2020/11/14, Sat.

 とはいえ、網膜に与えられる、表面[﹅2]とほとんど分離できないその下で[﹅2]、何かある煌めき[﹅3]が不安を与えなかったとしても、――疑念を呼び覚ます。そこで、読者の中でも悪賢い連中は、話を中断せよと要求し、この内容はまさしく理解不可能だなどと、生真面目に意見を表明するのだ。(Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes (Paris: Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 1945), p. 382〔「文芸の中にある神秘」松室三郎訳、『マラルメ全集』第Ⅱ巻、筑摩書房、一九八九年、二七三頁〕. 強調はジョンソン、以下同様)

 つまり、隠されている可能性のある難解さをおぼろげに知覚することが、狡猾で気紛れな読者の疑念を引き寄せるのである。そうでなければ、この読者は文面が呈するいかなる理解可能性にも満足していただろう。換言するなら、難解さとは理解(可能性)への途上で遭遇する障害のようなものではなく、むしろ、読者が自身の読みに満足することを妨げるものとして、そうした障害の彼方に存在するものなのだ。難解さとは意味の欠乏ではなく、意味の過剰である。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、119; 「5 詩と統辞法 ジプシー娘の知ったこと」)



  • 一二時三五分に目がひらいた。油断した。消灯時間の点でも滞在の長さの点でも後退してしまった。今日は四時五分の消灯を目指す。
  • 天気は昨日と同様の快晴。こめかみのあたりをぐりぐりと、円を描くように指圧してから離床した。ゴミ箱や急須に湯呑み、それに不要になった新聞を持って上階へ。もろもろ済ませて手指にユースキンを塗ると(左手の人差し指の甲の側、関節となっている付け根のあたりがややカサカサして痒かった)、焼きそばで食事。テレビは『メレンゲの気持ち』で、山之内すずという若い人が出ていた。女優なのか? ゆるくて楽な服が好きでそういうものばかり着るのだが、それが同時に洒落たファッションになっていて、女性らから支持を得ているという話。その彼女は最近「ワークマン」の服が気になっていると言うのだが、なんでも「#ワークマン女子」と言って、女性用衣服の店舗が一〇月にできたらしい。「ワークマン」と言えば吉幾三がCMで歌っていたイメージしかないのだけれど(しかしいま脳裏に想起されるのは「ワークマン」ではなくて「新日本ハウス」のメロディのほうだ)、うまいことやったものだ。
  • 食事を終えた頃に母親が録画してあるなかから、「ナスD」という例の、世界の僻地を旅したりするディレクターの番組を再生しはじめた。今回は外国を旅行するのではなくて無人島で鮫を釣るという企画らしいが、まず断崖の途中に拠点となる家というか小屋めいたものをつくるところからはじめている。それがだいぶ面白くて、食器洗いと風呂洗いを挟みながら見てしまった。海に面した岩場に土嚢を集め、おそらく海岸で拾ったらしい流木などを使って即席で基礎と足場と床をこしらえていくのだけれど、この人なんでこんなことできんの、という手際の良さである。崖なので当然ごつごつとした段差があって不安定極まりないのだが、木材を上手に小さく切ってストッパーにしたり、流木を支柱として横に通したりして見事に補強し、安定させていくのだ。床ができたその上には、竹を火で炙って曲げながら組み合わせた骨組みでドームをつくり、それにブルーシートをかぶせてとりつけ、テントめいた空間を構築していた。たぶんこれをつくり上げるのに、四時間か五時間くらいしかかかっていないのではないか? まだ普通に陽射しが見える時間に終わっていたと思うので。サバイバルの能力が半端でない。かたわら鮫をおびき寄せる撒き餌にするための魚も釣っており、オジサンとか、ハリセンボンとかが登場した。オジサンというのは髭みたいなものを生やした赤い魚だが、海外ではGoat Fishと呼ばれているらしく、最近ではフランス料理などにも用いられているらしい(フランス語では「ルージュ」(rouget)と呼ばれると言う)。あと、グルクンとかいったか、沖縄料理なんかで使われるという魚も釣れていたのだが、これが青い光沢を輝かせたずいぶんと綺麗な魚だった。しかし興奮したときや死んだあとは体色が赤く変わるといい、したがってスーパーに並んでいるものはどれも赤いらしい。途中で釣ったベラを食っていたが、それも竹を炙るために焚いていた火(舟型の大きな容器めいたもののなかに木っ端や炭を入れていたよう)のなかにまるごと放りこんで、真っ黒に焦げるまで焼いてから皮を剝がしてかぶりつくという豪快な食べ方だった。これは伊豆大島の漁師に教わったと言う。とにかくサバイバーとしての知識や力、ありあわせの限られたものでどうにかやってしまうといういわばブリコラージュ的能力にすぐれた人で、めちゃくちゃすごいと思う。
