強い言葉で語り、間違いを指摘されても揺らぐことなく、飽くことなく堂々と言い続けていれば、それを信じてしまう人が一定数いる。あるいは、信じるまではいかないとしても、でまかせを発し続けることで、何が事実なのかわからない混乱状態を作り出し、どうせほんとうのところなど分からないのだし、それぞれの人が自分の信じたいものを勝手に信じているに過ぎないという冷笑的な態度へと人を誘う。これらのことは現実の軽視であり、もっと正確に言えば「現実(リアル)があるという信頼」の破壊だろう。

(「現実があるという信頼」には実はしっかりとした根拠がないので---「現実」は根拠のない「信」によって支えられているので---それは割と容易に失われる。「現実があるという信頼」によって可能になる最大のものは「間違えることができる」ということだと思う。すべては等しく「虚」であるとしたら、何をやっても、何を言っても、間違えることができない。間違えることが出来なければ、軌道修正することもできない。)

このような状態で可能になる、ある特殊な「現実主義」というものが考えられる。ここで言う「現実主義」とは、「現実があるという信頼」を破壊することで、「現実は変えられる(間違いを正すことが出来る)」という希望を消失させ、ただ、自分の都合のいいように他人を誘導し、従わせることを通じて自分が得ることのできる利益の有無だけを「現実(2)」と言い張るような主張のことだ。これはいわば汎政治主義とも言えるもので、ここでは(あらゆるものが等しく「虚」であるなかで)政治的な権力の増大を賭けた権力闘争のみが「現実(2)」ということになる。「現実主義」においては、権力の増大が正しさであり、縮小が間違いとなるだろう。

     *

とはいえ、このようなやり方で実際に自己の権力の増大を実現できるのは、ごく限られた一部の人のみだろう。ほとんどの現実主義者は、権力闘争に負けつづけることで、勝者の養分となる。だが、そうであったとしても、「現実」に追い詰められ、「現実」に痛い目を見させられつづけた人にとって、「現実があるという信頼」を破壊することを通じて権力の増大を実現させている人を見ること、そのような人へ共感(同一化)することは、強い快楽を伴うであろうことは容易に想像される。というか、勝者になれない場合は、勝者への同一化を通じた快楽以外に、欲望を満足させる方法がない(破壊によって権力の増大を得る者への同一化により、破壊そのものが快楽となる)。一方、「現実があるという信頼」を擁護する立場にあってもなお勝者であり得る人(既得権に守られたエリート)に対しては、強い憎悪をもつだろう。故に、前者が後者を踏みにじるような言動に対して、拍手喝采を送ることになるだろう。それはとても気持ちのよいことだろう(だから止めるのは難しい)。

     *

(現実的には複雑な問題に簡潔な解答を与えてくれるので、不安な人がそれにとびついてしまう、というような陰謀論についての説明は十分とは思えない。常識的な理解---表---とは異なる隠された秘密---裏---があること、そして、それを知っているのが迫害された少数者であること。そして、その理路に独特のオカルト的平板さがある---現実的な厚みが失われている---こと。そのような形の物語がもつ、抗いがたい引力があるように思われる。)

     *

陰謀論は、現状に対する危機意識をもつ人が、ほんらいならノイズとして処理すべき小さな揺らぎを徴候のように拾ってしまい、そこに過剰な意味を見いだすことから始まるように思う。そして、小さな疑惑が、一つの世界観=体系を要請し、発展して、そのまま固着化してしまうのではないか。故に、繊細なアーティストのような人こそが陰謀論に弱かったりするだろう。陰謀論へのセキュリティとしては、できるだけ広く、多角的に情報を収集するということくらいしか思いつかない。しかし、陰謀論が「最新の情報の中途半端な理解」によって組み立てられていることが多いことを考えると、そして、陰謀論の否定が、「常識的に考えておかしいでしょう」ということ以上のところでは、悪魔の証明のように困難になってしまうことも考えると(ファクトチェックのファクトチェックのファクトチェック…、と懐疑は原理的にはどこまでもつづく)、常にアンテナをはり、常識にとらわれずに自分の頭で考える人だからといって、陰謀論を避けられるとは限らない。

