2020/11/18, Wed.

 マラルメが最も頻繁に省略する、あるいは別形に活用させる動詞が être であることは、決して偶然ではない。マラルメの統辞法的革命は、言語の認識論的ないしは存在論的な機能を脱中心化することに帰着する。多価的な主張、脱中心化された主張、あるいは失敗した主張の統辞法は、みずからの構造機能――それはおそらく、マラルメがここ[「音楽と文芸」]で「万象の音楽性〔la musicalité de tout〕」と呼んでいるものである――以外のものを伝達するものとしての言語の非信頼性を暴き出している。これは、言語は言語自体についてしか語らないという意味ではない。そうではなく、言語はみずからが行っている[﹅5]ことを正確に語る[﹅2]ことができないということだ。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、126; 「5 詩と統辞法 ジプシー娘の知ったこと」)



  • またしても一二時起床。うーん、という感じ。どうしてもおりおりの覚醒をつかめない。だが消灯ははやまっているので悪くはない。滞在時間も安定しているから、いまより一時間はやく床に就けば一時間はやく起きられるはずの道理だ。窓外はまたしても雲のない晴れやかな青さ。
  • 上階へ行き、ゴミを始末して顔を洗うとボサボサだった頭をおさえる。だんだん伸びてきたし、ワックスで流すのも面倒臭いので、寝癖直しウォーターを吹いて櫛付きのドライヤーで梳かすのみである。それから鮭や味噌汁を温めて食事。加熱の合間にうがいもしておいた。母親は仕事へ。新聞をめくりながらものを取りこむ。ロシアがスーダンに軍事拠点を置くとの報道。紅海沿岸のポートスーダンという土地につくるらしく、艦艇四隻が寄港でき、三〇〇人が駐留可能な規模と言う。ソ連崩壊以降でロシアがアフリカに常設の拠点を置くのははじめてらしい。紅海は地中海とインド洋を結ぶ要衝で、沿岸のジブチという小国には英仏や日本も拠点を持っているとか。
  • 食後は風呂を洗い、新しいティッシュを部屋に持っていき、緑茶もつくってきて一服。FISHMANS『Oh! Mountain』を流しだしてEvernoteを準備し、今日の記述へ。ここまで記せば一時一八分。手の爪が伸びてきており煩わしい。「劇場で真理は生まれ完成し不信心者が罪を問われる」、「暁に好きな相手を殺すなら毒殺がいい理由はないが」という二首をつくった。
  • 今日は労働がいつもよりはやくて、三時半過ぎには家を出なければならないくせに一二時までのうのうと寝てしまったので猶予がすくない。帰宅後はWoolf会。それまでにTo The Lighthouseと『イギリス名詩選』を確認しておきたいのだが。日記は一〇月二八日か昨日の分、もしくは両方を仕上げたいのだが難しいような気がする。あとは書抜きをできていないのも気になっている。体力が余っているうちに先にやらないと駄目だ。あとでと思って日記を書いているとからだが疲れてきてやる気がなくなってしまう。
  • そうは言いつつもとりあえず昨日のことを書いた。すべてではなく、掃き掃除をしているあいだのことやベランダの場面のみである。これは忘れる前に記しておきたいなということのみひとまず書くようにして、あとは過去から順々に取り組んでいくのが良いのではないか。それから一〇月二八日。しかし「『灯台へ』ノート」にその日扱ったTo The Lighthouseの本文を(オーストラリア版のProject Gutenbergから)コピペして、このページに載っている文はこちらの持っている版と異同があるので照らし合わせて確認修正したのみで時間が尽きた。とはいえ二八日の日記はさほど書くことがなさそうである。
  • 二時過ぎに至って、洗濯物を取りこまなければと気づいた。上階のベランダに行くと、もう陽が林の高みから裏に入りかけていて光は薄い。タオルなどをたたんでおいて部屋に帰り、書見へ。ドストエフスキー江川卓訳『悪霊(下)』(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)である。そろそろ終盤で、章題で言えば「ステパン氏の最後の放浪」の途中だ。ステパン氏がこれまでよりも一層滑稽で、滑稽というよりも鬱陶しいキャラクターになっている。出会ったばかりの聖書売りの女性に惚れこんで自分の身の上をひたすら語り、彼女とともに歩んでいく生を夢想するのだ。彼はいままでもスノッブなわりに「現実遊離」的で、意気地がなく幼児めいたところがあって滑稽だったが、それが最高潮に達して哀感すら醸し出しているような感じ。
  • 書見は三時二〇分で切り。もう猶予がない。上に行って鮭のふりかけで米を食った。かたわら新聞一面から日豪首脳会談について読む。自衛隊とオーストラリア軍とのあいだで円滑化協定とかいうものを結ぶと言う。VFAとかいったか、訪問地位協定みたいなものの一種らしく、共同演習の際相手国に武器とか弾薬とかを持ちこむための手続きを簡略化するとの旨。また、隊員が相手国で犯罪を犯した場合には起訴を待たずに受け入れ国が身柄を確保できるという取り決めになるようだ。
  • もどって歯磨きや着替えを済ませ、三時四五分ごろ出発。電車まで時間がないので大股で歩を踏む。とはいえスピードとしてあまりはやくは動かさず、ただ一歩を大きくするだけだ。道の両端には落葉が溜まって縁取っており、風景も全体に黄の色味が多くて淡い色彩をしている。空は雲なしで青みも弱く、まろやかな晴天だ。
  • (……)さんが庭に出ており、まだ距離があるうちから大きな声で挨拶をかけてくるので、どうもと会釈し、近づいたところで最近は暖かくて、と言った。このくらいならちょうどいいですねえなどと交わしながら過ぎ、坂に入ってからも大股で、しかし急がずに上っていく。駅前にはモミジが散らばって、乾いてちょっと丸くなった赤葉が貝殻めいてそこら中に転がっている。階段を上りながら左手を見れば、空の西の際には光の手触りがあり、森の黒い木々の向こうから水性じみた明るみが漏れていた。
  • 電車内ではドアの前に立って外を眺めた。裏道を囲む家並みに横から西陽が放射され、側壁上に茫漠とした暖色のひろがりと建物の姿形をかたどった影とが生まれているが、双方淡い。斜陽に粘りや艶が、強い色に濃縮されたような感じがないのだ。光も老いた風になる時季ということか。
  • (……)駅で降り、帰路に就く行楽客で混み合ったホームを行く。階段口のあたりから小学校のほうに目を振れば、石段上に立った校舎の端で毎年まさしく炎の形象をもって金色に燃え上がるイチョウの樹はまだ緑のにおいが残っており、完全な統一に達していない。丘にはかなり強い、どぎついような赤やら臙脂やらもろもろ混ざっていよいよ秋本番、あでやかではあるのだけれど、あらためてよく見てみれば紅葉の時季のああいう風景というのはとても秩序を成しているとは思えず、ほとんど狂ったかのような乱れように映る。あれを美しいとか風流だとか感じる我々の(自然的・文化的の双方をふくんだ)感性というのは、いったいどうなっているのだろうか。
  • 労働中のことは忘れた。あと書いておきたいのはWoolf会のことくらい。今回の本文は以下。

