2020/11/30, Mon.

 デリダによれば、精神分析的な三角形の問題は、それが正しくない数の項目を含むということではなく、それが上首尾な弁証法的調停や欲望の調和的な正常化――すなわち、止揚[﹅2]〔Aufhebung〕――の可能性を前提にしているということである。オイディプス的三幅対の三項は対立を開始するが、その解消はヘーゲル弁証法ジンテーゼ的な瞬間に似ている。〔精神分析的な〕プロセスは、ファルスを性差という問いの場として、その中心に位置づける。母親にペニスがないのを目撃することと、近親相姦に対する処罰としての、父親による去勢への脅迫が結びついた時、子供は二者択一の事態(テーゼ対アンチテーゼ、ペニスの現前対不在)から、ジンテーゼへと移行する(ファルスはこの時、去勢をファルスの同時的な現前および不在として受け入れることで、すなわち、欲望の主体そして客体は、実際には存在しなかった何かの常に代替でしかないという事実を受け入れることで、子供は初めて、欲望の回路に立ち入ることができるという真相の記号となっている)。(……)
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、214; 「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 一二時二四分に離床。好天である。上階に上がって母親に挨拶し、顔を洗ったり髪を梳かしたりうがいをしたり用を足したりする。それから食事。米とキャベツの炒め物、昨日つくった味噌汁に母親が買ってきたパンである。彼女は(……)さんの(……)を祝う品をもとめて買い物に行ってきたらしい。新聞からは相変わらず国際面を読む。エチオピアではアビー首相がティグレ州の州都メケレ(という名前だったと思うが)の平定占領を宣言したらしいが、山岳地帯を活かしたゲリラ的な抵抗がまだ続くだろうとの見通し。すでに四万三〇〇〇人が難民としてスーダンに追われたと言う。アフリカではまたカメルーンでも分離独立派との抗争が長く続いているらしく、ノルウェーの人権団体によれば世界でもっとも無視されている危機のひとつだということだ。カメルーン地域は一次大戦後にフランスとイギリスが分割統治しており、二次大戦後の一九六〇年にまずフランス語圏が独立し、翌年に英語圏も続いて編入されたという経緯があるらしく(あるいは英仏の順序が逆だったかもしれないが)、地域によって法体系も違っていると言う。ここでもまた英仏の行いが淵源になっているのかよと思った。英語圏は南西部二州とそれに接した二州(記事では「北西部」という言い方をされていたが、カメルーン全土で見るとあまり北西側とは言えない)の計四州で、一九八二年くらいになんとかいう大統領が就任して以来フランス語圏への優遇が続き、それに反発して英語圏の分離独立派が活発化してきたという話だ。すでに六〇万人が家を追われて国内避難民になっていると言う。
  • ほか、フランスで警察官が黒人の音楽プロデューサーを罵倒し暴行した動画がひろまった件。警察官の個人特定につながるような写真や動画の撮影を禁じる法案がいま審議中だと思うのだが、これでその法案も不成立になるかもしれないとのことだ。エマニュエル・マクロンは暴行事件について、恥ずべきことであり、フランスは人種差別を許さないという声明を出したらしい。
  • 食後は皿洗いと風呂洗い。それから天気が良いので久しぶりに陽を浴びようということで、部屋から徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を持ってきてベランダに出た。枯葉がいくらか散らばった日向のなかに胡座で腰を下ろし、書をひらく。まだ一時なので太陽と林の梢のあいだにはそこそこ距離があるものの、この季節だからやはり陽射しは淡く、ほとんど弱々しいような質感で、空気の流れが肌を擦るときの清涼さのほうがまさりがちである。それでもずっと座って受け続けていればけっこう温かく、皮膚を覆うコーティングのようにして温もりが重なっていった。『ヴェニスのゲットーにて』は「マルクス反ユダヤ主義」の連載論考に入っている。第一章の紀行文は正直文章としてもけっこうゆるかったしあまり深い主題に立ち入ることもなかったしおなじ内容や文言の繰りかえしも多くて、部分的に興味深く知ることは色々あっても全体としてはそんなに感銘を受けなかったのだが、第二章のこの連載は「ユダヤ人問題によせて」(一八四三年執筆)というマルクス初期の論考を解説したり、彼の生育環境を伝記的に跡づけたりしていてなかなか面白い。マルクスの家系は父方をたどっても母方をたどっても高名なラビの一族なのだと言う(とりわけ父方の系譜は一四〇八年生まれの人間まで遡って判明しているらしく、ドイツ(トリーア)から一時パドヴァに移ってまたもどってきたような感じらしいが、学者や知的職業として知られた人物が多いとか)。