(むしろ、「そんなこと常識的にありえない」といって、それ以上の情報収集も思考も打ち切ってしまうような、凡庸で常識的な人こそが、陰謀論に強いのかもしれない。)

     *

(陰謀論者においては、おそらく常識的な現実の基盤への信頼が崩れているので、そこに常識、論理、ファクトのようなものをあてても効かないのではないか。)

  • その後のことはメモもないしさほど覚えてもいない。一日のなかで心臓の痛みを感じる瞬間がときどきあって、昔の心臓神経症の感じとは違うようで、精神的なものではなく何かしら器質的な要素が基盤にあるのではないかと思ったのだが、一一月二二日現在は感じることがなくなったのでたぶん問題はない。(……)
  • 帰宅後はWoolf会。今日の該当箇所は以下。

 Ⅱ

‘No going to the Lighthouse, James,’ he said, as he stood by the window, speaking awkwardly, but trying in deference to Mrs. Ramsay to soften his voice into some semblance of geniality at least.
 Odious little man, thought Mrs. Ramsay, why go on saying that?


 Ⅲ

‘Perhaps you will wake up and find the sun shining and the birds singing,’ she said compassionately, smoothing the little boy's hair, for her husband, with his caustic saying that it would not be fine, had dashed his spirits she could see. This going to the Lighthouse was a passion of his, she saw, and then, as if her husband had not said enough, with his caustic saying that it would not be fine tomorrow, this odious little man went and rubbed it in all over again.
 ’Perhaps it will be fine tomorrow,’ she said, smoothing his hair.

