2020/11/15, Sun.

私は諸々の意図から出発した、人々が――彼らは文体が中立的なものだと想像しているのだが――文体に関し、己の表現が飛び込みによって暗くなることも、また、ほとばしるはね返りでずぶ濡れになる〔溢れ輝く〕こともないよう望むように。すなわち、法則である代替〔alternative〕に目を塞ぎながら。(Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes (Paris: Gallimard, 《Bibliothèque de la Pléiade》, 1945), p. 385/「文芸の中にある神秘」松室三郎訳、『マラルメ全集』第Ⅱ巻、筑摩書房、一九八九年、二七九頁)

ここでは、「暗くなる」と「さらに深く飛び込む」を同時に意味する動詞 se foncer によって、飛び込む[﹅4]〔plonger〕とほとばしる[﹅5]〔jaillir〕の対立が、暗さと光の対立に結びつけられている。「法則である代替」について述べたあと、さらに、統辞法は「これら諸々の対照の中〔で〕」旋回(軸)として作用する、と続ける時、マラルメはまさに、代替という事実[﹅7]〔fact of alternation〕をエクリチュール基本法則にしている。エクリチュールは曖昧さ〔難解さ〕、明快さ、いずれかの追求というよりも、むしろ、両者の代替、ちょうど時間が昼夜のリズム〔規則的な反復〕であるように、理解可能性と不可解性のリズム〔規則的な反復〕と化す。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、120; 「5 詩と統辞法 ジプシー娘の知ったこと」)