  • それを見てから緑茶とともに帰室。すでに二時だった。FISHMANS『Oh! Mountain』を伴ってここまで記述。今日は休みだ。(……)日記と書見をできるだけ進めたい。だがまずはからだを和らげることが先決だ。明日は『イギリス名詩選』を買うために立川に出るつもりでいる。ついでにまたちゃんぽんも食いたい。両親は明日、(……)ちゃんが七五三にあたるということで、当人は遠くロシアにいるものの(……)で彼女の健康を祈願してもらうと言う。
  • ベッドに移行して読書に入る。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)である。ピョートルの気違いじみた、熱に浮かされたような思想の開陳。『族長の秋』の大統領だったら、あいつは駄目だ、羽根に熱が籠っている、と評したことだろう。言っていることは普通にやばくて狂っているのだが、語りぶりには大仰な勢いがあるし、ぶっ飛んだ譫言の調子が面白いので書き抜くことにした。この小説もいよいよ佳境に入りつつあるようで、いままで詳細には語られなかったピョートルらの活動や、その「革命」思想の内実が明らかになってきた。先日のWoolf会でちょっと話題に上がった際に、(……)くんがこの作品を、駄目な、しょうもない左翼たちによる笑劇を見せられている感じ、みたいな言葉で評していたと思うが、実際わりとそんな感じで、ピョートルが、「一億人」の首をはねる暗殺的「破壊行動」によって「混乱時代」を生み出すなどと豪語しているあたり、頭がおかしいとしか言いようがないのだけれど、ところがこの小説が書かれてから五〇年も経たないうちに、まさしくロシア革命と呼ばれている爆発的事象が現実化してしまったわけで、この世の中そのものとその歴史もまた頭がおかしいものだ。きっと実際、一八七〇年代あたりにはこういう連中がロシア全土にうろうろしていたのだろう。そのなかからいかにしてレーニンとかが出現してきたのかということにも興味を惹かれる。ところでこの小説はさまざまな思想的意匠が盛りこまれてはいるものの、それを主軸に据えたというか真っ向から思想を対象にして検討や考察をしようとした作品のようにはあまり感じられない。思想形成の過程とかそのあいだの懊悩とか、思想内容のこまかな分析とかを主題として描いてはいないように思う。思想的立場の異なる人々同士のぶつかり合いはときどきあるものの、それはせいぜい夜会で言い合う程度のささやかな小競り合いにすぎないし、そこでおのおのの考え方はすでに固まっていて、衝突が起こったからと言ってそれが変容していくわけでもない。ある思想(あるいは複数の思想)を具体的な形で展開させて描出するというよりは、混淆とした総体的なドタバタ劇としての趣が強いように感じる。いわゆる群像劇と言って良いのかわからないが登場人物はやたら多いし、性質も立場も多岐に渡るので、彼らがうごめき関わり合うさまを通して当時のロシアの時代的様相を活写したというのがおそらく常套的な整理になるだろう。実際、もろもろの発言などを見るに、キリスト教的価値観がその圧倒的支配力を失い、抗いようもなく権威として失墜していきながらもまだ死にきってはいない、という過渡期の雰囲気がよく感じ取られる。要するに、ニーチェの時代ってこういう感じだったんだなあという印象だ(実にありがちな感想だし、いまだってすがる先が何もないという点ではさほど違いはないというか、むしろこの時期のロシアやヨーロッパにけっこう似ているのではないかという気もするが)。
  • いま下巻の二五〇ページあたりまで来ているが、ここまで読んでいてこちらとして面白かったのは、レビャートキン大尉のような卑俗な人物の生き生きとした滑稽さや台詞回し、それにピョートルなどのぶっ飛んだ思想的発言、会合における辛辣で罵倒的な議論のやりとり(特に威勢の良い女性が男性を問答無用でやりこめるさま)などで、総じて、「高尚」とされるような政治的テーマとか天下国家論のほうを志向していながらも、避けられずにじみ出て露わになる猥雑さ・猥俗さみたいなニュアンスが面白いのかもしれない。「高尚」さなどとは無縁の、はじめから徹底して低俗な連中もむろんいるが(レビャートキン大尉はもちろんそのひとりだ)。あとはいくつかのこまかな表現上の言い回しなど。力のある描写がどうこう、という小説ではこれはないと思う。やはり聖俗入り乱れて非常にごたごたしたような感触が、ドストエフスキーっぽいところのひとつなのかな、と思ったりもする(『地下室の手記』とか『罪と罰』とかはもっと思弁に寄った小説なのかもしれないが)。