マルクスの父親であるハインリッヒといったか忘れたがそんな感じの名前の人はたしかフランス革命以前、一七八〇年代の生まれで、トリーアは革命後二〇年間くらいはフランスの占領地域だったからそこで流入したリベラルな風潮に触れてまさしく「啓蒙」されたユダヤ人だった。三男だったからラビ職は継がず、フランス語の通訳などをこなして苦労しながら法律を学び、弁護士になったということだ。しかし一八一五年になるとトリーアはプロイセン領に復帰して社会制度も反動路線に転換し、ユダヤ人に対する制限法が復活したので、地位を守るためにキリスト教(ルーテル派プロテスタント)への改宗を余儀なくされた。そののちの一八一八年にカール・マルクスは生まれており、彼も六歳のときに洗礼を受け、一八三〇年からイエズス会系のギムナジウムに通いだしている。ここの校長は当時、ゲーテとも親交があったというヴィルなんとかみたいな名前の人間で、地域のリベラルな思想を持った人々のなかでは知られていた人物のようだ。マルクスもこの校長の講義を直接聞いて、何がしかの影響を受けたのではないか、と言う。そういう校長の方針もあったようで反動体制期ではありながらもこの学校はフランス流リベラリズムの風土を保っており、同時に典型的な古典人文教育も主眼としていて、この地では一番レベルの高い進学校だったようだ。父親としてはやはり息子を大学に入れて社会的地位の高い弁護士などにしたいという思惑があったらしく、教育水準の高い地元のトップ校を選ぶのは当然の選択だった。そこで行われていた古典人文教育というのは、もちろんギリシャ語・ラテン語・ドイツ語・フランス語の四言語を習得するもので、ギリシャ語はホメロスとかソフォクレスとか、ラテン語ウェルギリウス、ドイツ語はゲーテやシラーを扱い、フランス語ではモンテスキューを読んだと言う。たかだか一二歳とか一五歳程度の連中が、文化歴史的に親近だとは言え一気に四つの言語を学んで読んだり書いたり翻訳したりしているわけだから、いったいどうなってんねんというのが西暦一九九〇年の日本に生まれて標準的な義務教育を受けてきた者の感想である。一五歳のときとか、こちらが読んでいたのは『キノの旅』とかあのへんのライトノベルだぞ。まああれはあれで面白さはあったけれど、ところで注目されるのは、ホメロスだのウェルギリウスだの古代の連中ではなく、やはりゲーテおよびシラーである。Wikipediaを見るとゲーテは一七四九年生まれ一八三二年死去なので完全に同時代人であり、マルクスが入学してすぐに死んだくらいの人間で、シラーもゲーテと書簡を交わしたりしているわけだからだいたいおなじくらいの生没だろう。そういう当時存命だった連中がドイツ語の模範として学校教育に採用されているというのはやはりちょっと気になる。現在の日本でいえば高校生が二年で必ず夏目漱石の『こころ』を読むのと似たようなものだろうが、ただ夏目漱石にしたって、いつから学校教育に採用されたのかは知らないが、こちらが高校生だった時点でもすでに死んで一〇〇年近くは経っていたわけで(たしか一九一五年くらいの死去ではなかったか?)、そう考えるとよく一八〇〇年代のドイツの教育者たちは同時代を生きている作家詩人を、こいつが模範だといって取り上げたなと思うし、そういう風に選び出されたゲーテってやっぱりすげえんだなとも思う。ただこの点に関しては、メディアの整備や識字率の割合、文芸業界の規模などから言って即座に現代に移し替えて考えることはできないのだろうし、普通に考えてプロイセンは当時王国で、教育に関しても宮廷ならびに中央権力が決定権を持っていたのだろうから、彼らがゲーテを国民詩人・国民作家として承認し、大々的に拡散普及させたということになるのではないか。ゲーテは、プロイセン王国のではなかったかもしれないが官僚もやっていたはずだから、たぶん王族とか貴族とか宮廷方面にも普通に交友関係があったのだろう。あと思ったのは、これは想像なのだけれど、こういう一九世紀古典教育におけるゲーテとかは文章の模範として学習されていたはずで、つまり内容面もそうだけれどむしろ書かれた文の手本として採用されていたのだと理解している。これがドイツ語を使って書かれた文章の手本だ、お前たちもこういう文を書けるようになりなさい、ということで、だからやはりそこでは、思想に触れるとか読解力をつけるとかいうこともむろん重要だったはずだけれど、自分ですぐれた文章を書けるようになるということが最終的な、最大の目的として設定されていたのではないかと思うのだ。それで実際マルクスギリシャ語を翻訳したり、「ヨハネ伝第一五章一―一四節における信者たちとキリストとの一体性」とか、「職業選択に当っての青少年の心構え」などというレポートを書いたりしていたらしい。まあこの学校が地域一の進学校だったということもあるだろうけれど、それにしても翻って現代日本の教育を考えてみると、目標名目としては同様に自分で文章を書き考えを表現できる人間を育てるということがおそらく設定されているとは思うが、現実には大部分教科書に載せられた文を受容する段階にとどまっているわけだし、むしろそれさえおぼつかないような水準にあることも多いだろう。そう考えるとやはり、うーん、という感じにはなる。まあこちら自身も学生のときには作文を書くのは苦手で嫌いだったのだけれど。とはいえ単純な話、日本の学校教育ではやはり文章を書く量と時間とが圧倒的に不足していると思ってしまうのだが。