  • 九時半に一度覚めたのは枕の横に置いてあった携帯がふるえたからで、あまりひらききらない不確かな視界でメールを見ると(……)からだった。先日送った聖書は無事届いたか、いくらか読んでみたかとの問い。まだビニールを剝がしてすらいない。それからそこで起きられれば良かったのだが、カーテンをひらいて陽射しを顔に受け取りながらも意識が混濁しつづけて、結局はまた一二時半前の離床である。どうにも寝起きが悪いというか、目がひらいても身を起こすことにつなげられない。とはいえ日々のメンテナンスのおかげでからだ自体はさして重くも固くもないので、このまま消灯時間をはやめていけば良い。
  • 今日も天気は晴れ晴れしくすがすがしい。上階に行くと両親は不在。七五三の祈願はたぶんもう終わっていると思うが、そのあと飯を食いに行くとか買い物とかしているのではないか。頭のなかにはなぜかスガシカオの"奇跡"が流れており、それがじきにほかの曲にも変わっていった。食事は昨日の天麩羅が残っていたのでそれを取り分けて温め、米とともに卓に就く。食べながら新聞を見ると、昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王という人が日中戦争中に現地中国にいる皇族に向けて送った手紙が発見されたとの報があった。宛先の皇族というのは閑院宮春仁王という人で、この人は華北に出征しており、秩父宮は東京で参謀本部に属していたらしい。日付は一九三七年一二月三〇日と、もうひとつは忘れたが翌年の二月くらいだった気がする。つまりは旧日本軍が南京を占領したあとのことであり、南京事件についてどこまで内地に情報が伝わっていたのか知れないが、秩父宮は、日本軍の軍紀風紀の乱れをあらわす情報ばかり聞こえてきてまことに嘆ぜざるを得ず、遺憾と言うほかはないというようなことを述べていたし、戦場の常として看過して済む問題でしょうか、みたいな反語を投げかけてもいたので、やはりある程度は知っていたのだろう。当時陸軍内には中国戦線拡大派と非拡大派があって、秩父宮は事態の早期収拾を主張する後者の中心的人物だったらしい。だが拡大派の有力者に発言をたしなめられることもあり、制限のある悩ましい状況のなかでなんとか戦地にいる閑院宮に意見を伝えて働きかけようとしたのではないか、というのが保阪正康の言(彼は秩父宮の評伝を書いているらしい)。
  • 食後はいつもどおりのルーティンを済ませて帰室。FISHMANS『Oh! Mountain』。日記は当日前日を優先して作成しつつ現在時に追いついたら過去の書けていない日にもどるという方針でやろうと思っていたのだけれど、結局もろもろの要因で今日のうちに昨日の記事を仕上げるということすら満足にできていない現状である。たとえば今日一五日と昨日一四日を除く直近だったらその前の一一月一三日を完成できていないし、さらに一個飛んで遡った一一日分も未完成だ。それで思ったのだけれど、どうせ記述が間に合わないのだから、最近のことを覚えているうちにこまかく書くというのは一時諦めて、シンプルに過去のほうから順番に仕上げていくようにしたほうが良いかもしれない。とはいえ七月とかにもどって愚直にやっていても時間がかかりすぎるので、ブログがそこで止まっている一〇月二五日にひとまず立ち戻ってそこから書いていけば良いのではないか。それでとりあえずは現在まで追いつかせ、ブログへの投稿もコンスタントにできる状態を整える。あとはそれを維持しながら、過去の書けていない日にもどってつくっていく、という感じだ(数か月前のことなどむろん覚えているはずがないので、それらはメモしてある事柄をほとんどそのままなぞるような形になると思うが)。基本的にはやはり前から順番にすすめていくという愚直なスタイルに回帰するような良い気がした。そうするといくらか前のことを書いているあいだに直近のことを忘れてしまうわけだが、それはもう仕方ないとして割り切れば良いし、むしろ記憶情報が薄れて書くことがすくなくなれば労力の面で助かるという事情もあるし、どうしてもこれは記述しておきたいという事柄に関しては簡易にメモしておけば良い。そういうわけで、今日は一〇月二五日からすすめていくことにした。
  • あと、固有名詞の検閲とかバックアップについても昨日ちょっと思ったことがあって、まずバックアップの件だが、いま公開用のブログとはべつに完全非公開で日記の文章をまるごとそのまま保存しておくブログを使っている。そこではもちろん固有名詞も隠されずにそのまま載っているし、職場内でのあれこれも読めるようになっている。単純にバックアップの用途でそういうブログをつくっていたのだが、バックアップもインターネットを用いるのではなくて、何かUSBとかそういったものを使ってローカル領域にとどめたほうが良いかもなと思ったのだ。まあ普通に大丈夫だろうとは思うのだけれど、たとえばはてなブログの社員とかは覗けるわけだし、個人情報が流出するリスクがゼロではないので、そこをなるべくゼロに近くしたほうが良いかな、というわけだ。それで言ったらそもそもEvernoteだってインターネット上にデータをアップしておいてそれと同期するというソフトなので、同様のリスクはある。そこは仕方ないとして見過ごすか、それともこれもローカル領域にとどまるソフトに変えるべきか。Evernoteは正直便利なのでなるべく変えたくはないが、同様の用途で使えてなおかつウェブとの交通が生まれない情報整理ソフトがあるかどうか、とりあえず調べてみても良いだろう(というかEvernoteだってもうけっこう古いソフトのはずなので、いまだったらもっと良いものが出ているのではないか)。さらには、いま書いているうちに思い出したのだけれど、Evernoteにはあるノートブック(つまりノート=個々の記事をくくってまとめるカテゴリ)をローカル扱いにするかウェブと同期させるか個別に設定できたはずなので、それによって日記の記事だけはローカル扱いにすれば良いかもしれない。あとは適当な、やりやすいバックアップの方法を見つければこの問題はそれで解決だろう。
