2020/11/21, Sat.

 とはいえ、ヴィアの裁定は殺人行為である[﹅3]。ヴィア艦長は話す代わりに殺人を犯すビリーとは違い、まさに話すことによって殺人を犯す読み手なのだ。ビリーは言葉の無能力さによって人を殺めるが、ヴィアは修辞の能力や洗練によって人を殺す。ヴィアの場合、裁定は言語を通じて生死の力を行使することにほかならない。そのように、殺人と言語が遭遇する地点を占拠することで、ヴィア艦長は「あいだの致死的空間」にまたがるよう身を置いている。ビリーの行為遂行的な力が発話と認識の消失点に位置し、クラガートの認識的な知覚力が偏[ひとえ]に知覚者の消滅を通じて達成されるのに対し、ヴィア艦長の読みは力と知識、行為遂行と認識、錯誤と殺人をともに結集する。裁定は行為として機能する認識なのだ。(……)
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、177; 「6 メルヴィルの拳 『ビリー・バッド』の処刑」)



  • 一二時前に覚醒。二度寝に陥ることは避けられたものの、頭が固くて重い感じはあった。やはり就寝前に長々とコンピューターを見ていたからだろう。夢見を覚えていた。高校時代の文化祭でのバンド演奏の夢で、ただ映像として残されている記録の俯瞰的な視点とも、ステージに立っていたこちら自身の記憶の視点とも違い、"Highway Star"を弾いているこちらの姿を横から、けっこうな近距離で眺めているものだった。ギターを弾いているこちらは演奏しながら何かうねうねとした感じで動いていたが、これは現実とは違う特徴である。もうひとつ、この映像は一応、文化祭のステージを収めたDVDを見ている設定だったようなのだが、そのなかに一九七九年のデータがあった。当時の(……)高校生(現実にその当時すでに(……)高校があったのかどうか知らないが)が演奏している様子を撮ったもので、しかし場所は学校ではなくライブハウスで、二つあったデータのうちひとつは渋谷、もうひとつの場所はどこだったか忘れた。それを再生してみると、我が軽音楽部の遠い先輩だと思われる人々がステージに登場してきて、演奏前のMCとして何か時代感のあることを言った気がするのだが(どちらかと言えば政治とか社会時勢に関連したことだったように思う)、その内容は忘れた。一九七九年というとだいたい四〇年前だから、当時一八歳だったとしてこの人たちはもう六〇くらいかと思った記憶がある。その頃にはもうなかば目覚めてまどろみのなかにいたはずだ。
  • それで文化祭のライブ映像を見たくなったので、ベッドから抜け出すと寝間着のままスリープ状態だったコンピューターを復活させ(普段はシャットダウンしている)、以前(……)にもらった映像データを探した。これが全然見当たらず、誤って削除してしまったのか? とすら思ったのだが、結局自分の名前を冠した基本フォルダの一角に転がっていた。それで視聴。一年のときはDeep Purpleの"Highway Star"、二年時は"Burn"、三年生ではなぜか血迷ってHelloweenの"Eagle Fly Free"をやった。色々とダサくて恥ずかしい部分はあるが、演奏自体は(音質はクソだが)以前見たときとおなじようにさほど悪くはないように思った。そこらへんの高校生がやったにしてはなかなか大したものだろう。それで数か月前にもらったときにも考えたのだけれど、こちらの若かりし頃の勇姿をブログに公開して読者の興を誘おうかなと思い、とりあえずISOファイルという形式になっているものをMP4に変換しておくことにした。検索してすぐ出てきたHandBrakeとかいうソフトをダウンロードして変換をはじめたが、けっこう時間がかかりそうだったのでそのあいだに上階へ。
  • ハムエッグを焼いて米に乗せ、食事。新聞にはイスラエルを訪問しているマイク・ポンペオの動向。ヨルダン川西岸の入植地で生産された製品を「西岸産」から「イスラエル産」というカテゴリーに変えるとの発言。昨日の夕刊(だったと思うのだが)の記事には、「どの国も自国と、自国の主権を守る権利がある」というような発言が載せられていて、それは文脈上イスラエルの入植活動を容認する根拠として述べられたはずなのだが、なぜ国家主権を守る権利が入植の拠り所になるのか理屈がわからない。入植活動というのは、一九六七年の戦争の結果イスラエルが武力的に占領したヨルダン川西岸地区において、もともとパレスチナの人々が持っていた土地を接収し(ときには暴力的に奪い)、原住者を立ち退かせるとともにイスラエル国民をそこに移住させる、というようなものだと理解しているのだけれど、なぜそれがイスラエルの国家主権を守ることになるのかよくわからない。