  • 一時四三分に達したところで書見を切り上げ、緑茶を用意して自室に帰った。ウェブをちょっと覗いてから今日の日記を書き出し、ここまで綴るともう四時。本当はさっさと二八日分を仕上げて前日のこともすみやかに書こうと思っていたのだが、上記部分を書くのになぜか余計な時間がかかってしまった。今日か明日で立川に出向いてコンピューターを新調しようと思っているのだが、今日はいまから出るのもなんだか面倒臭いし、明日にするか。
  • ベッドでからだを休めたのち、五時直前からギターを持ってきてつま弾いた。いつものように似非ブルース(主にAのキー)。しかし今日は全体に散漫で、よく弾けたとは言えない。肉体もあまりほぐれていなかったし、頭のなかも明晰でなかったので当然のことだ。それにしても楽器を弾くとなるとやはり歌とは違う。歌を歌う場合は自分のからだそのものが音を発しているわけで、声と基盤の距離が近く、感覚的にはほぼ同一で同時というか、声を見ていれば調整も集中もしやすいのだけれど、ギターはもちろんこちらの肉体ではないので手指を媒介として使いながら音を奏でなければならない。そうすると当然だが生まれる音とからだとの距離が遠くなり、齟齬が挟まって、双方を一致させるのがより困難である。達人はそのあいだを埋めることができ、要するに楽器を身体そのものとして操ることができるのだろうが、こちらはむろんそんな領域に至っていない。肉体と分離した楽器を用いるとなると、どこを見れば良いのか、どこを対象として集中すれば良いのかがいまいちつかめなくなる。つまり、(主に左手の)指の動かし方やそのポジション、流れを見るのか、それとも出てくる音を見るのか、それとも頭のなかに生じる旋律的イメージを見るのか、というようなことで、歌を歌うならだいたい声だけを見ていれば良いのだけれど、楽器を弾くというのはたぶん、どこかひとつに集中するというよりは、それらの複数要素間を立ち回って絶えず目を配り続けるということなのだろう(ロラン・バルトの比喩を借りれば、「注意ぶかい料理女のように忙しく立ち働き、言語活動にねばりが出ていないか、〈焦げついて〉いないか、と気をくばる」(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、246)というわけだ)。
  • 散漫なまま一時間も弾いてしまい、六時が目前になったところで上へ。スンドゥブをつくると言うので野菜を切ることだけやり、あとはまかせて冷凍の唐揚げなどで食事をはじめた。夕刊には田島列島に取材した記事。たしか一九八四年生まれで、もうデビュー一二年とかあったから二四歳からやっているらしい。本人は、自分には描きたいことが何もない、と言っていたらしいが、記者の本文では、結局のところ、人間を描くことに興味があるようだ、みたいな感じで解釈されていた。その前のページには、「神風特攻後続隊」なるものについての記事。戦争末期に本土決戦にそなえて、爆弾を抱えて自爆するような訓練を行っていた有志の部隊があったのだと言う。資料が残っておらずその存在はほぼ忘れ去られているらしいが、記事中には複数人の証言が紹介されており、九二歳の女性(鹿児島出身だったと思う)は幼馴染とともに一六歳で志願し、血判を押した文書を役所に提出したと言う。これで自分もお国のために役に立てるという思いを胸に訓練に励み、沖縄でひめゆり学徒隊が散ったという報を知っても、自分たちもあとに続くのだとひるまなかったらしいが、いまから考えるとちょっとどうかしていたね、あとすこしでまずいところまで行ってしまうところだった、みたいな言葉で当時を回顧していた。ほか、長野県だったかの男性によれば、ある日の訓練の最中に上官が隊員に向けて、お前たちは目も動くしからだも動く、この程度のことができずにどうして天皇陛下のお役に立てるか、死ぬ覚悟があるやつは名乗り出ろみたいなことを言い渡したらしく、一〇代の女性が私は死ぬことを恐れませんと挙手したのに続き、慌ててみんな手を挙げた、という一幕があったと言う。数少ない文書証言者のひとりとして二〇一七年に死去した篠沢秀夫学習院大学名誉教授(テレビのクイズ番組で有名になった、ともあった)が触れられていたが、この人はたしかフランス文学者で、筋肉が動かなくなる難病にかかりながらもブランショの小説などをがんばって訳していた人ではなかったか?