 All she could do now was to admire the refrigerator, and turn the pages of the Stores list in the hope that she might come upon something like a rake, or a mowing-machine, which, with its prongs and its handles, would need the greatest skill and care in cutting out. All these young men parodied her husband, she reflected; he said it would rain; they said it would be a positive tornado.
 But here, as she turned the page, suddenly her search for the picture of a rake or a mowing-machine was interrupted. The gruff murmur, irregularly broken by the taking out of pipes and the putting in of pipes which had kept on assuring her, though she could not hear what was said (as she sat in the window [which opened on the terrace]), that the men were happily talking; this sound, which had lasted now half an hour and had taken its place soothingly in the scale of sounds pressing on top of her, such as the tap of balls upon bats, the sharp, sudden bark now and then, "How's that? How's that?" of the children playing cricket, had ceased;(……)


 今ジェイムズにしてあげられることといえば、彼の切り抜いた冷蔵庫をほめ、さらに百貨店のカタログのページをめくって、熊手や芝刈り機など、突き出た部分や取っ手があって、切り抜くのに十分な技術と注意が要りそうな絵をさがしてあげることだった。それにしてもあの若者たちは皆、夫の滑稽な物真似をしているように見える、と彼女は考えた。夫が雨だと言えば、あの人たちは本格的な嵐だと言うのだろう。
 だがここで、熊手や芝刈り機をさがしてページをめくっていた夫人の手が、はたと止まった。ぶっきらぼうで小さな話し声――それはパイプをくわえたり離したりするたびに途切れながらずっと聞こえていて、窓辺にすわる夫人にその中身までは聞きとれなくても、二人の男性が楽しげに話していることははっきりわかる声であり、クリケットで遊ぶ子どもたちのボールを打つ音や「どうだい? どうだい?」と判定を求めるかん高い叫び声など、押し寄せるさまざまな音や声の渦の中にあって、もう三十分もの間、まるですべてをなだめ静めるかのように響いていた声だったのだが――その話し声がピタリとやんでいたのだ。(……)
 (ヴァージニア・ウルフ御輿哲也訳『灯台へ』(岩波文庫、二〇〇四年)、28~29)