  • また、固有名詞に関してはいままでイニシャルにする方式と(……)で隠す方式との両方を同時に使っていて、後者は当然、より秘匿度を高めるべきものに施していたわけだけれど、これを全部(……)に統一したほうが良いかもしれないなと思った。そうするとブログに上げている文章を読む人からすると、たぶん個々人の区別がつきづらくなったりして読みにくくなると思うのだけれど、そのあたりまあべつに良いかというか、そういうものとして読んでもらえば良いや、というわけだ。なんというかこちらとしては生の記録をこの現世に生み出しておければとりあえずそれで良いわけで、今現在ブログを通じて読んでもらうということは本質的な問題ではない。それはついでだ。充分なというか、ある程度きちんとした記録を自分のコンピューターなりどこなりに残しておければひとまずそれで良く、それらをすべて人目に触れさせる必要はないし、その欲望も以前よりないということに気づいたのだ。職場のことをすべてまとめて検閲するようになったのもそういうことで、以前は職場内でのあれこれや子どもたちとの関わりも読んでもらったほうが面白いだろうなと思って固有名詞を検閲しながら晒していたのだけれど、実際のところ同僚があれを読んだらこれを書いているのはこちらだということがわかるはずで、そうなると面倒臭いことになる可能性もむろんある。こちらがブログに職場のことを公開しているというのが(たぶん)バレていないのは、こちらのブログがそこまで有名でないということと、やたら長いのでそれを読むような人間が職場にはいないというその二点が要因に過ぎない。しかし仮に職場関係の人が読まないとしても、なんらかのルートをたどってほかの人からバレるということも考えられないではないし、職場のことを人目に晒しているのがバレたらたぶんクビになるか、なんらかの処分は下されるだろう。クビになること自体はべつにどうでも良いのだが、金を払うことになったりとか、その他の面倒臭い事態が起こったりすると面倒臭いので、先日の会議でもSNS関連に職場のことを書きこむのは原則禁止と言っていたことでもあるし、もう全部カットしようと決めたのだった。繰り返しになるが、いまこのときに読んでもらうことはこちらにとって第一次的な問題ではない。とりあえず記録をつくっておき、そのついでに支障のない範囲でそれを公開しておき、一言一句隠されていない完全版もしくはオリジナル版はいずれ誰かが読めばそれで良いし、陽の目を見ることなくこちら以外に読まれないままに終わってもそれで良い。そして、職場周りのことを除いた固有名詞一般(作家名などはむろん省くが、個人的な人間関係のある相手や、地名など)に関しても全部隠していこうかなというのがいまの考えだ。とにかくなんらかの意味で面倒臭いことになったら面倒臭いので、なるべくそれは避けていきたい。実際、(……)くんなんか一部界隈では有名人だし、何か迷惑がかかる可能性がないとも言い切れないだろう。ただ、ブログにアップするときにいちいち固有名詞を拾って変換していくのはかなり面倒臭い作業だけれど。あと、過去の記事に関してはどうするかというのも問題で、職場のことについては気が向いたときに検閲処理を施していこうかなと思うが、固有名詞に関しては面倒臭いので昔の日記はそのままで良いだろう。
  • ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。この日は語り手の個人性が気になったようだ。前にも書いたはずだがこの作品の語り手「私」はあまり位置づけがはっきりせず、半端なような存在である。基本的には過去のことから距離を取ってただ事件を報告するだけの役割なのだが、その報告の動機については何一つ言及されていないというのがひとつ。また、だいたいの場合はそういう風に中立的というか、ときどきは自分の価値判断や推測を交えて述べつつも冷静に物事を語っていくのだけれど、たまに彼の個人的な感情性とか情念めいたものが露わになることがあるのだ。ひとつにはリザヴェータやステパン氏に関与するときがそうで、これはまあ「私」がリザヴェータのことを憎からず思っていて彼女に同情したりとか、ステパン氏とは付き合いの長い「親友」なので良いところも悪いところも知っていて親愛をこめて戯画化したりディスったりできる、という風に理解できる。ただより特殊なのはカルマジーノフのことを語る際で、「私」はなぜかこの大作家がとにかく嫌いであるらしい。彼がカルマジーノフを明確に批判していた大きな箇所は二つあったはずで、ひとつは上巻のわりと前のほう、ステパン氏の家に行く途中に街路でカルマジーノフと出くわしたところ、もうひとつは下巻の文学イベントでカルマジーノフが詩を朗読したところだ。