  • 食後は室にもどって二八日の日記を進めた。BGMはErykah Badu『New Amerykah: Part Two (Return Of The Ankh)』。二八日の記事に書いたとおり途中でRoy AyersTower Of Powerの動画を見て、Roy Ayersが"Everybody Loves The Sunshine"をやっていたのでその曲が入っているTakuya Kuroda『Rising Son』も流した。九時まで二時間書いてようやく完成。二八日には総計で八時間くらいかけたらしいのだが、そのわりにそこまでめちゃくちゃ多くのことを書いたという感じはない。風呂に入る時間だったが、手の爪も伸びていて切りたかったので先にそうすることにしてベッドに移り、小沢健二『LIFE』を流して歌いながら指先を整えた。どうせだからついでにちょっとストレッチもしておこうというわけで、小沢健二くるりthe pillowsを歌いつつ合蹠したり開脚したりして肉をやわらげ、九時半を越えて入浴へ。風呂のなかでは最初のうちはこめかみや頭蓋を揉んでいたのだけれど、そのうちに瞑想めいて静止する時間をつくった。すると髪の底から汗が絶え間なく生まれて顔を流れ落ちるし、肩や腕においても同様で身体中がくすぐったく、肌の上を無数のナメクジが這い回っているようなイメージが湧く。静止中にちょっと思ったのだけれど、たとえば日本的「無常」観をあらわした典型的な文章として『平家物語』の冒頭が知られており、学校教育のなかで暗記させられるくらいに世に定着していて、「無常」といえばああいう感じというイメージが即座に参照されると思うのだが、あそこで表明されている「無常」観念というのは、「盛者必衰」とか、「おごれる者も久しからず」とか、「猛き者もついには滅びぬ」とかいう言葉に集約されるように、繁栄や栄華や盛りの時はいつまでも続かず、勢力あるものもいずれは衰えて滅んでいくという衰退の相である。しかしこれって、「無常」という概念そのものとはちょっと違うというか、だいぶ限定的な意味での「無常」なのではないか? と思ったのだ。「無常」というのは字面をそのまま取れば常なるものは無いという意味だと思うから、この世のあらゆる事物は絶え間なくうごめき変容しており、固定的に永続するものはないし、世界の様相は一瞬たりともとどまることを知らない、というくらいの理解でこちらはとらえていた。要するに生成変化とほぼ重なる言葉として考えていたのだけれど、それならばしかし衰退の相だけでなく、興隆の相というか、芽生えたものが盛りに向かって成長していくような様相も「無常」観念の一領域としてふくまれるはずだろう。ところがなぜか現実には、「無常」という言葉にはある種の切なさみたいなニュアンスが大いにまとわりついており、そのように用いられることも多いと思う。それにはおそらく『平家物語』やそのへんの文学や和歌などが伝統的にあずかった役割が大きいのだろう。同時に、「無常」と言ったときに主に意識されるのが、そこで何かが失われる、失われてしまったという感覚だということなのではないか。衰退でなく興隆の時にあっても、一瞬ごとの変容のなかでその都度に失われてもどってこないものは当然あるわけだ。そういう認識を気取った言い方で定式化すれば、こちらが昔書きつけていたように、時間が過ぎるという現象のなかにはそれだけですでに感傷的なものがふくまれている、ということになるわけだが、この切なさや感傷と結びついた「無常」観というのは、もともとの、本質的な「無常」認識のその一面が、いわば世俗化したものというか、感情化されたものというか、社会に膾炙して俗流化されたものなのではないのか、というのがこのときのこちらの仮説である。もしそれが当たっているとすれば、歴史的に見てどのようにそういう抽出変容が進行したのかという点がもちろん興味深い問題となる。こちらが理解していたような「無常」観念に相応するものとしては、たぶん仏教で言うところの「空」があたっているのではないか。要するに、宗教的認識としての「空」が簡略化されて普及した形が「無常」なのでは? という思いつきをこのとき得たのだけれど、文献学的な根拠がむろん何もないので、当たっているのかどうかは知らない。ただまあいずれ「空」についても学んでみなければならんなとは順当に思うところで、そうなると、よく知らないのだけれどたしか「空」の教義を大成させたのは龍樹すなわちナーガールジュナだという話になっていた記憶があり、そして講談社学術文庫中村元の『龍樹』という本が入っていたはずだからあれをそのうち読んでみようと思ったのだった。
  • 風呂から出たあとは前日、二九日のことを綴り、日付が変わる前に完成。この日の記事には一時間一一分しか費やしていないから、分量も相応にすくない。そのあとはなぜか油断して、五時前に消灯するまでひたすらウェブを回ってだらだらと過ごしてしまった。歯磨きのあいだに下記の短歌を作成。