  • 見てわかるとおり、二段落目の文がやたら長くつらなった難しいものになっている。文法的構造としては、The gruff murmurに対応する主動詞はないままにセミコロンで受け、主語をthis soundに言い換えて、あいだに長い修飾を挟みながらも最終的にはhad ceasedで締めている。だから主述だけを取ると、The gruff murmur/this sound + had ceased、というだけの文なのだけれど、その主語に重層的に付加された情報がめちゃくちゃに多いのだ(岩波文庫ダッシュを用いてその構造を明示するような訳し方になっている)。普通、こんな書き方しないでしょ、と思う。これでは英語ネイティヴだって、一読しただけでは意味をつかみきれないのではないか? 読んでいるうちにThe gruff murmur/this soundが主語だったのを忘れてしまって、had ceasedまで来たところで、あれ、急に文終わるやん、なんだったっけ? となるのではないのか? とはいえ、一箇所ずつ仔細に取っていけば理解できるようにはなっている。今回の翻訳担当は(……)くんだったのだけれど、彼は良く整った訳文をつくっていた(相当に労力はかかったと思うが)。語の選びとしては、おそらくsoothinglyとpressing on top of herが対比させられているのではないか。夫人の頭上から圧力のようにのしかかる渾然一体とした音声の層のなかで、男たちの話し声だけが聞き分けられて(had taken its placeだから、その声だけが明確にある位置を占めているわけだろう)、上から音に圧迫されている彼女の心を和らげてくれる、というようなニュアンスではないか(岩波文庫はこのsoothinglyを「すべてをなだめ静めるかのように」と、夫人への心理的作用を離れてよりひろく取っているし、pressing on top of herも「押し寄せる」と短くまとめていて、頭上から圧迫されるという逐語的な意味を弱めているが)。The gruff murmurというから男性の低い声で何かぼそぼそ言っている感じで、それがさまざまな物音のなかで判別できるほどに伝わってきて、しかも心をなだめるというのもなんか妙な気がするが、murmurは木々のざわめきとか川のせせらぎとかも指すらしいので、どちらかと言えばそういうイメージなのかもしれない。加えて、この話し声というのはおそらくラムジー氏とタンズリーが交わしている会話の音声のはずだから、聞き慣れた夫の声が安心感をもたらすという意味までそこに含まれているのかもしれない。
  • とはいえ、To The Lighthouseに関する話題は上の難所くらいである。あとは例によって前後の雑談と、平井正穂編『イギリス名詩選』。先に後者について記録しておこうと思うが、この日に読んだのは最初のEdmund Spenser, "The Song of the Rose"である。

The whiles some one did chant this lovely lay :
 'Ah see, whoso fair thing dost fain to see,
In springing flower the image of thy day ;
 Ah see the virgin rose, how sweetly she
 Doth first peep forth with bashful modesty,
That fairer seems, the less ye see her may ;
 Lo see soon after, how more bold and free
Her bared bosom she doth broad display ;
Lo see soon after, how she fades, and falls away.

So passeth, in the passing of a day,
 Of mortal life the leaf, the bud, the flower,
Ne more doth flourish after first decay,
 That erst was sought to deck both bed and bower,
 Of many a lady, and many a paramour :
Gather therefore the rose, whilst yet is prime,
 For soon comes age, that will her pride deflower ;
Gather the rose of love, whilst yet is time,
Whilst loving thou mayst loved be with equal crime.'


