2020/11/13, Fri.

 言葉の論理が発言者と発言とのある種の不連続性を全面的に回避不能にすることは、まさにそれを回避しようとするオースティンの試みによって事実上証明されている。というのも、彼が「純然たる行為=遂行〔mere doing〕」を名指すために使用する用語、芝居性を排除した形式に与える名辞こそ、実はその芝居性を最も一般的に名指す[﹅3]もの――すなわち、演じる[﹅3]=遂行する[﹅4]〔perform〕という用語――にほかならないからである。だが、これではまだ反語的に不十分と言わんばかりである。これとまったく同じ分裂は、オースティンお気に入りの別のもう一つの用語――すなわち、行為[﹅2]〔act〕――の中にも見出すことができるのだ。私たちはなぜ、純然たる行為の遂行〔the mere doing of an act〕を最も簡明に表現するはずの〔行為という〕用語によって、行為すること〔acting〕の問題へと必然的に導かれることになるのか。確実性の問題がすでにその議論のために使われる用語自体を転覆している時、いったいどうしたらそれを議論できるのか。言葉が指向対象に接近する瞬間、指向対象をそれ自体から引き離すのと同じ分裂が、まさに同様の流儀で、言葉を言葉自体から引き離すことを回避できるだろうか。そして、言葉ははたして、そうした分裂以外の何かを指向できるだろうか。オースティンが明確に表明しなかった問いが、「私たちは語る際、実際何をしている[﹅4]のか」であったとすれば、他に何をしていようと、ともかく、私たちがみずからの言葉に「欺かれている〔done in〕」ことだけは明白になる。私たちの言明がどれほどそれ自体と異なっているかを理解できないということが、まさに私たちを[﹅4]遂行している〔perform us〕のだ。「詩人は言葉に主導権を譲り渡す」という表現は、どう考えても聞こえほど単純ではない。まさにオースティンが彼の視界から冗談・劇・詩とともに排除している語群に主導権が譲り渡される時、それらの言葉は必定的に報復を開始する。しかし、最後にからかわれているのがオースティンだとすれば、それが結局、唯一の〈詩的〉公正さということになるだろう。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、112~113; 「4 詩と行為遂行的言語 マラルメとオースティン」)



  • 九時台にわりあいはっきりとした覚醒を得て、ついに来たかと思ったところが、陽を浴びながらもいつの間にかまた寝ついて、最終的に一一時半。しかし滞在は七時間二〇分なので悪くない。ゴミ箱や急須などを持って上がり、ジャージに着替えて寝起きのルーティン。髪は寝癖もほぼなかったし、櫛付きドライヤーで梳かすだけ。食事はキーマカレー。今日は三時半過ぎに家を発つようなので、三時前くらいにまた食べるつもりですくなめによそる。新聞からは三面の、ジョー・バイデン菅義偉の電話会談についての情報を読む。日米安全保障条約尖閣諸島にも適用するというのは、日本側が持ち出す前にバイデンのほうから進んで明言してきたらしい。日本側としては今回は多少の交友を得られればそれで良いというスタンスで、突っこんだ話はしなくても良いと考えていたところ、向こうからその話題を持ち出してきたので、おーっ、と思った、という同席者の言が紹介されていた。ある政府高官によれば、「一〇〇点満点」とのこと。
  • 食後は母親の分も食器を洗い、さらにアイロン掛けと風呂洗い。そうして緑茶を持って帰室。slackをひらくと(……)さんから返信が来ていた。先日彼女が"(……)"の星の海をイメージした制作の途中写真を上げていたのに、これはどういう道具でどうやってつくっているのかと質問していたのだ。アクリルガッシュという樹脂絵の具を用いているとのこと。即座に検索したところ、ガッシュ(gouache)というのはアラビアガムを混ぜて練った水彩絵の具らしい。ほか、「オペラ」という色名があることを知った。
  • FISHMANS『Oh! Mountain』とともにここまで書いて一時過ぎ。一時半ごろには洗濯物を入れる必要がある。そして二時過ぎくらいには休身に入りたい。今日は出かける前に音読もこなしたい。今日を乗り切れば土日が休みだ。その二日のあいだに書店に行って、『イギリス名詩選』も入手したい。やることが多い。全然働きたくない。昔に比べると塾の労働もそんなに悪くないと思うようになり、ときに面白味も感じるが、やはりできれば働かないで済んだほうが良い。死ぬまで永遠に休日で良い。読むことと書くことと聞くものとなすべきことは無限にある。労働が嫌なのは、それに必ず数時間を取られるというその一事に尽きる。しかもだいたい毎日、コンスタントにそうである。やはり労働のある日と休日とではやれることやパフォーマンスはかなり違ってくる。せめてもうすこし休日を増やして、週三日の勤務か、週二日にしたい。しかしその程度の労働では当然金などいくらも稼げず、いつまで経っても独力で生計を立てることができない。なおかつこちらは文章を金に変える努力をする気がない。袋小路に行き詰まったまま、いずれどうにかなるだろうとも特に思っていないのだが、現状を意に介さずだらだら生きている。どこか過疎地帯の農村にでも移住して、畑をつくりながら読み書きするか? 地域共同体の滅亡を防ぐために移住者に家も金も提供するみたいなところがあったような気がする。しかし農作業だってそんなに楽ではないだろう。
  • 一時半を過ぎて洗濯物の取りこみへ。天気は快晴。雲はすこしもなかった。日向のなかにしゃがみこんで背に温もりを浴びながら、タオルなどをたたむ。室に帰ると音読。「記憶」記事から読んだのが以下の記述。