マイク・ポンペオの発言の逆を取れば、入植活動を止めればイスラエル国の主権が損なわれたり脅かされたりする可能性があるということにもなる気がするのだけれど、それもよくわからない。主権という概念を論拠にするのだとしたら、それこそパレスチナの人々がみずからの領域を守る権利はどうなるのか? という疑問も当然湧く(正式な「国家」としての形態はないにせよ、自治政府として国連や国際社会には認められているわけだし、民族的な単位での主権という観点もありうるのではないか)。それともこれは西岸というよりゴラン高原について述べた発言だったのだろうか?
  • 食後はいつもどおり風呂を洗って下階へ。動画の変換を進めながら今日のことを記述。途中、一時四五分で中断して洗濯物を片づけに行った。昨日一時曇ったが今日はまた穏暖な晴れに復帰して、通る光もなかなか厚くまぶしい。ただ一方で風も、盛るというほどでなくてもあまり途切れず流れ続けて、それがはやくなるとなかに冷たさの感触もちょっと感じ取られた。温冷の幅が昨日や一昨日以前よりも大きい印象。日向のなかでタオルや寝間着などをたたみ、終わると胡座をかいたままちょっと目を閉じて静止したが、陽の温みが心地よく、葉擦れの響きなどさまざまな音もあり、空気が絶えず動き揺らいで生成しているのが開放的である。こういう日には本当は外気と光を浴びながらギターを弾くべきなのだが、さしあたりはまず茶を飲んで日記を書き、からだも和らげたい。そうしているうちに日暮れになってしまうだろう。
  • それから緑茶を持ってもどり、ふたたび記述。途中、携帯にクレジットカードの請求が届いているのを見たのだが、一二月の支払いは(……)円になっていて、高くない? と思った。何にそんなに使ったのか思い出せなかったので明細のページにアクセスして確認したのだが、今回はAvastのなんとかいうメンテナンスソフトを一一月三日に買ったので、それで高くなっていたのだ。普段コンスタントにかかるのは、New York Timesの購読料が(……)円、fuzkueのメルマガが(……)円、Amazon Musicが(……)円、あと携帯の料金が(……)円くらいなので、合わせてだいたい(……)円弱だ。まあそのくらいならいいかな、という感じ。New York Timesもfuzkueの日記も現状まったく読めていないのだが、とりあえず維持する。
  • それから便所に行って用を足し、ついでに歯ブラシを口に突っこんでもどってきて、歯磨きをするあいだだけfuzkueのメルマガの最新の一通、一一月九日月曜日の部分を覗いて読んだのだけれど、今度西荻窪にも店を出すことになっているらしい。すごい。最初は初台だけだったのが何か月か前には下北沢にもつくっていたはずだし、そこからさらに三店目ということで着々と事業が拡大している。
  • LINEを覗くと皆が(……)の誕生日を祝っていたのでこちらもメッセージを送信。また、ネパールにいる(……)くんからも祝いのメッセージが来たと(……)は言っており、エベレストを望む山地での写真が貼られていた。それで(……)くんを交えたグループをつくると言うので了承し、彼とやりとりをしてネパールのことを色々聞いた。先ほどの写真は予想通り、その地点で標高四〇〇〇メートルを超えていると言った。そのくらいの高さでたとえば鳥の声とか虫の声とか聞こえるものなのだろうかと思って訊いてみたところ、虫は見ないが鳥は普通に住んでいるとのことだった。動物はわりと色々いるようで、犬やヤクなどの写真が貼られたのだが、犬の一匹は毛がめちゃくちゃ伸びていて瞳を隠しており、仙人めいていたので笑い、こいつ長老だろと突っこんだ。ヤクの写真はかなり良かった。青空を果てにして斜面を登っている姿を横からとらえたものだったけれど、構図が見事に決まっているという感を得た。そのほか星がめちゃくちゃいっぱいに、ところ狭しと鏤められた夜空の写真も見られた。これマジで全部星なのかと驚くほどで、「銀砂子」という比喩の意味が実感されたのでそのように伝えた(星空に対して「砂子」のイメージを用いている例としてこちらが知っているのは、青木淳悟の「クレーターのほとりで」と、キリンジの"銀砂子のピンボール"である)。あと、最後のほうで「タルチョー」(という名前だったと思うが)という祈祷旗についてはじめて知った。町を遠景で撮った写真を見たところ、山稜の上に何かロープかワイヤーみたいなものが架かっているようだったので、これはなんなのかと訊いてみるとタルチョーだと思うと返ったのだった。チベット仏教で用いられる道具で、経文を記した五色くらいの旗を色々なところにかけておき、風が流れてそれがはためくと祈りを捧げたのとおなじことだと見なされるらしい。お手軽なやり方ではあるものの、同時になかなか粋で素敵なものだと思う。