その間にも、誰かが次のような甘い唄を歌っていた。
  「美しいものを見たい、いや、潑剌と咲く花のうちに
自分の華々しい一生の姿が見出せる、と思う人は、見るがいい、
  乙女のように含羞[はにか]む薔薇の花を見るがいい。初めのうちは、
  しおらしげにそっと外の様子を窺いながら綻[ほころ]び始める、
人の眼につかなければつかぬほど、その色艶もひとしおだ。
  だが、あっというまに、彼女は大胆不敵になり、
人目も憚らず裸の胸元を拡げる始末だ。
そして、忽ち、色褪せ、凋[しぼ]み、朽ち果ててゆく。

こんな風に一日は過ぎ去り、こんな風に
  人の一生は、その緑の葉は、蕾は、そして花は過ぎてゆく。
多くの美女の、そして多くの恋する男たちの
  寝床を飾り、閨房を飾るために求められた花も、
  ひとたび凋めば二度と咲くことはできないのだ。
だから、春の盛りの過ぎぬ間に、薔薇の花を摘むがいい、
  花のおごりを散らす老齢がすぐにやってくるからだ。
まだ時がある間に、うしろめたくても愛し愛される時が
まだある間に、恋の薔薇の花を摘むがいい」

  • 本当はいちいちこまかく取り上げて、ここはこういう構造だとかこういう用法だとか註釈をつけておこうと思っていたのだけれど、現状あまりそうする余裕がないので断念する。主な点についてだけ述べておくと、昔の英語にはいまとは違う活用があって、二人称だと語尾にstがつき、三人称だとthがつくらしい。dostとかdothとかいうのはdoの活用形だ。で、この古英語もしくは中英語のdoの用法がよくわからなかったのだが、検索してみたところもともと助動詞として使われていたらしく、最初はmakeと似たような使役の意味があったようだがだんだん内実を失い、意味は特に持たず語調を整えるだけの使い方になっていったとかいうことだ(漢詩にもそういう文字があっただろう)。だからたとえば、第一連四・五行目の「Ah see the virgin rose, how sweetly she / Doth first peep forth with bashful modesty,」を考えると、このpeep(覗く)が原形のままなのは助動詞dothが入っているからで、もしこのdothがなければpeepsと三単現のsがついていたのではないか(それともそこも、peepethみたいな感じになるのか?)。いずれにしてもdothに実質的な意味はないので、ここの意味合いとしては、簡単に取ると、「なんと愛らしいことか、最初のうち、はにかみながら慎ましく外を覗く彼女の姿は」というくらいになるだろう。
  • あと、昔の英詩は語順もかなり自由に変えられるらしい。たとえば第一連二行目には「whoso fair thing dost fain to see」があるが、これはたぶん、whoso (=whoever) dost fain to see fair thingがもとの順序なのではないか。ちなみにfainは「喜んで」というような意味で、fain to seeで「喜んで~する」になるわけだが、平井正穂はここに註をつけて、dost fain=art gladだと言っている。artというのはbe動詞areの古形なので、そうすると意味はわかりやすいものの、doがbe動詞とおなじ働きをするのか? という点が文法規則としてどうなっているのかよくわからない。
  • あと語順が変わっているところは、「So passeth, in the passing of a day, / Of mortal life the leaf, the bud, the flower,」、「For soon comes age, that will her pride deflower ;」、「Whilst loving thou mayst loved be with equal crime.'」あたりがそうだろう。ひとつめはおそらく、the leaf, the bud, the flower + passethという主述関係、二つ目の後半はthat will deflower her prideが本来、三つ目もloving thou mayst be loved with equal crimeが通常ではないかと思う。
  • こまかく読んでもこちらがいまいちわからないのは、「Lo see soon after, how more bold and free / Her bared bosom she doth broad display ; 」の部分の構造である。すなわちここのshe dothの用法で、このdothを先のように意味を欠いた助動詞と取るなら、sheに対応する動詞が必要である。おそらくdisplayがそれに当たるものだと思われ、順当にならべ変えるとshe display her bared bosomとなるわけだが、ではbroadは? という疑問が湧く。broadは形容詞なのだけれど、この理解に沿うと明らかに副詞として位置づけられていることになるだろう。それはhow more bold and freeも同様で、boldもfreeも形容詞のはずだが、ここではどうも副詞的に用いられているような気がする。そのあたり、昔の英語では形容詞と副詞の差異があまりなかったということなのか、それとも詩のなかだからこういう使い方が許されているということなのか。