下巻はともかくとしても、上巻(第一部第三章の2、ページで言うと155から162である)の箇所について言えば、ここは物語の流れからするとほぼ必然性のない挿話になっているように見える。その箇所でドストエフスキーは、訳注によればツルゲーネフの『トロップマンの刑死』というエッセイをもとにして(カルマジーノフのモデルはツルゲーネフらしいのだ)、話者にカルマジーノフをディスらせているのだけれど、物語上必要でない余剰に見えるものだから、どうしてもこれはドストエフスキー本人がツルゲーネフをディスりたかっただけではないのか? という印象を持ってしまうものだ。実際、たしかWikipediaに書かれてあったと思うけれど、この『悪霊』を機にしてドストエフスキーツルゲーネフは絶交したとかいう話である。話者はここの記述の冒頭で、幼い頃や若い頃は私もカルマジーノフの本に夢中になって愛読していたのだが、最近の作品は全然気に入らないとまず言っている。そのあと段落を変えて本格的にディスりはじめるのだけれど、その悪口がけっこう面白いのでいくつか引いておこう。「こういうデリケートな問題について私などが自説を吐くのもどうかと思うが、総じて言うと、こうした二流どころの才能しかない先生方は、存命中はたいてい天才扱いされるくせに、死んでしまうと、何かこう突然、人々の記憶からほとんど跡形もなく消えてしまうものなのである」(156)、「これらの二流どころの先生方自身も、そろそろ老境にさしかかるころになると、たいていはみじめにも才能を枯渇させており、しかも自分ではとんとそのことに気がつかないでいるということもある」、「彼らの自負心は、ほかでもない彼らの活動期の終り近くになってから、時として瞠目させられるほどまでふくれあがる。こうした手合いが自分をなんと心得ているかは知るよしもないが、神さま以下ということはまずあるまい」(157)、「公爵とか、伯爵夫人とか、彼の頭のあがらない人物がそこへ来合せたが最後、相手がまだその場をはずす暇もないうちから、木っぱか蠅同然、思いきり失礼千万な態度でそれまでの相手をすっぽかしてしまうのを神聖な義務と心得ているのである」、「たまたまだれかの無関心な態度でばつの悪い思いをさせられたりしようものなら、病的なくらいその恨みを根にもって、復讐の機会をうかがうのである」(158)といった調子だ。
  • 五時半過ぎに出発。立川に行って書店で平井正穂編『イギリス名詩選』を買うつもりだったのだ。空は晴れていて雲はほぼ見えず、ちょっと一瞬こすった程度の薄白い痕跡が観察されるくらい、星もいくつも光っているが、しかしあまり明るい感じはせず、暗視カメラを通じて覗いたかのようなある種の非現実感を触知した。からだがやや不安定で歩みが左右にぶれるような感じがあり、それは空腹が主要因なのだろうが、肉体も疲れているのかもしれない。今日は寝起きも悪かったし。やはり長時間モニターの前にとどまってずっと画面を見ていると心身がこごるのだろう。寝る前に二時間くらい、すくなくとも一時間はコンピューターを離れていたほうが本当は良いのだろうとは思う。
  • 前回と同様、先に(……)に行ってちゃんぽんを食い、熱とエネルギーを補給した。名ばかりみたいに小規模なフードコートで食っているわけだが、こちらから見てうしろのほうには女性二人が座っており、ときおりくぐもったような、湿り気をはらんで重くなり軽々と飛んでいけないようなそんな笑い声が立って膨らむ。「デュフデュフ」みたいな擬音でよく表される、典型的にオタク的とされる笑いの表現はたぶんああいう感じをイメージ源にしているのではないか。そういう間歇的な笑い声は響くものの、会話はほぼ聞こえないので、おそらく二人で動画か何か見ていたのだと思う。
  • ちゃんぽんを食いながら、次に何の本を読もうかなと思い巡らせ、やはりそろそろショアー関連のものを何か読むべきかなと思った。それであらためて考えたのだけれど、ナチスドイツによるショアーというあまりに甚大な出来事(ジョルジョ・アガンベンが、その語源からして「ホロコースト」という語を使う者は無知と無神経を露わにしている、みたいなことを言っていたので避けているのだけれど、かといってユダヤ文化やヘブライ語になんの関わりも馴染みもないこちらが「ショアー」という語を使っても良いのかという疑問もある)の重要性は測り知れないほどに大きいはずで、たぶんこの西暦二〇二〇年はあそこでなされてしまったことをまだまだ充分には受け止められていないし(そもそもそんなことができるのか心もとないが)、あの現象を徹底的に調べ、考え尽くさないことには、この世界は次に進めないはずだと思う。それは広島と長崎も同様だと思うし、ソ連ベトナムカンボジアルワンダユーゴスラビアも本当は全部そうであるはずだろう。よしんば規模から言ってショアーほどに壊滅的ではないと判断できるとしても、同種のことはあれ以来も変わらず起こってきたし、現にいまも紛れもなく起こっているのだ。こちらの念頭にあるのは新疆ウイグル自治区のことである。中国のことを考えると、今現在の我々というのは、一九三〇年代四〇年代の英仏とかドイツ周辺の国々とか、あるいはプリーモ・レーヴィが誠実かつ厳格に批判したドイツの一般市民とほぼおなじ立場に置かれているのではないのか? という思いを禁じえない。