  • さほど難解な場所ではない。大きく話題になったのは後半にある"she saw"の役割くらい。この"she saw"はどこまでカバーしているのかという話で、直接に対象となっているのはたぶん"This going to the Lighthouse was a passion of his"の部分であり、そのあとの"and then"以下はおそらく文法的関係としては"she saw"とは切れているのではないかと思うのだけれど、ただWoolfのこの小説ではseeとかthinkとかそういう動詞は人物の内面を指示していわゆる自由間接話法に入るスイッチみたいなものとして機能していることが多いようなので、ここもまあ"This going"以下全体を台詞調の訳にしたほうが良いんではないかとまとまった。あとは"with his caustic saying that it would not be fine"とかがわざわざそのまま反復されているのが気にはなる。そして、"rubbed it in all over again"を(……)さんが「傷口に塩を塗る」と訳していたので、なるほど! と思った。rub inという熟語はここよりも前、一番最初のほうでも一度出てきていて("it was odious of him to rub this in, and make James still more disappointed")、嫌なことをわざわざ繰りかえして言う、みたいな意味があるらしくそれで了解していたのだけれど(岩波文庫の訳では「いやなことを駄目押しするように言って」)、rubの中核的意味は「擦る」なわけで、まさしくこの慣用句のニュアンスだと膝を打つ思いだった。
  • この日はまた、平井正穂編『イギリス名詩選』から冒頭のEdmund Spenser, "The Song of the Rose"を一連だけ読んだ。英語のリズムとか韻とか表現法とかを学ぶためにこの本から毎回一篇ずつ詩を読んでいかないかという話になっていたのだ。こちらはまだ同書を入手していなかったので画像を貼ってもらって参照したが、古英語もしくは中英語がふんだんに使われていてなかなか難しい。ただその分むろん勉強にはなるわけだし、昔の言い方(dostとかdothとかthyとか)を押さえれば、右ページに和訳も乗っているわけだし、こまかく照らし合わせてわりと理解できそうな感じではあった。この次の週(すなわち一八日)にはこちらもすでに同書を持っており、この詩全体を扱ったので、記録はその日の記事に譲る。
  • あと本篇の前後にその他の雑談としてあったのは、まず佐々木中の選書リストのことがひとつ。何かの拍子に(……)くんがこれのことを思い出し、紹介文がけっこう面白いと言って画像を貼ってくれたのだ。選書内容としてはだいたいが哲学や文学方面でまあ予想されるものだったが、なかにひとつ、矢内原伊作ジャコメッティ』が挙げられていてそれがちょっと意外だった。美術方面の本はたぶんこれだけだったと思う。矢内原伊作というのは戦前に大学を追放された矢内原忠雄の息子だったはずで、ジャコメッティの友人だったとこちらは理解しており、みすず書房から出ている本(『ジャコメッティとの日々』みたいなやつもあったはず)をおりおり見かけてわりと気になっていたのだが、(……)くんがより詳しいことを教えてくれた。矢内原伊作はもともと留学としてパリに行ったのだが、サルトルだったか誰だったか忘れたけれど誰かの紹介でジャコメッティと会い、なぜか絵のモデルになってほしいと頼まれて、勉強しに行ったはずが一年くらいずっとジャコメッティのアトリエでモデルをする日々が続いたのだと言う。そこで目にしまた交友したジャコメッティの様子を描いたのが上記の書ということだろうが、(……)くんによればジャコメッティというのは本当に毎日毎日、来る日も来る日もひたすら呻吟しながら職人的に制作を続けた人間らしく、これじゃ駄目だ! 全然駄目だ! もっと勇気が! 私にあとほんの一握りの勇気があれば……! 続けるんだ! ただ続けるんだ! ここからまたはじめなければ! とか苦悶しわめき散らしながら日々がんばっていたということだ。そのあたり、Fさんに似たものを感じるんですよねと彼は言っていた。そういう話を聞くとやはり興味は湧く。(……)くんが貼ってくれた画像から佐々木中の紹介文を引いておくと、「「藝術が死んだ」というのは、支離滅裂で荒唐無稽な、真っ赤な嘘である。疑うならこの本を読めばいい。絵を描き、作曲し、ダンスを学び、楽器を弾き、ものを書くひとびと万人に勇気を与える本。「ともかく続けなければならない。絶対に放棄してはならない」。「いままで何をしていたのだろう。ここから始めるべきだったのだ。いよいよ始まる!」」とのこと。「ともかく続けなければならない。絶対に放棄してはならない」というのはたしかにこちらの信条と一致している(まあ、二〇一八年には一時放棄してしまったが)。
  • (……)
  • 通話の最後のほう、すなわち二時頃には(……)さんがいま書いている文章のために明治期の手記史料を読んでいると言い、(……)くんのもとめに応じてくずし字で書かれた記録の画像を見せてくれた。めちゃくちゃ大変だと言っていたが、たしかに何が書いてあるのか一見してわからない文字で、特にひらがながわからず、むしろ漢字のほうが判別できるような調子だった。一応基本的なくずし方のマニュアルというか、判読するための辞典みたいなものはあるらしいのだが、こまかなところは個々人の書き方や手癖によるわけで、全然わからない部分は本当に全然わからないらしい。まさしく暗号解読というか、ヒエログリフを解読した人みたいだなと思った。しかしこういうことを地道にやってくれる人々がいるから歴史資料というものが成り立ち、印刷頒布されて読むことができるわけで、めちゃくちゃ重要で価値ある仕事であることは疑いない。敬意を覚える。


・読み書き
 12:57 - 13:13 = 16分(2020/11/11, Wed.)
 13:14 - 13:27 = 13分(2020/11/10, Tue.)
 13:44 - 14:16 = 32分(2020/11/10, Tue.: 完成)
 14:17 - 14:21 = 4分(2020/11/11, Wed.)
 14:36 - 15:28 = 52分(Woolf / ドストエフスキー: 538 - 561)
 15:46 - 15:49 = 3分(2020/11/11, Wed.)
 16:08 - 16:25 = 17分(英語)
 21:20 - 21:49 = 29分(ドストエフスキー: 561 - 582)
 26:56 - 27:26 = 30分(2020/11/5, Thu.)
 27:39 - 28:13 = 34分(ドストエフスキー: 582 - 604)
 計: 3時間50分

  • 2020/11/11, Wed. / 2020/11/10, Tue.(完成) / 2020/11/5, Thu.
  • Virginia Woolf, To The Lighthouse(Wordsworth Editions Limited, 1994): 確認: 11 - 12
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(上)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 538 - 604
  • 「偽日記@はてなブログ」: 2020-11-04 / 2020-11-03
  • 「英語」: 322 - 333

・音楽