  • 主題としては盛りの時の華々しさと、それがたちまち終わっていくことの無常観、というところで、かなり古典的と言って良いと思うが、全体的に官能的もしくはエロティックな色がストレートに強く表現されていてちょっと驚く。訳文では、「人の眼につかなければつかぬほど、その色艶もひとしおだ」がファインプレーだろう。原文は「That fairer seems, the less ye see her may ; 」で、直訳を取ると「人が彼女の盛りの姿を目にしないほど、それはますます美しく見える」という感じだが、That fairer seems(= That seems fairer)を「その色艶もひとしおだ」と訳せるのには脱帽する。
  • 上述したdoの用法とかを理解するのに簡易そうなページとしては、Yahoo知恵袋のこのページ(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1021328050)がひとつ見つかった。知恵袋などというクソみたいなサイトのくせに実にしっかりとした回答になっていて、この世界にまだ人間の良心が存在していることを窺わせてくれる。もうひとつは、「Weiteres Wissen」というブログの「英語の歴史」という記事。はてなブログはたしかリンクを貼ると相手方に通知が行くはずだが、こちらの存在を知らせたくないのでこのページのURLはここには示さない。中公新書の寺澤盾『英語の歴史』という本の記述を引用している。
  • そのほかは前後の雑談。二一日に「(……)」で話し合う『悪霊』について多少触れた。(……)くんは森有正の『ドストエフスキー覚書』というのをちょっと覗いたら面白いことが書いてあったと言って冒頭を読んでくれたが、いわく、キリスト教の根幹は人間を本質的に罪ある存在と規定し、同時にそこから脱出して救われるための方法をも提示する点にあるという話で、要するにマッチポンプみたいな仕組みになっているということだ。言われてみればそのとおりだが、鋭い洞察だと思う。森有正の本は、全集のなかの一冊を相当昔に(……)書店で買って積んである。たしかパリに留学しているあいだの日記ではなかったか。わりと面白そうな作家だという印象を持っている。パスカルにおける「愛」の概念についてとか、色々と書いていたはずだ。いま積み本を確認してみると、こちらが持っているのは全集の第二巻、「城門のかたわらにて 砂漠に向かって」というやつだった。
  • あと(……)くんがヒップホップをいくつか紹介してくれた。こちらはいまだにヒップホップという音楽にちっとも手を出せていない。John LegendThe Rootsが組んで往年のソウルのカバーをした『Wake Up!』をこのあいだなんとなく流したらかなり良かったので、生音のバンドでもあるしQuestloveもいるし、とりあえずThe Rootsから掘っていこうかなと思っているのだけれど、(……)くんはこのとき、J DillaGang StarrDr. DreWu-Tang Clanを紹介して流してくれた。J Dillaはむろん名前は知っていて評判はめちゃくちゃ高いレジェンドのひとりだし、こちらの馴染んだ文脈ではRobert Glasperあたりからつながっていく存在なのだが、今回はじめて聞いてみたところ、一聴してサウンドの作りこみや切り貼りの密度が半端でないことが明らかに聞き取られ、これはたしかにすばらしいわと思った。このとき聞いたのは『Donuts』という遺作のトラックである。全篇既存曲のサンプリングでできているのだが、なかに"Save Me"と叫んでいるように聞こえる箇所があるところ、元ネタを調べても"Save Me"とは言っておらず、J Dillaが音を加工してそういう風に聞こえるようにしてしまったのだと言う。
  • Gang Starrはこれこそヒップホップというヒップホップだと(……)くんは言っていたのだが、普通に格好良かった。文化としては男尊的なところとかやたらイケイケな部分とかがあると思うので、正直もっと粗野な感じなのかと想像していたのだけれど、この日聞いたものはどれもサウンドとしては思ったよりも洗練されていた。Wu-Tang Clanはわりと粗野な方向のものとして紹介されたと思うのだけれど、それでもやはりさほど品のない感じは受けなかった。ものによってはジャズ的な色味もわりとあったし、共通して昔のソウルのにおいが見え隠れしていて、なるほどなあ、やはり受け継がれているんだなあと思った。Gang Starr東海岸すなわちニューヨークの代表、Dr. Dreが西海岸すなわちLAの代表、という扱いだったと思う。ニューヨーク側はもうひとつ何か紹介されたはずだが、それは忘れてしまった。
