2020/11/27, Fri.

 したがって、それぞれの人物が次に行うべきことを決定するのは、個々の主体の性格でも、手紙の内容でもなく、グループ内における手紙の位置である。手紙が意味の単位(シニフィエ[﹅5])としてではなく、ある種の効果を生み出す単位(シニフィアン[﹅6])として機能しているという理由から、ラカンはこの物語を一つの真実――すなわち、「われわれが研究しているフロイトの思想を契機に立ち現れる真実、つまり、主体が物語の中で、あるシニフィアンの経路から受け取る重大な行為決定を明らかにすることで示される、主体にとって構成力をもっているのは象徴的な秩序であるという真実」(Jacques Lacan, "Seminar on 'The Purloined Letter'", translated by Jeffrey Mehlman, Yale French Studies, 48 (French Freud, 1972), p. 40〔Jacques Lacan, Écrits (Paris: Seuil, 1966), p. 12/ジャック・ラカン『エクリ』第Ⅰ巻、宮本忠雄・竹内迪也・高橋徹佐々木孝次訳、弘文堂、一九七二年、八頁〕)――の例証として読んでいる。その意味内容が明らかにされなくても、この物語の中で十分に機能している以上、手紙は一つのシニフィアンのように作用している。「その本質は、手紙がもたらした効果が外側[﹅2]、つまり、われわれ読者や作者だけでなく、内側[﹅2]、すなわち、物語の語り手を含む登場人物たちまで及んでいながら、誰一人として手紙が意味していた[﹅6]ことを気にもかけなかったということです」("Seminar on 'The Purloined Letter'"には該当箇所なし。Jacques Lacan, Écrits (Paris: Seuil, 1966), p. 57/ジャック・ラカン『エクリ』第Ⅰ巻、宮本忠雄・竹内迪也・高橋徹佐々木孝次訳、弘文堂、一九七二年、六九頁、強調はジョンソン)。つまり、「盗まれた手紙」はラカンにとって、一種のシニフィアンアレゴリー[﹅12]になっているのだ。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、203; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 一〇時五五分に意識が復活し、固まった。カーテンを開けると、空は本当に真っ白。何の要素も見られない。すぐに起き上がらず、しばらく腰や背やこめかみなどを揉んでから一一時二〇分に離床した。上階へ行くとジャージに着替えて洗顔やうがいなど。食事は米の余りでつくったおにぎりと煮込みうどん。新聞から国民投票法および改憲方面の話題をななめ読みしたり、韓国の動向を読んだりしながら食べる。エチオピアではアビー首相がティグレ州の州都に対する全面攻撃を指示したとのこと。やばいのではないか? 多くの市民が死ぬことになるだろう。
  • 食後は普段通り洗うものを洗い、緑茶を用意して下階へ。一服しながらウェブを回ったのち、FISHMANS『Oh! Mountain』をBGMにして今日の日記を綴りはじめた。今日は労働が長く、四時台から最後までである。最悪だ。一二月も三時限の日が多く、しかも(……)さんが不在のときもけっこうあって代理役をつとめなければならない。クソ面倒臭い。人間を相手にせず、公園の植物を手入れするような仕事に転職したい。
  • 二日前、一一月二五日水曜日のことを記述。二時過ぎまで、一時間強かけて、ここで完成させられたはずだ。三時半過ぎには出なければならないのでもうあまり猶予はない。それでベッドに移り、膝で脹脛を揉みながら徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を三〇分だけ読み進める。するともう三時なので、身支度の前に音楽を聞いた。まずもって音楽を集中して感受するには心身をそういう方向に整えなければならず、一曲目はだいたいまだからだがまとまっていないから音がよく見えないことが多い。したがって毎回の聴取にあたってウォーミングアップというか、神社に行ったときに手を洗うとかものを食う前に水で口内を清めるみたいな感じで意識を洗うための一曲をつくったほうが良いのではないかと思ったのだけれど、とすればそれにふさわしいのは、七分という演奏時間からしてもFISHMANSの"感謝(驚)"を措いてないのではないか? そういうわけで『Oh! Mountain』に入っているライブ音源をまず聞いた。そのあとにJesse van Ruller & Bert van den Brinkの"Here Comes The Sun"と"Estate"を聞いたのだが、このときはまだ日中で労働前だったにもかかわらず、なぜか眠いような感じになってしまい、ウォーミングアップの甲斐もなくあまりうまく聞き取れなかった。この"Here Comes The Sun"というのはThe BeatlesのカバーではなくてJesse van Rullerのオリジナル。"Estate"というのはBruno Martinoというイタリアの人の曲らしく、ほかでも見かけた記憶はあって、Bill Evansとかやっていなかったか? とおぼろげに思うけれど、それは気のせいか? Michel Petruccianiの演奏がどうも有名らしい。
  • 外出のために身支度を済ませたあと、四分ほど残っていたので今度はFISHMANSの"頼りない天使"を聞いた。『KING MASTER GEORGE』に入っているオリジナル版なのだが、なんというのか、イントロから曲の中心までけっこううまく展開させるなというか、色々な音を順番に、徐々に登場させ置いていくのが見えて、このオリジナル版は意外と凝ったつくりになっていたんだなと思った。というかそもそも、まずドラムが入った瞬間からキックを一拍ずつきちんと踏んでいて、あ、こんなアレンジだったんだったかと思った。ベースの出番が意外と遅く、たしか入ってくるのはサビからではなかったか? 間奏の途中にも消えたところがあったはずで、なぜあそこでちょっと休みになったのかよくわからない。
  • たしか歯磨きのあいだだったかと思うが、「人魚姫は月のノイズで受胎するいつかの死児の泡人形を」という一首をつくった。そうして出発。空気はそこそこの冷たさ。道を行くあいだ、木叢から鳥の声がおりおり立って散るが、ほかには何も聞こえず鳴き声が際立つ静けさである。公営住宅前まで来ると、(……)さんが家の敷地から出てきて道の向かいに行き、ガードレールを背にしてもたれるような姿になったのが正面に見えた。自分の宅のほうを見上げているのでこちらも視線を送ってみれば、庭木がいくつか色づいて赤や黄になっている。近づいていって挨拶をすると、息を切らして疲弊した様子だったので思わず笑ってしまったが、今日はずいぶん寒いですねえと時候を言い、風邪を引かないように気をつけてと掛けて先に進む。すると(……)さんの宅が建っている石壁の上、その縁の垣根めいた前栽が切り整えられて無数のこまかな葉っぱがその下の地面に落ちて溜まっているのにようやく気づいた。たぶん業者を頼まず自分でそれをこなしたのでやたら疲れていたのではないか。もう九〇を超えているのに大したものだ。
  • 坂道も濃淡さまざまな褐色の落葉に浸食されており、道の端の帯はずいぶん太くなって中央へと進軍してきているし、そもそも中央は中央でまた落葉の列がつくられていて勢力盛ん、加えて同類色の、わずかに赤みをふくんだような褐色の粉が(それはもちろん葉や枝や木の屑であるわけだが)アスファルトの微細な凹凸に入りこんでおり、ところによっては二日前の雨の名残で湿り気をはらんで沈んでいた。
  • 電車内では扉際に立ったが外も見ず、瞑目してからだの感覚を注視していた。(……)に着いて降り、階段口に向かう途中で小学校のほうに目をやると、曇り空のせいもあろうが丘の木々にもう強い色はなく、鮮やかならずくすんだ気味で、石段の上、校舎の脇に立ったイチョウも黄色のなかに隙間をいくつもつくっている。
  • 勤務。今日は三時限である。長い。(……)