 (……)情報を得る可能性がいくつもあったのに、それでも大多数のドイツ人は知らなかった、それは知りたくなかったから、無知のままでいたいと望んだからだ。国家が行使してくるテロリズムは、確かに、抵抗不可能なほど強力な武器だ。だが全体的に見て、ドイツ国民がまったく抵抗を試みなかった、というのは事実だ。ヒットラーのドイツには特殊なたしなみ[﹅4]が広まっていた。知っているものは語らず、知らないものは質問をせず、質問をされても答えない、というたしなみだ。こうして一般のドイツ市民は無知に安住し、その上に殻をかぶせた。ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目、耳、口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことではない、だから自分は共犯ではない、という幻想を作りあげたのだ。
 知り、知らせることは、ナチズムから距離をとる一つの方法だった(そして結局、さほど危険でもなかった)。ドイツ国民は全体的に見て、そうしようとしなかった、この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ、と私は考える。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、237~238; 「若い読者に答える」)

  • あとはどうしたってハイデガー清算するというか、ショアーと同時に彼の反ユダヤ主義を徹底的に調べ、考え抜かなければ、やはりこの世界は次に進めないと思う。ハイデガーナチスドイツとの関わりというのは、二〇世紀の歴史のなかでもっとも重要な問題のひとつではないのか?
  • ちゃんぽんを食い終わると駅にもどって立川へ。駅舎コンコース中、LUMINEの前では「肝油ドロップ」というなんだかよくわからないものがスタンドで売られており、だらだら歩いていると販売員からおひとついかがですか? みたいな感じで声をかけられたのだが、慎ましく会釈して断り、広場に出る。植込みの植物にはピンクや金色の電飾が取りつけられ、伊勢丹のほうに渡る高架通路の頭上にも冷たく鮮やかな青と白の明かりがならび、宙空や足もとをぼんやり彩っている。たしかここの電飾は毎年青と緑をグラデーション的に行き来する趣向を取っていたと思うが、まだその方式に切り替わってはいなかった。たぶん一二月に入ったあたりからそういう風になるのではないか。
  • 高島屋淳久堂へ。フロアに入って文庫のほうに行くと、デヴィッド・グレーバー追悼の特集区域がつくられており、最近名を見かける機会が増えていたとはいえ、デヴィッド・グレーバーなんていう学者の特集を大きく設けて通る誰の目にも触れるようにするとは、淳久堂という書店はさすがだなと思った。ならんでいる本をちょっと見分。ジェームズ・C・スコットなどの著作もあった(みすず書房から出ている『穀物の人類史』みたいな本を書いている人だ)。それから文庫の区画へ。平凡社ライブラリーの棚を見て、『捜神記』という中国の昔の小説(というより伝奇譚みたいなものか?)があることをはじめて認識した。たしか六〇〇年台くらいの作物と書かれてあったか? 忘れた。ほか、金井美恵子が絵本について綴ったエッセイみたいな書もあって、平凡社ライブラリー金井美恵子の著作が入っているなんてはじめて知ったわと記憶にとどめておいた。
  • 『イギリス名詩選』を保持すると講談社学術文庫を見たり河出文庫を見たり。河出のところにはミシェル・フーコーの『ピエール・リヴィエール』があって、もちろん以前から読みたいとは思っていたのだが、どうせじきに読むしもう買っておこうという気になってこれも保持。それから文学方面へ。詩の場所には『単独者 鮎川信夫』という本があってちょっと気になった。著者名を忘れてしまったが、いま検索してみると野沢啓という人。あと、絓秀実の『詩的モダニティの舞台』が復活していた。前回来たときにはなくなっていたはずで、買おうと思っていたのに売れてしまったかと思った記憶があるが、こちらが見落としていたのかそれとも補充されたのか。海外文学ではエドゥアール・グリッサンの何かの本を手に取り、冒頭をすこしだけ読んだところ、やはりこの人は明らかに読むべき作家だなと思われた。それから詩の区画を見ると、『パウル・ツェラン全詩集』三巻のうち一冊目だけがぽっかりなくなっていた。これもいずれこちらが買おうと思っていたのだが、誰かに先を越されてしまったわけだ。代わりというわけではないけれど、その隣にあった飯吉光夫編訳の『パウル・ツェラン詩文集』を買っておくことにした。これは散文もいくつか含まれている本で、そのなかにたしかブレーメン文学賞だったかなんだか忘れたけれど(そんな文学賞はそもそもあるのか?)、有名なスピーチも取り上げられていたはずなので(たぶん、すべてが消え去り、言葉だけが残りました、みたいなことを言っているやつだ)手もとに置いておこうと思ったのだ。そのほか興味を惹かれるのはやはりジョルジュ・ペレックなど。作品もそうだが評伝も気になる。また、イレーヌ・ネミロフスキーの『フランス組曲』が新版になって復刊していた。
  • 思想へ。熊野純彦三島由紀夫についての評伝はわりと読みたい。あとはいつもどおりフーコーハイデガーの周辺を見たが、いますぐ買っておこうというほどのものはないだろう。ただ、『ヒトラーの哲学者たち』とかいう名前の本はかなりほしい。これはいずれ入手する必要があるだろう。
  • 以下の三冊を購入して退出。