 報いなど求めたくないひとすじの星条として奏でられたい

 神はなし愛も得られず人間は進歩に憑かれた捨て駒となる

 星々の隔絶を消す爆発でアンドロギュノスに俺を戻して

 この恋を語れるひとを知ったならもうこの恋を見捨ててもいい

 初雪の降った朝だけあらわれるうつくしいもの内緒の記憶

  • 四時五〇分に消灯。暗いなかで瞑想したが、一二分ほどしか座れず。本当は三〇分くらいは座りたい。


・読み書き
 13:07 - 13:43 = 36分(徳永: 154 - 170)
 14:15 - 16:03 = 1時間48分(2020/11/30, Mon.)
 18:54 - 21:00 = 2時間6分(2020/11/28, Sat.; 完成)
 22:53 - 23:41 = 48分(2020/11/29, Sun.; 完成)
 計: 5時間18分

  • 徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年): 154 - 170
  • 2020/11/30, Mon. / 2020/11/28, Sat.(完成; 7時間55分) / 2020/11/29, Sun.(完成; 1時間11分)


・BGM

  • FISHMANS『Oh! Mountain』
  • Erykah Badu『New Amerykah: Part Two (Return Of The Ankh)』
  • Takuya Kuroda『Rising Son』
  • Robert Glasper『Double-Booked』


・音楽
 16:54 - 17:55 = 1時間1分(ギター)