(……)

  • (……)
  • (……)
  • 退勤。九時半の電車に乗ることができた。座らずにドア前に横向きで立って瞑目しながら到着を待つ。いつもよりも電車の勢いが良いというか、揺れが大きいような気がした。降りると帰路。風のある夜ではなかったか? そう、駅前の電話ボックスのガラスに頭上の枝から離された葉が一枚擦れて音を立てていたし、背後では地に転がったものも空気の流れを受けてカサコソわずかに遊んでいた。坂に入って以降のことは覚えていない。
  • 帰宅後はベッドで休みながら(……)さんのブログを読んだ。六月七日から九日。半年くらい遅れている。そういえばこの日覗いたときの最新記事に、『亜人』のダウンロード数がけっこう増えていたのでこれはやはりFくんがつくったボットのおかげか? というようなことが書かれていたが、そんなわけはあるまいと思う。ほぼつくっただけで周知の努力もしていないし、そもそもそれで久しぶりにボットを見てみたところ、『族長の秋』botと同様に二〇一九年八月で動作が停まっていた。おなじサービスを使っていたはずだから当然のことである。
  • 食事中や入浴中のことは覚えていない。一時前から前日の日記を書きはじめたのだが、三〇分で中断して書見に移っている。長く働いたために疲労していたからだろう。読書の途中、いままではもっぱら踏んで足裏をほぐすのに使っていたゴルフボールを、そうか、ベッドでごろごろしながら背中や腰を揉むのに使っても良いのだとようやく気づき、背面と床のあいだに挟んで各所をぐりぐり刺激した。ところがやはり疲労感は嵩んでいたようで、三時頃になっていつか意識を失っていた。気づけば四時だったのでそのまま消灯・就寝。


・読み書き
 12:42 - 12:56 = 14分(2020/11/27, Fri.)
 12:56 - 14:14 = 1時間18分(2020/11/25, Wed.; 完成)
 14:22 - 14:54 = 32分(徳永: 60 - 71)
 22:24 - 23:05 = 41分(ブログ)
 24:48 - 25:22 = 34分(2020/11/26, Thu.)
 25:34 - 26:50 = 1時間16分(徳永: 71 - 98)
 計: 4時間35分

  • 2020/11/27, Fri. / 2020/11/25, Wed.(完成) / 2020/11/26, Thu.
  • 徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年): 60 - 98
  • 「わたしたちが塩の柱になるとき」: 2020-06-07「塗装屋のせがれになって謂われなきことに心を砕いてみたい」 / 2020-06-08「白骨を啄む鳥の求愛をありふれたものと見ているのだ」 / 2020-06-09「とこしえはグラス半分にも満たず固有名詞を投げ捨てるのだ」

・BGM

・音楽
 14:57 - 15:18 = 21分
 15:36 - 15:40 = 4分
 計: 25分

  • FISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)
  • Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "Here Comes The Sun", "Estate"(『In Pursuit』: #1, #2)
  • FISHMANS, "頼りない天使"(『KING MASTER GEORGE』: #10)