平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫、一九九〇年)
ミシェル・フーコー編著/慎改康之・柵瀬宏平・千條真知子・八幡恵一訳『ピエール・リヴィエール 殺人・狂気・エクリチュール』(河出文庫、二〇一〇年)
・飯吉光夫編訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)

  • モノレールの通路下の広場には例年のことでイルミネーションが整備されていた。真っ青な電飾の設えがずっと先まで立ち並んで続いているのが、樹氷の群れめいて見える。高架通路から見てすぐそこに立った一番大きな樹の装飾も例年通り、頭頂には可愛らしいウサギの絵柄がかたどられてあり、足もとには金色のライトでもって水が流れる演出が表現されている。
  • 帰路のことは特に覚えていない。最寄り駅に消防車を撮影している人がいてマニアだろうかと思ったが、面倒臭いので詳細は省く。帰宅後、夜一一時頃に兄夫婦から電話があった。(……)ちゃんはこちらの顔を見ると、例の「うしゃーしょー」みたいな言葉を発して笑う。こちら=「うしゃーしょー」という認識が成り立っているらしい。数日後に風呂のなかでこのことを思い出した際、この「うしゃーしょー」という意味不明の独自言語から、カフカがつくった「オドラデク」という語を連想した。さらに続けて、プリーモ・レーヴィが『これが人間か』か『休戦』のどちらかに記していたはずだが、アウシュヴィッツで死んだ幼児のことも思い出した。記憶がまるで不正確なのだが、この子どももしくは赤ん坊はアウシュヴィッツで生まれたのだったかあるいは連れてこられたのだったか、ともかくひとりで保護者も関係者もおらず、言葉も喋れずただなんとかいう意味不明の一語だけをしきりに発していたので、その語が彼の名前となったという話だったと思う。幼児はもちろん、死んだ。ただこのときこちらがそれを思い出したのは直接プリーモ・レーヴィの本への経路をたどったのではなく、ジョルジョ・アガンベンが『アウシュヴィッツの残りのもの』で書いていたことを経由してである。パウル・ツェランに対するプリーモ・レーヴィの評言(ツェランの詩は、死に瀕した者が発するきれぎれの、意味不明瞭なあえぎのようなものだ、という言葉)を紹介したあと、しかしレーヴィはツェラン以前に、まさしくアウシュヴィッツのなかでこのあえぎを聞いていた、と言って先の子どものエピソードに触れる、という展開だったと思う。レーヴィは、この子どものことを知る者は誰もいない、自分が本に書かなければ彼がこの世に存在したことは誰にも知られなかった、とも書いていたはずである(アウシュヴィッツで幼児のことを見聞きし、ときにはその世話もしていたかもしれない周りの人々は、たぶん全員収容所で死んだということなのだろう)。やはりそれがいやしくも文学と呼ばれる営みの、ひとつの、大きなつとめなのではないか? と思った。プリーモ・レーヴィは彼の命をすくうことはできなかったが(それはその場の誰にも不可能なことだった)、彼の生と死をすくい取り、救出したとは言っても良いのではないか? と思った。
  • 兄夫婦からの電話では、(……)さんがコロナウイルスの後遺症で嗅覚がまだもどらないと言っていた。長い。味は多少はわかるようになったけれど、においは全然で、(……)くんがうんちをしたのに気づけないのが一番困ると笑っていた。しかしにおいが感じられなくては、食事をしていてもあまり美味しくなく、わりと無味乾燥な感じなのではないか。とにかくはやくもどると良いとしか祈れないのだが、しかしこれからウイルスの性質の解明が進んで嗅覚などに作用する原因がわかったとして、それを改善するための薬とかつくれるものなのだろうか? そうなら良いのだけれど、もしそれが無理だとしたら自然の治癒を待つほかはない。しかしもう何か月か経っていながらもまだ全然感じられないと言うのだから、もとの嗅覚の復活にはかなり長い時間がかかるのではないか。
  • 上記したアガンベンの論述とレーヴィの語るエピソードは非常に重要なものなので、きちんと引用をしておきたい。しかし、レーヴィ本人の記述は『これが人間か』および『休戦』の書抜き記録を見返しても見当たらなかったので、アガンベンの本を写しておくことしかいまはできない。こちらがもともと書き抜いておいた『アウシュヴィッツの残りのもの』の該当箇所は以下である。