  • 二時間続けて書見。二時間くらいベッド上で脚をほぐしたり各所を指圧したりしていると、からだは相当に楽になる。五時を回って上階に行き、食事の支度。今日も煮込みうどんを拵えて食べるつもりだった。母親は外出から帰ってきたところで、野菜や牛肉などを買ってきたらしい。米がなかったので新たに磨いですぐに炊いておき、うどんをつくるべくタマネギ・大根・キャベツを切り、色々混ぜて用意した汁のなかで煮る。かたわらでは母親が生サラダをつくったり、天麩羅の用意をしたり(渋柿の利用法がほかにないのだ、とのこと)。フライパンで麺を一束だけ茹で(八分ほど待つあいだは、腰周りのストレッチ)、鍋に投入すると完成、焼きそばの余りと一緒に卓に並べて食事をはじめた。そのほかは大根・キャベツ・ベビーリーフめいた葉っぱ・赤蕪だかラディッシュだかを混ぜたサラダと、茹でたほうれん草。食っているうちに天麩羅も揚がりはじめたので、水を取りにいったときにすこしだけもらった。新聞の夕刊には坐骨神経痛について説明されてあったのでその記事を読んだ。坐骨神経痛と総称されるなかには三種類くらいの原因形式があるらしく、ひとつは椎間板ヘルニア、ひとつは脊柱菅狭窄症だと言う(あとのひとつは忘れた)。背骨の中心部に脊柱管があり、そのなかを通る神経がなんらかの形で刺激されて痛みを生むというのが共通する症状だ。椎間板ヘルニアというのは名前はよく聞くものの実際どういうものなのかあまり理解していなかったのだが、背骨のあいだを埋める軟骨であるところの椎間板のなかにさらに髄核というものがあり、それがはみ出して神経を突く、というのがそれらしい。脊柱菅狭窄症は脊柱管がなんらかの要因で歪んだり狭くなったりしたときに、全体としての椎間板や、背骨の反対側にある靭帯が神経を刺激する、というもののようだ。
  • そのほか朝刊からいくらかの記事を読みながら飯を食った。韓国の議員連盟の会長だったかなんだか忘れたが、金振なんとかという人が訪日して菅義偉と会談したとのこと。その人以外にも日本からは河村建夫(やはり日韓議員連盟みたいなものの会長だか代表だかとか書かれてあった気がする)が韓国に行ったり、あちらからもほかの高官が来たりして交流は活発化しているらしいが、元徴用工への金銭的賠償を巡って持ち上がった問題そのものに解決の見通しは立っていないとのこと。あと甘利明自民党内の政策通として菅義偉に頼りにされているみたいな話もあった。甘利明はさまざまな議員連盟に属して座長などを務めているらしい(このとき書かれていたなかには、不妊治療への支援拡充を目指す議連みたいなものがあった)。菅義偉は調整役として彼に目をつけているとかいう話だが、甘利明安倍晋三とは「盟友」などと呼ばれるほどの関係だったらしいところ、菅首相とはそこまでの仲とは行かないだろうとのこと。おなじ神奈川選出の議員だった二人だが、甘利のほうが当選回数の多い先輩なので微妙な距離感があるようだ、という事情通のコメントが紹介されていた。
  • 食後は食器を片づけて緑茶とともに帰室。(……)The Police『Live!』(https://music.amazon.co.jp/albums/B00BK8DAXU)をバックにまず音読。言語(一般的命題)と具体例(物質的存在やその動き)との関係というものに一貫して興味がある。普遍 - 特殊間の変換様式というか、それがなぜ変換・共通できてしまうのか、そこでどのような認識的操作が発生しているのか、というようなことだ。それはひとつには論理学や範疇論のテーマであるはずなので、したがってアリストテレスの主題だと思うのだけれど、また一方でそのあたりをもっとも徹底的に探究した学者のひとりがたぶんポール・ド・マンなのではないか。音読ののちは今日の日記をここまで綴って九時前。急いで風呂に入らなければならない。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • そのほかのことは思い出せないので割愛。


・読み書き
 14:12 - 14:54 = 42分(2020/11/14, Sat.)
 15:00 - 17:07 = 2時間7分(ドストエフスキー: 146 - 248)
 18:38 - 19:01 = 23分(英語)
 19:02 - 19:31 = 29分(記憶)
 19:32 - 20:51 = 1時間19分(2020/11/14, Sat.)
 26:02 - 27:03 = 1時間1分(2020/11/13, Fri.)
 27:04 - 28:08 = 1時間4分(ドストエフスキー: 248 - 290)
 計: 7時間5分

・音楽