  • 飯時、テレビは『人生の楽園』。鎌倉で個人で革製品の工房をやっている人の紹介。鎌倉という街の海沿いの景色はすごい。明確にきれいだ。すぐ身近に海がある場所で育つのとそうでないのでは、人間どこかが変わってくるのではないか。この革工房の人の生活ぶりについて母親が漏らした言葉がやっかみめいたニュアンスを帯びており、そこから色々と考えたのだけれど、特別まとまっていないし面倒臭いので詳述はしない。
  • 七時過ぎから一一月一日を書き、完成させて投稿。一一月二日三日ももう書いてあったので連続で投稿。
  • 脹脛をほぐすのに加えてやはりストレッチもなるべくやったほうが良い。
  • 九時過ぎから「(……)」の会合。課題書はドストエフスキー江川卓訳『悪霊』上下巻(新潮文庫、一九七一年/二〇〇四年改版)。(……)さんという人が新しいメンバーとして来ていた。(……)の院で西洋中世史をやっていると言う。(……)先生のもとで学んでいると数日前に聞いていたのだが、何を隠そうこちらも(……)大学の西洋史コースに所属していた人間であり、(……)先生の授業を受けていた身なのでその点話し、貧民院とかについてやってるの聞いてましたよと言った。卒論のゼミを訊かれたので(……)先生とこたえると相手は即座にわかったので、彼もまだ(……)にいるようだ。(……)さんとかとおなじくらいの代なんですかねと(……)さんが言うのを聞いて、たしかにゼミにいたもうひとりの男子が(……)という名前だった気がするぞと思った。いまの専門はボナパルティズムとかフランス右派の歴史みたいな方面らしい。当時はユゴーをやっていたと言い(たしかユゴーの亡命中の作品を読み解くみたいな感じではなかったか?)、髪が長めでちょっとボブっぽいような感じでと風貌を説明すると、ああ、じゃあたぶんそうですねと像が一致したようだった。まさかこういうルートで大学時代の人間と結びつくとは思わなかったし、(……)くんも、世界、せま、と笑っていた。とはいえ在学中に彼と話したことは一度もなかったか、あったとしてもほんのすこしだけだったはずなので、たぶんあちらはこちらのことを覚えていないと思う。ついでに思い出して、「(……)」と呼ばれていた同級生のことも知っているかなと訊いてみると、ああ、(……)さん、と笑いが返った。普通に知り合いのようだ。彼は中世シチリアの研究をしており、在学中から研究者になると公言していたつわものだったのだが、けっこう明るく剽軽な感じの人で、要領も良く、教職課程を取っていたのだけれど自分が興味のない授業のときは後ろのほうでゲームをしていたと話した。ただしこれはこちらが自分で目撃したことではなく、(……)くんが言っていた話で、彼は(……)のことを思い出すといつもそのエピソードを語って笑う。その(……)くんのことも同級生だったと言って触れ、卒業以来七年間くらいずっと毎月読書会をやっていると説明し(いまはコロナウイルスのせいで途切れているが)、自分は大学のときは不真面目で本当に何もやっていなかったし、大学で得たものは彼との関係くらいしかないと言った。これは本当にそうで、(……)くんおよび(……)くんとの関係が本質的にはこちらが大学で得たもののすべてで、あとはせいぜい西洋史周辺の知識がほんのすこし、具体的にはアナール派の存在を知ったとかその程度だ。
  • (……)さんは学部時代は哲学をやっていたというのだが、西洋中世史を志したのは(……)さんにすすめられて読んだルジャンドルにぶっ飛ばされたということらしい((……)くんに言わせれば、「(……)くんにそそのかされた」ということだ)。(……)