There are pages where, unexpectedly, amid the horror, a reader feels he has stumbled on a near-inconsequential diary entry. "It is lucky that it is not windy today," one such passage begins. The incongruity of anything being lucky in such a place strikes the diarist: "Strange, how in some way one always has the impression of being fortunate, how some chance happening, perhaps infinitesimal, stops us crossing the threshold of despair and allows us to live." In this way, too, we come to understand how living is possible, how, if it is the small things that demean, it can also be the small things that sustain. (……)

     *

The anger, also, is too close to the event to feel either tempered or cranked up. Seeing old Kuhn, a religious man, praying aloud and thanking God he has been spared selection for the gas chamber, Levi is furious that Kuhn does not realise it will be his turn next, that "what has happened today is an abomination, which no propitiatory power, no pardon, no expiation by the guilty, which nothing at all in the power of man can ever clean again … If I was God, I would spit at Kuhn's prayer."

It is a bitterly ironic thought, God spitting at a devotee's prayers, as though in such a place, where such crimes have been committed, it is a blasphemy to be religious. A blasphemy, too, even to think of pardon or expiation.

  • 二時半以降、からだを休めながら書見である。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)を進めて、三時一六分で切った。それから居間に行ってキーマカレーを少々腹に足し、そうすればもう出発しなければならない。歯磨きと着替えを手早く済ませて外出。マフラーを一応バッグのなかに入れたが、予想通りまだつける必要はなかった。空は綺麗な青に染まり尽くして、隅から隅まで本当に雲の一滴もない。虫の声は道になくなったけれどこの時間ならまだ鳥の鳴き声は盛んに立って、ヒヨドリが喉を張っている。枝にわずかに残ってまるまると膨らんだ柿の実の色が、振り返って見上げた目に鮮やかだった。(……)さんの家の前に(……)さんが立って話していたので、近づいていくと挨拶をした。(……)さんは草取りでもしていたようで、庭の前栽の向こうにしゃがみこんだ姿勢だった。(……)さんが歩いていくのと訊くので、(……)までとこたえると、でもそこまで歩いていくんだな、というような反応があった。前は(……)まで歩いてたんですけどね、最近は面倒臭くなっちゃって、と言うと、母親の車がどうこうとか返るので、僕は車乗らないんですよと告げる。免許はと訊くのに取っていないとこたえれば笑いが立って、それじゃあ運転できねえ、と言わずもがなのことが口にされた。そこで挨拶をして別れたが、後ろから(……)さんが、最近の若い人は車乗らなくても生活できるからねえ、都心のほうじゃみんなそうでしょ、というようなことを(……)さんに言っているのが聞こえた。しかしそこに、悪印象を持っているようなニュアンスは特になかったようである。
  • 最寄り駅から乗車。乗ると山帰りの姿が多く、近くの誰かから立っていたようで洗っていない靴下のようなにおいがしていた。車内には外国人のグループもあって、女性が大きな声で話すのを聞く限りロシア語のように思われたのだが、しかしなぜこちらにそれがわかるのだろう。ロシア語をきちんと聞いた機会など、去年の夏に訪露したときのほかにないはずである。
  • (……)で降りて職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • そのほかはメモも記憶もないので割愛。


・読み書き
 12:52 - 13:10 = 18分(2020/11/13, Fri.)
 13:10 - 13:26 = 16分(2020/11/12, Thu.)
 13:26 - 13:36 = 10分(2020/11/13, Fri.)
 13:52 - 14:09 = 17分(英語)
 14:10 - 14:20 = 10分(記憶)
 14:32 - 15:16 = 44分(ドストエフスキー: 77 - 108)
 22:32 - 22:42 = 10分(ドストエフスキー: 108 - )
 22:59 - 23:40 = 41分(ドストエフスキー: - 146)
 25:40 - 26:06 = 26分(熊野)
 26:06 - 26:37 = 31分(新聞)
 計: 3時間43分

  • 2020/11/13, Fri. / 2020/11/12, Thu.(完成)
  • 「英語」: 353 - 359, 1 - 10
  • 「記憶」: 191 - 193
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版): 77 - 146
  • 熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年): 書抜き: 10 - 13
  • 読売新聞2020年(令和2年)7月9日(木曜日)朝刊: 書抜き: 6面

・音楽
 28:17 - 28:30 = 13分