 正直な知性が示す無理解にはしばしば教えられるところがある。プリモ・レーヴィは難解な作家を好まなかったが、パウル・ツェラーンの詩には惹かれていた。本当には理解できなかったにしてもである。「難解に書くことについて」と題された短いエッセイのなかで、レーヴィは、読者にたいする軽蔑のためか表現力が足りないために難解に書く者たちと、ツェラーンを区別している。ツェラーンの作詩法の難解さは、「すでにあらかじめ自殺していること、存在するのを望まないこと、望んでいた死がその仕上げとなるような世界逃避」(Levi, P., L'altrui mestiere, in Id., Opere, vol. 3, Einaudi, Torino 1990., p.637)のことを考えさせるというのだ。ツェラーンがドイツ語にたいしておこなう、かれの愛読者をたいへんに魅了した途方もない加工は、レーヴィによってむしろ――わたしが思うに考察に値する理由から――、ばらばらな吃音、あるいは死に瀕した者のあえぎになぞらえられる。

ページが進むごとに大きくなっていくこの闇は、ついにはばらばらな吃音に達し、死に瀕した者のあえぎのように人を驚愕させる。じっさいにも、それは死に瀕した者のあえぎにほかならないのだ。それはわたしたちを深淵が巻きこむように巻きこむ。しかしまた同時に、それはわたしたちを欺いて、言ってしかるべきであったことを言わず、わたしたちをむちで打って追い払う。ツェラーンという詩人は、模倣をするよりも、瞑想し、ともに悲しまなければならない詩人なのだとわたしはおもう。かれの詩はメッセージであるとしても、そのメッセージは「雑音」のうちに消失してしまっている。それはコミュニケーションではなく、言葉ではない。言葉だとしても、せいぜいのところ、晦渋で不完全な言葉である。死に瀕した者の言葉がまさにそうであるように。そして、それは孤立している。わたしたちはみな死に瀕したときにそうなるように。(ibid.)

 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、二〇〇一年)、45~46)

  • この直後にそのまま続けて、フルビネクのエピソードが紹介されている。記憶にもとづいて綴った上の記述は色々と誤りがあった。

 レーヴィには、すでにアウシュヴィッツで、ばらばらな吃音、非 - 言語のようなもの、不完全で晦渋な言葉をなんとかして聞き取り、解釈しようとする機会があった。それは、解放のあとの日々のこと、ロシア軍が生き残った者たちをブーナからアウシュヴィッツの「大収容所」に移送するときのことであった。このとき、レーヴィの関心は、収容者たちがフルビネクと呼んでいた子供にすぐさま惹きつけられた。