  • 『悪霊』についての話のなかでこちらが語ったことはだいたい過去の日記に書いたと思うので、ここでは繰りかえさない。(……)くんが言った、神という観念自体が西洋世界にとっては悪霊なんではないかという発想は面白かった。実際、自死によって神の存在を否定するというか、人間の意志の自由性を証明しようとしたキリーロフも、自殺をすることで自分が神になると言っているわけだし(このあたりの論理の飛躍はよくわからないのだが)、またそれまでの神を「旧い神」とも名指しているわけで、したがって旧来の神を殺したところでそれに代わるものが必要だということを、自覚はともあれ認めているのだ。(……)くんの考えでは、西洋世界の人間たちというのは自分がなんなのかどういう存在なのかがわからず、そういう実存的な意味や疑念にずっと悩んできた連中で、だから必ず根拠を求めてしまい、どうあがいても神もしくはその代理物を見つけずにはいられないのではないか、とのことだ。それに対していわゆる東洋、あるいはそのほかの地域や文化圏の人々はそこまで徹底的に論理を突き詰めず、適当なところで納得して、ある種半端に、なあなあにやっていける(いけた)ということなのかもしれないが、だとしたらなぜそういう違いが生まれたのかというのが当然の問いである。また、すくなくともこの現在においてはそういう中途半端さやなあなあでおざなりの態度が社会のさまざまな部分で問題を起こしているのも確かだろう。ところで上に触れたキリーロフの自殺の場面は、ブランショの『文学空間』で取り上げられている有名な箇所だったらしい。
  • あとは(……)さんが、ドストエフスキーの小説ではロシア性というものが必ず問題になっていて、良く言うにせよ悪く言うにせよ登場人物はみんなロシア性とかロシアの国民はどうとかいうことを頻繁に口にすると指摘して、そこから話が派生した。こちらは、やはりヨーロッパの辺境と位置づけられる地域にあって、中心地と見なされるフランスとかに対してコンプレックスや、その裏返しとしてのナショナリズムみたいな屈折した感情があったんでしょうねと月並みなことしか言えなかったのだが、たしか国民国家のテーマを経由して話は明治日本に流れ、そのあたりでこちらが幕末以来の日本の右派の系譜もしくは歴史に興味があると口にしたところ、嘉戸一将『主権論史』がテーマ的に重なるという紹介があった。この本の存在は出たときに知っていたが、やたら分厚くて高いのでとても手が出せない。この人はまた講談社学術文庫北一輝についての本を出しているらしく、読むならそちらから入るのが良いだろう。『主権論史』は前半でドゥルーズとかいわゆる西洋現代思想の連中を取り上げて緻密に批判し、後半で穂積八束とか日本の学者を論じる構成になっているという話だ。
  • だいたい話が尽きて零時くらいになると、おのおの読みたい本をひたすら挙げていくという流れがなぜか発生してしまった。文学方面でこちらが一番気になったのはエドゥアルド・ガレアーノ(彼の場合、文学に位置づければ良いのか歴史と言えば良いのかよくわからないが)。『火の記憶』三巻本は数年前にオリオン書房で(まだ立川に淳久堂がなかった時代だ)見てよくほしいなと思っていたが、いつの間にか売れていた。バラク・オバマが南米に来たときにベネズエラのウーゴ・チャベスが『収奪された大地』というガレアーノの著作をプレゼントしたというエピソードがあって、なんとなく覚えているが、挑発的なチャベスのやり口はともあれ、ガレアーノを読めと言って贈るに値すると判断されたバラク・オバマはやはりさすがである(誰がドナルド・トランプにガレアーノを贈ろうと思うのか?)。そのオバマに関してはこの通話のなかで、彼の推薦図書一七冊を載せたページが貼られたので見てみたのだが(https://www.businessinsider.jp/post-171531)、チヌア・アチェベとかチママンダ・ンゴズィ・アディーチェとかアフリカ方面の作家も挙げているし、V・S・ナイポールもあるし、こちらがまったく知らない作家をたくさん推薦していて、やっぱオバマってすげえなと思った。普通に尊敬できる(ただしガルシア=マルケスで『百年の孤独』を選んだのは間違いだと言わざるをえず、言うまでもなく彼は『族長の秋』を推薦するべきだった)。あと、「「本読まない政治家ばかり」 国会の本屋「五車堂書房」おやじの嘆き」(https://withnews.jp/article/f0160528000qq000000000000000G00110101qq000013453A)というページも貼られたので覗いてみたところ、だいたい真っ当な正論しか言っていない感じでけっこう面白かった。読書家の政治家については以下の証言があったが、大平正芳しか名を知らないので後学のためにメモしておく。大平正芳元首相については、喋りが苦手だったようで鈍いという評判が立ったが実は勉強熱心で賢い人だったという話をたしかにどこかで聞いたことがある。地元の図書館にも大平正芳全集だか著作集みたいなものが一〇巻くらいならんでいたので、文章もよく書いた人なのだろう。というかそもそも洋の東西を問わず、本を読まずみずから文章もよく書かなかった名君などほとんどいないのではないのか? けっこういるのか? カエサルとかのイメージが強いだけか?