  • あと、Samuel Patyの事件やフランスの状況について紹介したり。フランスにおいてはとにかく表現の自由というのが金科玉条で、とにかく、どうしても、絶対にそれを擁護しなければならないらしいというのがこちらがGuardianなどを読んで得ている印象だ。記憶が不確かだが、九月か一〇月あたりの読売新聞には、エマニュエル・マクロンが、我々には「冒涜」だったか「侮辱」だったかをする権利がある、と言ったと書かれてあったはずだ。実際、Guardianのコラムでもfreedom to offendを主張する論者を見た(offendは「怒らせる」とか「不快にする」という意味も含んでいるが、その射程は「侮辱する」にまで及ぶ)。「風刺」まではまだしもわかるのだけれど、「冒涜」までいってしまうのは原則論としてもどうなのか? という疑念を覚えるし、状況論に即しても、一国の大統領がそんなことを口にしてしまったら、宗教を重んじる国々や国内の宗教的共同体に喧嘩を売っているも同然で、強硬な反発を招いてさらなるテロ事件を惹起するのは明白ではないか? と新聞を読んだときには思ったのだった。彼らの考える表現の自由というのは、簡単に言ってたぶん、なんでも言うことができる、ということなのではないかと思うのだけれど、それはおそらく同時に宗教的言説の排除というか、世俗主義(secularism)とセットになっているように思われる。このへんのことを理解するにはそのあたりの歴史的成立の経緯を(最低でもフランス革命から)勉強しなければならないだろうし、いわゆるライシテの原理の深源を探り、学ばなければならないはずだが、そういう仕事を類稀なる熱量でもってやっているのがまさしくピエール・ルジャンドルであるわけだろう。実際、フランスの話を受けて(……)くんからルジャンドルの紹介がなされた。まずひとつには、フランスはエリート主義の国で、なんとかいう高等教育機関で首席を取っていないと大統領になることはできないらしいのだが(本当だろうか?)、ルジャンドルのデビュー作にあたる一〇〇年か二〇〇年間くらいの行政史の本はそこの教科書になっており、そのなかで彼はレヴィ=ストロースを強烈にディスっていると言う。その一方でローマ法やら教会法やらの仕事もやっていたわけだ。で、ルジャンドルの説ではキリスト教というのはローマ法と教会法という性質をまるで異にする二種の法規範のアマルガムとしてできており(この「アマルガム」という言い方をしているのはベンスラマらしいが、要はキメラ的なイメージだろう)、そこがすべての根源なのだと言う。そもそも宗教というものは観念的な教義と同時に、日常的な生活規範とか、人はどう生きるかとか、あとはたぶん社会的な揉め事の解決法とか、そういった領域までカバーするのが本来なのだけれど、キリスト教文化は高尚な精神的問題は教会法に則り、もっと卑近なというか世俗的社会領域の物事にはローマ法を持ってきて、本来組み合わないはずの二種類の法体系を無理やりドッキングしてしまったというような話で、だから人間が本来的に従うべき規範の源泉が複数化してしまい、そのあいだで引き裂かれて葛藤状態に陥っているという事情が、実存的にも社会的にもさまざまな歪みとしてあらわれているというような考えらしい。ルジャンドル的にはとにかくこのドッキングがすべての根源であり、それがなかったらそもそも「世俗化」という観念そのものがこの世に存在しなかっただろうという話で、これは面白い。やはり読んでみなくてはなるまいなと思うものだが、ただしテクストはわけがわからないような文章になっていて、(……)さんは『真理の帝国』を挫折したと言っていた。この本は立川の、淳久堂にはもうないがオリオン書房に残っているのでそのうち買おうと思っている。(……)くんも、ラカンを読んでいるのとおなじような感じだと言うので、それじゃあはやく買っておかないとまずいなと漏らすと笑いが起こった。
  • そのほか、先人の仕事を受け継ぐこととか、誰でも良いのだがとにかく誰かがやらなければならないという感覚などについて話が交わされたが、そのあたり詳細に覚えていないので省略する。ただ、話の途中で(……)くんが『ゴドーを待ちながら』の一節を読んでくれたのだけれど、これがかなり良かった。たとえば何かよりよいものの到来や具現化を未来の人々が待っている、と考えることが何かを行うときの動機になることがありうると思うが、そうではなくて、それはいまここで我々が待っているのだと思った。つまり、遥かな未来において何かが実現したり存在したりするということを、我々が、いまここで、(おそらくは過去や未来の人間たちとともに)待ち受けているのだと思った。


・読み書き
 13:08 - 13:19 = 11分(2020/11/18, Wed.)
 13:23 - 13:47 = 24分(2020/11/17, Tue.)
 13:48 - 14:09 = 21分(2020/10/28, Wed. / 『灯台へ』ノート)
 14:24 - 15:18 = 54分(ドストエフスキー: 554 - 588)
 21:17 - 21:47 = 30分(平井)
 27:30 - 27:58 = 28分(ドストエフスキー: 588 - 600)
 計: 2時間48分

・音楽