フルビネクは無であり、死の子であり、アウシュヴィッツの子だった。見たところは三歳くらいだが、だれもかれについてはなにも知らなかった。話すことができず、名前もなかった。その奇妙な名前、フルビネクは、わたしたちが、おそらくは女性のひとりが付けたのだった。その女性は、この幼子がときおり発する言葉にならない声のひとつを、そういう綴りに聞き取ったのである。かれは腰から下が麻痺していて、足は萎縮し、棒のように細かった。しかし、かれの目は、痩せこけてやつれた顔のなかに没しそうになりながらも、ものすごく鋭かった。要求に満ちあふれ、主張に満ちあふれ、爆発しようとする意欲、啞という墓石をぶち割ろうとする意欲に満ちあふれていた。かれに欠けていた言葉、だれもかれに教えてやろうとしなかった言葉、言葉への欲求が、かれのまなざしのなかには、いまにも爆発しそうなくらいにみなぎっていた。〔……〕(Primo Levi, Se questo è un uomo. La tregua, Einaudi, Torino 1995 (4a ed.; 1a ed. rispettiv. De Silva, Torino 1947 ed Einaudi, Torino 1963), p. 166)

 ところがあるとき、フルビネクはひとつの言葉をたえずくり返すようになる。収容所のだれも、その意味がわからない。レーヴィは、不確かながらも、それを mass-klo もしくは matisklo と書き取る。

その夜、わたしたちは耳をそば立てた。そう、フルビネクのいる片すみから、ときおりひとつの音が、ひとつの言葉が聞こえてきたのである。じつをいえば、いつもまったく同じというわけではなかった。それでもひとつの言葉であることはたしかだった。もっと正確にいえば、それはわずかずつちがったふうに発音される言葉であり、ひとつの語幹、ひとつの語根、おそらくはひとつの名辞をめぐって試みられるヴァリエーションであった。(ibid.)

 みなが、その音、その生まれようとしている言葉に耳を傾け、解読しようとする。しかし、ヨーロッパのあらゆる言語の話し手が収容所にはいたにもかかわらず、フルビネクの言葉はその意味をかたくなに秘めたままである。

いや、まちがいなく、それはメッセージではなかった。なにごとかを告げようとした言葉ではなかった。それはかれの名前だったのかもしれない。かれもまた本来の名前を以前にもっていたとすればである。あるいは、(わたしたちの説のひとつによれば)それは「食べる」とか「パン」を意味していたのかもしれないし、ボヘミア語で「肉」を意味していたのかもしれない。これはわたしたちのうちのひとりがみごとな論証によって主張したことで、その者はこの言語を知っていた。〔……〕フルビネク、名前のないもの。それでも、かれのちっぽけな前腕部にはアウシュヴィッツの入れ墨が入れられていた。フルビネクは一九四五年三月の初旬に死んだ。自由の身にはなったが、救済されることはないままに。かれについて残っているものはなにもない。かれはこのわたしの言葉を介して証言するのである。(p. 167)

 おそらくこの秘密の言葉こそ、レーヴィがツェラーンの詩の「雑音」のうちに消失してしまっていると感じたものである。しかしそれでも、かれはアウシュヴィッツで、証言されないもの(intestimoniato)になんとか耳を傾け、そこから mass-klo、matisklo という秘密の言葉を受け取ろうとした。この意味では、おそらくあらゆる言葉、あらゆる文字は、証言として生まれるのではないだろうか。だからこそ、それが証言するものは、けっして言葉ではありえず、けっして文字ではありえない。それが証言するものは、証言されないものでしかありえない。そして、これは、欠落から生まれてくる音であり、孤立した者によって話される非 - 言語である。非 - 言語を言語が引き受け、非 - 言語のうちで言語が生まれるのだ。この証言されないものの本性について、証言されないものの非 - 言語についてこそ、問わなければならない。
 (46~49)


・読み書き
 13:18 - 14:35 = 1時間17分(2020/11/15, Sun.)
 14:35 - 15:47 = 1時間12分(2020/10/25, Sun.)
 15:50 - 16:54 = 1時間4分(ドストエフスキー: 290 - 333)
 17:06 - 17:21 = 15分(英語)
 17:21 - 17:27 = 6分(記憶)
 18:50 - 19:08 = 18分(ドストエフスキー: 333 - 342)
 20:22 - 20:45 = 23分(ドストエフスキー: 342 - 352)
 21:11 - 21:39 = 28分(ドストエフスキー: 352 - 368)
 23:02 - 23:30 = 28分(Bryant)
 24:11 - 26:15 = 2時間4分(2020/10/25, Sun.)
 26:24 - 27:23 = 59分(2020/10/25, Sun.)
 27:24 - 27:52 = 28分(ドストエフスキー: 368 - 385)
 計: 9時間2分

・音楽