――上には上というと、読書家だった政治家には誰がいますか。

 やっぱり伊東正義さんから、倉成正さんとかね。前尾繁三郎先生、「政界の三賢人」なんて言われた人だよ、この人は赤坂のマンションの部屋一つ、書庫みたいになってて、月に500万円も本を買ったとかね。

 信じられない? みんな信用しないよ、ホラ吹いてるんじゃないかってね、本を買わないやつに限ってそういうこと言うからね。

 大平正芳さんもそう、細田吉蔵さんもそうだな。(息子で衆院議員の)細田博之さんに聞いたら、「うちのおやじは夕飯食べて、ゆっくりして、五車堂で買った『文芸春秋』を読みながら死んだ」って言うんだから。びっくりしたね、大往生だよ。

 細田さん、自分で買いに来るんだもん。こうもり傘が杖代わりだよ、あんた。すごいんだよ。そういう人も自民党に今、いないねえ。

  • あといまLINEを見てメモしておきたい本は、ラルフ・エリスン『見えない人間』、ジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど (「黒人の炎」を受け継ぐために ―― 黒人神学の泰斗、その人生のすべて)』、クリストフ・シャルル『「知識人」の誕生 1880 - 1900』、カエターノ・ヴェローゾ『熱帯の真実』。カエターノ・ヴェローゾが本も書いていたとははじめて知った。ひとつ目の『見えない人間』というのは、カロリン・エムケ『憎しみに抗って』のなかで触れられていた記憶がある。
  • 次回の課題書はこちらが決める番だというので、皆の読みたいものをメモしたLINEのノートを見て、メルヴィルの『白鯨』が良いかなと言った。千石英世という学者がメルヴィル研究者として優秀だという評判を聞いたことがあり(たしか巽孝之『メタファーはなぜ殺される』のなかで取り上げられていたのだ)、彼の訳が講談社文芸文庫に入っているのでそれが良いのではないかと提案した((……)くんはすでに上巻を持っていた)。ただ上下巻で双方六〇〇ページを超えており、分量としては今回の『悪霊』とおなじくらいで大変なので、遅れてくる(……)さんの意向も訊こうということで、第二候補としてコンラッド『闇の奥』を挙げておいた。それでのちほど(……)さんにたずねると、メルヴィルで行きましょうとの果敢な返事があったので『白鯨』に決定、次回の時日は一二月二七日の日曜日である。
  • Martin Taylor『In Concert』を流したのだけれど、やはりすごい。これくらいギターを弾けたらどこでも食っていけるだろう。こちらもこんな風に弾けるようになりたいが、それが可能だとしても三〇年くらいかかるような気がする。
  • 一時過ぎから一一月五日を記述して仕上げ、投稿。今日は一一月一日からすでに完成済みだった七日まで一気に投稿した。そのあとも一〇日分までは完成済みで、あと書けていないのは一一日から一五日までと一七日以降で、こうして見ると全然仕上げられていないが、まあ仕方がない。ひとまずはどうしても記録しておきたいことだけ書いておくようにしながら過去から順番にすすめていき、とにかく現在時まで追いつかせなければならない。それができてようやく多くの物事を忘れないうちに記述するための余裕が整う。とはいえ五日の記事など書いていても、立川にいたあいだのことがめちゃくちゃ短くなってしまい、本当はもっと多くのことを書けるはずだったのにと思うと、わりと普通にムカつく。書けるはずだったことや書きたかったことを書けないままに忘れてしまうというのがわりとムカつく。だがさしあたりはそれで行くしかない。


・読み書き
 13:20 - 13:45 = 25分(2020/11/21, Sat.)
 14:16 - 14:57 = 41分(2020/11/21, Sat.)
 15:09 - 15:12 = 3分(2020/11/21, Sat.)
 15:13 - 16:41 = 1時間28分(プラトン: 29 - 45, 105 - 108)
 19:14 - 19:40 = 26分(2020/11/1, Sun.; 完成)
 25:17 - 25:42 = 25分(2020/11/5, Thu.; 完成)
 27:12 - 27:38 = 26分(2020/11/21, Sat.)
 28:20 - 28:33 = 13分(プラトン: 45 - 48, 108 - 109)
 計: 4時間7分

  • 2020/11/21, Sat. / 2020/11/1, Sun.(完成) / 2020/11/5, Thu.(完成)
  • プラトン/久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、一九二七年初版/一九六四年・二〇〇七年改版): 29 - 48, 105 - 109

・音楽

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Martin Taylor『In Concert』